この島の中央にそびえる山々。どこか神々しさを湛えたその山脈を、人々は「竜王の山脈」と呼んだ。
その連なる峰々の中、最も高く険しい山の中腹に、巨大な洞窟が口を開けている。そこに棲まうのは、伝説の竜王――幾世代にもわたって語り継がれてきた、圧倒的な力を持つ存在だった。
「いよいよだな」
「……そうだね」
キッドとミュウは、眼前に広がる巨大な洞窟を前に静かに息を整えた。二人はともに紺の王国の軍服に身を包んでいる。キッドはいつも通りの姿だが、ミュウもまた、緑の公国に所属しながらも紺の王国の軍服を纏っていた。紺の王国に派遣される際、何着も公国の軍服を持ってきたわけではないので、紺の王都に戻ってからは、王国から支給された軍服を着用しているのだ。
彼女の上着は紺色、同色のスカートに黒いタイツ。今のその姿は、彼女の清廉さを象徴するかのようで、凛々しく美しかった。
ここまでの道のりは思いのほか順調だった。しかし、本番はここからだ。
ミュウの瞳に、かすかな緊張が浮かぶ。だが、キッドの表情はそれ以上に強張っていた。
まだ竜王の姿すら見えぬというのに、洞窟の外でさえ彼は圧倒的な霊子の奔流を感じ取っていた。
相手が強力な霊子を持つ存在なら、離れていても霊子を感じることはある。しかし、今キッドが肌で感じているのは、そんな生半可なものではなかった。洞窟の奥から吹き付ける霊子の波動――それはまるで嵐のように、空間すら震わせながら押し寄せてくる。まるで世界そのものが、竜王という存在を中心に脈動しているかのようだ。
(これが竜王の力……)
この圧倒的な威圧感の前では、俺の存在がいかに小さなものかを思い知らされる。
(こんな化け物相手に、俺は力を示すことができるのか……)
一瞬、心の奥に生じた弱気な囁き。だが、キッドはすぐにその思考を振り払う。
横に立つミュウの姿を見た瞬間、胸の奥に確かな炎が灯った。
(弱気になってる場合じゃないな。すでにミュウを巻き込んでしまっている。それに、城にはルルーもルイセも残してきている。もし、このまま二人のところへ帰れなかったら――あの二人のことだ、絶対俺のことを許さないだろうしな)
二人の怒った顔を思い出すと、不思議と体の緊張が和らいだ。
「行くか」
「……うん、行こう」
互いに短く言葉を交わし、二人は静かに洞窟の中へと足を踏み入れた。
圧倒的な力の気配に包まれながらも、二人の頭に「引き返す」という選択肢はなかった。
竜王の試練を受ける資格さえない者は、洞窟の中へさえ入れないと言われている。
しかし、二人を遮るものは何もなかった。
それはつまり、竜王に挑戦するだけの力があると認められた証。だが、それは決して安堵に繋がるわけではない。むしろ、二人はこれから対峙する存在の規格外の力を思い知らされることになる。
高さだけで数十メートルはあろうかという広大な洞窟の中を、二人は沈黙のまま進んでいく。壁には幾重にも重なる亀裂が走り、天井からは巨大な鍾乳石が牙のように垂れ下がっていた。地面にはところどころ焦げた跡が残り、ただの自然の洞窟ではないことを物語っている。
やがて、二人の前に、小さな山が現れた。小ぶりな赤い山――しかし、それは錯覚だった。次の瞬間、二人は理解する。
それは、全長数十メートルにも及ぶ赤き巨竜だった。
四つの足を器用に折り畳み、長い首を地面に這わせ、大きな翼をたたんでいる。しかし、その圧倒的な存在感は、ただの竜ではないことを雄弁に語っていた。
「……これが、竜王」
二人は金縛りにあったかのように動きを止めた。その巨大な影が発する霊子の圧力は、肌を刺すように強烈だった。
キッドは息を呑む。
これほどの霊子を放つ存在が目の前にいるにもかかわらず、初めの一瞬、それをただの山だと見間違ったことが信じられなかった。
(俺は緊張しているのか……いや、違う。信じたくなかったんだ……こんな怪物が現実に存在していることを)
足を止め、二人はただ竜王を見上げる。
その時――竜王が、目を開いた。
金色の瞳が、じっと二人を見据える。空気が張り詰め、周囲の温度が一気に上昇したように感じられた。そして、ゆっくりと首をもたげると、低く、地を揺るがすような声を発する。
『……人間よ。この地に我がいると知り、なお足を踏み入れたか?』
竜王は、人の言葉を話した。それは当然のことだった。竜王の知性は人間を遥かに凌駕する。人の言葉を操るなど、彼にとって造作もない。
キッドは一歩踏み出し、力強く宣言した。
「はい! 俺たちはあなたの強大な力をお借りしたく、竜王の試練に挑戦しに参りました! どうか、あなたに挑むことをお許しいただきたい!」
