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第18話 ながしの決戦




「はぁぁ~~~……。」



 温泉に肩まで浸かりながら溜息をこれでもかと吐き出す。

 寝床へ帰るのだろう。茜色に染まる頭上をカラスがカーカーと鳴いて飛んでゆく。


 天は俺を見捨てた。

 時は無為に流れてゆき、今という事を迎えてしまった。



「何でだよ。遠慮は要らないって言ったのに……。どうして……。」



 昨日、上洛の旅から帰ってきたばかりの為、今日の来客は多かった。

 語り尽くせない土産話を肴にして、今夜は皆で飲み明かそうと提案したにも関わらず、夕方を前に帰ってしまった。


 そう、高坂昌信一人を残して。

 最後の頼みの綱だった桃も居ない。余計な『今夜は私が居てはお邪魔でしょうから』という気遣いを残して、今夜は諏訪の街の宿で外泊である。


 今、この屋敷に居るのは最低限の要員のみ。

 最早、高坂昌信を止められる者は誰も居らず、その時は迫っていた。



「嫌だぁぁ~~~……。」



 今ではすっかりと慣れきった禿頭を抱えながら顔を湯に漬ける。

 これなら、どんな愚痴も零せる。人に聞かせられない愚痴がブクブクと泡になり、顔の左右を上がってゆく。


 やがて、肺に溜めていた空気が薄くなり、意識が朦朧とし始めるが、愚痴はまだまだ言い足りない。

 いっそ、このまま気を失って、気付いたら朝になっていたなんて、馬鹿な考えを持ちながら愚痴を零しまくる。



『今夜は儂とお前の二人で長篠の戦いだ』

『お、大殿……。せ、拙者の種子島はもう……。』

『ならば、三段撃ちだ! 打て!』

『アーーーっ! アーーーっ! アーーーっ!』



 酸欠のあまり嫌過ぎる妄想が頭に広がって、慌てて顔を上げる。

 大きな波が俺を中心に勢い良く立ち、岩風呂の水面が揺れまくる。



「ぷっはっ!? はぁ……。はぁ……。はぁ……。

 ど、どうして、俺が受けなんだよ! せ、せめて、そこは攻めにしてくれよ!」



 温泉に浸かっていながら鳥肌が立つ寒気。

 身体を温めようと裏山から温泉がかけ流しで注がれている場所へ移動しようと腰を浮かせたその時だった。



「大殿、お待たせ致しました」

「お、おう!」



 脱衣所の板戸が開閉して、何者かが湯けむりの向こう側に姿を現す。

 その正体が誰かなど言うまでもない。心臓をドキリと跳ねさせて、慌てて背を高坂昌信に対して向ける。


 ここで実は既に晴信は亡くなっており、自分が影武者である正体を明かしたら活路は開かれるかも知れない。

 だが、そんな勝手は絶対に許されない。信繁さんも、勘助さんも約束を違えた俺の命を奪う事を躊躇わないだろう。


 こんな事になるなら、事前にちゃんと相談しておくべきだった。

 まさか、高坂昌信がこうも強引に迫ってくるとは考えていなかったし、迫られたところで幾らでもはぐらかせると考えていた自分の見通しの甘さを猛省する。


 背後にて、かけ湯を三度流す音が聞こえ、生唾をゴクリと飲んで覚悟を決める。

 より正確に言うのなら諦めた。二年も焦らしに焦らして、ここまで至ったのだから、どんなにごねても高坂昌信はもう止まる筈が無い。


 ただ、前言を一つだけ撤回する。俺に『攻め』は無理だ。

 その勇気をとても持てないし、攻めようとしたところで肝心なモノが役に立たない。


 こうなったら、背後から一気にズブリとやって欲しい。

 高坂昌信がお湯を掻き分けて歩み寄ってくる音を聞きながら、飛び出てきそうなくらいに早鐘を打つ胸をきつく押さえ付けるように腕を固く組み、全身を強張らせる。



「フフっ……。大殿もですか?

