服をモコモコに着込んでから、ヴァレンティールと銀色の鎧を再度身に着けたペラグリアに付き添われて、宿を出て資料室に向かった。
冷気の塊のような風は止まっているけど、通路に満ちた冷たい空気を吸うとめまいがする。くそう、負けてたまるか。
ヴァレンティールに支えられて、何とか資料室に到着して、本棚の隙間から中に入って驚いた。
広い会議室のような部屋が、座り込んだ黒ウサギの集団でぎっちり占められている! うわあ壮観。何十人いるんだろう……。
中央に鎮座していた長いテーブルや椅子は取り払われ、どこから調達したのか部屋の一番奥に置いた小さなテーブルに向かって、司書ウサギが何か書類を書いている。彼も黒ウサギに囲まれたようになっている。3人も入れないぞ、これは。
とりあえず、ペラグリアには通路で待機していてもらい、私は入り口から「ウサギさーん」と呼びかけた。
書類書きに集中していたらしい司書ウサギが、私の声に顔を上げた。
「おや、血縁者。どうしたのだ」
黒ウサギたちが、一斉にこちらを向いて耳をぱたぱたさせる。黒ウサギは他のウサギより割と体形が小柄なので、可愛いといえば可愛い。でも人数が多いので、妙な迫力がある。
「仕事中にお邪魔してごめんなさい。ちょっと尋ねたい事があって……」
司書ウサギは、室内を見回した。
「構わぬが、椅子は全部外に出したので血縁者は立ったままになるぞ。見ての通り、10階から移動させた黒ウサギたちのおかげで余裕が一切無いからな。ああ、気にせず連中を蹴飛ばしながらこっちに来てくれ」
仕方なく私だけが近寄る事にして、黒ウサギの隙間をごめんねーごめんねーと言いながら、蹴飛ばしはしないけど足でかき分けて通り抜け、司書ウサギを見下ろす格好で傍に立った。
入り口に立っているヴァレンティールは、黒ウサギの集団に無言で見つめられて居心地が悪そうだ。
「ふう。あの、ウサギさんは、ダンジョンで司書の仕事を長くやっているんだよね?」
「うむ、そうだが」
「ダンジョンが出来た時から?」
司書ウサギが苦笑した。
「さすがにそこまで長くは無い。私や他のウサギは、厳密に言えば3代目だ。先々代や先代にあたるウサギたちは既に隠居したり、海辺から別の地へ旅立った」
……海辺から別の地へ? ウサギが亡くなる事だろう。ダンジョン内の年月の経過は良く理解出来ないけど、彼らの歴史だから素直に聞いておこう。
「ウサギさん、地震の事は何か知っている?」
「知識としては知っている。血縁者の世界では、時々地面が大きく揺れる現象があるのだろう? ひどい時には建物が崩れるとか」
「そう。私がこのダンジョンに入る直前にも、大きな地震があって被害が出たんだけど……さっき9階が崩壊した時は別にして、過去にダンジョンで地面が大きく揺れたり、ダンジョン全体が揺れたりした事はあった?」
司書ウサギは首をひねった。長い耳がふらふらと揺れる。
「いや。そういう変わったというか、恐ろしい現象は一度も無い。過去の時代にも無かった筈だ。あれば必ず記録に残しているだろうが、目にした記憶は無い。だから先刻の大揺れには本当に驚いた。恐ろしいものだな、あれは」
やっぱり、そうだったんだ。黙ってしまった私を、司書ウサギが見上げた。
「血縁者の世界の地震と、ダンジョンと何か関係があるのか?」
「多分……異変の原因の一つじゃないかと、私は考えている」
「どういう意味だ? ダンジョンと血縁者の世界は1階の扉で繋がってはいるが、あくまで扉だけで別々の世界だぞ。血縁者の世界とこちらは関係無いだろう」
私は、推測だけどと断って、ダンジョン異変の原因が地震ではないかと思い当たった理由を話した。司書ウサギの目が大きく開かれ、困惑した表情を浮かべた。
「という事は、我々に全く認識は出来ないが、ダンジョンは血縁者の世界の地中にあり、ずっと影響を受けていたかもしれないのか」
「地中といっても、どういう風に存在してるのかはわからない。でも地震のエネルギーは信じられないぐらい巨大だから……」
「確かに、十分考えられる。そしてとどめとして、本が減る事でダンジョンの存在そのものに大打撃が与えられた。なるほど9階が崩壊するわけだ」
