「先ほどのお誘いですが……。私はここに残らせて頂きます。
第一、今更です。私が付いて行って、正妻を主張したら由布さんが困るでしょう?
それに……。桃さんと言いましたか? 都での一件は私の耳にも届いています。なら、私が居てはお邪魔でしょう?」
人騒がせな騒動が落着して、再び二人っきり。
俺と一緒に諏訪へ付いてくるかに関して、三条の方が切り出してきたのは中断していた夕飯をお互いに済ませて、食後のお茶を飲んでいる時だった。
由布さんとは諏訪の方を指し、口の中で『やっぱり』と呟く。
三条の方が喉を詰まらせるほど驚いた理由を俺なりに考えたが、それは正に予想していた通りだった。
周囲は晴信と三条の方の二人の仲を冷え切った疎遠状態にあると見ていたが違う。
冷え切っているどころか、心が完全に離れきっており、諏訪への移住を義理ですら誘われると考えていなかったに違いない。
「そうか……。解った。
だが、ここは信繁の城になる。お前と松が居ては本当の意味で城主になれん。
だから、北の積翠寺辺りに屋敷を作ってやるから、そこへ移り住め。あそこなら温泉が有るし、生活に困らない程度の化粧料は出せと信繁には言っておく」
「お心遣いありがとうございます」
だが、それで良いのかと悩んでしまう。
都から嫁いで二十余年。晴信の事実上の正妻でありながら、未練を全く感じさせない淡々と乾いた言葉に悲しさを感じてしまう。
今は亡き晴信の真意を知る術は無いが、影武者を演じる上で信繁さんから晴信の心情を推し測れるだけの情報を数多く聞いているだけに。
「それと……。今更になるが、この際だから言っておく」
「はい、何でしょう?」
迷いは一瞬だった。畳へ落ちかけた視線を三条の方へ戻す。
義信の葬儀が済んだ今、本拠地移転に関する諸々の作業は信繁さんが音頭を執り、俺と勝頼は当面の仮本拠地である上原城へ明後日には出発を予定している。
今後は余程の事が無い限り、甲斐を訪れる事は無くなるだろう。
こうして、三条の方と顔を合わせる機会も減る。もしかすると、三条の方は先ほど挙げた隠居地に引き籠もり、明後日限りになる可能性も否定は出来ない。
今、この時を逃したらチャンスは二度と巡ってこない。
それが俺を決断させた。人生を諦めきってしまった目の前の女性にその半生が決して無駄では無かったとどうしても伝えたくて。
「儂はお前を嫌った事は一度も無い」
「えっ!?」
「むしろ、逆だ。儂はお前を好いていた」
「えっ!? えっ!? えっ!? ……な、何の冗談です?」
ただ、他人事とは言えども面と向かっての愛の告白はさすがに照れる。
それもど真ん中の直球勝負だ。心が離れきっている相手に変化球などの小細工は通じない。
「冗談などでは無い。真の事だ。
そうでなかったら、義信以外に子を作るものか。儂は嫌っている女を抱けるほど器用な男では無い」
「で、でしたら……。な、何故?」
当然、三条の方は驚いた。
腰を浮かせかけた膝立ちの体勢で固まり、顔を瞬く間に紅く染めて。
それに釣られて、こちらも頬が熱くなってくるが耐える。
今すぐ頭を抱えながら大声をあげて、畳の上をゴロゴロと転がりたい衝動を懸命に耐える。
「初めて会った時の事を憶えているか?」
「は、はい! も、勿論です!」
取りあえず、上擦りそうになる舌を潤そうとお茶を一口飲む。
喉が盛大にゴクリと音を鳴らし、その拍子に三条の方が未だ膝立ちしたままでビクッと震え、裏返った声を返してきた。
これがギャップ萌えという奴だろうか。
三条の方は晴信とは同い年だが、俺とは十歳の年齡差がある。
今までおっかなびっくりで接していた知的な年上美人が俺以上に焦って照れる様子に可愛らしさを感じてしまい、それが俺の心に余裕を結果として与えた。
「藤色の着物に藍色の帯。どちらも柄は入っていない無地だったが、お前という素材を上品に引き立てていた。
一目見て、儂は目を奪われたよ……。