 実は私も久々で緊張しているんですよ? ほら……。」

「えっ!?」



 しかし、いよいよ背後に立った高坂昌信が湯に身を静かに沈めて、俺の背中に優しく覆い被さってきた次の瞬間。

 身体がビクッと震えて、より強張るが、その一方で俺の頭の中は数多の疑問符が加速的に増えてゆき、それと共に全身の強張りがゆっくりと解けてゆく。


 先ほどは湯けむりが濃くて、その姿をはっきりと確認していない。

 だが、俺の背中に今抱きついているのは高坂昌信で間違いない。それ以外に考えられない。


 ところが、ところがだ。

 普段と違う一人称もそうだが、言葉遣いが柔らかくて、その密着する身体も鍛え抜かれた筋肉は確かに存在しながらも柔らかかった。


 その上、背中に押し付けられて、鼓動をドキドキと打っている大きな柔らかさが二つ。

 どう考えても女性の象徴たる『おっぱい』であり。自己主張に固くなっている中心の二つのポッチも男にしては大きい。



「ま、昌信?」



 俺の頭は大混乱。戸惑うしかなかった。

 答えを得る為、怖ず怖ずと振り返ってみれば、そこに居たのは確かに高坂昌信だった。


 但し、俺の知る高坂昌信とは大きく違う。

 いつも結わえている髷と言うよりはポニーテルと言った方が妥当な髷を解き、高坂昌信は美青年から長髪の美女へと変貌していた。



「もうっ……。こういう時は椿って呼ぶ約束です」

「う、うむ、そうだった。で、では……。つ、椿?」

「はい、何でしょう?」



 もしや、俺はキツネか、タヌキに化かされているのだろうか。

 それとも、これが噂に聞く天狗の仕業か。妖怪は本当に居たのか。


 こうなったら真実を確かめなければならない。

 今の時代にホルモン注射が存在しないのは当たり前だが、男性でも極々稀に胸が女性のように膨らむ症状があると何かで読んだ記憶が現代で有る。


 しかし、下はどう足掻いても無理だ。

 男の大事なモノをちょん切ってしまう去勢技術は仏門の秘術に存在するらしいが、ただ切除するのみ。現代の様な整形手術までは存在しない。



「えっ!? い、いきなり何を……。あぅぅっ……。」



 そこへと右手を使命感に燃えながら伸ばす。

 たちまち高坂昌信が悲鳴をあげて、身体を弓なりにビクッと跳ねさせる。湯の中でも解るくらいそこは既に準備万端だった。


 余談だが、三日後の未来の話。

 俺はこの屋敷へ訪れた信繁さんに『どうして、高坂昌信が実は女だって教えてくれなかったんですか!』と怒鳴った。

 それに対して、信繁さんは『あれ? 言ってなかったか? ……と言うより気づいてなかったのか?』と軽く返してきた後、高坂昌信が性別を偽っている事情を長々と語ってくれた。


 元々、高坂昌信は春日虎綱の名で呼ばれる正真正銘の男だった。

 甲斐のとある村の名主の嫡男として生まれるが、相続の争いで負けた挙げ句に家を追放された後、武田家当主となる以前の晴信に運良く拾われて、武士としての人生を歩み出す。


 だが、武士社会においても血統は重要視させている。

 その為、晴信に運良く拾われたからとは言え、味方は一人も居ない。逆に晴信から衆道的な意味で気に入られた分、やっかみは多かった。


 だから、春日虎綱は鍛錬という名の努力を積み重ねた。

 他者が一の努力を積み重ねるなら、春日虎綱はニの努力を積み重ねて、同僚達が酒に、女に、賭け事に現を抜かす中で努力を三も、四も、五も積み重ねた。


 その甲斐あって、二十五歳の若さで百騎持ちの侍大将にまで大出世。

 翌年には当時の北信濃を支配していた村上家を睨み付ける重要拠点の小諸城城代を任されるまでに至った。


 しかし、そこで努力と引き換えに全てを犠牲にしてきた姿勢が災いする。

 生い立ちを発端とする人付き合いの悪さがコミュニケーション障害を患わせてしまい、同僚や同世代はとっくに結婚をして、子供も作っているにも関わらず、未だに童貞。女性とまともに会話すら出来ず、嫁の宛てが一人も居なかった。


