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火の章

第17話 籠城戦




「ふぅ……。」



 一仕事を終えた達成感と詰まっていたモノを吐き出した爽快感に思わず溜息が漏れる。

 額を右腕で拭ってみると結構なぬめりを感じ、自分が思っていた以上に頑張っていたと解る。


 戦国時代にタイムスリップして、夏、秋、冬、春と季節を二巡。まる二年が過ぎた。

 その内の大半を上洛の旅で過しており、諏訪の屋敷で過した期間は半年程度でしかない。


 だが、上洛の旅から帰って、二日目。

 こうして、厠で一時を過していると『帰ってきた』感が強い。

 いつの間にか、この諏訪の屋敷が自宅である認識を持っていた事実にちょっとだけ驚く。


 余談だが、ここの厠は俺の設計による俺専用であり、恐らくは日本初の洋式便座。

 現代にて、和式と洋式の二つが有ったら迷わずに洋式を選んでいた俺にとって、やはり和式はしんどい。上洛の旅の間、随分と苦労した。


 その上、この厠は水洗便所。汚れが付きづらくて、臭いも籠もり難い。

 屋敷裏にある温泉の排水口から伸びた水路が便器の直下を通り、近くの小川へと繋がっている。


 当然、その小川は諏訪湖へと流れてゆくが、その辺りを深く考えるのは厳禁。

 俺達の食卓に出てくる魚の殆どは諏訪湖で採れた魚である為、絶対に深く考えてはいけない。


 厠繋がりで話をもう一つ。

 今、甲斐と信濃の街や村々では公衆便所が続々と建てられている。

 今まで製作を個人に任せていた肥料を武田家主導で行い、肥料の改善と農作物の収穫量向上を目指した公共事業になるが、それは表向きの目的。

 真の目的は大よりも小にあり、地中に住むバクテリアの働きで化けて出来上がる硝石だ。これと炭と硫黄の三つが混ざり、鉄砲を打つのに必要な黒色火薬が出来上がる。

 今の時代、肥料を作る過程で硝石が生まれるのを古来より受け継がれた知恵で知られているが、それが火薬に化けるとは知られておらず、火薬が欲しかったら日本の外から輸入しなければならず、その費用が鉄砲を大量運用する上で大きなネックになっていた。


 商人の理としては当然だろうが、火薬の価格を初めて聞いた時、予想を遥かに超えたボッタクリ価格に驚くしかなかった。

 鉄砲が超高価なら、そのランニングコストも超高価なのだから、鉄砲が金持ちの道楽品扱いになっている理由が解ったし、鉄砲の大量運用に踏み切った信長の先見性と自信の強さを思い知った。


 しかし、俺は戦国時代の豆知識で火薬の製法を知っていた。

 これには勘助さんも大喜び。すぐさま信繁さんを交えて話し合い、甲斐信濃の公衆便所設置計画に至っている。


 言うまでもなく、硝石を各家庭からいちいち集めよりソレを集めた一箇所から採取した方が楽で早い。

 一年か、二年か、それとも十年か。残念ながら硝石がどれくらいの年月でそう呼ばれるようになるかまでは解らない。

 もしかしたら、出来上がった頃には戦国時代がもう終わっているかも知れないが、それはそれで武田家自慢の甲州金と並ぶ大きな価値になる筈だ。



「んっ!?」



 ここでの用事が済み、褌を締めようと腰を便座から浮かそうとしたその時だった。

 目の前の閉まった戸板の向こう側。廊下を小走りする音が近づいて届き、出鼻を挫かれた感に何者かの到着をまずは待つとする。



「大殿、よろしいですか?」

「何事だ?」



 洋式便座を作って実感した事が有る。

 大の使用時、着衣が和装の場合、準備に手間がかかり、試行錯誤の結果に一旦は全裸になるのが一番手っ取り早いと解った。


 その為、着物と褌を衣紋掛けにかけて、その前の便座に腕を組んで座る今の俺は全裸。

 傍目には間抜けな姿だが、俺は『武田信玄』である。便所の中だろうと常に威厳を保たなければならない。



「只今、先触れが届きました。間もなく、高坂様がお見えになります」

「なっ!? だ、駄目だ! ちょ、ちょっと待て!

