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38:わたしのライ麦畑

 ランプを掲げた父親の姿を目印に、少し離れて真っ暗闇の中を歩く。


 頭上に広がる満点の星空には、白いぼんやりとした橋のような虹がかかり、時々煌めく流れ星が横切る。地平線の方に、赤色や緑色のレースのカーテンのようなオーロラが揺れている。小さく見えるけど、そばに行けば天空いっぱいに広がっているのだろうか。ポケットの中の銀色の鱗を握り締めながら、ヴァレンティールや司書ウサギにこの美しい夜空を見せてあげたいな、としみじみ考える。


 ふと見ると、ライ麦畑の中に大きな丸い池がある。銀色に光る水で満ちていて、池全体が発光しているようで、風が吹くたびに小さなぽわぽわと煌めくさざ波が立つ。歩きながら眺めていると、父親が立ち止まり、私の方を見て穏やかな声で話しだした。

「美月と菜月と3人で、真夜中にベランダで毛布にくるまって特別に大きく見える満月を眺めていたら、菜月が月を取ってくれとねだるんだ。月と一緒にベッドで寝るんだと言い張って。あれはとても冷たいから、寒くなってお腹を壊すよと言っても、欲しいと頑張るんだ。でもそのうちに私の腕の中で眠ってしまった。私は、月光に照らされた菜月の寝顔をずっと眺めていたよ」

 私も立ち止まって、ランプの灯りに浮かぶ父親の顔を見る。可愛がられた記憶が無いのは、もしかして私が忘れていただけなんだろうか。


「私が家を出たのは、菜月を巻き込みたくなかったからだ」

「……巻き込む?」

「世界を敵視し憎んでいる父親など、菜月のそばにいない方がいい」


 私は思わず大きく息を吸った。何よそれ、と思いつつ父親の過去を思い出し少しだけ腑に落ちた。


 父親は頭が良く、学生時代の成績はずば抜けて優秀だった。だけど規則や教師の指示を全く無視する上に、周囲の人間と衝突しまくり、完全に問題児扱いをされていたらしい。生まれつき心臓病があって、健康に注意しないといけないのに、医者の言う事すら聞こうとしない。無茶を続け、なぜか成人してからはあらゆる治療を断固拒否。ある時、意識を失って倒れて病院に担ぎ込まれたけども、動けるようになったら医療機器や窓をぶっ壊して寝間着のまま脱走する騒ぎを起こして、警察沙汰にまでなった。

 でもその騒ぎがきっかけで、その病院で看護師をしていた母親と知り合ったんだから、奇妙な縁だ。


 父親は、ライ麦畑の細い道に入っていくと銀色の池のほとりに立ち、ランプを消して足元に置いた。父親の姿が淡い銀色の光に照らされる。私は父親の隣に立ち、池を見つめながら淡々と語る横顔を見上げた。


「私の考えを聞いても、理解しようとしなくていい。小さな赤ん坊の菜月を初めて抱き上げた時、私は菜月から離れようと決心した。

 美月にも告げて、彼女も納得してくれた。美月は、敵視するばかりで何一つ出来ない無力な私をずっと守ってくれていた。私は美月に完全に甘え、依存して生きていた。でも菜月は違う存在だ。

 けれど……しばらくは一緒にいたかった。何もいらないが、菜月との思い出だけはどうしても欲しかった。だから美月と菜月と暮らし、心に決めた通り5年経って私は家を出た。菜月が私の事を忘れてくれるように願いながら」


 私はうつむいて呟いた。

「だから、お父さん、私と会いたがらなかったんだ」

「菜月には私の存在を忘れて欲しかった。成長すれば、姿を消した父親の事などどうでも良くなるだろうと思っていたし」

 どこまでも自分勝手な事を言わないで欲しい。私は、手を伸ばし父親の腕を強くつかんだ。

「私に興味が無くて、鬱陶しく思っていたわけじゃ無いんだね?」

「……違う。美月が話してくれる、菜月の成長が何より嬉しかった」

「そっか。良かった」


 もちろん、もっと言いたい事も、なじりたい事も山ほどある。父親の考えは、確かに全く理解できない。家を出ても生活費や私の学費などはずっと母親に渡していたけど、でも無責任な、自分本位の極みの行動だ。

 そうだ、父親は、夫であることも放棄して、妻である母親からも離れていったのだ。定期的に父親と会っていた母親は、悪口を私に言った事はない。でも実は諦めていただけなのかもしれない。

