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山の章

第26話 再び始まりの地へ




「ふぅ……。天気が良いな」



 澄み渡った青空を馬の背に揺られながら見上げて呟く。

 ぽかぽかとした陽気は心を自然と蕩けさせる力を持っているが、周囲の様子は物々しかった。


 それもその筈。今、俺は総勢二万の兵力と共に千曲川沿いを北上中。

 今朝、出発した時は右手側に見えていた妻女山が今では背中に在り、いよいよ北信濃の平野が前方に広がっていた。


 北信濃は武田家が統治下に有るが、その心服度お世辞にも良くない。

 関東の山内上杉家の家督を継ぎ、今は上杉輝虎と名前を変えた長尾景虎の調略が重ねられているのは明らか。


 実際、北信濃を統治する高坂昌信から聞かされた愚痴によると、北信濃は年貢の徴収率がとても悪いらしい。

 北になればなるほど、上杉家に近くなればなるほど石高に対しての年貢徴収率は悪くなり、北信濃の北半分は最初から石高半分で計算を数えているとか。


 それだけに上杉家の軍勢が何時、何処から現れるか。

 忍者達を斥候に四方八方へ放ち、安全を確保しているが絶対では無い。

 周囲の様子が物々しくなるのは当然だが、気負い過ぎては心が徐々に疲れてしまい、いざと言う時に力を発揮する事が出来ない。



「なあ、勝頼? 勝頼? ……勝頼!」

「えっ!? あっ!? はい、何ですか?」

「今日は天気が良いな」

「えっ!? あっ!? はい、そうですね」



 だから、総大将たる者は空元気でも余裕を持たなければならない。

 総大将が泰然自若に構えていれば、それは下に自然と伝播して、リラックスした空気を生む。


 その点、勝頼は駄目駄目の失格。

 隣に横目を向ければ、勝頼は口を固く結び、その眼差しは睨み付けるように鋭くて、明らかに気負い過ぎていた。


 おかげで、俺達の周囲は緊張感が無駄に漂い、誰も喋ろうとしない。

 今朝、出発してからずっとだ。大地を踏む音と甲冑の揺れる音が規則正しいリズムを鳴らして、それはまるで閲兵式を行っているかのようだった。


 もっとも、勝頼が気負ってしまうのも無理は無い。

 当主就任後、手頃な山賊団を選んで初陣を急ぎ済ませてあるとは言え、今回が実質的な初陣だ。

 それも率いる兵力が武田家の総力を挙げた最大動員となったら尚更である。これで気負わなかったらおかしい。


 しかし、隣にいる俺は堪ったものではない。

 他の者達もだ。無言ながらも『大殿、何とかして下さいよ!』という切なるアイコンタクトが幾度も届いていた。


 だが、俺自身も実は初陣。そんな術は知らない。

 こういう時の為に真田幸隆を後見人に、真田昌幸を側仕えに据えたのだが、その二人は残念ながらここには居ない。


 真田家は東信濃の西端に在る上田を領地に持つ家。

 北信濃と東信濃を統括する高坂昌信を一大名として考えたら、重臣中の重臣。

 真田幸隆と真田昌幸の二人は役目から一時的に離れて、俺達が今居る場所よりずっと先に位置する高坂昌信が率いる先鋒隊に所属している。


 その結果、俺はこの場の最上位者でありながら周囲を気遣い、勝頼を接待するという変な構図が出来上がっていた。

 話題を懸命に捻り出して、あれやこれやと試しているが、効果はさっぱり。俺一人が空回りして喋っている状態に陥っていた。



「さっきから何度も言っているが、そう気負うな。

 今から肩肘を張っていては本番どころか、本番を迎える前に疲れてしまうぞ?

