黒ウサギの大集団は、緊急用のウサギ
黒ウサギたちは、10階の隠し穴から出てくると、行進しながら本棚の本を滅茶苦茶にしたり、本棚を壊したりしていた。見回ったウサギから報告を受けた司書ウサギは激怒していたけど、10階の通路に濡れたまま座らせておくのはさすがにまずい。3階のウサギエリアには一番大きなウサギ
ウサギ小通路はとても狭く一人ずつしか通れないし、本棚の裏の世界を大きく迂回するので長く移動する事になる。
「しかし、やるしかない。8階より上の階とは連絡がつくし、設備が使えるので飲食も何とかなる。だがやはりこの階は危険だと思われるので、血縁者たちは下の11階に移動した方がいいと思う」
案内処の隅を借りてとりあえず濡れた服を着替えた私とヴァレンティールに、司書ウサギが忠告してくれた。
私とヴァレンティールの話で、黒ウサギたちが暗黒女王に操られた状態だったと知って一旦怒りをおさめた司書ウサギは、今後どうするかテキパキと決めていた。本当に有能だ。
10階の住民は皆無事だった。けれどウサギ小通路で避難はせず、住民用の連絡路が復旧するのを極力待ち、待機するとの事だった。
ヴァレンティールが司書ウサギに尋ねた。
「私たちは、そのウサギ小通路を使用する訳にはいかないのだろうか?」
司書ウサギが首を振った。
「申し訳ないが、ウサギと住民以外の者には使えない。別の世界の者を通すためには、8階の
「そうか。残念だな……」
私は横で黙っていた。ヴァレンティールが、せめて私だけでも1階から外に出られれば、と考えているのはわかっている。
でも私は、もうこのままダンジョンの外に出る気はない。
司書ウサギの話では、3階にいた
でも、これではっきりした。
ウサギ小通路以外、9階を境にしてダンジョンは分断されてしまったのだ。いや、ウサギ小通路だって危ないかもしれない。もしそれまで使えなくなったら……。
私は冷えた両手で頬をごしごしと擦って気合を入れた。
――落ち込んで泣いている時間はないんだからね。
その時、私たちが話し合っていた案内処に、耳の短い丸い体形のウサギがひょっこり顔を覗かせた。赤色のエプロンを身に着けている。かわいい。
「ああ、いたいた。あのー私、今11階から来たんですけど。血縁者と楽師さんに、銀色の怖いエルフさんから伝言です。何やら妙な物を捕まえたので、さっさと見に来い。との事です」
ペラグリアが? 11階で何かあったのだろうか。司書ウサギが耳をパタパタさせた。
「捕まえた? ところで銀色の怖いエルフとは何者だ?」
しかめ面になったヴァレンティールが答えた。
「つい先日、12階に出現した私の姉のペラグリアだ。とにかく凶暴だから、11階で怪しい何事かに遭遇したのだろう」
丸いウサギがうなずいた。
「はい、11階の通路を大声で叫びながら棒を片手に走っていて、びっくりしました」
ヴァレンティールが「全く……」と呻き、司書ウサギがヒゲをぴくぴくと動かした。
「ふむ。気になる人物だな。どちらにしろウサギ小通路や設備の様子も確認したいし、私も血縁者たちと一緒に11階に行こう」
丸いウサギは、ウサギ小通路を通って3階から11階の案内処に出る事が出来たと報告して、それを聞いた司書ウサギはしばらく考え込んだ。
「黒ウサギ連中の一部を11階に移動させて、10階と11階で分けて3階に向かわせれば、少しだが効率が良くなりそうだな。よし、何とか見張り役を何人か11階に送り込んでもらおう。あいつら、見張っていないとすぐに騒ぎ出すし、また操られたりしかねないからな」
司書ウサギは丸いウサギに細々指示や伝言を与えてから、私とヴァレンティールと一緒に11階に向かった。
「ウサギさん、鱗さんが心配してたけど、3階の大倉庫に出現する本の量は大丈夫だった?」
