「義輝様、頭を低く! ここからはこう! 腹這いになって進みます!」
「お、おう!」
岩清水祭の一件を境にして、周囲の態度は変わったが、その顕著な例が義輝様だ。
毎朝、藤孝殿が二条城への迎えに屋敷へ毎日訪れるようになり、それまで決して踏み込んでこなかった景虎に関わる話題を話しかけてくるようになった。
しかも、それだけは飽き足らず、何処へ行くのも俺を連れ立とうとした。
それを何らかの理由で断れば、断ったのが心底に心苦しくなるほど落胆する有り様。
今、俺は義輝様が嘗て都落ちした際に逃れた『朽木』へ大晦日の前々日から訪れているが、これも大変だった。
「良いですか? 気付かれたらおしまいです。
儂が岩なら、義輝様は木。気配を殺して、自然と一体になるのです」
「お、おう!」
事の発端は一ヶ月ほど前。義輝様と将棋に興じていた時の出来事。
元々、影武者になる前は将棋が打てなかった俺が幼少の頃から教養の一つとして仕込まれている義輝様に勝てる筈も無い。
その時も旗色は悪くて、腕を組みながら次の一手を長考していると、義輝様が不意に柏手を打って、こんな提案をしてきた。
『そうだ。大晦日と正月を朽木で過ごさないか?
随分と世話になった者が居てな。是非、紹介したいんだ。そうそう、お前の好きな温泉も有るぞ?』
だが、俺はすぐに断った。
京の北に位置する朽木はそう遠くないが、今の季節は冬。京都へ一日で帰ってくるのは厳しい。
神道に深い関心を持つ者として、正月の初詣は義務に等しい。京都には有名な神社が数多に在り、初詣三昧を予定していた為、どうしても退くに退けなかった。
義輝様はやはり酷く落胆した。
その場に同席していた藤孝殿がとりなしてくれ、俺が次の一手を放つと共に朽木行きの話は立ち消えとなり、記憶の底へ沈んで消えてしまう筈だった。
ところが、五日前になって、朽木行きの話が急浮上。
信君を筆頭とする護衛達が旅支度を忙しなく行っているのを不思議に思い、その理由を知ってビックリ仰天。俺の知らないところで朽木行きが決定していた。
どうやら事情聴取の結果、義輝様は俺の説得を無理と悟り、俺の知らないところで桃や信君といった外堀を少しずつ埋めてきたらしい。
出発の当日まで俺が知らなかったのも義輝の策に他ならない。二週間ほど前に義輝様の奥方二人が桃を誘い、足利家の別荘がある嵐山へ二泊三日の小旅行に出かけたのだが、桃はその時にこう言い含められたようだ。
『信玄様はお忙しい人ですから、こちらで準備を済ませておきましょう。
そして、当日になったら驚かせるんです。きっと大喜びしますよ?
正月の都は本当に騒がしくて、信玄様ほどの方になると、三が日を過ぎてもなかなか休めませんからね』
小旅行の話が出た時、妙だと感じてはいた。
俺と義輝様が同行者に含まれていたら理解は出来るが、参加者は桃と義輝様の奥方二人。三人は面識を持っておらず、面識が無いのに旅行を誘うだろうかと。
だが、俺は気軽に付き合える女友達を桃に作ってあげたかった。
岩清水祭の一件が影響してか、京都での桃の知己は俺の機嫌を損ねまいと義務的な関係ばかり。不審感をすぐに捨てて、たまには女だけで楽しんでこいと桃を笑顔で送り出してしまった。
「ほら、あの茂みを抜ければ……。」
「な、なあ……。こ、こんな場所、いつ見つけたんだ?
こ、この屋敷を子供の頃から何度となく利用している儂でさえ……。」
その結果が今だ。
陰謀が明るみになった時、朽木行きの中止を宣言したが、男は女の涙に勝てないというのは本当だった。
桃が顔を両手で覆いながら声を押し殺して泣き、謝罪を何度も、何度も繰り返す様を見せられては白旗をあっさりと上げる他は無かった。
だから、俺が今自然と一体になっているのは慰めであり、当然の権利。
俺が望んだ女の友情が桃と義輝様の奥方二人の間にしっかりと結ばれているのをこの目で確認しなくてはならない。
その為なら藪が肌をチクチクと刺そうと、湿気を吸った土が顔や手足を汚そうと前に、ただ前に突き進まなければならない。
唯一の誤算は危険な旅路へ出発するにあたり、義輝様に見つかってしまった事か。
覚悟を決めた以上、退くなど以ての外。同行を許したが、その五月蝿さが命取りになると義輝様はどうして気づかない。
「しっ! 静かに!」
「お、おう!」
やはり同行を許すべきではなかった。
小さな後悔を抱きながら最後の藪をゆっくり、ゆっくりと音を立てぬように掻き分けると、熱気の壁が顔を焼いた。
「桃さんが羨ましいわ」
「えっ!? 何がです?」
「さ、昨夜も、その……。し、信玄様と愛し合ったのでしょう?」
「ど、どうして、それを?」
そして、桃源郷が目の前に広がった。
少し見下ろす角度、目標まで約5メートル。湯気をほかほかと上らせる白い濁り湯の岩風呂があった。
しかし、声は聞こえても肝心のその姿が湯気で見えない。
洗い場には誰も居ない。桃と義輝様の奥方二人は岩風呂に浸かっており、今いる位置からでは角度的に見えない場所に居るのだろう。
「じ、侍女達が話していましたよ?
