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36:すべての世界と世界のすべて /前編

 私は深海魚の後について、祖父の屋敷を出た。


 少しだけ打ち解けたらしい深海魚が、屋敷内の本や本棚や玄関の扉は、<夢>が持ち去っていつのまにか消えていたと話してくれた。今の世界にある物は、大陥没で破壊されたのを深海魚の力で再生させた。でも最も大切な場所は祖父の書斎だけで、そこ以外は気にならず、再生にはそれなりに力を使うので消えても面倒で放置しているらしい。

 なるほど、ダンジョンの入り口のペンギンが彫刻された扉は、深海魚が再生した物を<夢>が取り付けたのか。大陥没の後で良く無事に残ったもんだと不思議に思っていたけど。

 ちょっと気になった私が、『お魚たちの朗読会』の手製本も再生したのかと尋ねると、あの本は奇跡的にほぼ無事で、表紙の傷を修正したぐらいで済んだらしい。さすが久満老人のお宝本、運が強い。


 口数が増えた深海魚に素早く尋ねる。

「あの念のために聞くけど、私の父親……間宮巌の息子はここに来ていないよね?」

「息子? 来ていない。だがあの男は剥製の私を非常に嫌って、いつも書斎で間宮氏に私の悪口を言っていたからな。こちらとしても出来れば会いたくない人物だ」

「はあ、どうもすみません……」

 冷たい視線を浴びせられて、一応私から謝っておく。確かに、手紙でも深海魚の剥製を大事にしている祖父を悪く書いてたな。となると、魚の姿の<夢>にも会うのを避けられていた可能性はある。大事な存在を怒らせたもんだ、全く。


 祖父の屋敷内には、書斎以外にも大量の本があった。きっと今はダンジョンの蔵書庫にあるんだろう。<夢>はその蔵書を元にして、あのダンジョンを作ったのか。司書ウサギが宣誓に使っていたクソ分厚い『文学史三百年』を書斎内に置いてなかったのは、ちょっと意外だったけど。

 私は歩きながら髪の毛をかき回した。ダンジョンの事はかなり理解できた。でもやっぱり深海魚から分かれたという<夢>が何を考えているのかは、相変わらず良く解らない。

 でも、<夢>が、たった一人で祖父の事をずっと待っているのだけは確かだ……。


 あれ? 私は首をひねった。

 深海魚が祖父を看取って葬ってくれたのに、どうして<夢>は、祖父が戻ってくるのを待っているって言ってたんだろう? 深海魚に尋ねようかと思ったけど、深海魚も<夢>の考えはわからないと言ってたのを思い出し、やめておいた。


 再び門から道路に出る。何となく名残惜しくて、振り返って祖父の屋敷の外観をじっくり見ておく。またこの世界に来る事はあるのかな……。


 石造りの家が立ち並ぶ道路を、さっきとは逆方向に歩く。この街も祖父の記憶から深海魚が作り上げたんだろうけど、異世界の不思議な出来事とはいえ凄いなと感心してしまう。

 すると、きょろきょろしている私の気配を察したのか、珍しく深海魚の方から説明を始めた。

「屋敷の外は、間宮氏が若い頃に留学して暮らしていた異国の古い街の記憶を元に作り上げた。間宮氏の人生で、一番楽しく充実していた日々だった。剥製の私を見つけて購入した骨董品店が、そこの横道にある。そして、親友の久満氏がはるばる尋ねてくるのを楽しみにしていたが、久満氏の方に事情が出来て来られなくなってしまった。それを間宮氏はずっと残念がっていた」

「へえ、そうだったんだ」

 祖父のエッセイ集には書いてなかった話だな。深海魚は足を止め、大きな三階建ての建物を指差した。

「あの家の一角に、若い間宮氏は住んでいた」


 私も足を止めて見上げていると、深海魚が呟くように言った。

「間宮氏の最期の言葉は、あの街をお前と歩きたかった……案内して見せたい場所がたくさんあるから、今度こそ一緒に行こう、と。私は必ず一緒に行くと約束した。私の声が間宮氏に届いたかはわからない。間宮氏はそれきり言葉を発さずに亡くなった。だから私は、私が歩く事の出来るこの街を作った」