 そして私は、ずっとずっと父親の帰りを待っていた。ずっと寂しかった。私を守るためって、私は捨てられたと思い、父親を許せず、深く恨む娘になりかけたのだ。

 私が何とか恨まずにいられたのは、いつも快活で、そしてずっと父親の事を大好きだった母親のおかげだ。


 だけど、時は戻らない。

 この世界で会えて話せたけど、父親はもう死んでいる。

 父親は、行動は理解出来なくても、私を大事に思ってくれていた。5歳までの私を可愛がり、離れてからはその思い出を忘れないでいてくれた。もう、それだけでいい。

 胸の奥に残った何かは、ずっと消えないかもしれない。でも、もういい。


 星空が薄紫色になり次第に星が見えなくなっていく。夜明けが近いのだろうか。

 父親は、ランプを銀色の池にそっと投げ込んだ。ぽちゃんと音がしてから、ランプは沈んでいった。

「太陽が戻って来る。さあ、進もう。多分あと少しだ」

 ……別れが近づいている。


 少し明るくなってきた空の下、父親と並んで歩きながら、家を出た後の話を少しだけ聞いた。

 昔よりは周囲の人たちと何とか上手くやれるようになり、株やコンサルタントの手伝いのような少々怪しげな仕事で稼いでいたらしい。なんか父親らしいな。

 そのうちに知人が増え、誘われて様々なコミュニティに参加し、共同で大きな工場を借りて機械の整備や改造をやったり、妙なおもちゃをコレクションしたり、そんな道楽な日々は充実していて楽しかったとの事。楽しかった、と聞いていささか面白くはないけど、少しだけ安堵もした。


「だからお父さん、ずっと作業服姿なの? 最後に会った時もその姿だったね。古い倉庫みたいな所で訳のわからない物がいっぱいあったけど」

「動きやすいから気に入ってるんだよ。菜月は興味が無いだろうから、倉庫は丸ごと知人に譲ったけど……そういえば、コミュニティの皆とカラオケに行った時もこの服だったんで、さすがにちょっとはお洒落してくれと文句を言われたっけなあ」

「そりゃそうかも。カラオケといえば、ダンジョンの鱗さんの古本屋にいたエルフに歌を歌って聴かせたんでしょう? お父さん歌うの好きだったの?」

「美月のカラオケに良く付き合っていたから、嫌いじゃないよ。エルフの名前は確かヴァレンティールだったか。ウクレレの演奏と歌が上手くて感心したな。頑固だが素直で良い青年だったけど、菜月は気が短いから、あまり彼に無茶を言って喧嘩をしないようにな。種族が違うと考え方も違うだろうし」

「気が短いは余計……って、ちょっと待って、なんで喧嘩するような仲ってわかるわけ!?」

 父親はおかしそうに笑った。

「そりゃ、菜月の表情とか話し方を見てたらわかるよ」

 ううう、恥ずかしくて赤面してしまう。しかしつくづく観察力があるな。ヴァレンティールの姿を見るなり笑ったらしいのは、不問にしておく。

 一応彼との経緯を話しつつ、無限の記憶庫の扉を閉じたらヴァレンティールも父親の事を忘れてしまうんだ、と思い出して胸がぎゅっと痛む。いや今考えちゃ駄目だ。

 その時、気になっていた事を思い出した。少し聞きづらいけど。


「お父さん。あのさ、15階に下りる途中で、13階に大きな扉があるのは見かけた?」

「ああ、あったな。別の世界に繋がっているのかと思って開けはしなかった。体調を考えたら、ダンジョンから離れたくなかったし菜月の話を聞くと正解だったな。私じゃとても塔の頂上までは行けなかっただろう……番人には会ってみたかったけど、まあいつか機会もあるだろう」

「14階で、暗黒女王が出入りしていたらしい、裂け目とか見かけた?」

「いや。あの階は通路が曲がりくねっていたし、迷ったら困るから奥までは行かなかった」

「ふうん。で、15階の無限の記憶庫の扉を閉めようとして……その時、倒れたんだよね」

「うん」

「私も15階を通って来たけど、具合が悪かったのにどうやってダンジョンの1階まで戻れたの? ずっと長い階段を上らないといけないし、それに階段が移動してとにかく面倒だったじゃない。通路もとんでも無い距離を歩かされるのに。何か特別な方法でもあったんなら教えて欲しい」

 父親はあっさりと答えた。

「方法というか、実は、暗黒女王に1階まで連れ戻してもらったんだよ。あっという間だったので助かった」

「はあ!? あの女に!?」

 私は思わず大声を出してしまった。紫色の瞳と、暗闇に浮きながらニヤニヤ笑っていた表情を思い出す。

 空が明るくなって、薄紫色から薄水色になってきた。


「15階まで行ったのは2回だ。1回目は離れた場所から扉だけを観察した。暗黒女王から話を聞きだす前だったから、とても警戒したよ。狭い部屋なのに、どこからか妙に強い風が吹いていたのが不思議だった。