ひょこひょこと下りながら階段を点検するように見回している司書ウサギは答えた。
「いや、こちらも確かに出現する冊数がかなり増えた。12階のように天井まで、という異常な事はさすがに無いが」
「やっぱり増えたんだ」
「うむ。店主と増えた本の整理について打ち合わせをしていたら、いきなり揺れて本が落下して、水が通路に流れ込んで大騒ぎだ。本は濡れて破損するし、9階は崩壊するし。各階の被害はこれから調査するが、色々考えると頭が痛い」
3階のウサギエリアのカウンターで司書ウサギと喧嘩したのが、遠い昔のようだ。あの時、本が出現する大倉庫の見学も誘われたけど断ったんだよね。今考えるとちょっと残念に思える。
11階に到着すると、この階でも揺れがあったのか通路に何冊かの本が散らばっている。司書ウサギが本棚を見上げながら、足で地面をダンダン叩いて怒り始めた。でもまず案内処に行こうと声をかけると、両耳を揺らして渋々ついてきた。
やっぱり温泉は消えたのかな、と思いつつ3人で案内処に入ると、地味な黒い服装の案内人が背中を丸めて座っていた。
「ああ、ご無事で到着ですか。ウサギ小通路から出て来たウサギに聞きましたが、9階が揺れて崩壊して上に行けないそうですね。いやはや。案内地図から温泉は消えるし、もうしょんぼりしょんぼりです。幸い設備は使えますがね。でも早く通路が復旧すればいいんですが。はああ」
溜息をつく案内人に私は尋ねた。
「あのー、エルフの女性からの伝言を聞いたんだけども?」
「はいな、あっちの資料室におられますよ。通路を走り回って大騒ぎをしてましたけど、いやはや何だったんですかね」
ヴァレンティールがコホンと咳をした。
「姉が騒がせて済まぬ。ところで、私たちはこの階に避難待機する事になりそうだが、宿の利用は大丈夫だろうか?」
「ああ、それはしばらくは無事にいけますよ。我々には備蓄や色々ありますからね。いよいよとなれば、ウサギにお願いして最低限の物資を運んで貰う必要がありますが。ウサギ小通路は我々が通るにはかなり無理が山積みなので」
司書ウサギが頷いた。
「もちろん、その辺の協力はしよう。ダンジョン全体の緊急事態だからな」
案内人に資料室の場所を聞いて、また薄暗い通路に出た。
そういえば、ダンジョンの設備で資料室を見るのは初めてだな。
のしのしと歩きながら「階段の復旧工事もあるし、ウサギ世界の総力戦になりそうだな。すぐにでもウサギ長老会に報告書を提出しないと」とぶつぶつ呟く司書ウサギと共に本棚の隙間から資料室に入った。
父親の「ダンジョン・ガイドブック」によると、資料室は「のんびり座って本が読める場所。飲食禁止」とだけあっさり書かれていたので、本棚と勉強机が並べられた図書室みたいな設備かなと想像していたら、かなり違った。
白い壁に蛍光灯、四角い広い部屋の中央に置かれた長いテーブルの周囲にパイプ椅子が並べられ、どう見ても無味乾燥な大会議室という感じである。突き当りの壁が大きな本棚になっていて、本が何となく適当な感じで並んでいる。
ヴァレンティールが私に言った。
「店主が言ってたが、この資料室にある本は普通に読める本ばかりらしい」
「え、そうなの?」
司書ウサギが苦々し気に言った。
「資料室は、我々司書の管轄外だ。そのせいか並べ方がどうにも乱雑で、整理されていないのが不愉快だ」
それはそうと、ペラグリアはどこに? と思った時、ひょっこりとテーブルの端から顔を見せた。床に寝転がって居眠りをしていたのか、髪が乱れて目をぱちぱちさせている。驚いたらしい司書ウサギの両耳がピン! と立った。
「ああ、やっと来たか。待ちくたびれたぞ……なんだ白い耳の長い者と一緒か」
ヴァレンティールが真面目な声で言った。
「姉上、こちらはこのダンジョンの責任者のような立場のウサギだ。何より私は彼に恩がある。言葉遣いには注意してくれ」
