ミュウはそれでも竜王を睨みつけ、剣を構えた。
その小さな姿を見下ろしながら、竜王はゆっくりと首をもたげる。それまでわずかに目線を向けるだけだったが、今、初めて真正面から彼女を捉えた。
『人間の娘よ、刹那の時とはいえ我に傷をつけたのは見事。……だが、所詮はそれまで。我が認めるに足る力ではない』
この戦いが始まってから初めて、竜王のその巨大な口が大きく開いた。
紅蓮の灼熱が牙の間で渦巻く。それこそが、竜王の必殺たるブレス攻撃の前兆だった。
(来る――!)
ミュウは息を切らしながらも走り続けた。狙いを絞らせないように、できる限り不規則な軌道を描き、炎の一撃をかわそうとする。しかし――
「しまった……!」
竜王の口から放たれたのは、一直線に打ち出される灼熱の槍ではなかった。扇状に広がる炎の奔流。広範囲を巻き込む破壊の嵐――範囲型ブレスだった。
その効果範囲は数十メートルに及び、人の足では到底逃げ切れない絶対の死地。凄まじい熱量を帯びた炎が、ミュウの全身を飲み込んだ。
「ミュウぅぅぅぅぅぅ!!」
キッドの絶叫が洞窟内に響き渡る。
しかし――
燃え盛る炎の中から、服を焦がしながらミュウが転がるように飛び出てきた。すぐに地面を転がり、服に燃え移った炎を消していく。
キッドがかけた耐火魔法の加護か、それとも彼女の強靭な意志が生み出す霊子の力か、竜王の範囲型ブレスはミュウに対して一撃必殺の威力には至っていなかった。
それでも、彼女の身体には焼け付くような激痛が走り、呼吸すらもままならないほど体力を削られている。
(このダメージじゃ、もう今までみたいに動き回れない……。嵐花双舞の負担で腕はまだ重いけど、私にもう時間をかけてる余裕はない。残った力……ここで全部使う!)
ミュウは荒い息をつきながら、しかし竜王から目線を逸らさぬまま、キッドへと叫ぶ。
「キッド! 私が竜王に穴を開ける! そのチャンスを見逃さないで! 私が作れる、たった一回だけのチャンスだから!」
「穴を開けるって……どうやって!? 嵐花双舞でさえ、かすり傷だったんだぞ……」
キッドの声には、揺らぐ戦意が滲んでいた。
だが、ミュウは信じている。キッドなら、自分が作った好機を決して逃さないと。
(確かに嵐花双舞の二連撃ではかすり傷だった。でも、もしそこにさらに攻撃を重ねることができたら? 二連撃でなく、四連撃なら? ――そうすれば、竜王の鱗さえ貫けるはず!)
ミュウは足に力をこめる。
(ここで神速を使う! もう後のことは考えない!)
先ほどの狙いは竜王の心臓だった。しかし、たとえ二人がかりで鱗と突破できたとしても、分厚い胸の肉を越えて心臓まで攻撃を届かせるのは不可能だと察し、ミュウは目標を変更する。
(――狙うのは竜の首!)
竜王の首が人間と同じ構造なのかはわからない。だが、頭がある以上、頸動脈や神経が必ず通っているはずだ。それに、胴に比べれば首は遥かに細い。致命的なダメージを与えられる可能性があるとしたら、首しか考えられなかった。
しかしながら、竜の首は遥か頭上。人の脚力で飛べる高さではない。
(飛び上がるのが無理なら、駆け上がるまで!)
ミュウは深く身を屈めた。
「神速!」
足に溜めた力を解放し、120パーセントの力で飛ぶように駆けた。
大地を蹴り、一気に竜王との距離を詰める。そして、その勢いのまま尻尾に飛び乗ると、滑るように駆け上がった。
(見えた! 竜王の首!)
尻尾を越えると、わずか数歩で飛ぶように背中を渡り、竜王の首元へと到達した。
そして、竜王が振り落とそうとする動きより先に、ミュウの剣が吠える。
「嵐花双舞!」
二筋の閃光が走る。
嵐花双舞の疲労が残る腕で、二度目の嵐花双舞を繰り出した。それは彼女にとって未知の領域。しかし、その威力に衰えはない。
竜王の鱗が裂け、傷が生まれる。
だが、それだけでは足りない。必要なのは、竜王の超回復を上回る速度での連続攻撃だ。
――ここで止まるわけにはいかない!
「乱れ嵐花双舞!!」
叫びとともに、さらなる連撃が繰り出される。
ミュウは嵐花双舞に嵐花双舞を重ねた。
同時発生する二連撃に、さらに二連撃が重なる。
それは刹那の時の中で、同時に繰り出される四連撃と化した。
鋭い斬撃が降り注ぎ、竜王の鱗が深く裂ける。もはやかすり傷とは呼べない明らかな傷が刻まれた。
しかし、ミュウの目は鋭く、焦燥が胸を突き上げる。
(これじゃダメ! まだ足りない!)
もはや止まったような時間の中で、ミュウの思考だけが加速する。
これでも足りないのなら、どうすればよいか――答えは一つしかなかった。
(乱れ嵐花双舞・続!!)