 2回目は、ずっと後、最後の日に扉を閉める為に行った。もう体調はかなり悪くなっていたし用心して準備はしていた。扉を閉めてすぐに12階まで戻って、鱗さんに事情を打ち明けて、念のために1階の扉まで同行してもらうつもりだったんだよ。

 だけど、見込みが甘かった。扉に手をかけて力を込めた途端に倒れて動けなくなって……多分、菜月の言ってた、記憶庫から流れ出ていた妙なエネルギーに耐えられなかったんだろうな。

 しかし流石に困ったなと思った。このままダンジョン内で死んだら、ただの行方不明で菜月に遺産を遺せない。私の死体が無いからな」

「死体って……」

 本人を目の前にして私は何だか困ってしまったが、父親は冷静だ。


「後で菜月が私の死体や骨を見つけても、ただの物体だからダンジョン外へ持ち出せない。どうしようと考えていたら、黒い子猫が私を覗き込んだ。気配を察して、暗黒女王が14階から面白がって近寄ってきたんだ」

 そういえば、父親は無力で倒れたとか何とか言って私を怒らせたな。私が記憶庫の扉の前に立っていた時も、黒い子猫の姿で笑っていた。同じ血縁者の娘がまた何かやってる、と考えてたのかも。腹の立つ。


「そこで、私は1階まで連れて行ってくれと頼んだ」

「頼んだって、そんな無茶な」

「暗黒女王はな、陰険だけども実は好奇心が恐ろしく強いんだよ。案の定、死にかけの血縁者を運んで助けてやる、というのが気に入ったらしい。そこで暗黒女王は、代わりに取引を持ち掛けた。私は了解し、1階まで戻る事が出来た。どうやったのか、全然苦しくも無かったよ。私を案内処の前に放り出したら、さっさと姿を消したけど」

「取引って、何を取引したの?」

 父親は愉快そうな笑顔で私を見た。いたずらっ子のような表情だ。

「それは内緒だ。内容は誰にも言わないと約束したから、そこは守らないと。だけど菜月がまた会ったら尋ねてみるといい。エルフの王女が追い払うと言ってるんだろう? その時に質問すれば答えるさ」


 そんな、自分が死んだ時の話を楽しそうに……と溜息をつきつつ、ペラグリアを思い出していつものようにポケットの銀の鱗を握り締めて、ぎくりとした。

 いつもはほのかに温かい鱗が、氷のように冷たい。突然、猛烈に嫌な感覚で背筋がぞくりとして身体が震える。


 ――ダンジョンで何かあったんだ。まさか、この鱗で私の動きを追ってくれている筈のヴァレンティールが怪我でも……。


 鱗を握り締めたまま立ち止まってしまった私の様子に気づいた父親が、私の顔を覗き込んだ。

「どうした? 気分が悪いのか?」

「……違うの……ダンジョンでまた大きな異変があったみたい……なんかわかって……」

 どうしても上手く言葉が出てこない。父親も少し心配そうな表情になった。

「そうか。もうすぐこの世界の終わりだ。ゆっくりでも歩けるか?」


 この世界の終わりは、父親との別れだ。

 突然、私は絶望的な気分になって父親に涙声で訴えていた。


「お父さん、どうしよう……! 間に合うのかな……お父さんと別れて……それにダンジョンを助けても皆が私を忘れてしまう……ヴァレンティールも……耐えられないかも……あそこで一人で……」

 父親が穏やかな仕種で肩を叩いてくれる。その手は暖かだ。

「菜月、焦らずに落ち着きなさい。必ず間に合うから。けれど皆が忘れるとはどういう事だ?」

 私は、永遠の塔で記憶庫の番人から言われた事を泣きながら、切れ切れに父親に話した。

「さっきは……言えなかった。それに例え忘れられても仕方ないと覚悟してたから……でも何だかやっぱり……」

 涙が止まらない私を見つつ、しばらく黙っていた父親がきっぱりと言った。

「大丈夫だ。扉を閉めて積ん読本が全て消えても、ダンジョンの誰も菜月の事を絶対に忘れない。だから、やるべき事を見失わずにやればいい」

「……そりゃ確率は半分ぐらいかもだけど……絶対って」

「絶対だ。菜月、皆は菜月がダンジョンを救うと信じて帰りを待っているんだろう?」

「……うん……」

「だから大丈夫だ。菜月も皆を信じればいい」

 父親の言葉を聞いているうちに、気分が落ち着いて涙が止まった。

「……うん」


 司書ウサギの言葉を思い出す。

 ――血縁者を信じて、我々が今やれる事を全力でやっておく。それしかない。

 私もダンジョンの皆を信じて、今の私の全力を出すしかない。

 私はぐずぐず泣きつつも、顔をこすった。


 ようやく泣き止んで、父親と並んで歩き始めたら、いきなり周囲が明るくなった。

「太陽が戻ってきたな」と父親が呟く。頭上の空は、雲一つ無い鮮やかな青空だ。地平線に大きな虹が何本も見える。強い風が吹き、黄金色のライ麦の穂が揺れて気持ちのいい不思議な音をたてる。