ペラグリアも真面目な顔になって、立ち上がった。手に何やらタオルで包んだ物をぶら下げている。肌触りが気に入ったと言うので、私が進呈したら喜んでずっと首に巻いていたタオルだ。
「それは失礼した、ウサギ殿。愚弟が迷惑をかけたようで申し訳ない。だがあなたが責任者というのなら丁度いい。こいつを捕まえたので尋問してくれ」
「尋問?」
いぶかし気な司書ウサギの横に来たペラグリアが、包みをテーブルに置き、ぺいっと広げた。
そこには、金色のふわふわとした衣装にちっちゃな金色の王冠、紫色の小さな羽の小さな妖精が座り込んでいた。あれ、この姿はまるで小さな派手女王……。
妖精を見た司書ウサギが叫んだ。
「本の妖精ではないか! 一体全体何をしでかしたのだ?」
本の妖精が司書ウサギを見上げて、メソメソとした声を出した。
「せっかく大きくなったのに、また小さくなっちゃったのよお」
「大きくなった? という事は、黒ウサギ連中と一緒になって騒いでいた女王とやらは、やはりお前だったのか!」
そういえば、吉宝雑貨屋の店長が派手女王は巨大化した妖精じゃないかと言ってたな。
ペラグリアがうんざりしたように言った。
「11階に来て通路を歩いて見回っていたら、いきなりこいつが本棚の本を高所から落としてぶつけてきた。さすがの私も頭にコブが出来たので、飛び回ってあちこち逃げるこいつを追いかけ回して捕まえた、という訳だ」
私とヴァレンティールは同時にペラグリアの顔を見てしまった。知らないとはいえ、命知らずな真似を……。
本の妖精がペラグリアを見上げて文句を言った。
「だって、あんたの銀色の服が怖かったんだもん」
ペラグリアが本の妖精に顔を近づけた。
「私の銀の鎧は特製で、徹底した魔除けの効果を仕込んである。それがお前には不愉快だったわけだな。だが妖精とはいえ私を傷つけたのは絶対に許さん。この場で裁いてやる」
ドスの効いた声を浴びせられて、本の妖精はきゃああ! と小さな悲鳴をあげて羽から金粉をまき散らしながら飛び上がると、何とヴァレンティールの首筋に飛びついて泣きべそ声をあげた。
「仕方ないじゃない! いきなり隠れ家からここに放り出されて、黒ウサギたちもいなくなって、本棚に隠れていたら訳のわかんない音がして揺れて、知らない銀色の怖いエルフがうろうろしだすんだもん! だから追い払おうと思ったんだもん!」
ヴァレンティールの首筋に顔をうずめる、見た目は愛らしい本の妖精にムッとする。その上、気の毒に思ったらしい彼が手で優しく庇うように覆ってやるので、更にムカーっと腹が立った。思わずヴァレンティールに詰め寄ってしまう。
「ちょっと本の妖精! 彼から離れなさいよ! ヴァレンティールもさっさと引っぺがしてよ」
「いやしかし、さすがに
「酷い目って、ヴァレンティールを誘拐したり髪を切ったりした女よ!?」
「ヴァレンティール、さっさとその妖精を渡せ。きっちり締め上げてやる」
本の妖精がきゃああと悲鳴をあげ、私とペラグリアに睨まれたヴァレンティールがうろたえた時、突然司書ウサギがひょいと手を伸ばし、首筋から本の妖精を素早くかつ器用に摘まみ上げると、自分の鼻先にぶら下げた。今までに見た事もない真剣な顔をしている。
「本の妖精。奪った本はどこに隠した?」
じたばたしていた本の妖精は、すぐに大人しくなって渋々答えた。
「……<裂け目>に投げ込んだわよ、全部」
「<裂け目>だと? それは何だ?」
「……14階にあるのよ。女王様が別の世界から姿を見せて、こっちに出入りする穴みたいな場所が。女王様が本がたくさん欲しいっていうから、黒ウサギたちに命令して本を運ばせて<裂け目>から投げ込んだのよ」
司書ウサギの体が震え出した。
「何て事を! このダンジョンの本を外に!
