目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第27話 「堕とす者」フェルズ

 紺の王国と緑の公国は、それぞれの立場で、黒の帝国との決戦に向けた準備を着々と進めていた。

 キッドが立案した作戦は、極めてシンプルかつ大胆なものだった。

 まず、緑の公国が西側から帝国領へ侵攻し、帝国第二の都市を目指して進軍する。黒の帝国が最も警戒しているのは緑の公国であり、帝国は主力戦力をこの迎撃に振り向けることが予想される。

 その隙を突き、紺の王国は南から進撃し、守りの手薄となった帝都を一気に攻略する。

 ――これが、キッドが提案し、ジャン公王とルルー王女が共に賛同した二正面作戦の全貌だった。


 この作戦の成否を握るカギは、二つの条件にかかっていた。

 一つは、緑の公国が帝国主力を相手にどれだけ持ちこたえ、引きつけ続けられるか。

 もう一つは、帝都に残された兵力を突破し、紺の王国軍が速やかに帝都へ到達できるかどうか。

 いずれか一方でも破綻すれば、全体の戦略が瓦解しかねない。危うい綱渡りであったが、両国が帝国に勝利するためには、もはやほかに道は残されていなかった。


 そして、ついに決戦の日が訪れる。

 準備を終えた緑の公国軍は、満を持して黒の帝国領への侵攻を開始。ジャン公王自らが率いる四千の兵が、帝国第二の都市を目指して進軍した。


 一方、迎撃に現れたのは、帝国四天王のうち二人――

 「帝国の剣」ソードが率いる三千、「堕とす者」フェルズが率いる三千。

 計六千の兵が、ジャンの軍を迎え撃つべく、帝国の誇る精鋭達が動いた。


 両軍は、帝国第二都市にほど近い大河を挟んで対峙する。

 ジャンはこの地を戦場に選んだ。

 川幅は広いが、流れは緩く、水深も浅い。歩いて渡れる程度ではあるものの、進軍には一定の妨げとなる。とはいえ、わざわざ迂回するには時間がかかりすぎ、帝国軍にとっても第二都市を危険に晒すことになるだろう。

 地形的には若干の不利を攻め手が被るものの、両軍にとって決して無視できない戦略上の要衝であった。


 ジャンにとって、今回の作戦で最優先すべき目的は、敵主力の撃破でも都市の制圧でもない。敵をここに釘付けにし、時間を稼ぐこと。

 そのために彼は、持久戦に耐える準備を入念に整えていた。


 本来、攻めの戦術を得意とするジャンだが、防衛戦においても一流であるという自負があった。たとえ相手が、四天王のうち二人であろうとも――


「全軍に伝えよ! 敵の動きから目を離すな。万が一にも、河を越えさせるな。――そして、もし奴らが引くような素振りを見せたら、こちらから攻めかかる準備も忘れるな!」


 緑の公国にとって、ここでの敗北は許されない。

 だが同時に、敵に「戦意なし」と判断され、引かれることもまた避けねばならなかった。

 どれほど不利であっても、帝国軍をここに足止めし続ける――それが、ジャンの使命だった。

 そのとき、兵の一人が息を切らしながら駆け寄ってきた。


「公王! 報告があります!」

「落ち着け。何があった?」


 慌てる兵士とは対照的に、ジャンは平然とした態度で問い返す。敵の動きに変化はない。進軍が始まった様子も、ない。


「はっ! 帝国四天王の一人、フェルズが対岸で、公王を名指しで呼んでおります!」

「……何?」


 ジャンの眉がわずかに動いた。理解しがたい報告だった。だが、相手は敵将の一角。無視すれば士気に影響する可能性もある。


「それで、フェルズは何と言っている?」

「それが……『公王を呼べ』としか言っておらず……」


 ジャンは、キッドとミュウから「帝国の剣」ソードや、「帝国の魔女」エイミの実力について、すでに聞いている。フェルズと顔を合わせるのはこれが初めてだが、同じ四天王である以上、侮れない相手であることは間違いない。

 とはいえ、時間稼ぎになるのなら、応じる価値はある。


「……わかった。俺が直接行こう」


 ジャンは対岸にフェルズがいるという川岸へと向かって歩を進めた。




 川の手前にたどり着いたジャンの目に飛び込んできたのは、黒地に金の意匠を凝らした甲冑をまとった騎士の姿だった。長い金髪、整った顔立ちの男――

 噂に聞く、帝国四天王「堕とす者」フェルズである。


「俺が緑の公国の公王、ジャンだ! フェルズ卿よ、俺に用があるのなら、兵を率いてこちらへ攻め込んでくるがいい!」


 ジャンは堂々とした声で呼びかけ、敢えて挑発の意図をにじませた。

 このやりとりは、両軍の兵士達も注視している。王として、無様な姿は晒せない。


「ジャン公王! お初にお目にかかる! 俺は帝国四天王が一人、フェルズ! 貴殿を呼んだのはほかでもない! 俺と一騎打ちで勝負を願いたい!」

「……一騎打ちだと?」


 ジャンは思わず声を漏らす。様子をうかがっていた兵士達にも動揺が走った。


「もし俺が敗れたなら、俺が率いる三千の兵は、すべてそちらへ投降しよう。さすがにソードの部隊までは無理だが、それでも帝国軍の戦力は半減することになる――どうだ、公王?」


 一軍の将が軽々しく口にするような言葉ではなかった。

 だが不思議なことに、フェルズの背後に並ぶ兵達に動揺の色はなかった。むしろ、ざわめき始めたのは緑の公国の兵達の方だった。


(正気か……? これが「堕とす者」フェルズ……)