よ、夜遅くまで、その……。む、睦み合う声が聞こえてきて……。あ、当てられて、なかなか寝付けなかったと……。」
「あわわ……。は、恥ずかしい」
だったら、見える角度へ移動するだけ。
幸いにして、ここの岩場はこれ以上の前進は無理でも左右は広くて、移動が出来る。
但し、それには慎重に慎重を重ねなければならない。
岩場は温泉の湿気で濡れていて、所々に生えている苔で滑りやすい。
腹這いから四足になり、神経を手足に集中しながら横移動をする。
「お前、本当に凄いな。昨夜はそこでも……。だろ?」
「どうして、それを?」
「お前と風呂で月見酒を洒落込もうとしたら、声が聞こえてきて遠慮したんだよ!」
「それは申し訳ない。でも、今は静かに」
「お、おう!」
歩幅にして、左に二歩半。三人の姿が遂に見える。
義輝様の側室『薫殿』は岩風呂に肩まで浸かり、その近くに桃と義輝様の正室『紫殿』が岩風呂へ入る為のステップを椅子代わりに列んで座る腰湯状態。
特筆すべきは三人共が全裸である点。
今の時代、風呂と言ったら蒸し風呂を指すのが一般的だが、蒸し風呂でも、湯風呂でも入浴の際、男は褌を、女は湯浴み着を着けるのが常識。
しかし、現代の感覚を持つ俺は風呂と言ったら全裸が当たり前。
特にタオルを湯船へ入れるのはご法度。自分のモノに自信が有ろうと、無かろうとフルオープンがマナーだと亡き父親から厳しく躾けられた。
それ故、影武者になった当初は従っていた今の時代の常識が次第に面倒となり、今ではすっかりとフルオープン入浴に変わっている。
そんな俺に影響されたのか、諸事情により結局は入浴途中で脱がずにいれなくなる為にいちいち着るのが面倒になったのか、桃も今ではすっかりとフルオープン入浴になっている。
「そ、それでね。ど、どうしたら、そうなれるかを教えて欲しいの」
「どうしたらと申されましても……。
はっ!? もしや、失礼とは存じますが、将軍様との仲が?」
そもそも、服を着たままで水に浸かってみると解るが、決して気持ちの良いものでは無い。
それに湯から上がった際、肌に張り付いた布が気化熱で冷やされる為、夏はともかくとして、それ以外の季節は辛い。
ましてや、今は冬。今朝は雪も降っていた。
全裸でも湯船から脱衣所までの短い距離が寒くて辛いのだから、服を着ていたらブルブルと震えて堪ったものじゃない。
風呂全体を見渡してみるが、湯浴み着は何処にも見当たらない。
もしや、小旅行の際、桃が全裸で風呂に入るのを目の当たりにして、紫殿も、薫殿も感化されたのだろうか。
正しく、眼福。桃には欲しがっていた京特産の反物で着物を作ってあげよう。
「いえ、仲は決して悪くないのです。
ただ、その……。ね、閨の方にはあまりと言うか、滅多に足を運んで下さらなくて……。」
「滅多に……。週に一度とか?」
「しゅ、週どころか、月に一度か、二度……。」
「ええっ!?」
そんな事を考えながら鼻の下を伸ばしていると、実に興味深い話が聞こえてきた。
俺と桃の場合、どちらかがよっぽど疲れているか、桃が女性特有の体調理由で無理な場合を除き、大抵は閨を共にしている。
なにしろ、娯楽が少ない。夕飯とて、現代の時間帯に比べたら早い。
明かりを灯す油は決して安くない為、暗くても楽しめる事と言ったら限られている。
だからこそ、紫殿が抱えている悩みの原因が解らない。
仲が悪かったり、お互いの身分の高さで結ばれた義務感だけの関係だったなら解る。
だが、紫殿は義輝様との仲は決して悪くないと言ってる。
義輝様の口からも紫殿の自慢話を聞いた事が有るし、義輝様が妾を外に持っているという話も聞かない。
まだ二十代半ばの義輝様がそうも閨に淡白なのは何故か。
閃きが頭の中を走り、俺にも見せろと身を寄せてくる義輝様から慌てて距離を取る。
