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34:永遠の塔

 石造りの通路には何の気配も物音もせず、私の足音だけがかすかに響く。ロウソクが燃える音を大きく感じるほどだ。


 通路の壁には何も無いようだったけど、しばらくすると花束を描いた油絵が掛けられていたり、豪華な感じのタペストリーが飾られたりし始めた。まるで石造りのお城の中を歩いているようだ。これで何か優雅な音楽が聞こえればな……と思ってから、ヴァレンティールの奏でるウクレレの音色を思い出してしまう。心細くなったのでポケットの中の銀色の鱗を握り締めて、気合を入れる。

 更に歩くと、突き当りに壁が見え、また木製の両開きの扉が見えてきた。外に出るのだろうか? 近づいて、少し迷ったけど覚悟を決めて取っ手を握り、力を入れて押した。


 扉が開いた瞬間、思わず「うわあ」と声が出てしまった。

 そこは踊り場のような場所で、右手に上階に続く石段が見えている。頭上には薄いピンク色の不思議な空に白いちぎれ雲が幾つも浮かび、注意しつつ低い壁から身を乗り出すと、遥か下には黄金色の大草原がどこまでも広がり地平線まで続いている。


 しばらく感激しながら眺めていたけど、ふと、地下から入ってきたのにこの場所は何だろう? と疑問が浮かんだ。私が今いる場所は、何だか高い塔の途中のような……。

 いや、知りたければこの階段を上るしかない。私は薄ピンク色の空を眺め右手で壁を触りながら慎重に階段を上った。時々吹いてくる風は心地よい。黄金色の大草原はもしかしたら広い広いライ麦畑かも、と私がとりとめのない事を考えていた時、階段は終わりまた踊り場に辿り着いた。

 同じような木製の両開きの扉の取っ手を引くと、すんなり開き、また真っすぐの石造りの通路が現れた。足を踏み入れて、あれ、と思った。どこからか美しい音楽が聴こえてくる。これはピアノ? 誰かがピアノを演奏しているんだろうか。用心しつつ歩いて行くと、やがて通路の向こうに大きな広間らしきものが見えてきた。

 そこは、絨毯が敷かれ大きな安楽椅子が幾つも置かれた、天井の高い気持ちのいい場所だった。大きな窓から陽光が差し込み、室内は明るい。

 立派なテーブルの上には、色とりどりの美しい花が花瓶に盛られている。近づいてみると、バラのようで良い香りがした。気分が落ち着くので、しばらく香りを楽しむ。

 突き当りに立派な暖炉があり、盛んに火が燃えている。隅に置かれたグランドピアノから音色が聴こえているけど、誰もピアノの前に座っていない。どうやら自動演奏のようだった。

 安楽椅子に座って、ピアノを聴きながらゆっくりとして足を休めたいけど、我慢する。

 でも、ここからどこへ進めばいいんだろうと見回すと、左手の一番奥に螺旋階段らせんかいだんが見えた。あれを上ればいいんだな、と私は金属製の螺旋階段に近づいた。ずっと上の方に、四角い穴が開いていて青空が見える。あそこがこの建物の最上部だ……私はあんまり揺れませんように、と願いながら階段に足をかけた。


 螺旋階段を上りきった私は、広い石畳の場所に立っていた、

 頭上には雲一つない青空が広がっている。


 どうやら円形の広場のようで、ぐるりと低い柵のような物で取り囲まれている。

 けれど、何も置かれていないし誰もいない。何も無い空間だ。

 そろそろと柵に近づいて見下ろした私は息をのんだ。

 石の壁がどこまでも続き、遥か下の方には雲海しか見えない。

 私は信じられないほど高い場所にいるんだ……。


 柵から離れ、しばらく周囲の気配を伺う。けれど何も起こらないので仕方なく元の場所に戻ろうと諦めかけた時、チリン、チリンと澄んだ鈴の音がした。


 え? とそちらを向くと、広場の中央に大きな樹がそびえ立ち、木の枝の葉の間にたくさんの小さな鈴が結び付けられ、それらが風が吹くたびに音色を響かせる。思わず近づき、樹を見上げていると声がした。


「ようこそ、訪問者」


 少し離れた場所に、白い石で出来た東屋あずまやがあり、誰かが座って私の方を見ている。

 東屋の屋根からは色鮮やかなつるバラがたくさん垂れ下がり、優雅な雰囲気だ。

 私はバラを見て、東屋の中に入り、大きな白い椅子に座っている男性を見た。

 綺麗に切り揃えられた髪も燕尾服のような服も靴も、何かも真っ白だ。私を見上げている瞳は、濃い紫色できらきらと光っている。側に小さなテーブルが置かれ、白いシルクハットと黒い小箱が乗っている。