自嘲するような司書ウサギの言葉に、私は返事が出来なかった。
いっそ、地震の度にダンジョンが揺れて、本が落ちたりする騒ぎが起きていた方が良かったのかもしれないな……。
私はあらためて司書ウサギを見た。
「ウサギさん、もう一つ教えて欲しい。13階に下りた事があるんでしょう?」
司書ウサギは私の顔から、ふっと目を逸らした。
「私が3階のウサギエリアで宣誓した時に言ってたよね。13階は暗黒と海辺の世界だって。暗黒は古本屋の店主さんも言ってたからわかる。でもどうして海辺って口にしたの? お願い、何か見たなら教えて欲しい」
「…………」
しばらく黙っていた司書ウサギは、胸の金色のリボンを撫でてから、ゆっくりと話し始めた。
「ずい分と昔、まだ先代の責任者がいて彼の元で作業をしていた頃だ。12階の<穴>から立て続けに妙な品物が出現した事があった。店主から一応の報告は受けたが心配になってな。一人で12階へ偵察に行って、ついでにあちこちを見回っていたら13階へ下りる入り口が見えた。先代から近寄るなと忠告はされていたし、店主は息も出来ず立つ事も出来ない暗黒空間だと話していたが……どうしても気になって近寄ってみたら、ごく普通の石段が見えた。それで好奇心に負けて一歩だけ足を踏み出して、気が付いたら、私は無人の海辺に立っていた」
「海辺に……」
「我々の世界にも、もちろん海はある。だがその時13階で見た青い大海原は、本当に美しい眺めだった。青空と潮風が心地よく、波の音も穏やかだった。だが急に恐ろしくなった。我々は寿命が尽きたウサギを、海辺から小舟に乗せて別の地へ送り出し、旅路が穏やかであるように祈る。
私は、自分が生きたまま別の地へ来てしまったように感じて、海に背を向けると目を閉じて必死に走った。突然、何かにぶつかって目を開けると、石の壁だった。石造りの狭い部屋で何も無かったが、下りる階段の入り口らしいものが奥にあった。呆然としてから、すぐ横に上り階段が見えて13階に戻ったと気づき、這って階段を上って何とか12階に戻る事が出来た。そのまま倒れ、店主が見つけて介抱されるまで気を失っていた。それ以後は近づいてもいない」
司書ウサギは息を吐いた。
「これが、私が13階で見た事だ」
「……ありがとうウサギさん、話してくれて。そうか、そういう場所なんだ」
「大丈夫なのか? 血縁者は13階を通って下りて行くのだろう?」
「血縁者は普通に動けるらしいから。私の父も一人で15階まで下りているし、ウサギさんのお蔭で心構えが出来た」
「ならいいが……」
「原因も一応推測できたし、15階に行ってダンジョンを維持している存在に要求したい事がはっきりした。ダンジョンの崩壊を止めて、地震の影響を受けても大丈夫なダンジョンになるように、説得でも交渉でも泣き落としでも何でもしてくる。そして私が本の出現を止めて、エルフのペラグリアが女王をぶん殴って追い払って<裂け目>も閉じる」
維持している存在が深海魚というのは、これ以上海を連想するのは嫌だろうから、今は司書ウサギには言わないでおこう。そもそも、ちゃんと説明できる自信がない。
「頼もしいな。だが血縁者にだけ非常な重荷を背負わせているような気がする。私も何か手伝えればいいのだが」
胸がじんわりと暖かくなった。初対面の時からしばらく喧嘩ばかりしていたのが嘘みたいだ。
「その気持ちだけで十分嬉しい。ダンジョンを作り変える事になるかもしれないから、まだ何かあるかもしれない。でも、あと少しだけ皆と頑張って待ってて」
司書ウサギはヒゲをぴくぴく震わせながら、頷いた。
「ダンジョンを作り変える、か。そうだな、予想もつかないが、それしかないだろうな」
その時、通路で待っていたペラグリアが入り口から顔を覗かせた。
「邪魔をする。ナツキ、また妙な風が吹き出したようだ。そろそろ――」
突然、黒ウサギたちが一斉に立ち上がりペラグリアに向かって叫んだ。
「女王! 女王! 銀色の女王! 我々の女王!」