今でも親父の事は憎いが、あの時だけは感謝した。よくぞ、これほどの京美人を儂の嫁に用意してくれてとな。
それに比べて、儂ときたら……。金糸で描いた愛染明王を背中に背負った羽織と相打つ龍虎を左右に銀糸で描いた袴だ。
ふっ……。滑稽だったな。都の女に負けるものかと気合を入れたのが見え見え。山出しの田舎者そのものだ。
お前と祝言の席を列べている時、それに気付いてからは恥ずかしくて、恥ずかしくて堪らず、辛くて、辛くて仕方が無かった」
これは信繁さんが晴信から聞いた実話だ。
実の兄弟だからこそ、本音を語れたのは理解が出来るが、三条の方に全てを語れなくてもその一端でも語っていたら、今現在のような心が離れきった夫婦関係にはなっていなかったに違いない。
しかし、義信の例を合わせて見ると、それが晴信という男だったのだろう。
正に『武士は食わねど高楊枝』というか、基本的に意固地であり、自分が悪いと感じていても謝り方を知らずに格好をつけたがる。
「それ以来だ。何をやっても、お前に田舎者と馬鹿にされているような気がしてな。劣等感を抱くようになったのは……。」
そして、この懺悔は俺の推測になる。
恐らく、間違っていない。晴信から夫婦間の悩みを唯一打ち明けられた信繁さんも断言はしていないが、言葉を濁しながらもそれっぽい推測を持っている。
「わ、私は別に……。そ、そんな……。」
それを告げた途端、とうとう三条の方は堪えきれなくなった。
腰を落とすと共に両手を畳に突きながら項垂れて、肩の震えを次第に大きくさせてゆく。
「ああ、解っている。若い頃、お前は儂を田舎者とよく罵っていたが……。
それはそう言わせた儂の態度が悪かったからだ。
それにお前は面と向かって罵っても、陰口は決して叩かなかった。
むしろ、逆に京から連れてきた侍女達が甲斐は田舎だと陰口を叩く度に嗜めていたとも聞いている。
それに二年前だ。上洛して、京の女達をこの目で見て、初めて知った。
お前が嫁いだ当初から都の風習を捨てて、甲斐に馴染もうと……。儂に合わせようと努力をしてくれていたのを」
弱々しい背中をつい抱きしめたくなるが、それはサービスが過ぎる。
この懺悔はあくまで俺自身を納得させる偽善行為であり、晴信が残した負の遺産の尻拭い。私情を込めてはならない。
正面から肩に両手を置くだけに留めると、三条の方からポタポタと零れ落ちた涙が畳を濡らしてゆく。
「だから、お前は何も悪くない。
悪いのは全て儂だ。今まで済まなかったな」
ところが、俺は大失敗をしてしまう。
晴信と三条の方の夫婦仲は修復が順調に成ったが、どうやら順調に行き過ぎた。
この後、風呂を済ませて、寝室で寝酒を一人飲んでいたら、三条の方が襲来。
四十歳を数えながらもスタイルが崩れておらず、色気が漂うその夜着姿にどぎまぎしているところに『私にも少し飲ませて下さいな』からの『少し酔ってしまいました』の連続攻撃を喰らった挙げ句、トドメの一撃『最後に貴方の思い出を下さい』まで喰らい、俺はノックダウン。決して込めてはならなかった筈の私情を三条の方に熱く解き放ってしまう。
「まさか……。まさか、旦那様が私に頭を下げる日が来るなんて……。
でも、義信が事ある毎に言っていました。
父上は隠居して変わられた。母上も意地を張らず、諏訪へ会いに行くべきだと……。あれは本当だったのですね」
「そうか、義信がそんな事を……。」
その結果、まさかの一発必中。
もう二度と会わない最後の別れを交わしておきながら、俺達はたった四ヶ月で再会。三条の方は松を連れて、新築の本拠地へ引っ越してくる。
この青天の霹靂に勝頼が武田家当主に就いて我が世の春状態だった諏訪の方は愕然とするしかなく、椿と桃を巻き込んだ嫉妬の嵐が吹き荒ぶ大騒動へと発展する。
「だけど、今更ですね」
「そうだな。今更だな」
しかし、そんな未来が待っていると今は知る由も無い。今の俺は良い事をした達成感から得られる幸せに浸っていた。