「ここまで上って来て疲れたでしょう。その椅子に座って色々とお喋りをしませんか。訪問者をもてなすのも、役目ですからね」

 もてなす? それでも私は素直に、座り心地の良い白い椅子に腰を下ろした。男性は笑顔で私を見ているので、少しだけ安心する。


「えーと。ここはどういう場所なんですか?」

永遠えいえんの塔です」

「永遠? どういう役割があるんですか?」

「役割も何もありませんよ。ただ永遠に存在するだけの塔です」

「はあ。それでその、あなたは誰なんですか?」

 なぜ彼と言葉が普通に通じるんだろう、と思いながら私は間抜けな質問をしたけど男性は気にした様子もなく答えてくれた。


「無限の記憶庫の番人です」


 男性の答えを聞いて、私は一瞬絶句した。何だか想像もつかない存在だ。今ここに座って話していること、これは現実なんだろうか、それとも私の妄想なんだろうか。

「ああ、その、何だかびっくりしました。記憶庫に番人がいるんですね」

「もちろんですよ。無限の記憶庫は、あらゆる物と無数の場所と繋がっていますから、番人は必要です。記憶は破壊できませんが、破壊しようと目論む存在や記憶庫を乱す存在は、必要とあれば排除します」

「記憶は永遠で、無限に増えるんですよね。それをあなたが全部見張っているんですか?」

「そうです。ゼロでなければ全て同じですよ。一だろうが無限だろうが同じです。一つを見ていれば全てを見ています」

 何だか分かりにくい理屈だけども、まあ納得しておこう。その時、男性の方から私に尋ねてきた。

「あなたがこの塔の最上階に来て私の所に出現したという事は、無限の記憶庫に用がありそうですね」

 私は少しだけ身を乗り出した。こうなったら、細かい説明は抜きで話してみよう。ここは恐らくそれで話が通じる世界だ。


「そうです。私はダンジョンに出現した扉からこの塔にやって来たんです。ダンジョンを作り上げた深海魚が、無限の記憶庫を利用して本を作り続けているんですが、そのおかげでダンジョン全体が色々と不安定になっています。私は、ダンジョンの最深部にある記憶庫と繋がっている扉を閉じて、本の増加を止めたいんです。可能でしょうか?」

「なるほど、明確な目的ですね」

 男性は、テーブルから黒い小箱を取り上げると蓋を開け、中を覗き込むと人差し指を差し込んで、何やらかき回すような動作をした。

「ほお記憶の奔流を利用しているのか。少々変わった事態ですけど、扉を閉じるのは可能ですし、閉じれば本の形態の増加は止まります」

「良かったです……あの、すみません、記憶の奔流って何ですか?」

「そうですねえ。わかりやすく言えば、記憶庫の記憶の持つちからを引っ張り出して、強くうねるような流れに変えた存在です。記憶庫の記憶が減る訳でもないし、止めてもダンジョン構造に影響はありません」


 良くわからないが、つまり記憶庫のエネルギーを形を変えて利用しているという事なのだろう。私はほっと息をついた。

「そうですか、良かったです。安心しました」

「ただし、記憶の奔流を止めると、これまでに出現した本の形態は全て消滅します」

 男性の予想外の発言に驚いた。

「消滅って、ダンジョン中に物凄い量の本があるんですけど、それが全部消えるんですか?」

「扉を閉じれば、記憶の奔流は元の記憶庫に戻っていきます。記憶の奔流を利用した本の形態に本の記憶は焼き付けてありませんから、形態は形を保持できずに消滅します」

 男性は詳細に説明してくれて、私は何とか理解した。あれらはやっぱり、表紙だけで中身の無い見かけだけの存在で、『本』では無かったんだ。たまに出現していたらしい活字のある読める本は、強力な記憶を元にしていたんだろうか……本が消えて司書ウサギは悲しむだろうけど、仕方が無い。それに、祖父の蔵書には影響は無いだろうし、活字のある本は少しぐらい残るはず。いつか、新しく本を運び込むまで待ってもらおう。

 そう考えていた私に、また小箱の中をかき回していた男性が言った。


「そしてダンジョンの住民の記憶も消滅します」


 言葉の意味が理解できた瞬間、胸が締め付けられ、全身が冷たくなるような感覚に襲われた。記憶が消滅?