怪訝な顔になったペラグリアと入り口にいたヴァレンティールは次の瞬間、どどどーっと押し寄せた黒ウサギの大集団に通路に押し出され、私も壁に押し付けられる感じになってしまった。しばらくして「わー! 何だお前たちは! こらーヴァレンティール! 座り込んでないで助けろ!」という叫び声だけが響いて来た。
あっという間に空になった資料室を見やりつつ、司書ウサギがやれやれと椅子から立ち上がった。
「店番の姉君は、どうやら黒ウサギ連中に気に入られたようだ。何か指示をしたり、命令を聞かせようとしたのではないか?」
「あーそういえば。10階で、黒ウサギたちをまとめて怒鳴りつけてたような」
「それだな。まあ当分は、姉君の後をついて歩こうとするだろう。丁度いいので尋問と護送を手伝ってもらうとするか。黒ウサギは我々ウサギの言う事には反抗ばかりするが、別種族の者には比較的従順になる習性がある。そこを付け入られて騒ぎを起こした訳だが」
「そうだ。騒ぎといえば、本の妖精はどうなったの?」
「泣いてばかりで会話が出来ない状態なので、ウサギ世界に連行した。あちらの連中が事情聴取をして、いずれ妖精の世界で罰を受ける事になるだろう」
本の妖精に14階の隠れ家の話も聞きたかったけど、仕方ないな。
司書ウサギが少し遠い目になって呟いた。
「ダンジョンの本が減らされてしまった以上、何もかも手遅れかもしれない……だが血縁者を信じて、我々が今やれる事を全力でやっておく。それしかない」
黒ウサギの大集団に本棚に押し付けられたようになって身動きの取れないペラグリアが、私と一緒に通路に出てきた司書ウサギの姿を見て叫んだ。
「ウサギ殿、何とかしてくれ! こいつら何を言っても聞こうとしない! 蹴飛ばして追い払おうにも動けない!」
司書ウサギが肩をすくめながら、あっさりと言った。
「諦めてください。その連中はあなたを気に入っていますから、私が何を言っても無駄です。連中の気が済むのを待つしかないですね」
ヴァレンティールが、妹たちが喜びそうな眺めだ、と小声で言ってからペラグリアに声をかけた。
「姉上、離れて欲しければ大声で命令しろ。黒ウサギは説得は無理だが、気に入った存在である姉上の命令には従うはずだ」
「はん? 命令?」
ペラグリアはちょっと考えてから、急に明るい顔になって黒ウサギたちに向かって大声を出した。
「お前たち、女王である私の命令をきくか?」
「はーーーい! 女王!!」
黒ウサギたちが一斉に声を揃えて返事をした。
「ならば私から少し離れろ! このままでは何も出来ん! 安心しろ私はどこにも行かぬ!」
大集団は両耳をパタパタ動かしながら素直によっせよっせと後ろに下がり、ペラグリアはようやく動けるようになった。
「やれやれ。よろしい。この中で<裂け目>に本を運んで投げ込んだ奴はいるか?」
ほとんどの黒ウサギが元気に挙手した。まあ前足だけど。ペラグリアがすぐ前で手を上げている黒ウサギに声をかけた。
「そこのお前。<裂け目>が14階のどこら辺にあるかはわかるか?」
「はい。14階はそんなに広くありません。通路を曲がって真っ直ぐ進んでまた曲がれば、<裂け目>が見えます」
ペラグリアは邪悪な笑顔になった。美女だから逆に迫力がある。
「わかった。詳しい事は改めてきっちり尋ねる! 再び私がお前たちの前に顔を見せるまで待機していろ! 返事は?」
「はーーーい!」
「よし! 全員行列を作って元の場所に戻れ! 大人しくして、そこにいるウサギ殿の指示に従い迷惑をかけないようにしろ! いいな?」
「はーーーい!」
黒ウサギたちが行列を作って、とっすんとっすんと足音をたてながら資料室に戻り、司書ウサギは感心したようにペラグリアに話しかけた。
「慣れていますね。しかしこれで少しは連中を扱いやすくなりましたよ」
ペラグリアは自慢げに胸をはった。
「命令なら任せておけ。ところでウサギ殿、しばらくあの連中を私の子分として扱っていいだろう? 事態が落ち着くまで、私の手伝いをさせる。もちろん監視はきちんとして悪さはさせない」
「ああ、構いませんよ。許可します。でもついでにこちらの尋問も手伝って欲しいですね」
