朝食を終え、洗濯機を回して家を出る。洗濯物は透さんが干してくれるし、掃除機も透さんがやる。
僕の家事負担は、食事の用意が中心だった。
四月の終わり。
世の中はゴールデンウィークらしいけれど、大学は普通に講義がある。
講義を取らなくてはいけない時間数が決まっているから、連休であっても休みにできないからだ。
透さんの家から大学までは歩いて十五分程だ。
僕の家からよりもずっと近いから、僕が透さんの家に居候する口実にもなっていた。
両親はいい顔をしないけれど。
『兄貴、連休は帰って来るの?』
四つ下の弟、蒼夜からそんなメッセージが届く。
きっと親に言われたんだろう。
両親と僕は、今冷戦状態だ。 だから連絡はとっていないし顔も合わせていない。
その理由のひとつは、僕が宮司になるための大学にいかなかったからだ。
千年を超える由緒ある神社であるため、僕は子供の頃から必然と神社を継ぐように言われて育ってきた。
けれどストーカー被害の時の親の対応や、当たり前のように親の言いなりになると思われていることに反発し、僕は関係ない大学の、関係ない学部を選んだ。
あの時、少しでも僕と向き合ってくれたらこうはならなかったのに。
一度できたこの溝が埋まることはないだろう。
『大学生はゴールデンウィークも講義があるし帰らないよ』
そう弟に返すと、驚いた顔のスタンプが返って来る。
『まじで? いつ休むんだよ?』
『土日は休みだよ』
とだけ返す。
『そうなんだ。じゃあ帰ってこねえよな。わかった』
そこでメッセージのやり取りは終わる。
今日は四月二十九日火曜日。昭和の日、と呼ばれる休日なので透さんの家がある商店街には人通りが多かった。
シャッターが下りる店が多いけれど、市の方針で開発が進みおしゃれな店が少しずつ増えていた。
そんな通りを歩き、僕は大学へと急いだ。
一限目から四限目までみっちり 講義を受けて帰宅する。
帰宅の先はもちろん透さんの家だ。
「ただいま」
まだ太陽は西の空に沈みきっておらず、室内はオレンジ色に染まっている。
玄関に靴がある、ということは透さんは家にいるはずだ。
そう思い、僕は室内へと急いだ。
リビングに透さんの姿はない。というと自分の部屋だろうか。
夕食はいるのだろうか。
彼の部屋に行こうか悩むと、足音が近づきそして、透さんが姿を現した。
黒い上下に、黒いトートバッグ。
透さんはいつも黒い服を着る。
そして手にはめた指なしのグローブ。
漂う、たばこの強い匂い。
透さんはヘビースモーカーだ。
だからたばこの匂いが纏わりついているのはいつものことだった。そして僕はたばこの匂いが苦手だ。自分は吸えないし、家族も吸わない。
だけど透さんの匂いだけは嫌じゃなかった。
彼は僕の方を見ると微笑み言った。
「おかえり、緋月」
「はい、ただいま。あの、お仕事ですか?」
尋ねると、透さんは頷く。
透さんの仕事は夜が中心だ。
夜はこの世ならざる者の時間。妖怪や幽霊が動くからだ。
「あぁ、うん。緋月は明日も大学だろう?」
「はい、そうですけど」
そう答えた僕の肩に透さんの手が触れる。
僕よりも十センチ少々低い透さんは僕を見上げて言った。
「だから早く寝なよ。俺の帰りを待つ必要はないんだから」
「……」
ばれていることに、内心驚いた。
僕はいつも、透さんが帰ってくるのを待っている。
十二時を過ぎるまで、と決めて。
それには理由がある。
透さんがちゃんと無事に帰ってくるのか心配だから。
透さんの仕事は危険が伴う。
幽霊や妖怪の中には危険なものがいて、人に危害を加えるものがいる。
怪我だけで済めばいい。だけど死ぬこともあり得る。
透さんは腹を貫かれて死にかけたこともあるし、肩を噛まれたり足を斬られたこともある。
そんな大きな怪我をすることはそうそうないけれど、透さんが怪我しそうなときは必ず僕は大きな不安に心を支配された。
大丈夫だろうか。透さん、ちゃんと帰ってくるかな。
「じゃあ、行ってくる」
「透さん」
思わず僕は横を通り過ぎようとする透さんの腕を掴む。
すると彼は振り返り、不思議そうに僕を見る。
呼び止めたものの、何を言ったらいいかわからなかった。
思わず目が泳ぎ、けれど腕を掴む手には力がこもる。
透さんが黒服を着るのは血が目立たないように、だ。
たとえ怪我をして帰ってきても、僕に心配させないように。
そんな気遣いいらないのに。
僕の不安を感じ取ったからだろうか。
透さんはこちらを振り返って僕の顔を両手で挟む。
「大丈夫だよ、緋月。俺はちゃんと毎日帰っているだろう?」
「そ、それはそうですけど」
わかってはいるけれど、それでも透さんが仕事に行くのはいつも心配でしかたないんだ。
今日も無事に帰ってきますように。
そう強く願うけれど、胸騒ぎは消えることがなかった。
「行ってらっしゃい」
なんとかそう言葉を紡ぐと、透さんは微笑み言った。
「あぁ、また明日、緋月」
そして透さんの手が離れそして、僕に背中を向けた。
透さんが、玄関へとつながる扉を開き、その向こうへと消えて行く。
僕はしばらくの間、じっと扉を見つめていた。