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第26話 限界を超えて その2

(せめてミュウだけでも!)


 キッドは目を固く閉じ、竜王のブレスが降り注ぐまでのわずかな時間の中で、ただそれだけを願った。


 ――だが、いつまで経っても、熱も痛みも襲ってこなかった。


 不審に思い、そっと目を開ける。すると、そこには想像していた灼熱の地獄など存在せず、ただまばゆい光が辺り一面を覆っていた。


「……なんだ、これは?」


 呆然とつぶやきながら、キッドは光の中に立つ巨大な影へと視線を向ける。

 竜王の口から溢れ出しているのは、鉄をも溶かす灼熱の炎ではなく、熱のない光の輝きだった。


「竜王よ、この光は一体……?」


 問いかけに応じるように、竜王の低く響く声が優しく空気を震わせた。


『これは竜王の祝福ブレスだ』

「……祝福ブレス?」


 信じられない思いで、キッドは己の身を確認する。

 確かに今、自分たちに降り注いでいるのは炎のブレスではなく、癒しに満ちた祝福ブレスだった。失われていた体力、精神力、魔力が、まるで泉から溢れ出す水のように体の奥底から蘇ってくる。


『見事な戦いぶりだったぞ、魔導士たちよ。我がここまでの傷を負ったのは久方ぶりだ』


 竜王の声には、もはや敵意の色はない。そこにあるのは、誇り高き戦士に向けた敬意の響きだった。


「……もしかして、俺たちは竜王に認められたのか?」

『うむ』


 キッドはようやく「竜王の試練」を乗り越えたのだと理解した。

 だが、キッドの胸に喜びは湧いてこない。

 代償があまりにも大きすぎた。

 キッドは気を失っているミュウの姿を見つめた。

 彼女の腕に目を向けた瞬間、耳に蘇るのは、先ほど聞いた凄まじい断裂音。あんな音を、人の腕から聞いたことがない。医学には詳しくないが、それでもわかる。もう、元には戻らない。剣士どころか、日常生活さえまともに送れるかどうか――


「ミュウの腕はもう……」


 キッドは震える声でつぶやきながら、そっと彼女の腕へと手を伸ばした。


「――――?」


 触れた瞬間、違和感が走る。

 先ほど抱きしめたとき、ミュウの腕はまるで命の抜けた人形のようにぐにゃりとした感触だった。しかし今、キッドの指先が触れたミュウの腕からは、確かな筋肉の張りが感じられる。


「……これは?」


 驚きに目を見開くキッドに、低く響く声が答える。


『その娘の腕は我が治しておいた。あれほどの腕をここで失うのは惜しい。……それにしても、無茶をする娘だ』


 竜王の言葉に、キッドの胸がざわめく。人間の魔法では決して成し得ない奇跡――それを、この竜王はミュウに触れることなく成したというのだ。

 もはや神の御業とも言える竜王の祝福ブレス。キッドの体力や魔力を回復させたあの光は、ミュウの壊れた腕すらも癒していた。


「……竜王よ、ありがとうございます」


 キッドは、深く、深く、頭を下げた。


『負傷の治療はただのおまけだ。竜王の試練を乗り越えた褒美をまだ授けてはおらぬ。……魔導士よ、お主の望みは我の力を借りた魔法であろう?』


 キッドは自分の願いをまだ口にしていない。それでも、竜王にはすべて見透かされていた。


「はい、その通りです」

『ならば、その望み、叶えよう』


 竜王の黄金の瞳がキッドを射抜く。

 次の瞬間、キッドの体が金縛りにあったかのように動かなくなった。

 意識の奥深くに、何かが流れ込んでくる。


(……これは?)


 視界が暗転し、脳裏に鮮烈なイメージが広がる。


(これは……竜王の炎のブレス……いや、違う。だが、似ている……。これは……魔法の構築?)