『ほう……』
竜王は四つの足を伸ばし、ゆっくりと身を起こす。まるで山そのものが動いたかのような、圧倒的な威圧感。巨体が完全に起き上がると、その影は二人をすっぽりと覆い隠した。
『……久しいな。竜王の試練を求める者が訪れるのは』
その声音は、低く、重く、雷鳴のように響く。
『よかろう。ならば、我にお前たちの力を示してみよ。見事、この竜王が認める力を見せたのならば、お前たちに竜の加護を授けることを約束しよう。……ただし、その力が見るに値しないものであったのなら、生きて帰ることは叶わぬと思え』
「承知の上です!」
力強く答え、キッドはミュウの肩に手を置いた。
「火炎防護!」
瞬間、淡く青白い光が二人を包み込み、体表に魔法の膜が張られる。これで炎への耐性は高まった。しかし、竜王相手にどれほどの意味を持つのかはわからない。
キッドはこれまで竜王について記された文献を徹底的に調べ上げていた。そこに記されていた竜王最大の脅威は、口から放たれる炎のブレス。二つの形態を持ち、広範囲を焼き尽くす範囲型ブレスと、その威力を一点に凝縮した超高熱の集中型ブレスがあるという。
人間の魔法では、おそらく一点集中ブレスを防ぐことは不可能。しかし、範囲型ブレスならば、気休め程度かもしれないが、多少は役に立つとキッドは見込んでいた。
「竜王よ、それでは参ります!」
『遠慮はいらぬ。我を仕留めるつもりで来い。人の力でこの命を落とすようなことは万に一つもない』
言われるまでもなかった。殺す気で挑まねば、届くはずのない相手だと二人は百も承知だ。
キッドとミュウは一瞬視線を交わし、息を合わせると同時に左右へ走り出した。
まずはブレスの範囲攻撃を避けるための布陣。まとまっていては二人とも一撃で葬られる可能性がある。別々に動くのは竜相手の鉄則だった。
「ダークマター!」
出し惜しみなどしていられない。キッドは開幕から全力を叩き込む。
闇よりもなお暗い
標的は竜王の前脚。動きを封じるため、同じ箇所に集中して弾を叩き込む。
だが――
「まじかよ……」
ダークブレットが命中する寸前、すべての弾が消失した。
キッドの視界には、魔法の粒子が空中で霧散する光景が映っていた。竜王の鱗に当たるどころか、何か見えない壁に弾かれている。
(まさか……)
キッドはダークマターの視界を通じて異変を察知する。
竜王の鱗を、膨大な霊子が覆っている。
それはまるで、肉体の外側に張り巡らされた魔力の鎧。魔法が届く前に、霊子の障壁がすべてをかき消しているのだ。
(鱗の硬さをどう突破するか悩んでいたが……そもそも鱗にすら触れられないとか、反則だろ!)
キッドはたまらず喉の渇きを覚える。
竜王はまだ動いてもいない。ただそこにいるだけで、絶望的な防御力を誇示していた。
キッドは奥歯を噛みしめ、魔力を練り上げる。氷による巨大な円錐型の槍を作り出し、それを竜王の胴体にぶつけ、直後にダークブレットを同じ箇所へ放った。
しかし、結果は同じだった。
氷槍は竜王の体に届く前に砕け散り、闇の弾丸は消滅する。ただただ、竜王を覆う霊子の障壁に相殺されて終わった。
(至近距離から最大魔力を込めた魔法攻撃なら、霊子の障壁を打ち破れるだろうが……それでも鱗まで貫けるかどうか……。もっとも、それ以前に、俺の身体能力で竜王に接近したら、確実にやられる……)
今、キッドが無事でいられるのは、ミュウが前方で竜王の注意を引いていてくれるからにほかならない。
ミュウはその俊敏な動きと持ち前の勘の良さで、言葉もなく放ってくる竜王の魔法をかいくぐっていた。飛来する尻尾の一撃、前足のかぎ爪による斬撃――どれも一撃で命を奪う威力の攻撃だが、彼女はそれらを紙一重でかわし、隙を見つけると果敢に攻め込んで竜王に斬りつけてさえいた。
「さすがミュウだ!」
キッドは自分のパートナーを心から賞賛する。しかし、ミュウの剣もまた、竜王に傷をつけるには至っていない。
「ミュウ、こっちの魔法はほとんど竜王まで届かない! 霊子の障壁でほとんど相殺されている!」
「私の剣も手応えなし! 鱗に当たってるけど、何だか変な力で威力が殺されてるみたい!」
「鱗までは剣が届いているのか?」
「うん、届くことは届いてるんだけど……」
キッドはダークマターの視界を通じて、ミュウの攻撃の様子を注視する。
見れば、確かにキッドの魔法とは異なり、ミュウの剣戟は竜王の鱗にまで到達していた。
(魔法と違い、物理攻撃なら霊子の障壁の影響を受けづらいのか!)