司書ウサギは笑い、ヴァレンティールが溜息をつき、ペラグリアが楽しそうに言った。
「ヴァレンティール。お前、あの連中にきちんとした歌を教え込んでやれ」
「黒ウサギたちに!? 絶対にお断りだ!」
通路に吹く冷たい風が強まってきたので、私たちは司書ウサギに別れを告げて、見送られながら資料室を離れて急いで宿に戻った。
私は、明日朝一番に15階に向かうと改めて2人に告げ、部屋で安静にする事にした。体調が悪ければ長く歩くことも出来ないだろうし、ずっと心配顔のヴァレンティールが絶対に外に出してくれないだろう。それだけは避けたかった。
部屋で布団に包まり、熱い薬草茶を飲み、ヴァレンティールが奏でる音楽に耳を傾けた。はあ、彼の音楽は心が落ち着く。
黒ウサギ集団を子分にしてから機嫌のいいペラグリアは、自分の銀色の鎧を何やらいじったり、ヴァレンティールの伴奏で、タイドリアン王国の海の神を讃える歌を美しい声で歌って聴かせてくれた。
やがて、とうとう部屋の中にもひんやりとした冷気が漂いだした。ダンジョンはどんどん冷たくなっている。眠っている間に強力な冷気に襲われると危険なので、3人で固まって寝る事にした。
私はペラグリアとヴァレンティールに挟まれ、ヴァレンティールの手を握りながら落ち着いて深く眠った。
――夢を見た。
ダンジョンパークのベンチに、黒いコートを着た久満老人が一人で座っている。
12月の気候は寒いのに、じっとダンジョンの入り口のペンギン扉を見つめている。
久満老人は、あの大陥没の日からずっとずっと待っている。
大切な本を、突然姿を消した友人が帰って来るのを待っている。
私は待つのも待たせるのも嫌いだ。
本を見つけて、ダンジョンの外に出て久満老人に手渡そう。
もうこれ以上、祖父を待たなくてもいいと告げよう。
それから、ダンジョンの皆を紹介しよう。
そして、また2人で喧嘩をするんだ……。
翌朝。
目覚めてから、朝粥の朝食を食べ、念入りに15階へ向かう準備をした。
幸い特製薬湯が効いて体調は大丈夫になったと、眉間に皺を寄せたヴァレンティールに説明して何とか納得してもらう。
寒さ対策で持ち込んでいたマフラーを首に巻き、ずっと着ているジャケットのポケットには、念のためにレプリカ金貨を小分けして20枚入れた。どこに行くにしてもお金は大事だ。
飲み物や食料は持たない事にした。身軽でいたいし、何事も無ければ15階への距離は短いはずだから少しぐらい我慢できるだろう。何より、持ち込まない方がいいような妙な予感がする……。
背中の隠しポケットには、母親が贈ったという金色のスカーフで包んだ父親の手紙をお守りとして入れた。少しよれよれになってきた『お魚たちの朗読会』のプリントアウトも一緒に隠しポケットに入れる。ただの紙だけど、ずっと持ち歩いて何だか愛着があるし、もしかしたら本を探す時に役立つかもしれない。昨夜ヴァレンティールにもう一度探索してもらったところ、本はまだ同じ場所にあるらしい。深海魚が持っているといいんだけどな。
着替えが終わりナップザックの荷物を整理する。
司書ウサギに、祖父のエッセイ集『迷宮あれこれ』を返しそびれていたな。落ち着いたら3階のウサギエリアに持って行こう。
その時、ふと未使用の巨大なバスタオルに気が付いた。新谷川氏から貰った最高級で最大サイズの『黄金のバスタオル』である。もし布団などが無い場所で眠る羽目になった時に、掛け布団代わりにでもしようと持ち込んだのだ。幸いそんな事も無く、とても軽いのでナップザックの底に入れたままになっていた。
そうだ。私は思いついて、タオルを手にしてペラグリアに声をかけた。
「ペラグリア、この大きなタオルを貰ってくれませんか?」
銀の鎧に身を固めて、武器の棒を点検していたペラグリアは驚いたようだった。
「それは嬉しいが、ナツキはいいのか?」
「私は大丈夫です。前のタオルは本の妖精を捕まえて、そのままになったんでしょう? ダンジョンが冷えてきたけどペラグリアはマントが無いし、これを首や肩に巻いていてください。結構暖かいですから」
