紺の王国へと無事に戻ったルルー一行を、城の者たちが大勢出迎えた。
その先頭に立っていたのはルイセだった。彼女の端正な顔立ちは、いつものように冷静沈着で、まるで感情を封じ込めた能面のように見えた。しかし、馬車が止まり、中にいる三人の姿を認めた瞬間、ほんのわずかにその表情が揺らいだ。
馬車の扉が静かに開く。
最初に降り立ったのはミュウだった。彼女の瞳がルイセと交わる。
「ルイセさん、今度は客員将校としてお世話になるから、よろしくね」
「はい、心強く思います」
二人は見つめ合いながら、互いに静かにうなずいた。
次に、キッドが降りてくる。ルイセは凛とした佇まいで彼を迎え、淡々と言葉を紡ぐ。
「おかえりなさい、キッド君。詳細は改めて報告しますが、留守中の問題事は私の方で処理しておきましたから」
「ありがとう。留守中、世話をかけたな」
キッドの言葉に、ルイセの表情はほとんど変わらなかったが、それでも彼には、彼女がかすかに微笑んだように見えた。
最後に、ルルーがゆっくりと馬車から降りる。ルイセは迷いなく手を差し出した。
「ルルー王女、約束を守っていただきありがとうございます」
その手をしっかりと握り、ルルーは弾むような声で応じた。
「はい! 女同士の約束ですからね」
彼女の満面の笑みが、まるで春風のように場の空気を和らげる。その笑顔に釣られるように、ルイセの口元もわずかにほころんだ。
こうして、紺の王国に新たな風が吹き始めた。黒の帝国との戦いに向け、激動の日々が幕を開ける――。
客員将校として紺の王国に迎えられたミュウは、早々に騎士団長の任を受けることとなった。
とはいえ、彼女が志願したわけではなく、また、ルルーが強引に任命したわけでもない。騎士団の総意、さらには現騎士団長の強い要望が重なり、結果としてこの役職に就くことになった。
正式な紺の王国所属ではなく、あくまで客員将校という立場であるため、最初は固辞していたミュウだったが、騎士たちの熱意と説得に押され、ついには覚悟を決めた。
「ミュウの奴、やる気に満ちてるな」
騎士団の訓練場の一角で、キッドは目を細めながら彼女の姿を見つめていた。
ミュウは燃え立つような情熱を全身から発しながら、騎士たちに剣の指南をしている。
その様子を眺めるキッドの胸にも、じんわりとした喜びが広がっていた。
(口には出さなかったけど、本当は緑の公国でも騎士団長をやりたかったんだろうな)
ミュウの剣士としての実力は、緑の公国でも群を抜いていた。唯一まともに渡り合えたのは、公国内ではジャンだけだった。そのジャンが騎士団長というのなら、ミュウも納得できただろうが、彼は公王であり、騎士団長になることはあり得ない。そうなれば、実力から言えば、ミュウこそが騎士団長にふさわしいはずだった。それにもかかわらず、彼女は政治的な事情により、特務総監などという職に回され、騎士団の第一線から遠ざけられていた。
(それがまさか、緑の公国から離れた、この国でその願いが叶うなんてな……。しかも、騎士たち皆に乞われてなんだから……)
胸がじわりと熱くなる。どれだけの悔しさを抱えていたか、キッドにはわかる。彼女が今、この場で生き生きと剣を振るう姿を見て、何も感じないはずがなかった。
「……よかったな、ミュウ」
心から出たつぶやきを残して、キッドはその場を後にし、魔導士の訓練場へと向かった。
現在、紺の王国の魔導士の数は、旧紫の王国からの合流もあり、約二百名にまで膨れ上がっていた。もちろん旧紫の王国の城にも一定数の魔導士を駐留させる必要があり、数十名が交替で派遣されていたが、それでもこの城の戦力は、大国には及ばないものの、今の国の規模ならば十分なものになっていた。
キッドが訓練場に足を踏み入れると、広い演習場で馬上魔術の訓練が行われているのが目に入った。ルイセが厳しい目で魔導士たちの動きを見守っている。
キッドたちが緑の公国へ出発する前は、紺の王国の魔導士たちはともかく、旧紫の王国出身の魔導士たちは騎乗しながら魔法を扱う技術を持ち合わせていなかった。しかし、今目の前で繰り広げられている光景は違う。旧紫の王国出身の魔導士たちも、今ではそれなりに馬を操りながら魔法を放ち、着実に成長の跡を見せていた。
「……これは驚いたな。この短期間でここまで仕上げてくれているなんて。ルイセは俺たちが不在の分、ほかの仕事もこなしていたはずなのに……」
キッドは思わず感嘆の声を漏らした。