 フェルズは、戦場における一騎打ちで無敗を誇る猛者だった。

 圧倒的に優勢な状況でも敵将を呼び出し、一対一の決闘を挑み、それでも勝ち続けてきた。その数々の勝利が評価され、彼は四天王にまで上り詰めたのである。

 どれほどの猛将であろうと、一騎打ちであれば必ず打ち倒す――

 そうして得た二つ名こそ、「堕とす者」。


「ジャン公王は、武勇高き騎士として名高い。ならば、この俺と手合わせ願いたい! もし俺が勝ったとしても、そちらに全面降伏しろなどとは言わぬ。いただくのは、公王の首ただ一つ! その後、改めて戦いを続けてくれて構わん!」


 一見、公国に有利な条件に思える。だが――

 公王が討たれた時点で、その軍は、国は、終わる。

 フェルズは四天王であれ、一人の将に過ぎない。

 公王たるジャンの命と釣り合うはずもない。

 理屈では、受けるべきではないとわかっている。だが、兵士達の心情は別だ。

 ここまで堂々と挑まれ、それでも受けないのか――という失望が、士気に影を落としかねない。


「都合の良いことを言って俺を呼び寄せ、騙し討ちを仕掛けるつもりであろう! そのような手には乗らん!」


 ジャンは、ただ怖れて逃げたのではないという印象を与えるため、敢えて敵の策を見抜いたかのように答える。だが――


「ならば、俺一人でそちらの陣へ向かおう! それなら問題はあるまい!」


 その発言は、軍を率いる将としては到底あり得ないものだった。

 一人で敵陣に乗り込むなど、討たれて当然の愚行だ。

 だが、そんな無謀とも思える提案が、ジャンの胸を確かに騒がせる。


(……俺が公王でなければ。いや、せめてこの戦況でなければ……)


 血が沸き立つ。あの男と剣を交えたい。

 かつての自分であれば、迷わずこの申し出を受けていただろう。

 今の自分が、その衝動に抗わねばならない立場であることが、何よりも苦しい。

 ジャンはもう「騎士ジャン」ではない。「公王ジャン」なのだ。

 そして今、彼が何よりも優先すべきは、目の前の敵を倒すことではない。

 キッドの策――その中核を担う自分の役割を、確実に果たすことだった。


「くだらん! そのような道化に、俺が付き合うとでも思ったか! 俺の首が欲しければ、正々堂々、兵を率いて攻めてくるがいい!」


 言い放つと同時に、ジャンは踵を返す。背を向けたまま、川岸から離れていく。

 これ以上あの男と言葉を交わせば、決意が揺らいでしまう。

 己の武人としての本能が、王としての理性を上回りかねない。


(……俺の役目は、この場に敵を留めること。己の我を通すわけにはいかない。……キッド、お前に託された役割は果たしてやる。だから――必ず帝都を落とせよ)


 ジャンは自分に言い聞かせるように奥歯を噛みしめ、荒々しい足取りで本陣の天幕へと戻っていった。




「……やっぱり、乗ってはくれないか。残念だが、仕方ないな」


 対岸からジャンの背中を見送ったフェルズは、肩をすくめ、ひとりごちた。


「相変わらず、好きに動いているな」


 背後からかけられた声に、フェルズが振り返る。

 そこに立っていたのは、フェルズ軍の隣で陣を敷いているはずのソードだった。


「なんだ。わざわざ嫌味を言いに来たのか?」

「まさか。むしろ礼を言うべきかもしれん。貴公のおかげで、敵陣に動揺が広がっている。この機に乗じて、一度攻めてみようと思ってな。そちらの軍も、歩調を合わせてくれ」

「いいぜ。あんたがそう言うのなら、合わせよう。ただし、ジャン公王と一騎打ちができる機会があれば、先に挑むのは俺だからな」

「好きにしろ」


 ソードは興味なさげにそう答え、すぐに踵を返す。

 一騎打ちには全く関心がないという態度だった。


「……俺としては、『帝国の剣』とも一度、本気で手合わせしてみたいんだけどな」


 フェルズがつぶやくように言うと、ソードは振り返ることなく淡々と答えた。


「味方同士で、本気を出す意味がない」


 そのまま、ソードは遠ざかっていく。


「どちらが帝国最強の騎士か、はっきりさせておきたかったんだがな……残念」


 フェルズはため息をつき、その背中を目で追いながら肩をすくめた。

 稽古では何度も剣を交えてきたが、ソードは決して本気を見せなかった。

 斬る気のない剣に、命のやり取りは生まれない。

 ――命を懸けた真剣勝負。それこそが、フェルズの求める唯一の戦いだった。

 敵味方の区別など、彼にとってそれほど重要ではない。

 たとえ相手が帝国四天王の同胞であっても、本物の剣でぶつかり合えるなら、それは望むところだった。

 だが今、フェルズの目は別の目標を捉えている。

 ――緑の公国の公王ジャン。

 武の力によって国の頂点にまで至り、王でありながら戦場に立つ騎士でもある。そんな男と、命を懸けて剣を交えられるのなら――これほど心躍る相手はいない。


「ジャン公王……あんたとの一騎打ちの機会が来ることを願ってるぜ」


 フェルズは口元に不敵な笑みを浮かべ、緑の公国の本陣を見据えた。




 やがて、河を挟んで睨み合っていた帝国軍の陣が動き出す。

 ソード率いる三千、フェルズ率いる三千――黒の帝国が誇る二将の兵が、一斉に渡河を開始。

 ついに、戦端が切られた。


 その頃――

 帝国の西で緑の公国軍が帝国軍の注意を一身に引きつける中、その隙を突くように、紺の王国軍はすでに帝国領内への侵攻を開始していた。

 すべては、あの若き軍師の描いた戦略通りに――


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?