「もしかして、衆道? 嫌だ、近づかないで下さいね?」
「ち、違う!」
「しっ! 静かに!」
「お、おう!」
気のせいか、義輝様が荒ぶった瞬間、桃がこちらへ視線を一瞬上げたように見えた。
慌てて岩から乗り出している身を伏せ、右の人差し指を口に立てながら義輝様を睨み付ける。
ちなみに、衆道とは男同士の同性愛を意味する。
海外と違って、日本最大の宗教である仏教は同性愛に寛容な為、この時代と言うか、日本は近代になるまで禁忌とされず、武士の嗜みとまで言われていた。
何故ならば、女性を戦場に伴うのは難しいからだ。
戦場は生存本能に血が猛って荒ぶる場所であり、それを鎮める手段は己自身か、男同士の二つしか無い。
それでも、俺のような現代の感覚を持つ者も存在する。
そういった者達は自分を衆道の対象として見られるのを嫌がり、過剰な反応を示す為、とても解り易い。今の義輝様が正にそうだ。
もっとも、義輝様が衆道を嗜まないのは知っていた。
もし、嗜んでいたら征夷大将軍たる義輝様の小姓は美男子揃いになっている。
「ええっと……。菫様は?」
「私もそれくらいしか……。」
「じゃあ、御二人を合わせても、月に三、四回? もしかして、衆道?」
しかし、それを知らない桃は当然の勘違いをした。
つい吹き出してしまい、義輝様を指さしながら重ねてからかう。
「ほら、やっぱり!」
「違うと言っている! 紫は近衛、薫は九条の出身だぞ?
貴族には武家とは違う作法があってだな! 俺だって、辛いんだ!」
「だけど、御二人は現に寂しい思いを……。
……と言うか、勿体無い。あの実にけしからんおっぱいを独り占めしているのに」
「こら! 紫を邪な目で見るな!」
それが大失敗の始まりだった。
義輝様は先ほど以上に荒ぶったばかりか、上半身を迂闊にも起こしてしまい、俺が息を飲んで目を見開いた次の瞬間。
「そこ!」
「ぬおっ!?」
「「キャっ!?」」
桃の手から勢い良く放たれた垢すり用の竹棒が棒手裏剣となって飛来。
慌てて義輝様は避けるが、その際に仰け反って膝立ちしている足を滑らせてしまい、岩風呂へ盛大な水飛沫を上げて落下。紫殿と薫殿が何事かと短く悲鳴をあげる。
「ぷっはっ! 痛たたたた……。」
「えっ!? ……よ、義輝様?」
「桃さん、私の後ろに!」
「は、はい!」
即座に撤退を開始する。
この場に残っていたら、とばっちりを喰らうのは目に見えていた。
「ち、違う! ち、違うんだ!」
「何が違うと言うのですか!
他人の妻の湯浴みを覗くなんて、征夷大将軍とあろう者が恥を知りなさい! 恥を!」
「ほ、本当に違うんだ! お、俺は信玄に唆されて! ほ、ほら、あそこ! あ、あそこだ!」
「桃さん!」
「はい! ……って、居ないじゃありませんか?」
「なっ!? ず、狡いぞ! ひ、一人で逃げたな!」
つい先ほどまで居た場所に風呂桶一杯分の湯が降り注ぐ。
かけ流し口の新鮮なお湯を放ったのか、視線を一瞬だけ向けると湯気がもうもうと立ち上っている。
間一髪、危ないところだった。
昨夜、入浴の際にかけ流し口を確かめた時、新鮮なお湯はとても熱かった。
もし、ちょっとでも触れていたら火傷を負うほどではないが、声をあげてしまうのは確実。俺がそこに居たのはバレていた。
「疾き事、風の如し……。静かなる事、林の如し……。
さらばです。義輝様。恨むのでしたら、ご自分の間抜けさを恨むのですな」
後ろは振り向かない。
桃が風呂を上がり、着替えを済ませる前に部屋へ戻らなければならない。
大事なのは急ぐ必要は有っても決して慌てない事だ。
俺が開拓した露天風呂への道は行きが上りなら、帰りは下り。
雪がうっすらと積もっており、慌てるあまり転んでしまったら、それが騒ぎになって覗きが連鎖的にバレてしまう。