留守中の報告書には目を通していたが、領地整備の進捗も順調であり、旧紫の王国の統治も滞りなく進められていると記されていた。もちろん小規模な紛争や問題はあったものの、ルイセの指揮のもと迅速に対処されていた。そして何より、魔導士たちの鍛錬はここまで成果を上げている。
「機動魔導士隊は、黒の帝国に対抗できる俺達の重要な戦力だ。ルイセはそのことをよくわかっててくれる……さすがだよ」
仲間の頼もしさが、胸の奥に熱を灯す。
だが、それだからこそ、キッドは自分も進まねばならないと感じていた。
(実際に戦ってみてわかった。帝国の力は、俺の考えていた以上だ。個の力でも、集団の力でも、彼らは圧倒的なまでに洗練されている。俺の魔法は個の戦いなら対抗できるが、集団戦においては……まだ足りない)
現在使われている魔法が、霊子魔法である限り、どうしても避けられない制約があった。個々の魔導士が保有する霊子量が、そのまま使用できる魔力量の限界となってしまう。かつて、万物に存在する希少元素マナがまだまだ十分に存在していた時代には、周囲のマナを大量に使い、大規模な破壊魔法を行使することも可能だったという。だが、今や希少元素マナは枯渇し、個人の霊子に頼るしかない。その結果、人間が扱える魔法の威力も、せいぜい数メートルの範囲を巻き込む爆裂魔法が限界になっていた。
人間の霊子に依存する限り、この問題は解決できない。
(そう、人間の霊子に頼っているだけなら、な。……だけど)
キッドは知っていた。
この世界には、人間をも遥かに超越した存在がいることを。そして、その力を借りる手段があることを。
この世界には、幻想種と呼ばれる竜が存在している。
竜は、単なる動物や怪物ではない。人を凌駕する知性と能力を有した、言うなれば人類よりも上位の種族だ。神話に語られる神に近い力を持ちながら、神とは異なり、この現実世界に確かに存在している。
そもそも、この世界における神の概念は、大きくわけて四つの信仰に分類される。
一つ目は、自然そのものが神であるという思想。神とは、人のような意思を持たず、力そのものとして世界に遍在すると考えられている。四大元素を基に発展した元素魔法も、この思想と深く結びついている。
二つ目は、人間を創造した全知全能の神の存在を信じる思想だ。この信仰には多くの派閥があり、神がすべての生命を創り出したとするものから、既存の生物の中から人間にのみ知性を与えたとするものまで、その解釈は多岐にわたる。また、神の介入についても、信じる者に力を与えるとするもの、神は世界をただ見守るだけで力の行使はしないとするものなど、派閥により考え方は多様だ。
そして、三つ目が、竜こそが神であるとする思想。この大地は、長きにわたって大規模な災害に見舞われることなく安定している。これは竜が意図的に地震エネルギーを分散させたり、干ばつや洪水を災害レベルになる前に制御したりしているからだと信じられている。そして、それは単なる伝承ではなく、竜自身からその事実を聞いた者たちが実際に存在している。彼らは天変地異すら制御し、人類を超越した力を持つ――その存在を神と崇めるのは、至極当然のことだった。
なお、最後の四つ目は、神など存在しないという考えだ。
この世界の人間は、概ねこの四つのうちのいずれかの考え方を持っている。
このように竜は神ともみなされる存在であるが、その竜の中でも、特に秀でた力を持つ者がいる。
それこそが――竜王。
竜王は、遥か中央の山脈に棲むと言われ、竜王の霊子の加護を得られれば、対軍魔法ですら行使できると言われている。
しかし、その力を得るためには、「竜王の試練」を乗り越えなければならない。
竜王は、勇気と力を兼ね備えた者を好む。そして、それを示す手段はただ一つ――竜王と戦い、その力を直接示すことのみ。
竜王に挑み、その戦いを経て認められた者だけが、竜王の力を授かる資格を得るのだ。だが、試練に敗れた者には、容赦のない死が待つのみ。
それが「竜王の試練」だった。
「……ここで竜王の試練を越えられないようなら、黒の帝国を倒すなんてこと、できるはずがないよな」
つぶやいた声は静かだったが、揺るぎない決意が滲んでいた。
キッドは、己の運命を賭け、竜王の試練に挑むことを決意した。
その日の夜、キッドはミュウの部屋を訪ねた。
かつて彼女が緑の公国の使者としてこの城に滞在していた頃にあてがわれていたのは来客用の部屋だった。しかし、今では客員将校として正式に身を置く立場となり、ようやく専用の個室が与えられている。
