――背中がぽかぽかと暖かい。
寒がりだから有難いなあ、でも手が冷たいなあとぼんやり考えた辺りで、突然自分が壁にもたれて石畳に座り込んでいるのに気が付いた。
はあ、やれやれ。何とかあの塔から飛び降りても無事だったようだ。まずは怪我などが無いのを確認する。しかしまあ、良くあんな高い場所から飛び出せたな、私。我ながら思い切ったもんだ。
ところで、ここはどこなんだろう。深海魚のいる場所に来たはずだけど……。
そう考えながら辺りを見回した。天井の高い、石造りの薄暗い狭い部屋だ。右手の壁に上りの石段らしき物が見える。そして、私の真正面、部屋の反対側の壁に、開いた大きな両開きの扉が見えた。扉の中は、何だか黒いもやもやした霧が立ち込めているように見える。私は思わず緊張した。
あれが、無限の記憶庫だ。
という事は、ここはダンジョンの15階……そうか、やっと最深部まで辿り着いたんだ。
でも立ち上がる前に、私は膝を抱えて丸くなった。さっき見えた父親の姿と言葉に、何だか不貞腐れた気分になっていたのだ。絶対に諦めるな、か。どこにいるのか知らないけど、何だか父親は私の心配を全くせずに、ダンジョンの事ばかり心配している。
「少しは娘を励ませ、クソ親父」
思わずガラの悪い言葉を呟いて、ヴァレンティールと母親に怒られそうだと苦笑する。まあいいや、父親が私に素っ気ないのは昔からで、今に始まった事じゃないし、もう死んでいるんだ。鱗氏とは違って、実体の無い喋らない幽霊に文句を言っても仕方ない。私は両頬をぺちぺち叩いて、気合を入れて立ち上がる。時間が無いんだから急がないと。しかし15階に来られたのはいいとして、この狭い地下室のどこに深海魚はいるんだろう……。
私は部屋を横切って、記憶庫の扉に近づいて覗き込んだ。さっきの印象とは違い、扉の向こうは真っ暗な何も無いがらんとした広い空間、という感じだ。物音もしないけど奥の方からゆるやかな風が吹いてきて、頬を撫でる。暗黒女王に連れ込まれた時は、古い図書館みたいな場所だったけど。あれは違う見え方をしていたんだろうか。
扉に触ってみると、頑丈な金属製で重そうだ。試しに少し力をいれてもビクともしない。父親の手紙には、これは鉄製の扉で閉じるのに力が必要と書いてあったけど、確かに大変そうだ。この扉を閉じれば、ダンジョンは安定する……だけど皆は私を忘れてしまう……いや、記憶は決して消えない。移動するだけだと思おう。私に関する記憶は、この記憶庫の中で永遠に存在する。それでいいんだ。
でも私は、ふと気になった。先にこの扉を閉めた方がいいんだろうか……とりあえずでもダンジョンが安定するなら……いや、やっぱり深海魚と会って話してからにしよう。
なぜか父親が必死でこの扉を動かそうとしていた姿を想像する……そしてここで力尽き倒れた……どうやって1階まで戻ったんだろう……扉を閉める前に12階に戻ってヴァレンティールに会っておこうか……彼は私がここにいる事を感じてくれているだろうか……。
ちょっと待て。私は髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。とにかく時間が無いんだ。記憶庫の番人が、ダンジョンは夜だけの状態になったと言っていた。皆、冷たい暗闇でどれだけ不安だろう……。
駄目だ、さっきから気が散って仕方がない。早く深海魚と会わないと。
もう一度、地下室を見回した私は、どこからか視線を感じた。え? と思った時、石段の下に座っている黒い子猫に気が付いた。暗黒女王だ! 思わず睨みつけると、子猫はにやりと笑ったような表情を浮かべ、素早く石段を上って姿を消した。慌てて追いかけようとしたけど、考え直す。あの女の後についていったら多分ロクな事にならない。
猛烈に焦ってきた。あの暗黒女王め、ダンジョンでまた騒ぎを起こしているんじゃあるまいな。不安でたまらなくなって、私は思わず大声を出した。
「どこにいるのよ深海魚!