 ああ、そうだったのか。それで深海魚は……。私は深海魚の整った横顔に向かって言った。

「あなたが、今も久満さんの姿でいてくれて嬉しいよ」

 深海魚はちらりと私を見てから返事をせずに歩き出し、私は今まで久満老人の悪口を山ほど言ったのを、心の中で祖父に謝った。


 久満老人に必ず『お魚たちの朗読会』を手渡して、祖父の最期の言葉を伝えよう。そして出来れば、深海魚の話もしよう。そう改めて決意してから、少し意識から遠ざかっていたダンジョンの事を思い出して、はっ! となった。しまった、私はこれからどこかで魚の姿をした<夢>を呼ばないといけないのに、肝心の呼ぶ方法がわからない状態なのだ。うう、どうしよう。

 歩きながら素早く悩んだ私は、夢の中の<夢>の言葉を思い出した。そうだ! 私は慌てて前を歩く深海魚の背中のコートを掴んだ。

「何だ?」

 立ち止まって怪訝そうに私を見る鋭い視線にめげず、必死で訴える。

「この世界というかこの街で、ビスケットを手に入れる事は出来ないかな?」

 深海魚はいよいよ怪訝そうな表情を強めた。

「ビスケット? なぜそんな物が必要なのだ」

「夢で、<夢>が、ビスケットを食べるのを楽しみにしてるみたいな事を言ってたんで、ビスケットが手元にあれば<夢>を呼ぶのに役に立つかな、と思いついたんだけども……」

 深海魚はしばらく怪訝な顔のまま考えてから、横手に見える細い路地に目をやった。

「ついて来い」


 深海魚に連れて行かれたのは、雑貨店のような建物だった。路地に面した幾つかの小さな窓や、赤く塗られた扉がお洒落だ。

 深海魚が扉を開けて店内にさっさと入り、私も少しおそるおそる足を踏み入れて、思わず歓声を上げてしまった。店内は見渡す限り、様々な可愛い小物や訳のわからない品物がぎっしり棚に詰められていて、天井からはドライフラワーがたくさんぶら下がっている。カウンターには、様々な色の毛糸玉が盛られた籠が幾つも乗っていて、見ているだけで楽しい。

 こんな店の細々した品物まで、深海魚は全部作ったんだろうか? と感心しながら、チョッキを着た変な顔のウサギの置き物を指で突つく。そんな私を無視して、深海魚は奥の方にある棚に近づくと何かを取り出し、差し出した。

「缶入りのビスケットだ。これは間宮氏が好んで良く食べていた物だ」

 私は慌てて、薄くて四角い金色の缶を受け取った。蓋を開けてみると中には丸いビスケットが詰まっていて、ふわっと甘い匂いが漂ってきた。

「うわーありがとう! 助かった。あ、じゃあ祖父も良くこのお店に来ていたの?」

「そうだ。ビスケットのような焼き菓子や、小さなガラス瓶などを購入していた」

 へえ、祖父じいさんにそんな趣味があったのか。


 流石にビスケットの缶はジャケットのポケットに入らないので、深海魚の了解をとって店内にあった軽い布製のショルダーバッグに入れて、肩から斜めに掛ける。ダンジョン内と同じようにおもちゃの金貨で料金を払うと言ったら、なぜか心の底から嫌そうな顔をされたので、祖父からの贈り物と思ってそのまま貰っておく事にする。<夢>には、祖父の好きだったビスケットと説明しよう。ビスケットが出来立てのような感じなのは深く考えないでおく。


 ビスケットも持ったし、よし! と気合を入れた私を連れて、深海魚は店の外に出ると再び歩き出した。


 森に入り、レンガの小道を歩いてベンチと丸い池のある小さな広場を通り抜け、鳥の爽やかなさえずりりを聞きながらしばらく森の中を進む。段々薄暗くなってきたかな、と感じた時に深海魚は立ち止まった。

「この世界はここまでだ。この道を進めば違う世界に出る。<夢>はその世界のどこかに漂っている筈だ。だから以後は自分で考えて動いて、<夢>を呼べ」

 深海魚が指差す方を見ると、今立っている場所より暗い森が続き、小道がずっと奥で見えなくなっている。境目などは見えないけど、深海魚にはわかるのだろう。

「突然だったのに、祖父の話を聞かせてくれたり本当に色々とありがとう。会えて良かった。じゃあ、これで」

 一度くらい笑顔を見たかったな……私の挨拶に、深海魚は答えた。

「大事な事を言っておく。この道を進む時は、何があっても決して振り向くな。いいな?」

 何だか神話の中の恐ろしい忠告のようだ。私は目をぱちぱちさせてうなずいた。

「わかった。絶対に振り向かないようにする」

 もう少し何か言いたいけれど、上手く言葉が出てこない……突然、深海魚はこれからもずっとこの世界で、一人で、祖父の記憶の街を歩くんだ、と気づいた。でも同情するのも失礼だろう。私は元気に言った。