「……随分と深刻そうな顔ね」
扉を開けるなり、ミュウは苦笑いしながらキッドを迎え入れた。
「キッドがそんな顔をして私のところに来る時は、決まってろくでもない話を持ってくるんだから、もう」
呆れたような声音だったが、その表情にはどこか嬉しさが滲んでいた。頼られることは、ある意味迷惑な部分もある。だが、それ以上に、それが信頼の証であることを知っている。そのことが、ミュウにひそかな充足感を与えていた。
「とりあえず、中に入ってよ」
扉の外で険しい表情をしていたキッドを手招きし、二人はテーブルを挟んで向かい合う形でソファに腰を下ろした。
「で、どうしたの?」
「……竜王の試練に挑戦しようと思う」
「――――!?」
短く発せられた言葉に、ミュウの動きがぴたりと止まった。
キッドの声は、大きな声ではなかった。それでも、その声音に込められた決意が、空気を張り詰めさせる。
ミュウは「本気?」と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。目の前のキッドの表情を見れば、それが冗談でないことなど、すぐにわかったからだ。
「……帝国との戦いには、どうしても竜王の力が必要ってこと?」
「ああ。それに――」
キッドはわずかに視線を落とし、それからミュウの目をまっすぐに見つめた。
「俺自身、自分の力がどこまで竜王に通用するのか、試してみたいという気持ちもある」
その言葉に、ミュウはわずかに息を呑んだ。
戦士であれば、理解できる感情だった。神のごとき存在を相手に、自分がどこまで戦えるのか――それを知りたいと思うのは、強者であろうとする者の本能に近い。
「……それで?」
ミュウは静かに問いかける。
「まさか、自分に何かあったときはこの国を頼む、なんて言いに来たんじゃないよね?」
その言葉は、決して軽いものではなかった。
もしキッドがここに残していこうとするなら――それは、キッドにとって自分が「死地に連れていくに値しない存在」だと言われるも同然だった。
それだけは絶対に許せなかった。
「……すまない」
キッドの詫びの言葉に、ミュウの血の気が引き、身体に震えが走る。
「……一緒に来てくれ。ミュウの力が必要なんだ」
キッドの力強い言葉と視線を受け、ミュウの身体に、下がった血が戻ってくる。
震えはいつの間にか消え、全身に安心感が広がった。
死地への誘いなのに、恐怖より安堵感を覚えていた。
「……もう、まぎらわしい言い方しないでよね。ついてくるなって言われても一緒に行くわよ」
「ありがとな」
こわばっていたキッドの表情が、わずかに緩む。
ミュウならきっと承諾してくれる。そう信じていたとはいえ、やはり不安はあった。相手は竜の中でも最強クラスの竜王、人知を超えた相手なのだから。
「……ルルー王女とルイセにも話すの?」
それはキッドも悩んだ部分だった。ミュウの問いに、彼は少しの間黙った後、首を横に振る。
「……いや、置き手紙を残していく。引き止められたり、ついていくとか言われたりしかねないからな」
「そうだね。私もそのほうがいいと思う」
ミュウはゆっくりとうなずいた。
ルルーもルイセも、この話を聞けば絶対についてくると言いだす。ミュウはそのことを確信していた。なぜなら、自分が二人の立場なら、間違いなくそうするからだ。
けれど、だからこそ二人には絶対に話せないとも思う。
もし、二人に何かあれば、この国自体が終わりかねない。そして、それだけでなく、対竜王との戦略上の理由もあった。
竜王の試練に挑む人数に制限はない。千人の軍隊で挑んだとしても、竜王はその挑戦を受け入れると言われている。ただし、竜王は挑む人数に応じた戦いをし、人数に応じた評価を下す。人数が増えれば増えるだけ、竜王はより激しい攻撃を行い、より厳しい評価をしてくるということだ。
ルルーはともかく、ルイセの戦闘力には目を見張るものがある。しかし、残念ながら、彼女との共闘経験はほとんどない。十分な連携が取れない状態で挑めば、単純な戦力の増加にはなっても、戦術的な相乗効果は望めない。
その点を考慮すれば、互いに能力を最大限に引き出し合える、最適な組み合わせはキッドとミュウの二人だった。
そして、それに関しては、ミュウだけでなく、キッドも同じ考えだった。だからこそ、彼はミュウにだけは話をし、助力を乞うたのだ。
それから数時間後、用意を整えた二人は、静かに城を後にした。机の上に、ただ一枚の置き手紙を残して。