ペラグリアは嬉しそうにタオルを受け取ると首に巻いた。新谷川氏自慢の最高級品だから、タオルの縁には金色の糸で豪華な刺繍がされている。凛々しいエルフのペラグリアにとても良く似合っている。
「確かに暖かだな。手触りも良いし、胴体はともかく首から上は冷えるから重宝しそうだ。礼を言うぞ」
外に出て新谷川氏に会ったら、『黄金のバスタオル』はエルフの王女にも気に入られましたよと報告しよう。きっと大喜びするだろう。
部屋の外で私たちを待っていたヴァレンティールが、右手に武器の長い棒を持ったペラグリアをじっと見つめた。
「姉上、その華やかな肩掛けはどうしたのだ?」
「ふふん。いいだろう、ナツキに貰った物だ。マントが無いので助かる」
自慢するペラグリアだけど、ヴァレンティールが何となく面白くなさそうなので、彼にはそのうちにタオル生地のバスローブでもプレゼントしようかな。
冷えた通路に出ると、宿は移動していなかった。多分、全ての階で設備の移動は止まっているんだろう……。
ペラグリアは「資料室に行ってウサギ殿と黒ウサギたちに会ってくるから、案内処で待ってろ」と言ってから素早く走り去った。
ヴァレンティールと2人で案内処を尋ね、少し元気の無い案内人に私のナップザックを預けてから、「13階から下へ向かうけど心配しないでください。必ず戻ってまた連絡します」という鱗氏宛ての伝言を頼んだ。でも心配するだろうなあ。ずっと相談に乗ってもらっていた鱗氏の顔が見られないと心細い。
でも弱音は言っていられない。これから先は、もう父親のダンジョン・ガイドブックもメモも手紙も頼りに出来ない。相談できる鱗氏もいない。
私の判断力と意地と根性だけが頼りだ。
気合を入れるために、通路に出てからヴァレンティールに抱き着き、彼の胸に頭をぐりぐりこすりつけていると、ペラグリアがやって来た。何と、後ろに黒ウサギの集団を引き連れている。
ヴァレンティールが呆れたように言った。
「姉上、黒ウサギたちの頭領にでもなったのか? 母上や妹たちが見たら驚愕するぞ」
黒ウサギたちが、ヴァレンティールを睨んで足をとすとす! と踏み鳴らした。まさか敵認定されたんではあるまいな。
「ふん、堂々と婚約者と抱き合ってふやけているお前に言われたくない。ウサギ殿もややこしいのがいなくなって喜んでいたしな。ああナツキ、ウサギ殿からくれぐれも気を付けてくれと伝言だ」
司書ウサギの言葉が嬉しい。そうだ、彼には奥さんもいるんだ。早く決着をつけて、皆に安心してもらわないと……。
いよいよ3人と黒ウサギ集団で、階段を下りて12階に向かう。ヴァレンティールは、ウクレレを大事そうに抱えつつ私も支えてくれる。
上りより時間がかかると聞いていたけど、確かに長い。時々休憩しながらひたすら進み、ようやく12階に到着した。この階には、まだ妙な冷気は来ていないようだった。でも、揺れがあったのかそれとも倉庫に何事かあったのか、床のあちこに大量の本が乱雑に散らばったようになっている。鱗氏が見たら嘆くだろうけど、今は調べている時間が無い。
ただ、ヴァレンティールに頼んで、彼やペラグリアが取り込まれて出現した<穴>は見に行った。
奥の壁にぽっかりと本棚も何も無い空間があり、他の場所と違って灰色の土を塗り込めたような箇所がある。そこが<穴>だった。枠も無いので、ここから人間が出現するとはとても思えない。
「穴か通路があるのかと思っていたけど、ただの壁だね。でも見たところ、コンクリートみたい」
ペラグリアがしかめ面で言った。
「壁は壁だが、ここから思い切り放り出されたからな。幸い私は大丈夫だったが、打ち所が悪ければ怪我をしていたぞ。忌々しい」
ヴァレンティールが説明してくれた。
「近寄ると、風が吹いてきたり妙な気配は感じる。どこにどう繋がっているのかは不明だが。時々、宝石や壺や衣料品など妙な物も出現して、それは吉宝雑貨屋が引き取っていく」
「ふうん、吉宝雑貨屋で売っている品はここで調達しているのもあるんだ」
「そういえば、あの店長もずっと昔にこの<穴>から出現したらしい」