「それは、どういう意味ですか? ダンジョンの住民の記憶と記憶庫に関係があるんですか?」

 男性は小箱の蓋を閉じ、テーブルに置いた。そして私の顔を見て静かに言った。


「ダンジョンの内部は、記憶庫からの記憶の奔流で満ちていて、ダンジョンの住民はその中で存在しています。意識できるような物ではありませんがね。しかし扉を閉じ、記憶の奔流が元に戻ればダンジョンからは消滅し、同時にそれまでの記憶、ダンジョンが構成され扉が記憶庫と繋がった時からの記憶も、住民から記憶庫に戻ります。大丈夫ですよ、生命や健康に何も影響はありません。扉が閉じた瞬間から、住民はまた新しく記憶していきます。

 もちろんですが、あなたの記憶は消滅しません。あなたは住民ではなく、外部からの訪問者ですからね」


 私は呆然として返事が出来なかった。両手が震える。ヴァレンティールが、ペラグリアが、鱗氏が、司書ウサギが、ダンジョンの皆が、私の事を忘れる……ヴァレンティールやペラグリアは、外部の別種族だけども、ダンジョンに取り込まれた存在だ。私とは違う。

 突然、鱗氏に初めて会った時に言われた言葉、一番異質なのは私だと言われた言葉を思い出した。 私が初めてダンジョンに入った日、何か記憶が薄れるような感覚があった。あれはダンジョンに満ちる記憶の奔流を無意識にでも感じていたせいだったのかもしれない。


 深海魚の思念に満ちたダンジョン。

 祖父の夢に満ちたダンジョン。

 記憶庫からの記憶の奔流に満ちたダンジョン。


 積ん読本に満ちたダンジョン。


 ダンジョンは様々なもので満ちている。でもどれも私には関係ないんだ。鱗氏の言う通り、あのダンジョンでは、私はどこまでも異質だ……。私は暗黒女王の言葉を思い浮かべた。

 ――迷宮は水槽だ。

 泣いてたまるか。私が異質だから、ダンジョンを救う事が出来るんだ。

 どんなに悲しくても、私が我慢してまた親しくなっていけばいい。でも、ヴァレンティールの事を考えるだけで辛い。私の事を忘れた彼は、また私を見てくれるだろうか……私はずっと大好きでも、もし彼が……。


 私は俯いて、ポケットの中の銀色の鱗を握り締めた。

「……わかりました。覚悟を決めました」

「でもねえ、今回のような事態は珍しいので、確実とは言えませんね。半分の確率といったところですか」

「え? 何の確率ですか?」

「ダンジョンの住民の記憶が消滅する確率ですよ。もしかしたら記憶の奔流が元に戻っても、何か別の要素が関係して住民の記憶はそのままかもしれません。実際にあなたが扉を閉じてみないとわかりませんがね」

 私は目を閉じて小さく首を振った。期待はしないでおこう。皆を助ける、それだけを考えよう。

 男性は何かを思いついたように再び小箱を取り上げると、中を覗き込んだ。

「ああ、あなたがやって来たダンジョンは色々と不安定になってるんですよね。どうやら昼がなくなって、夜だけになっていますよ」

「ええ!?」

 私は思わず椅子から立ち上がった。ダンジョンは、どんどん冷えていくような状態だったのだ。それがずっと夜だなんて……愛らしい街灯ネズミたちが、暗闇の中を必死に走り回っている姿が見えるようだ。時間が無い。急がないと。

「色々ありがとうございました。もう行きます。これから深海魚に会いに行くので」

「そうですか。お気をつけて。またお会いしましょう。あなたが記憶庫の扉を閉めたら、ダンジョンに確認に行きますよ。番人の役目ですから」


 返事をする前に、男性は椅子から立ち上がり、白いシルクハットを頭に乗せると、私を東屋の外に案内した。

「お急ぎなら、そこから飛び降りればいい。すぐに深海魚の所に行けます」

 男性が指差す先にあるのは、広場を囲む低い柵が途切れている箇所だ。私は目まいを感じ、男性の顔を覗き込んだ。

「あのー。この高さから飛び降りたら、深海魚に会う前に私はタダでは済まない状態になると思いますけど? 何より深海魚はダンジョンの最深部に……」

 男性はすまし顔で、小さな子供に解説するように言った。

「ここは永遠の塔ですから、距離や場所は関係ないんですよ。過去も未来も関係ない。何も関係ない。あなたが深海魚の事を強く念じる、それだけで行先は開けます。急いでいるんでしょう?」


 少し迷ってから、私は男性を信じる事に決めた。確かにすぐにでも深海魚の元に行きたい。


 ――そういえば、ずっと昔、高い塔の上から銀色の海に飛び降りる夢を見たっけ。


 思い切り深呼吸をすると柵に近寄り、ポケットの銀色の鱗を握り締め、何も見ないようにして勢いをつけると、柵から空中に飛び出した。

 なぜか、記憶庫の番人の男性が手を振って見送ってくれているのがわかった。


 猛スピードでどこまでも落下していく中、呼吸が苦しいのを必死で堪えながら、何とか深海魚の事だけを頭の中で考える。薄く開いた私の目に、朧げに何かが見える。意識がぼやけていく中で私は気づいた。


 それは作業服を着た父親の姿だった。

 父親が黄金色の大草原に立って、私を見ている。そして懐かしい声がどこからか聴こえた。


「菜月。絶対に諦めるな」

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