とはいえ、完全に影響を無視できるわけではない。ミュウの言う「変な力」とは、霊子のことなのだろう。霊子がまるで粘性のある膜のように剣の力を削ぎ、衝撃を吸収しているのは明らかだった。それでも、ミュウの剣が鱗に届いたということは、瞬間的にせよ、剣が霊子をかき分け、無防備となった鱗に到達した証拠にほかならない。
「ミュウ! 同じ場所への連続攻撃だ! 嵐花双舞なら攻撃は通るはずだ!」
ミュウの嵐花双舞は、縦斬りと横切りによる、人の力で達し得る限界の同時攻撃だ。
あの技なら、片方の攻撃で霊子をはぎ取り、残る攻撃で霊子の消えた無防備な竜王の鱗に直接ダメージを与えられる――それがキッドの計算だった。
「わかった!」
ミュウに迷いはなかった。
自身の体力を考えれば、長期戦は不利だった。竜王の攻撃を回避し続けるにも限界がある。勝負の賭けどころなら、迷わず全力を尽くすだけだ。なにより、キッドの指示なら、信じられた。剣を握る指に力がこもる。
一方、キッドもまた、ミュウの攻撃の瞬間に全神経を集中させる。
ミュウが嵐花双舞で竜王に傷をつけてくれれば、そこには霊子の障壁も、竜鱗の防護もない竜王の弱点が生じることになる。その一瞬を逃さず、全力の魔法を叩き込む――それが今のキッドにできる最善手だった。
ミュウは襲いくる前足のかぎ爪をかわし、地を蹴って竜の首の下へと潜り込む。そして、さらに跳躍。狙うは、心臓のある胸部。足や尻尾では決定打にはならない。仕留めるなら心臓しかなかった。
「嵐花双舞!」
竜王の胸元で二つの光が輝いた。
二つの白刃が竜王を襲う。
一つめの刃が竜王の霊子を振り払い、二つめの刃が鋼のごとき鱗を断つ。
瞬間、キッドのダークマターが震え、ダークブレットが次々と発射される。狙いはミュウが生み出した傷口。
二人は、竜王からの反撃に備えながら、自分たちの連携攻撃の成果を確認しようと、竜王の胸部に視線を向けた。
しかし――
「……嘘だろ」
キッドの声は、ひどく掠れていた。
目の前に広がる光景は、あまりにも無情だった。確かにミュウの剣は竜王の鱗を斬り裂き、キッドの魔法はそこへ直撃した。だが、その傷はすでに消えている。竜王の胸は、まるで何事もなかったかのように滑らかに戻り、傷の痕跡すら残っていない。
それどころか、再び霊子の障壁が揺らめき、彼らの攻撃を阻むかのように立ちはだかっている。まるで、「その程度では届かない」と言わんばかりに。
絶望に近い感情が、二人の足を縛りつける。
生物としての次元が違う。霊子に守られた竜王は、まるで神話の怪物のように、傷つくことすら拒絶する存在だった。
キッドはいまさらながらに、竜王へ挑戦することの無謀さを思い知る。
「……すまない、ミュウ」
キッドの口から自然と漏れたのは、ミュウへの謝罪の言葉だった。
彼は自分が持つ最大威力の魔法攻撃をまだ温存していた。その攻撃ならば、霊子の障壁を突破して竜王の鱗さえも破壊できる――だがそこまでだ。心臓までは届かない。
だからこそ、ミュウの嵐花双舞と、ダークブレットの追加攻撃で、霊子と鱗に穴を開け、そこにその攻撃を叩き込むつもりだった。しかし、その目論見はもろくも崩れ去った。奥の手を叩き込むべき穴は、すぐに塞がれてしまうのだ。
(これが……竜王という存在か)
――勝てない。
そんな言葉が、キッドの脳裏をよぎった。
だが――
「キッド、まだだよ!」
隣から響いた声に、キッドはハッと顔を上げる。ミュウの瞳には、まだ光が宿っていた。希望の欠片を、決して手放すまいとするかのように。
「まだ私たちは負けてない!」
ミュウは、嵐花双舞による疲労で重くなった手で剣を構え直し、再び竜王へと向き直る。
ミュウの心はまだ折れていなかった。
彼女の手には、竜王の鱗を斬り裂いた感触がまだ残っている。
自分の攻撃は竜王に通用する――その想いがミュウをいまだ奮い立たせていた。