「え、店長が? 何となく案内人と顔や雰囲気が似ているから、ここの住民だと思ってた」
「確かに似ているな。元々他の世界の住民で、どこかのダンジョンを荷物を担いで歩き回っていたら崖から落ちて、気が付いたらここに倒れていて店主に発見されたそうだ。元々口達者な商売人だったから、割とすぐに適応して吉宝雑貨屋で商いに励むようになったとか」
それで鱗氏が胡散臭い奴だと妙にはっきり断言してたのか。まあ気前は良くて悪い人じゃなかったけど、今頃どうしているかな。
薄暗い空間に広がる、無数とも思える本棚の間を抜けて壁沿いに歩き、とうとう13階への階段に到着した。
店主の鱗氏はもちろん、ヴァレンティールもこの辺りには近寄らないようにしているらしい。そのせいか、近くには本棚が置かれていないくて、がらんとしている。
離れた場所から見たところ、石壁に開いたごく普通の降り口だ。扉はついていない。異質な存在には敏感なペラグリアが、この場所からは全く何も感じないと不思議がっている。
用心をして、私だけがそろそろと近づいてみた。幅の狭い石造りの下り階段が見える。でもヴァレンティールとペラグリアは近づかない方がいいだろう。
私は2人が立っている所に戻り、元気良く言った。
「じゃあ、ここで。行ってくるね」
12階で私を待って待機してくれるはずのヴァレンティールが、私を強く抱きしめた。
「ナツキ、くれぐれも用心してくれ。そして必ず私の元に帰ってきてくれ。いいな?」
私も彼を両腕で強く抱きしめた。
「うん、わかった。約束する。大好きだよ、ヴァレンティール」
「私も大好きだ……私はこれから、技を使ってナツキの動きを追う。姉上、あれを」
ペラグリアが何か銀色に光る物を取り出してヴァレンティールに渡し、彼がしばらく握り締めてから、私の手のひらに乗せてくれた。私の顔を見る緑色の瞳が強く光っている。
「これは、姉上の銀の鎧から一枚取り外した物だ。妹のリューミネアが強力な魔除けの念を込め、姉上も昨夜から念を込めてくれた。加えて、今私も念を込めた。私は、私の一族の念は明瞭に感じる事が出来る。これを懐に入れておけば、私はナツキの動きをたとえ微かになっても追えるはずだ。何かあればこれを握って呼びかけろ。いいな?」
私は銀色の鱗のような金属を握り締めた。ほのかに温かい。それ以上に、2人が私を手助けしようとしてくれる気持ちに励まされた。
「わかった。ありがとう、無くさないように大切に持って行くね」
銀色の鱗をポケットの奥深くに入れ、一人で階段まで歩き、振り返って2人に手を振った。ペラグリアの背後に並んでいる黒ウサギたちも、耳をぱたぱたさせて見送ってくれている。悪さはするけど、可愛いな。
私は前を向き、足を踏み出し石段を下りて行った。
――――
石段はさほどの距離は無く、すぐに石造りの薄暗い狭い部屋、13階に到着した。
天井は高いけど見回しても何も無く、周囲は石の壁だけだ。私の正面に更に下りていく階段の入り口らしきものが見える。司書ウサギが話していた通りだ。振り向いて12階に上る階段をちらりと確認してから、14階への下り階段に近づこうとした私は、足を止め、横を見た。
左手の石壁に、木製の立派な両開きの扉がある。
閉じられている扉の両側の壁には燭台が取り付けられ、ロウソクが燃えている。
さっきまでは絶対に無かった扉が出現していたのだ。
私はじっと、重厚な感じの彫刻が施された扉を見つめた。
なぜか、呼ばれているような気がする。とても強く。
扉に慎重に近づくと、鉄製らしい取っ手に触れてみる。幻ではない、しっかりとした手応えがある。
取っ手を握り力を入れて押すと、ギギギギ……という金属音と共に重い扉が開いた。
中は、石造りの通路が真っ直ぐ奥に伸びていて、壁には何も無い。本棚が無いのが逆に不思議に思える。壁の高い位置にある燭台の上で、大きなロウソクが等間隔に燃えていて、通路はぼんやりと明るい。私は何故か確信した。
ここは、私が行くべき場所だ。
通路に足を踏み入れ、左手で銀色の鱗を握り締めながら右手で扉を閉めた。
そして、通路を奥に向かって歩き出した。