 わ、儂はその……。あ、あれだ! あ、あれ! そ、そう、高遠の城へ出かけたという事にしろ!」



 だが、風雲急を告げられて、威厳は一瞬にして吹き飛んだ。

 すぐさま便座から立ち上がって、褌を手に取ろうとするが焦るあまり衣紋掛けごと引っ張ってしまい、慌てて倒れかけた衣紋掛けを両手で受け止める。


 武田家で高坂様と言ったら、信濃佐久郡小諸城の城代『高坂昌信』である。

 武田家の最重要地点を任されているので解る通り、俺が知る歴史においては武田四天王の一人に数えられている重臣中の重臣。


 そんな高坂昌信には確かな証拠付きで現代まで残されている有名な逸話が有る。

 それが晴信から高坂昌信へ宛てられた熱烈なラブレターであり、二人が衆道の関係にあったという事実だ。


 なにしろ、高坂昌信はスラリとした細身の爽やか美青年。

 見た目が若々しくて、背の低さから少年のようにも見えながらも立ち振舞いに色気が有る。街を歩いたら、女達が黄色い悲鳴をキャーキャーとあげるほど。

 俺自身、戦国時代にタイムスリップした二日目。景虎との戦いに大敗して動揺する家臣達の最前列にいた高坂昌信の美青年っぷりを初めて見た時は驚いた。


 晴信が熱烈なラブレターを書いてまで執心したのが頷ける。

 女顔の高坂昌信が女物の着物を着たら、正に男の娘。衆道に忌避感を持たない者なら深い関係を結んでみたいと一度は考えるに違いない。


 しかし、俺は衆道の趣味を持たない。

 断固として、ノーサンキュー。信繁さんにも、勘助さんにもこれだけは許して貰っている。

 今まで高坂昌信と二人っきりになるのを絶対に避けて、高坂昌信からアプローチが仕掛けられても上手く逃げ切ってきた。



「ほほう……。大殿は高遠へ出かけたのですか」

「えっ!?」

「するとここに居るのはどちら様ですか? 大殿の声に良く似ていらっしゃいますが?」



 だが、天は俺を見放した。

 衣紋掛けを立て直して、褌を改めて取ろうとした瞬間、戸板の向こう側から静かな怒りが届いて絶望する。


 紛れもなく、その美声は高坂昌信のものだった。

 背筋がブルリと震えて、冷や汗が全身にブワッと噴き出す。



「ど、どうして、ここに居る? い、今、先触れが届いたばかりだろうが!」

「大殿が京より戻ってきたと聞き付けて、拙者自身が先触れとなり、馬を急ぎ走らせてきました」



 知っていながらも視線を左右と背後に走らせるが、やはり救いの道は何処にも無い。

 背後は壁。左右は便座に座った際の目線の高さに換気用の窓が備え付けられているが、小さい上に格子も付いていて、せいぜい腕一本しか出せない。


 残された手段は籠城戦のみ。

 慌てて戸板を開けられないように取っ手を両手で力一杯に押す。


 鍵は備え付けられているが、簡単な木鍵。

 普通に開けようとするならまだしも、本気で開けようとしたら容易く壊れるのは確実。


 戸板が音をガタリと立てて揺れた。

 難を間一髪で逃れるも一呼吸の間を空けて、まるで直下型の大地震が発生したかのように戸板がガタガタと激しく揺れ始める。



「いやいや、佐久からの距離を考えても早すぎるだろ!

 今、まだ朝で! 帰ってきたのは昨日の夕方だぞ! おかしいじゃないか!」

「それもこれも、大殿が拙者と会って下さらないからじゃないですか!

 だから、恵那に物見を送り続けて、大殿の帰りを今か今かと待っていました!」

「ば、馬鹿者! え、恵那といったら美濃だろうが! 

 た、他国に物見を潜入させるなんて危険だし! だ、第一、無駄な労力を使うな!」

「無駄ではありません! こうして、誰よりも早く大殿の元へ参りました!