 無言で歩き続け、しばらく経った頃に父親が立ち止まった。

「ここまでだ。ここから先は、菜月だけで進まないといけない」

 私も立ち止まった。白いタイルを敷き詰めた道が、少し進んだ所から灰色の広い道になっていてライ麦畑の中をどこまでも続いている。


 私は、息を吸った。

「これで、お父さんとはお別れなんだね」

「そうだよ」

 父親の声は平静だ。

「……またいつか会える?」

「わからない。でも菜月のことだ、きっと上手くやれるよ」

 父親の言葉に少し違和感を感じる。少しだけ、会話の内容がずれたような。世界の終わりだからだろうか。


 私は、父親の顔をじっと見てから、首に巻いていたマフラーを外した。

「これ、首に巻いててよ。お父さんも寒がりなんでしょう。冬になったら、いつもお母さん、お父さんがちゃんと暖かくしてるか心配してたから」

「……そうだったな。じゃあ貰っておくよ」

 少ししゃがんでくれた父親の首に軽くマフラーを巻きつける。私のお気に入りのマフラー。私から父親への最初で最後のプレゼントだ。

「ああ、暖かいな」


 父親はマフラーに触れながら背を伸ばした。

「この世界のライ麦畑を見て嬉しかったよ。菜月が覚えていてくれたんだと」

「え?」

「家を出る前の晩、眠らずにずっと菜月の寝顔を見ていた。深夜に菜月が目覚めて、トイレに行きたいというから連れていって、寝かしつけてやろうとしたら、何かお話をしてとお願いされた。

 だから即興で物語を話してやった。私は、子供の頃からずっと広いライ麦畑の眺めが大好きだったから、ライ麦畑を全力で駆ける勇気ある女の子のお話を。美月と菜月の2人に。話しながら、ずっと菜月と美月の手を握っていた。聞きながら菜月は眠ってしまった。美月は……少し泣いていた」

 私はすぐに返事が出来なかった。そうだったのか、それで不思議とライ麦畑を見て楽しい気分になったのか。

「……全然覚えていなかったけど、でも、ライ麦畑が私の原風景だったんだ」

「そうみたいだな」

「じゃあさ、一緒に聞いてたお母さんもライ麦畑のどこかにいるんじゃない?」

「どうだろう。でもいつかどこかで会えるかもしれない。美月だけには謝りたいからな」


 妙な事に、父親の言葉や存在感が現実的でないというか、薄れてきたような感覚に包まれた。言いたい事を今言っておかないと、絶対に後悔する。私は父親を見上げた。

「私、ずっと会いたかった。だから、無意識に呼んだんだろうな。会えて嬉しかったよ」

 私は父親に近寄ると、胸に抱き着いた。ふわりと暖かい。

「お父さん。大嫌いだけど、大好きだよ。これからは、きっとずっと、大好きだよ」

 父親はそっと私を抱きしめてくれた。

「菜月。私は、ああいう風にしか考える事が出来なかった。ああいう風にしか生きられなかった。私が正しいか間違っていたかはわからない。でもこれだけははっきりと言える。私は菜月の父親になれた事を感謝している」

 また涙がぼろぼろと出てきた。


「大丈夫、菜月なら必ず上手くやれる。頑張れ」

「……うん……頑張る……」

 初めて父親に真っ直ぐに励ましてもらえた。


 突然、私から父親の身体の感触が消えた。顔を上げると、少し離れた場所、ライ麦畑の中に立って私を見ている。首には私のマフラー。優しい声がはっきりと聞こえた。


「さあ行きなさい。私の娘」


 私はしばらくそのまま立ち止まって父親の姿を目に焼き付けてから、背中を向けて前に歩き出した。

 足元の白い道が、灰色の広い道に変わる。その時、またあの澄んだ声が聞こえた。


「まみやなつき、ここまで、せかい」


 私は泣きながら、何かに向かって叫んだ。

「うるさい! 言われなくてもわかってるよ!」


 早足で、どんどん歩く。何かにつまづいてこけそうになる。それでもひたすら歩いた。私はもう泣きやもうとは思わなかった。ショルダーバッグを胸に抱え、わんわん泣きながら歩いた。


 周囲の黄金色のライ麦畑が涙でぼやける。なんだか全てが銀色に輝いて、空からキラキラした何かが目の前に降ってくる。でも私は気に留めなかった。


 これからどんな世界だろうと、私は進む。

 私の中で、父親の最後の言葉が何度も何度も響いていた。


 ――さあ行きなさい。私の娘。

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