 この事態に晴信を含めた武田家重臣達が揃って頭を抱えた。

 もし、春日虎綱が戦死や不慮の事故死に果てたら、春日虎綱の部下達は忠誠を捧げる対象を失う。

 侍大将なら影響力は一軍の一麾下に過ぎないが、城代となったら影響力は一地方に及ぶ。その混乱は武田家全てに影響するのは目に見えており、春日虎綱の嫁探しは武田家の総力を挙げての急務となった。


 ところが、ここで春日虎綱の出自が再び問題となった。

 晴信は春日虎綱に唯一足りない箔を付けたかったが、その対象に挙げられた武田家重臣は元農民の春日虎綱を分家ならともかく、本家の婿として次期当主に迎えるのを嫌がった。


 そんな中、名乗りを挙げたのが高坂家。

 高坂家は武田家が北信濃へ進出してきた当初は村上家に従い、武田家に従った外様だが、血を遠く遡ると皇家に繋がる名門である。

 味方だった筈の村上家に奪われた領土の奪還を渇望していたが、当主は村上家との戦いの中で受けた膝の矢傷が原因で歩くのが困難になり、当主の兄弟はおろか、嫡男、次男も戦死してしまい、残った血族は姫一人のみ。武勲を戦場で挙げられないのなら、領土の奪還など届かない夢でしかなかった。


 しかし、春日虎綱という猛将には夢を確かな現実にする期待があった。

 高坂家にとって、領土を奪還する渇望の前に出自など問題にならず、晴信の腹心という事実もあって、嫁探しは渡りに船だった。


 だったら、晴信と武田家重臣達の中で高坂家の姫が春日虎綱の結婚相手として候補に挙がらなかったのは何故か。

 その理由は簡単。当時、十二歳の姫はまだ初潮を迎えておらず、髪削ぎの儀式を済ませていなかったからだ。


 今の時代、十歳以上の年齢差夫婦は珍しくない。

 だが、信繁さん曰く、初潮を迎えていない娘に手を出すのは武士として恥極まる獣の行為。下手したら、数年の自制を男盛りの二十五歳の男に強いるのは酷が過ぎた。


 ところが、春日虎綱は高坂家の申し出を受け入れて、姫との祝言を挙げて婿入している。

 男気が溢れる『奥手の自分には数年くらいの時間があった方が丁度良い。貴女が大人になる頃、私達はきっと似合いの夫婦になっているでしょう』というプロボーズを申し込んで。


 ちなみに、名前を『虎綱』から『昌信』に改めたのはこの時になる。

 武田家に受け継がれている自身の名の一字『信』を贈っている点から、晴信が高坂昌信の結婚を祝う大きな喜びが良く解る。


 そして、結婚の二年後。第二次川中島の戦いにて、高坂昌信は高坂家の悲願を達成する。

 犀川を間に挟んだ約200日の長期に渡る睨み合いと小競り合いの果て、武田家は長野盆地の南半分を支配下に置き、高坂家の手に故地が戻ってきた。


 ところが、肝心の高坂昌信がまさかの戦死。

 初潮を迎えて、妻としての役目をようやく果たせると喜び、夫の帰りを今か今かと待っていた姫の元へ届いたのは夫の遺体だった。


 この時、姫には二つの道があった。

 一つは、仏門に入り、尼となって夫である高坂昌信の菩提を弔うという道。

 一つは、姫と高坂昌信が閨を交わしておらず、本当の意味での夫婦にまだなっていないのは誰もが知るところ。籍を晴信の裁可で祝言を挙げる前まで戻して貰い、高坂家に婿を改めて迎えるという道。



 しかし、姫が選んだのは誰もが予想すらしていなかった第三の道だった。

 それを訃報を届けた晴信とその場に居た高坂家前当主と高坂家の家臣達を前に宣言した。



『再婚など言語道断! 高坂家の悲願を叶えてくれた旦那様に対する裏切りでしか有りません!