いきなり、どこからか風がごぉっという音と共に吹いてきたと思ったら、天井から物凄い勢いで水が流れ込んできた……少なくとも私にはそう見えた。悲鳴を上げる間もなく私は水に飲みこまれた。ぎゃー! 一応泳げるけどこんな急に水に放り込まれたら溺れる! と焦りながら、目を開けたら私は青い水中にいた。四方八方から光が差し込んでいるような明るさだけど、周囲には何も無い。思わず手足をばたばたさせた私の左腕を、誰かががっしりと掴んだ。え? なんか怪談じみてない? と思いながら私は猛スピードで引き上げられていった。
――塔から飛び降りて死にそうな目に遭ったと思ったら、次は水中で引きずり回されて、全く災難続きだよ。私は目の前のベンチに座っている青年にぼやいた。青年は眉をひそめた。
「そんなくだらない愚痴を聞かせるために、私を呼んだのか?」
良く通る美声だ。え? 誰? ここどこ? 私もベンチに座っている。森に囲まれた小さな広場のような場所だ。鳥の囀りも聞こえる。すぐ横に、可愛い花で縁取られた丸い池があり、水面がきらきらと陽光を反射している。
私は改めて向かいの青年を眺めた。黒いジャケットに黒いズボン。肩に羽織った黒いコートが妙に様になっている。濃い栗色の整えられた髪。鼻筋が通った彫りの深い顔。ヴァレンティールとはタイプの違う、凄い美青年だ。白面の貴公子という古い言葉を思い出す。黒い目の鋭い眼光。あれ、この目は見覚えがある。どこかで散々見た事が……膝上で組んだ繊細な指にも……。
突然思い当たった私は、考えるより先に叫んでいた。
「
相手は全く表情を変えず、長い足を組むと座り直した。
「私は深海魚だ。若い久満氏の姿をしているだけだ。お前が私を呼んだので、そこの池から引き上げた。しかし理解が遅いな。本当に間宮氏の孫か?」
「いや、理解と言われても……」
私は呆然としていた。確かに鱗氏が久満老人も若い時は冷たい感じの美青年だと話してたけど、まさかこんな所で会う事になるとは。偉そうな態度と言葉遣いは、皺だらけの今の久満老人と同じだけど。
いやでも、そもそも、なぜ深海魚が若い久満老人の姿で? 元は深海魚の剥製というから、魚の姿を想像していたよ。混乱している私を、深海魚は思い切り馬鹿にしたように見た。久満老人、若い時もこんな感じだったのか。腹の立つ。
「私が何者か理解したなら、用件を言え」
姿だけじゃなくて喋り方まで一緒だよ! 久満老人との初対面を思い出す。あの時は、派手な口喧嘩になったっけ。今も腹は立てているけど、ぐっと耐える。こいつは久満老人本人じゃないんだ。それに、この姿の方がこっちも遠慮なく話せる。私はお腹に力を込めた。これからが正念場だ。
「では、単刀直入に言うけど。あなたが作ったダンジョンが不安定になり、崩壊しかかっている。だから、作り直すなり何なりでもっと頑丈なダンジョンにして欲しい。無限の記憶庫の扉は私が閉めて、今後本が増えるのを止めるから」
「ダンジョンだと?」
私の訴えを聞いて、深海魚は目を細めた。私は更に言った。
「あと、祖父が久満さんに借りた『お魚たちの朗読会』という題名の手製本がどこにあるか知らない? 私はその本を探して返すと久満さんに約束したから、知っているなら教えて欲しい」
深海魚が考えるような表情を見せた。そして面倒くさそうに溜息をつくと立ち上がった。
「ついて来い」
彼の後についてレンガの小道を歩き小さな森らしき場所を出ると、予想外の光景が広がっていた。
広い道路の両側は、異国情緒のある石造りの家が立ち並んでいる。何だか外国の街並みのようだ。でも人の気配は全くしないし、無人のテーマパークの中を歩いている気分になる。錯覚だろうけど、頭上の青空もずっと低い場所にあって、建物の屋根に登ればすぐに手が届きそうだ。
妙に狭苦しい感じがするな、と周囲を見回しながら歩いていると、やがて道路の突き当りに建つ屋敷の前に到着した。かすかに記憶にある建物。
――祖父の間宮巌の屋敷だ。
大陥没の時に消滅したはずの屋敷が建っているけど、今更もう驚かない。