 それなのに、それなのに! 拙者が来ると知ったら、高遠へ出かけているなどと嘘を付いて! そっちの方がおかしいですよ!」



 数多の戦場を駆け抜けて、一伝令役から武田家四天王にまで出世した高坂昌信との力比べ。

 戦国時代にタイムスリップして以来、いざと言う時は自分の身を少しでも守れるように日々の鍛錬は欠かしていないが、どう足掻いても勝てる筈が無い。



「違う、違うぞ! 嘘などではない! 儂はこれから本当に高遠へ出かけるんだ!」

「なら、拙者もお供を致します! 皆には暫く帰らないと言い残してきましたので!」

「馬鹿、馬鹿! 佐久は武田の要所だぞ! 城代のお前が居なくて、どうする! さっさと帰れ!」



 しかし、決して負けられない戦いがここに有る。

 汗を滴らせながら奥歯を食いしばって踏ん張り、戸板を全力全開で死守する。



「あれは二年前……。長尾との戦いに兵を須坂へ進めている時の事です」

「うん?」



 すると不意に戸板の激しい揺れが収まった。

 高坂昌信が力を緩めた証拠だが、ここまで追い詰めておきながら諦めたとは考えられない。


 恐らく、これは押して駄目なら引いてみろ的な作戦。

 思わぬ休憩タイムに荒くなった息を整える一方、攻防がいつ再開されても良いように戸板は押さえ続ける。



「大殿の寝所からの帰り道。待ち構えていた信繁様にこう言われました。

 戦の時は仕方がない。兄上にはお前が必要だ。

 だが、諏訪の方がお前と兄上の関係を面白く思っていない。

 辛いと思うが平時は控えてくれ。奥の乱れは思わぬ大きな災難を呼びかねないと……。

 拙者は何も言い返せませんでした。

 大殿を想う気持ちは誰にも負けないつもりですが、所詮は許されぬ関係。納得するしか有りません。

 だから、耐えました。寂しさのあまり心が狂いそうになっても耐えて、耐えて、耐えてきました。

 そして、待ちました。拙者からは駄目でも、大殿が拙者を求めてくれるなら話は別です。待って、待って、待ち続けました」



 戸板の向こう側で切々に語られる高坂昌信の独白。

 額を戸板に付けているのか、声が近い。言葉を重ねれば、重ねるほど哀しみに濡れて震え、やがては言葉と言葉の合間に鼻すすりとしゃくり上げが混ざる。


 映画などの人情話に弱くて、涙をついつい零してしまう俺である。

 戦場では無類の強さを誇りながらも、恋には臆病が過ぎるその純情に感動して、思わず視線を落とす。


 だが、それはそれ、これはこれ。やっぱり衆道はノーサンキュー。

 対象が俺以外なら応援をしたが、対象が俺となったら話は別。何とかして、穏便に済ませられないだろうかと考えた次の瞬間だった。



「そう、待ち続けて、もう二年です! 二年と十三日!

 その間、大殿は拙者を求めるどころか、離れてゆくばかり! 

 今だって、そうです! 高遠へ出かけているなど嘘を付いて! 例を挙げたらキリが有りません!

 拙者を誰よりも愛していると! お前さえ居たら他はいらないと言ってくれたあの言葉は嘘だったのですか!」



「嘘ではない! 嘘ではないが! ぐぐぐぐぐっ!」



 危なかった。猛烈に危なかった。

 高坂昌信が口調を一転。哀しみを怒りへと変えて、再び戸板を激しくガタガタと揺らし始める。


 しかも、今度の揺れは戸板をただただ引き開けようとしていたのとは違い、戸板そのものが縦に、横に、斜めに、前後に揺れている。

 戦慄した。もしかしなくても、これは戸板を開けようとしているのではなくて、戸板を外そうと蝶番を壊そうとしているのではなかろうか。


 それが正しいとするなら、もう力比べ以前の問題。

 だからと言って、諦める事は出来ない。俺は戸板を開けられまいと、外されまいと文字通りに必死の思いで頑張った。



「そんなにあの小娘が良いんですか! あんな小娘の何処が良いって言うんですか!