 でも、私は尼にもなりません! それを旦那様が絶対に望まないと解っているからです!

 旦那様が望んでいたのは武田の天下! そして、武田に高坂有りと知らしめる事です!

 だから、私が旦那様になります! 旦那様の名を継いで『高坂昌信』になります! 今日から私が『高坂昌信』です!』



 通常、こんな無茶は通らない。

 冗談は止めろと笑い飛ばされるか、気でも狂ったかと怒鳴られて終わる。


 だが、なんと晴信が『やれるものならやってみろ!』と了承する。

 晴信もまた高坂昌信の武名がそこで潰えてしまうのを酷く惜しみ、第三の道に明かりを照らす結果となったのである。


 高坂家の家臣達はその場で誰一人として欠ける事無く姫に忠誠を誓った。

 姫の気高さと高坂昌信に対する大恩。その二つに加わり、武田家の最高権力者が認めたのだから怖いものは無かったからだ。


 やがて、姫が率いる高坂軍団は武田家随一を誇る精鋭へと変貌する。

 これは姫自身が意外にも高い指揮能力を天禀として有していた点も挙げられるが、姫を守り支えようとする鉄の結束力が高坂軍団を強くさせた。

 先の第三次川中島の合戦とて、高坂軍団が誰よりも早く殿となり、長尾軍の苛烈な追撃を受け止めてくれたおかげで、俺は生を繋ぐ事が出来ている。


 さて、ここまで語ったら既にお解りだろうが敢えて言おう。

 今、俺の目の前に居る自分を『椿』と名乗った女性こそが高坂家の姫であり、今語った諸々の事情を今の俺は知る由も無いが、男だと思っていた高坂昌信が実は女だと解った俺にもう躊躇いは無かった。



「うおおおおおおおおおおおおおおっ!」

「キャっ!?」

「ふんぬ!」



 それどころか、今まで必死に逃げ回っていた恐怖を仕返ししてやろうと俺の感情は爆発した。

 まずは勢い良く立ち上がると共に椿を突き飛ばして、次は先ほどまで絶対最終防衛線だった褌の前垂れを尻に回した右手で一気に引っ張り、椿が正真正銘の女性である証拠を確かめている内に元気ハツラツとなったソレを大開放する。



「あ、あの……。ほ、本当にどうなさったのですか?」

「ふんがああああああああああああっ!」



 その上、間一髪を入れず、岩風呂の縁に倒れて身体を俯せさせている椿の元へ湯を激しく掻き分けながら歩み寄る。

 椿が茫然とした顔をこちらへ振り向けるが気にしない。猛る心が赴くままに左手で椿の背中を岩風呂の縁に押し付けて、右手で椿が着ている湯浴み着の裾を豪快に捲り上げる。



「えっ!? 違っ……。えっ!? お、大殿っ!? そ、そっちはっ!?」

「今更、何をごちゃごちゃと!」



 白日の下に晒される丸いお尻。

 復讐の時は遂に来た。何やら慌てふためく椿の両腰を力強く掴んで最後の一歩を踏み出す。


 しかし、これがとんでもない大失敗だったと三日後になって知る。

 先ほど語った信繁さんから聞いた話にはもう少し続きが有る。


 夫を亡くして傷心する女とそれを慰める男。

 椿と晴信の事だが、二人が心を寄せ合って結ばれるまで時間はそうかからなかったらしい。


 なにしろ、二人が主に出会うのは戦場。

 衆道が武士の嗜みとされる理由を考えたら、それは当然と言えた。


 だが、お互いに後ろめたさを拭いきれなかったのだろう。

 椿と晴信は決して男女の関係にまでは至らず、椿はあくまで高坂昌信として、二人は戦場における衆道の関係に留まった。



「痛っ!?」

「あれ? これって……。ええっ!?」

「嬉しい……。子種をようやく頂けるのですね。この時をずっと待っていました」



 つまり、俺の大失敗とはそういう事だ。

 復讐心から一気にズブリとやってしまった為、椿の中にあった夫に対する最後の未練を断ち切ってしまったのである。




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