深海魚はそのまま門を入り、手入れがされたように雑草も生えていない前庭を歩いて屋敷に近づくので、私も後を追う。驚いた事に、屋敷の入り口にはのペンギンが彫刻された扉が無い。ここの扉が、ダンジョン入り口に移動したのだろうか。深海魚は、扉の無い入り口をくぐり屋敷内に入っていく。土足でいいようなので、私もそのまま中に入る。
ほとんど覚えていないけど、屋敷内の廊下にも本棚や積まれた本がたくさんあった筈。でも今は何も無く、がらんとしている。ダンジョンにあった祖父の蔵書庫に運ばれたのかもしれない。私の隣で案内してくれた司書ウサギを思い出す……会いたいなあ、ウサギたち。
深海魚が、廊下の一番の奥の部屋のドアの前で立ち止まった。
「ここが間宮氏の書斎だ。大陥没の時に、唯一残った世界だ」
世界? 私が問い返す間もなく深海魚はドアを開けて中に入り、私も続いた。
さほど広くない室内は、三面がぎっしりと本が埋まった本棚で囲まれていて、残りの一面は大きな書斎机が置かれている。ここの本は、そのままなのか。子供時代に入った事があるはずだけど、やっぱり覚えていないな。
机の前にある窓はカーテンが閉じられているけど、室内は明るい。深海魚は書斎の隅に置かれた古びた感じの椅子に座ると、立ったままの私に言った。
「『お魚たちの朗読会』の手製本はその机の上にある」
胸がドキンとして、そっと机に近づいた。きちんと整頓された机の上に置かれた、鮮やかな青色を背景に踊る魚のイラストに『お魚たちの朗読会』と書かれたタイトル。見たところ、大陥没の時の衝撃や月日の経過を感じさせない。ヴァレンティールが言ってた通りの、きれいな状態だ。
私は小さな本を手に取り、大きく息を吐いた。ようやくようやく見つけた……。
深海魚の方を振り向いて尋ねた。
「この本、私が持って行ってもいいよね?」
「好きにしろ。間宮氏が久満氏に返すつもりで机の上に出してあった本だ」
深海魚はこちらを見ようともしない。とことん不愛想だな。色々うるさく言ってくる久満老人の方がまだマシかもしれない。でもまあこれで祖父の代からの借りは返せる。
そこで私はふと気になって、手製本を机に置くと、書斎を見回して丸椅子を見つけて引き寄せると座った。木製で少し固い。そして改めて深海魚に話しかけた。
「祖父の最期を看取ってくれたのは、あなたなの?」
「そうだ」
「……ありがとう。地底で祖父が一人で死んでいったと思うとたまらなかったから。あなたが居てくれて良かったよ」
深海魚は相変わらず私の方を見ない。
「感謝をする必要は無い。私は間宮氏には長い年月世話になった。だから最後の願いはかなえようと思っただけだ」
「願い? 祖父の願いで若い久満さんの姿になったの?」
「そうだ。間宮氏は大陥没の時にこの書斎で辛うじて生き残った。だが落下時の衝撃で傷つき、崩れた本や書棚に埋もれ、私が甦り目覚めた時は意識は既に
そして、間宮氏は親友である久満氏の名を呼んでいた。自分も若かった時代の久満氏を。だから私は間宮氏の記憶を用いて、若い久満修一郎の姿になった。私を見た間宮氏は喜び、ずっととりとめのない話や、思い出話をそばにいる私に語り続けた」
鱗氏が目撃した光景だ。瀕死の祖父が気を許した存在は、
「間宮氏は徐々に意識を無くし、やがて息を引き取った。私はしばらく経って遺体を書斎から運び出し、葬った」
深海魚は、ようやく私の顔を見た。無表情だけど、少しだけ目が悲しそうだ。
祖父が死んで葬ったのに、どうして深海魚はまだ若い久満氏の姿のままなんだろう? でも理由を尋ねるのは何だか悪いような気がした。
「祖父の最期が安らかだったのは、あなたのお蔭だね。それで、祖父をどこに埋葬してくれたの? その場所をこの目で見たい。本物の久満さん、多分祖父が戻って来るのを待ってるから……本を返す時にきちんと全部伝えたい」
深海魚は、顎で窓を示した。
「カーテンを開けてみろ」
しんみりしたけどやっぱりムカつく、と思いながら立ち上がってカーテンを開ける。庭に墓があるのかな、と予想した私はさすがに驚いた。
窓の外は、青い大海原が広がっていたのだ。