ミュウはさらに嵐花双舞を重ねた。
同時発生の四連撃は、同時発生の六連撃へと昇華する。
腕はとうに限界に達して悲鳴を上げている。激痛が走り、関節が軋む。
――だが、それでも、まだ足りない。
ミュウは手を止めず、続けて八連撃目を繰り出す。
その瞬間、あたりに縄が千切れるような音が響いた。
ミュウはその音を気にも留めず、同時八連撃の最後の一閃を振り抜いた。
ミュウ自身は気づいていなかったが、キッドにはその音の正体がわかっていた。
それはミュウの腕の筋肉が、血管が、靭帯が、人間の限界の限界を超えた力に耐えきれずに、ぶち切れた音だった。
それでもミュウはその腕で、八連撃を打ち切った。
ミュウの眼前には、竜の鱗を完膚なきまでに斬り裂き、その下の肉までもえぐった穴が開いている。
(キッド、私は約束を果たしたからね……)
その瞬間、自分の成したことに満足するミュウに向け、竜王の尻尾が唸りを上げて迫ってきた。
普段のミュウならば、避けられる一撃。しかし、今の彼女の足は神速の反動で鉛のように重く、微動だにしない。手で身体をガードしようにも、その手が少しも動いてくれない。
そして――
ミュウは竜王の尻尾の直撃を受けた。意識が闇に沈み、ゴミくずのように宙を舞う。
キッドは弾き飛ばされたミュウの方に駆け寄りながらも、決して竜王から目を離さなかった。
自分の視界でミュウを捉え、そして、ダークマターの視界で、彼女が己の身を削ってまで作り出した竜王の致命的な穴を捉えている。
(ここでミュウの作ってくれたこのチャンスを潰したら、あの世で合わせる顔がない!)
キッドは迷いなく、ダークマターを竜王の傷口へと向かわせた。今までのように
ダークマターは、キッドの魔力そのものと言える存在。万一、ダークマターに攻撃を受けるようなことがあれば、その場で消滅し、キッドの魔力を根こそぎ奪う欠点を持つ。しかし、時として、その欠点は武器へと変わる。消滅する際、ダークマターは触れたものを空間ごと削り取って消えるのだ。そのダークマターを直接叩きつける攻撃こそ、防御不能の奥の手――キッドの切り札だった。
とはいえ、それでもダークマター単独の攻撃なら、竜王の霊子と竜鱗に遮られ、致命傷には届かないだろう。だが、今はミュウがその障害を取り除いてくれた。剣士にとって命よりも大切なはずのその腕を犠牲にしてまで。
(この一撃で、竜王の首を確実にえぐってみせる!)
ミュウが風穴を開けた竜王の傷に、キッドのダークマターが突っ込んだ。
瞬間――竜王の首の一部が、空間ごと消失する。
同時に、キッドの魔力、精神力、体力が体中から抜け落ちた。
(くっ……身体が重い! でも、ここで膝をつくわけにはいかない!)
ミュウの身体はいまだ宙を舞っている。
意識はなく、受け身を取ることもできない。そもそも、仮に意識があったとしても、今のミュウの腕では地に落ちる衝撃を和らげることさえ叶わない。
キッドもまた、ミュウを受け止めるほどの体力も気力も残っていない。彼にできることは、自らをクッションとして、ミュウの落下ダメージを少しでも和らげることだけだった。
「間に合え!」
最後の全力の一歩で、落下するミュウの身体と地面との間に、キッドは自分の身体を滑り込ませた。少しでもミュウのダメージを少なくする――キッドが考えたのはもうそれだけだった。
衝撃が襲い、肺から空気が一気に押し出される。だが、ミュウの身体が無造作に地面に叩きつけられるのだけは防げた。少なくとも、彼女が打ちつけられるようなことはなかったはずだ。
(――助けられた、か?)
そう安堵しかけた次の瞬間、キッドの全身が総毛立つ。
根本を深くえぐられたはずの竜王の首が、ゆっくりと起き上がる。その双眸が、こちらを捉えた。
「嘘だろ……そのダメージで、まだ動けるのかよ……」
竜王は生きていた。その目はまだ輝いている。
(――まずい! 来るっ!)
二人に向け、竜王の口が大きく開いた。竜王の喉奥に光が揺らめく。
(これはブレスの動き! くそっ、今の俺たちは動けない! ならばここで来るのは一点集中ブレスか!)
それは絶望的な現実だった。
ミュウを抱えたままブレスから逃れるほどの力は、今のキッドには残っていない。ましてや、彼女を置いて逃げる選択など余計にありえない。
(だったら――)
キッドはミュウと体の位置を入れ替えた。
ミュウの身体を下にし、そこに覆い被さるように自分の身体を重ねる。
(頼む、俺の残った魔力よ! 最後に俺に力を貸してくれ!)
掌にかすかな熱が灯る。
「火炎防護!」
残った魔力をすべて注ぎ込み、自分とミュウに炎に対する防御魔法を重ねる。
戦いの中で薄れていた魔力の鎧が再び力を取り戻す。だが、先の火炎防護に追加で重なるわけではない。再び張り直したに過ぎない。それでも、それが今のキッドにできる精一杯のことだった。
「竜王よ! もしこの身を盾として、あなたのブレスからミュウを守れたのなら、その奇跡に免じて、この娘だけは見逃してもらいたい!」
わずかな竜王の慈悲にかけてキッドはそう叫び、ミュウの細い身体に腕を回し、固く抱きしめる。
腕に力を込めると、細いながらもしなやかで弾力のある筋肉に包まれていたはずのミュウの腕が、なんの抵抗もなく歪んだ。彼女の腕の筋肉が機能していないことを思い知らされる。
もはや剣士として生きることはできなくとも、ここまでしてくれた
――そして、竜王の口から、輝きが放たれた。