「落ち着いたら、また来る。15階で呼んだら引っ張り上げてよね」

 深海魚は私の顔を見て小さく溜息をついた。

「私は呼ばれたら応える。いいから、さっさと進め」

 最後にほんの少しだけ、深海魚の表情がやわらいだように見えた。


 私は、ポケットの中の銀色の鱗を握り締め、森の中の道を歩き始めた。

 振り向かなくても、深海魚が私の背中が見えなくなるまで見送ってくれているのが解る……本当に涙もろくなったな私、と思いながらごしごしと顔を擦った。


 それからずい分と長い距離を、ひたすら歩き続けた。

 森の中の道は一本道で迷う心配はないけれど、周囲は薄暗いしほとんど物音がしないので心細くなる。鳥の囀りもいつの間にか聞こえなくなっていた。

 12階で皆と別れて階段を下りたのがずっと昔のようだ。13階から永遠の塔に登り、そこから15階を通って見え方の違う15階を巡って、また違う世界を目指して歩いている。不思議と疲れや眠気、空腹も喉の渇きも無いけど、でも一体どれぐらいの時間が経過しているんだろう。ヴァレンティールやペラグリアや司書ウサギ、ダンジョンの皆はどうしているだろう。会いたくてたまらない。ダンジョンの崩壊は大丈夫だろうか。

でも、今はひたすら進むしかないのだ。そう思いながらショルダーバッグを持ち直した時、前方、道の真ん中に何か置かれているのが見えた。なんと、ダンジョンの通路で見慣れた立て看板である。何でこんな森の中に? と用心しながら近づくと、ちょっとカクカクした文字で何やら文章が書かれている。


 ――あなたの名前は何ですか? 7回唱えておしえてください。


 うーん。どうしよう、と一瞬迷ってから決意した。今さらじたばた出来るか。私は息を吸い込み、数えながら唱えた。

「私の名前は、間宮菜月、間宮菜月、間宮菜月、間宮菜月、間宮菜月、間宮菜月、間宮菜月」


 唱え終わって、緊張しつつしばらく待ったけど何事も起こらない。何だったんだろう? と不思議に思った時、どこからか可愛い澄んだ声が聞こえた。


「まみやなつき、ここから、せかい」

「え?」


 私は、見渡す限りの黄金色の大草原の真っただ中に立っていた。


 しばらく呆然としてから、辺りを見回すとさっきまで歩いてきた森も無い。どこを向いても、黄金色に輝く大草原と、雲ひとつ無い青空とくっついた地平線しか見えない。ここが違う世界? いやでもここからどう進めば? と思った時、私の足元からどこかに伸びる小道に気が付いた。とりあえずは歩いてどこかには行けそうだ。観念して草をかき分けつつ歩き出してから、ふと私の胸元ぐらいまである黄金色の植物に触れてみた。

 これ、草じゃない。ライ麦だ。

 となると私が今いるのは大草原というよりは、超広大なライ麦畑? ……何かそういうタイトルの古典小説があったな……しかし、なんでライ麦畑に放り出されなきゃいけないんだ。

 ぶつぶつ言いながら歩き続けていると、急に小道が白いタイルを敷き詰めたような広い道に変わった。やれやれ、これで歩きやすくなった、としばらく立ち止まって休憩する。

 顔を上げると視界の先、遥か遠くの方に細長い棒のような建築物が見えて、天辺の方は雲に隠れたようになっている。ふと、あれは永遠の塔のような気がした。そういえば階段を上っている途中で黄金色の草原が見えたっけ。あの景色がここだったんだろうか。そういえば私が塔から飛び降りた時に話しかけてきた父親も、こんな場所に立ってたような。

 いや、今はともかく<夢>を呼ぶ方法を考えないとだ。でも、どこまでも続くライ麦畑の中を歩いていると、訳もなく愉快になってきた。

 力を込めて一本だけ引っこ抜き、ぶんぶんと振り回しながら歩く。子供じみた行動が楽しい。


 少し機嫌が良くなって、<夢>さんどこにいるのーなどと呟いた時。少し離れた場所に誰かが立っているのに気づいた。

 細身で背の高い、作業服のような服装の男性。驚いて立ち止まった私に、その人物は近づいて穏やかに話しかけてきた。


「久しぶりだな、菜月。元気そうで安心した」


 私はようやく声が出た。

「お父さん……」


 どこか遠くから、澄んだ鈴の音が微かに聞こえて来た。

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