私の背後から深海魚が説明する。
「墓などは無い。遺体はそこから小舟に乗せて、別の地へ送り出した」
司書ウサギが話していた、亡くなったウサギの弔い方だ。この世界では、死者はそうやって送り出すべきなんだろう。なら、それでいい。
私は青い海と水平線を眺めながら、心の中で祖父に別れを告げた。
私はカーテンを閉め、ジャケットを脱ぐと『お魚たちの朗読会』を背中の隠しポケットに入れた。薄くて小さな本で助かったな。そしてジャケットを着ると、再度丸椅子に座った。
「それで、あなたが作ったダンジョンの件だけども」
深海魚が手を上げて私の話を遮った。
「待て。ダンジョンを作ったのは私ではない」
一瞬、目の前がぐらりと揺れたような気がした。
「ええ? いやでも、ダンジョンを作り上げて今も維持しているのは、深海魚だと聞いてるけど。あなたは姿は違うけど、深海魚なんでしょう?」
深海魚は軽くうなずいた。
「私は深海魚だ。だが私が作り上げ守護しているのは、この世界だけだ。ダンジョンを作ったのは別存在の深海魚だ」
「深海魚が2匹……いや2人いたの? 祖父の書斎に深海魚の剥製が2つあったなんて全然聞いてないよ!」
私の焦った声を聞きながら、深海魚は指を組み合わせた。
「剥製の時の私は1つの存在だった。だが、私は2つに分かれた存在になった」
「大陥没の時に、剥製だった私は衝撃で砕けた。本来ならばそのまま消滅する筈だったが、屋敷ごと入り込んだ異世界の力により新しく甦った。だが何らかの理由で存在が2つに分かれた。1つは私、もう1つは<夢>だ。どちらも私だ。だが全く違う存在だ」
「<夢>? それが深海魚の名前なの? 違う存在ってどういう意味?」
「<夢>は自分でそう名乗った。私と分かれ、別の存在として動き、私が作り上げたこの世界を含めてダンジョンを作り上げた。私も力は持っているが、<夢>は様々な世界と繋がり、遥かに強大な力を持っている。私は<夢>の行動とは関係が無い。<夢>の考えもわからない。この世界から出られないので、ダンジョンの状況など把握していない。だからダンジョンを作り変える必要があるならば、お前が<夢>と会って話し合う必要がある。私は何も出来ない」
私は急いで身を乗り出した。
「じゃあ、<夢>はどこにいるの? 教えて! すぐに会いに行くから」
深海魚は首を振った。
「どこにいるかは不明だ。恐らくあちこちを漂っている」
「そんな……深海魚がいると聞いたから、ずっと15階を、ダンジョンの最深部を目指してきたのに」
「この世界もダンジョンの15階だ。少し見え方が違い、あの池で水を媒介にして繋がっている。この世界の守護者として、呼ばれた時に私は応える」
目の前にいる深海魚はダンジョンと無関係……私は完全に気落ちした。やっと、ここまで来たのに……うなだれそうになって、はっと思い出した。
「深海魚。もしかして<夢>って、大きな黒い魚の姿で全身が虹色に光っている?」
「私と分かれた時の姿はそうだった。恐らく今もそのままだと思うが。会った事があるのか?」
「多分。直接じゃないけど、私がダンジョンに入ってから、何度か私の夢に出てきた。祖父に会いたがっていて、戻ってくるのを待っていると話していたけど……夢で会えたのに、実際には会えないなんて……」
深海魚は、考え込むような表情を見せた。
「夢の中に。なるほどな……確かにお前は<夢>と会って話す必要があるようだ。それに考えてみれば、ダンジョンが崩壊すれば、この世界も悪影響を受けるだろう。守護者としてそれは非常に困る」
深海魚は椅子からゆっくりと立ち上がった。
「どこにいるかは不明だが、<夢>を呼ぶ場所は教えられる。だがこの世界からは離れているし、<夢>を呼ぶ方法はわからない。お前が必死で呼んでも<夢>がお前の元に来るかどうかはわからない。それでもいいな?」
私も丸椅子から立ち上がった。
「それでいい。必ず呼んでみせるから」
絶対に、諦めない。
書斎から出て行く深海魚の後を追いながら、私はポケットの中の銀色の鱗を固く握りしめた。