こちらも驚くような司書ウサギの怒号に、本の妖精は体を縮めて泣き出した。
「なによ、全部持っていった訳じゃないし、まだたくさんあるじゃない」
司書ウサギの全身の毛がぶわりと逆立ち、瞳が怒りに燃え上がった。
「大馬鹿者! 冊数の問題ではない! このダンジョンは本が増え続け決して減らない事で成り立っている! お前と黒ウサギ連中がしでかした事は、ダンジョンを根底から揺るがすものだ! 9階が崩壊したのはお前のせいだ!! これから我々の世界が崩壊し始めたらどうするつもりだ!!」
激昂した司書ウサギが本の妖精を握りつぶしそうになったので、慌てて手首を抑え「ウサギさんウサギさん、落ち着いて」と必死で宥める。気絶した本の妖精を司書ウサギの手から離し、少し離してテーブルの上にそっと置いてやる。
ヴァレンティールも穏やかに司書ウサギに声をかけて、皆はとりあえずパイプ椅子に座った。
司書ウサギは両耳を完全に寝かせて俯いて座っていたけど、しばらくして深呼吸をして顔を上げた。
「先ほどは取り乱してしまった。申し訳ない。本の妖精に詳しく尋問する前に、腹を立てて怒鳴りつけてしまった」
パイプ椅子にふんぞり返ったような姿勢のペラグリアが慰めた。
「気にしないでいい。この妖精への罰は、さっきのウサギ殿の怒りで十分だろう」
ダンジョンの異変が幾つも同時に起きている。私は父の手紙を思い出していた。
――本が増えるのを終わらせないと、ダンジョンは崩壊し、全て消滅してしまうだろう。
「ウサギさん。このダンジョンは本が増え続ける事で成り立っているって言ってたね。でも、もしも本の出現自体が無くなったら、ダンジョンはどうなるの?」
司書ウサギの耳がゆっくりと動いた。
「本の出現が無くなるのは考えた事も無いが……そうだなダンジョンは影響を受けない筈だ。出現した本が減るのとは違うからな。一時、出現する本の冊数がひどく減少して警戒した事はあるが、特に何も無かった」
「良かった。それならとりあえず安心だね」
司書ウサギとヴァレンティールとペラグリアが私を見た。
私はゆっくりと言った。
「私は、ダンジョンの一番深い場所、15階に行くって決めた。行ってこのダンジョンを動かして維持している存在と血縁者として会ってくる。何としてもダンジョンの崩壊を止める。そして本の出現を止めてダンジョンを安定させる」
ヴァレンティールの顔色が変わった。
「15階だと? ナツキ、それはたとえ血縁者でも危険すぎる」
私は首を振った。
「わかっている。でももう時間が無いし、私は最後の最後まで諦めたくない。このダンジョンと皆を絶対に助けたい。どんなに危険でも、私は血縁者にしか出来ない事をやるって決めたの」
自分の髪をくしゃくしゃにしながら、ペラグリアが言った。
「私は賛成だ。ナツキにしか出来ない事があるならば、やってみるべきだ。私とヴァレンティールも手助けはできるだろう。そして私も、私にしか出来ない事をやると決めた」
……頼もしいけど、不安になる。
「感謝します。あの、でも、何をやるんですか?」
緑色の目を細めて、ペラグリアはきっぱりと宣言した。
「あの暗闇に隠れて私を侮辱した女。さっきは逃げられたが、私は絶対にあの女に一撃を与えてやる」
司書ウサギが悲し気に言った。
「血縁者。ダンジョンの安定のためには、本が増えない方がいいのだろうか?」
「……死んだ私の父が忠告してくれた。本棚は無限に増やせても、ダンジョン自体には徐々に限界が来ているって」
「……限界か。そうだな……こう立て続けに異変が起きているのだから、そうなのだろう。しかしダンジョンの為ならば仕方ないが、本の出現が止まると我々司書のウサギの存在意義が無くなってしまうな……」
私は思わず司書ウサギの手を握った。
「絶対にそんな事にはならない! 本が増えるのが止まっても、ダンジョンの本の整理はウサギさんたちにしか出来ないんだから。これからも皆で楽しく暮らしていけるように、私も頑張るから」
司書ウサギはしばらく黙ってから、うなずいた。
「……そう考えるようにしよう。ありがとう血縁者。ダンジョンを頼む」
握り返してくれた司書ウサギの手は、とても暖かだった。
その時、ヴァレンティールが急に立ち上がって不安そうに上を見上げた。
「これは……姉上、わかるか?」
ペラグリアは座ったまま動かず、目を閉じた。
「わかる。だが落ち着けヴァレンティール。今出来る事は何も無い」
「どうしたの、2人とも。また何かあったの?」
私の不安げな声に、ヴァレンティールが躊躇ってから答えた。
「ものすごい冷気の塊が天井を走っている音がする。どうやらダンジョンが急速に冷え始めているようだ」