 言葉にできぬほどの情報が、一気に押し寄せる。燃え盛る炎、旋風のような魔力の流れ、世界を貫く竜の咆哮――それらが組み合わさり、一つの魔法として形を成していく。

 キッドは理解した。

 それは、竜王の霊子の力を借りた魔法の完全なイメージ。知識としてではなく、感覚として、魂の奥底に刻み込まれた。


『魔導士よ、お主の霊子と我が霊子とを繋げた。人の身でその魔法を扱うには、お主の魔力だけでは足らぬ。その足らぬ分は我のほうで補おう。……だが、補ったとしても、お主の魔力消費が甚大であることに変わりはない。そのことは肝に銘じておくことだな』

「……わかりました。十分です、ありがとうございます」


 魂に刻まれた魔法、それはキッドが欲していた対軍魔法だった。本来なら人の霊子では足りぬその魔法を、竜王の霊子を借りて成し得る人外ともいうべき魔法だ。

 キッドと竜王とがどれほど離れていようと関係ない。竜王が互いの霊子を繋げたというのなら、もはや物理的な距離は意味を持たない。

 その魔法の行使には、キッド自身の霊子を大量に消費するため、使えるのはせいぜい一日に一度だろう。しかし、これからの戦いには十分なものだった。

 キッドは再び深く頭を下げた。


『……その娘にも褒美をやらねばならんな』


 竜王はミュウを見つめ、その瞳を細める。

 偉大な竜の王は、キッドの腕の中で気を失ったままのミュウにも何かしたようだった。だが、二人の間で何が起こったのか、またミュウがどんな褒美を得たのか、キッドには知りようがない。だが、彼に不安はなかった。これほどの圧倒的な力を見せつけられては、ただ信じるだけだ。


『魔導士よ、せめて帰りは我が力で送ってやろう。……もしもまた「竜王の試練」に挑みたくば、いつでも来るがよい』

「さすがにもう一度あなたと戦おうとは――」


 言葉の途中で、景色が弾けるように変わった。


「……ここは?」


 青く澄んだ空、見慣れた山々。

 そこは竜王の山脈へと繋がる山道の入り口とも言える場所だった。

 洞窟の奥深くにいたはずの二人が、一瞬にして移動していた。


(これほどの力を持つ存在を、俺たちは相手にしていたのか……)


 今さらながら、キッドは竜王の強大さを実感し、無意識に息を呑んだ。


(……それでも、俺たちは生き残った)


 腕の中で眠るミュウの髪を、そっと撫でる。


(とりあえず、ミュウが目覚めるのを待つか)


 戦いの疲れは深い。けれど、無防備な彼女の寝顔を見ていると、その疲れさえも薄れていくように感じられた。

 ようやく、キッドは静かに休息を得たのだった。




 目を覚ましたミュウは、自身の腕の負傷のことも、それが竜王の奇跡とも言える力で蘇ったことも、ほとんど覚えていなかった。

 彼女は、自らの身を顧みる余地すらないほど、ただ、竜王の守りを打ち砕き、穴を穿つことだけに集中していたのだ。そのため、自分の腕が壊れたことにすら気づく間もなく、竜王の尻尾の直撃を受け、意識を手放すことになった。

 それゆえ、キッドは彼女の腕のことを深く語らなかった。ミュウに過去の傷を意識させる必要はない。彼女が気づかぬまま終えたなら、それでいい。だが――


(もう、あんな無茶だけはしないでくれよ)


 彼女の無謀な戦い方を目の当たりにした身としては、二度と同じことを繰り返してほしくないと、キッドは強く願った。


 竜王の山脈へ向かう前に、二人は近くの集落に馬を預けていた。ミュウが目覚めた後、二人はその集落へと向かい、十分な礼金を渡して馬を受け取ると、一路、紺の王国の王都へと馬を走らせた。

 王都の城門をくぐった途端、二人を迎えたのは、怒り心頭に発したルルーとルイセだった。


「キッドさん! 王女である私に無断で行くなんて、どういうつもりですか!」

「よりによって私を置いていくとかありえません。万死に値します」


 鬼の形相で詰めるルルー王女と、氷のような視線で睨みつけるルイセ。その怒りは当然ながら、キッドだけでなく、ミュウにも向けられる。


「ミュウさんも、ミュウさんです! 客員将校とはいえ、今は私の国の人間なんですよ! だというのに、王女である私のことをないがしろにしすぎです!」

「自分だけキッドについていくのはズル……いえ、戦略的に正しいとは思えません。万死に値します」


 二人は、矢継ぎ早に怒りの言葉をぶつけてきた。

 気づけば、キッドとミュウは軍師執務室に連行され、正座のまま延々と説教を浴びる羽目になった。


(……これなら、まだ竜王と戦ってるほうがマシかもしれない)


 途切れることのない叱責を受けながら、キッドは静かに嘆息した。


 だが、新たな力は確実にキッドの中に刻まれている。

 これで黒の帝国ともようやく戦える――叱られた情けない状態で、キッドは間もなく始まる帝国との戦いをしっかりと見据えていた。



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