 これ見よがしに上洛の伴にして、いちゃいちゃ、いちゃいちゃ……。

 ええ、ええ! 拙者の耳にも大殿の武勇伝はちゃんと届いていますよ! 

 あの小娘の為に三好家と揉めたそうで! 実に立派ですね! 立派過ぎて、涙が出てきますよ!」

「のわっ!?」



 だが、頑張りすぎた。

 戸板の蝶番が悲鳴をあげるよりも早く取っ手が壊れて、戸板からすっぽ抜けてしまい、身体が大きく仰け反る。

 慌てて右足を退くがここは狭い個室。右足を退いた瞬間に膝裏が便座に引っかかり、咄嗟に開いた両手で壁を突いて支えようとするが、勢いを殺せずにそのまま便座へ着席する。


 そして、蝶番も壊れた戸板が縁側から庭へと乱暴に投げ捨てられる大きな音が響き渡った。

 身をビクッと竦めながら慌てて最後の抵抗に両腕を顔の前に交差させる。



「こうなったら、あの小娘を殺して、拙者も! 拙者も……。せっしゃも……。」

「んっ!?」



 ところが、ここに至り、高坂昌信の勢いが唐突に衰えた。

 何事かと交差していた両腕を怖ず怖ずと解けば、高坂昌信は口をパクパクと開閉させながら大きく見開いた目をパチパチと瞬きさせて固まっていた。


 但し、その視線はこちらを向いていない。

 高坂昌信の視線は下方を向いており、その先を辿ってみると、なんと俺の大事なアレがこんな最中にありながらも天を雄々しく突いているではないか。


 これには俺自身も驚いて、目をパチパチと瞬き。

 多分、これは生物が命の危機を感じた時に起こす種族保存の本能だろう。俺の恐怖はそれほどだったという証だ。


 いずれにせよ、バツが悪すぎる。

 取りあえず、褌だけでも着けようと便座から立ち上がった。



「ど、どうして、裸なんですか? そ、それにその……。と、とにかく、前を隠して下さい!」



 その途端、高坂昌信が一歩どころか、二歩、三歩と後退る。

 それも上半身をやや仰け反らせて、真っ赤に染めた顔を俺から目一杯に背けて。


 どうやら熱烈に迫ってきた割に性根は純情らしい。

 今こそ、逃げる絶好のチャンスだが、それでは追いかけっこが始まり、力勝負だったのが体力勝負に変わるだけ。



「ふっ……。それこそ、どうしてだ?

 お前が儂の心を疑うから、違うという確かな証拠を見せてやっていると言うのに」

「えっ!?」



 だから、ここは逆にゆっくりと前へ進み出る。

 アレを維持する為、桃の肢体を思い出しながら両手を大きく開き、高坂昌信に堂々と見せつけるように。



「ほれ、解らぬか? 愛おしく想うあまり、はち切れそうになっているこの熱い滾りが」

「い、いけませぬ。ま、まだ陽は高いと言うか……。あ、朝に御座います」



 俺が一歩進めば、高坂昌信は一歩退きを繰り返して、攻守は完全に逆転した。

 今の俺は戦国時代にタイムスリップする以前の年齢イコール彼女居ない歴の俺では無い。

 上洛の旅の道中、遊郭のお姉さんについつい誘われて、とても楽しい一時を過ごした後、桃から大目玉を喰らい、そのご機嫌取りに幾度も鍛えた舌が有る。

 問題点を挙げるなら、ある手段を用いる事によって、桃とはその日の夜に仲直りが出来たが、同様の手段を高坂昌信に用いる事は絶対に出来ないところ。



「それもそうだな。早速と行きたいところだが、朝からは不健康だ。

 まずは旅の土産話をゆるりとして、楽しみは夜まで取っておこうではないか」



 悩んだ末、半日後の自分に問題を棚上げする。

 上洛の旅から昨日帰ったばかり。高坂昌信以外の客が訪れて、宴会でも始まるのを期待して。




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