「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子……。」
厳しい冬が過ぎ去り、待ちに待った雪解けの春。
外はまだまだ肌寒いが、護摩壇の炎が肌を照らすこの毘沙門堂は汗が額に噴くほど暑い。
しかし、それが良い。
蒸し風呂の如く暑い中、経典を唱えれば、それだけで俗世の煩わしさを忘れて一心不乱となり、仏に祈りをひたすらに捧げる事が出来る。
それは何ものにも代えがたい至福の一時。
とかく、人はそれを苦行と呼ぶが、儂にとっては娯楽に等しかった。許されるのなら、いつまでも祈りを捧げていたかった。
『景虎よ……。お前と信玄が北信濃を巡って争っているのは承知している。
だが、それを承知した上で言わせて欲しい。お前、信玄と和を結ぶ気は無いか?
実を言ったら、儂も以前は噂に聞く悪評を鵜呑みにしていたが……。
あの男、信玄は実際に会って話してみると、悪評で言われているような男とはとても思えぬ。
こう言ったら、お前は怒るかも知れないが、信玄は勤王精神がとても厚くて、お前に通じるものがある。
まあ、もっとも……。どうしてか、仏に対する信仰心はさっぱりだがな。
どうだ? 真剣に考えてはくれないか? お前にその気が有るなら、俺は助力を惜しまない。是非、信玄と和を結んで欲しい』
そう、一昨年。上洛して、義輝様と数年ぶりに再会するまでは。
今では常に義輝様の言葉が頭の片隅に有り、それに対する答えを未だに出せないでいて、それを一旦でも考え始めると落ち着かなくなる。
義輝様は本気だ。
当初は天下の趨勢から導き出した策の一つ、数ある幾つかの中に有る一つに過ぎないと軽く考えたが違う。
これは提案というよりは懇願。それも政治を抜きにした個人的な感情。
義輝様は別の時、別の場所で友誼を深く結んだ儂と信玄の二人が争うのを単純に憂いており、それが解るから明確な答えを出せないでいた。
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、舎利子是、諸法空相……。」
上洛から帰った後も変わらない。
義輝様から信玄との和議を求める手紙が月に一度、時には二度、三度と届く。
去年の冬は十年に一度の大雪となり、見上げるほどの高さに積もったが、それでも届くのだから義輝様の本気さが伺える。
ただ手紙が届くなら良いが、義輝様の使者として藤孝殿がこの春日山へ訪れると厄介な事になる。
去年は春と秋に二度訪れたし、今年もあと数日で訪れる予定の手紙が先ほど届いている。
「不生不滅、不垢不淨、不增不減、是故空中無色無受想行識……。」
信玄と上洛の旅を共にしたせいか、藤孝殿は熱心な信玄信奉者。
煮え湯を信玄に何度も飲まされた家臣達を前にして、信玄の素晴らしさを平然と並べるものだから荒れに荒れる。
それも連日に渡ってであり、家臣達の雰囲気が険悪な一発触発寸前になるまで見極めて去ってゆくのだからたちが悪い。
その後、儂が家臣達を宥めるのにどれほど苦労しているか。
去年は越中の神保家攻めと関東の北条家攻めが上手い具合にあった為、儂自身もそうだったが、家臣達もそこで思う存分に鬱憤を晴らして貰ったが。
「無眼耳鼻舌身意、無色聲香味觸法……。」
しかし、確かに隠居してからの信玄は評判が良い。
義輝様や藤孝殿の言葉に頷ける点が有り、帝から気に入られて、正四位下『刑部卿』の官位を賜ってさえもいる。
例えば、京都近郊に数多く存在する神社の再建。
儂自身もその荒廃ぶりを憂いてはいたが、ただ憂いているだけで実行はとても出来なかった。
再建させるだけの資金捻出が望めず、その資金が有ったら越後をもっと豊かに出来ると考えていたからだ。
ところが、信玄はどんな妖術を使ったのか。
出資者の名前を神社の石碑に刻む。その理解不能な代価を以て、利益を追求する筈の商人から多額の寄付金を引き出して、それを再建費に充てている。
それも寄付をした商人は一人、二人の数では無い。
都や堺の名だたる大商人は勿論の事、大中小を問わず、店舗すら持たない行商人ですら寄付を喜んで申し出たと聞く。
その結果、都は大いに賑わった。
荒廃する神社を再建する為の人足が必要となり、その日の食事すら覚束なかった流民達が職を得て、彼等が得た金を目当てに商人達が盛んに都を行き来するようになった。
しかし、この大きな功績を信玄は誇っていない。
これ等全ては偏に帝の大徳と義輝様の威光によるものと一切の褒美を断り、その功績を帝と義輝様の二人に譲っている。これこそ、儂が常日頃からそうありたいと心掛けている『義』の心そのものである。
「無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無無明盡、乃至無老死亦無老死盡……。」
だが、儂は知っている。知り過ぎているほど知っている。
信玄が隠居をする以前、信玄と名を変える以前の晴信が行った義を軽んじた行為の数々を知っており、それが義輝様に二年もの長い時を待たせている理由になっていた。
そんな儂に義輝様や藤孝殿は言う。
武田家当主という多くの人々を導かねばならない重責が信玄にそうさせたのだと。
それが隠居してからの信玄で解る。立場を抜きにした今の姿こそが信玄の本当の姿だと。
しかし、乱れた世だからこそ、義を見失ってはならない。
確かに一国の支配者は時に非情な選択を迫られる時が有るが、守るべき最低限の義も有る。
広大な信濃を次々と切り取り、武田家の支配下に収めた晴信の手腕は卓越したものだが、その過程にあった義を軽んじた行為の数々は多くの恨みを買っている。
これでは駄目だ。土地を手に入れても、そこに住まう人々の心も手に入れなければ意味が無い。
何時、誰が、何処で裏切るかが解らず、実際に北信濃の者達の中には生き延びる為に頭を武田家に垂れたが、儂が北信濃へ攻め込むその時は反旗を翻して味方するという誓約書を送ってきている者が幾人も存在する。
ちなみに、こちらの事情ばかりを語ったが、武田家側は和を結ぶ事に問題は無いらしい。
実際に武田家へ赴いた藤孝殿の話によると、前向きな考えを基本的に持っており、こちらの意思次第。いきなりの同盟が無理なら段階を踏んでも良いとまで言っている。
だが、これは武田家の当主が武田義信だった頃の話。
武田義信が急死して、新たな当主に武田勝頼が就き、信玄が相談役として現役復帰した今、その意思は変わっているかも知れない。
もし、そうなら悩み事は無くなるが、今も変わっていない場合はどうするべきか。
いずれにせよ、その回答はこれから訪れる藤孝殿が持っている筈であり、それまでに答えを出さねばならない。これ以上、義輝様を待たせる訳にはいかない。
「ふっ……。儂もまだまだという事か」
いつしか、悩むあまり読経が途切れているのに気づく。
悩みを鎮める筈が毘沙門堂に籠もる前よりも悩みを重くしている自分が滑稽で苦笑を漏らしたその時だった。
「むっ!?」
本丸と繋がる道に敷き詰めた砂利が忙しなく鳴って近づいていた。
この毘沙門堂は春日山城の最奥に在り、訪れる者は限られている。今日の本丸詰めの役目は誰だったかと考えて、爺『宇佐美定満』だったと思い出す。
但し、爺の愛称で解る通り、爺は半隠居状態の七十歳を超える老人。
その老人が年齢を顧みずに走ってくる。それだけで緊急を要する何かが生じたと解る。
「何事だ!」
「殿! 一大事に御座る!」
すぐさま立ち上がり、観音開きの扉を両手で叩きつけるように勢い良く開く。
やや遅れて、爺が到着。跪くも肩を激しく上下させて息も絶え絶え。
「信玄が一万の兵を率い、猿ヶ馬場峠を越えて、姥捨へ現れました!
この他にも上田、小諸の軍勢が埴科郡へ続々と集結しつつ有り、その数は二万を超えるとの事です!」
「なっ!?」
「御下知を!」
しかし、爺は息切れを無理矢理に抑えると、力強い眼差しと共に本丸から携えてきた風雲急を一息で告げた。
予想した以上の大事に息を飲み、目をこれでもかと見開く。今の今まで正反対の悩みを重ねに重ねていただけに衝撃は大きかった。
やはり信玄は信玄。そういう事か。
義輝様の熱意を嘲笑う行為は晴信の頃と全く変わっていない。信じようとした自分が馬鹿だった。
「陣触れを直ちに出せ! 準備が整った者から直ちに出陣!
上越の軍勢は牟礼へ! 中越の軍勢は飯山へ! 下越の軍勢は半数を後詰めとして長岡へ集い、東北に備えよ!」
「御意!」
だが、今は呆けている暇も無ければ、後悔している暇も無い。
信玄の用兵は掲げる旗にこめられた『風林火山』の文字通り、風の如く速い。すぐさま我を取り戻して、指示を矢継ぎ早に出す。
「おのれ! 信玄んんんんんんんんんんっ!」
己の身を焼き尽くして焦がしそうなほどの憤怒の炎が燃え上がってゆく。
それは鼻息を荒くして怒鳴った程度ではとても治まらず、右手に持っていた護摩札を両手でへし折り、大地に思いっきり叩きつけても治まらなかった。