 それに戦は一日で終わる方が珍しい。時には数ヶ月に及ぶ事だって有るのだから、もっと気を楽にしろ」

「はい、解ってはいるのですが……。」

「だったら、景色を楽しめ。

 お前、甲斐と諏訪しか知らないだろ? 景色を楽しんでいれば、心も自然と緩む」

「なるほど、景色ですね! こうですか!」



 そして、今朝から何度目になるか解らないアドバイスもやっぱり失敗に終わった。

 勝頼は景色を精一杯に楽しもうとしたのだろうが、景色を楽しもうとするその動きは鋭敏が過ぎた。


 顔を振り向ければ、風を切るようにブォンブォンと。

 そこを見定めれば、射殺さんばかりにギロリと擬音が聞こえてきそうなほど。



「違う、違う。そうじゃない、そうじゃない」



 溜息を深々と漏らしながら首を左右に力無く振る。

 勝頼は基本的に真面目で一直線な性格の持ち主。時に感心するほどの粘り強さを持っているが、それを逆に言ったら生真面目で融通が効かないという意味になる。


 それを良く知っている周囲を守る親衛隊は問題ない。

 問題は親衛隊の外、勝頼をあまり知らない者達が戦を前に怯えている、弱腰になっていると勘違いして、勝頼武田家当主不適論が持ち上がって貰っては非常に困る。


 端的に言うと、過去の栄華を忘れられない甲斐の者達『甲州閥』だ。

 ある程度の反発は予想していたが、武田家の地力たる甲斐の家臣達の一部が不満を燻らせているのだから厄介極まりない。


 ちなみに、俺と勝頼の仲はとても良好。

 初対面の頃はぎこちない関係だったが、諏訪の屋敷と勝頼が生まれ育った上原城が近くも無ければ、遠くも無い距離にある上、多感な第二次性徴期と重なったのが功を奏したのではなかろうか。

 諏訪の方と会う為に上原城へ通っている内に次第に懐き、当主となる以前は勝頼の方から週一の頻度で諏訪の屋敷を訪ねてくるようになり、お互いに忙しい身となった最近も都合を合わせて、狩りや遠乗りを一緒に楽しむ仲にまでなっている。


 それだけに現状を改善したかった。

 くれぐれも頼むと信繁さんからも言われてもいる。


 しかし、下手の考え休むに似たり。

 先ほども言った通り、既に失敗を何度も重ねており、成功したのは勝頼の緊張を解く術を何度も考えている内に俺自身の緊張がいつの間にか何処かへ消えてしまった事か。



「では、どのように?」

「どのようにと考えている時点でおかしいと気づけ。

 ただ、在るがままに……。そうだな。歌なんて、どうだ? 歌を詠んでみろ?」

「歌……。ですか?」



 そこまで考えて、はたと気づいた。

 勝頼の気負いを解く術ばかりを考えていたが、俺同様に考え悩ませて、自分自身の内側に問いかける事こそが正解なのではないだろうか。


 その手段として真っ先に思い付いたのが俳句だった。

 現代において、俳句や短歌は高尚な文学というイメージを持つが、今の時代では違う。


 ルールは季語と五七五、或いは五七五七七の韻を踏んだ文字数の二点のみ。

 道具を必要とせず、どんな時でも場所を選ばずに作れる俳句はとても身近な娯楽である。

 勿論、貴人達が習う書道や華道のような流派に高尚さも存在するが、現代と比べたら生活に溶け込んでおり、例えるなら駄洒落のようなもの。


 思い返せば、上洛の長い旅路もそうだった。

 俳句を持ち回りで一句詠み、それを皆で批評し合う。そうやって、退屈と歩き疲れを紛らわせていた。

 特に往路は藤孝殿という一流の先生が一緒だった為、様々なテクニックを教わり、馴染みを持っていなかった俺も京都へ着く頃にはごくごく当たり前に俳句を楽しめるようになっていた。


 勝頼は生真面目だ。

 軽々しい適当な一句は読まない。これぞという一句を考えに考えて捻り出してくるに違いない。

 心を静かな水面のように落ち着かせる事にこそ、俳句の極意は有る。今は尖りきっている勝頼の心は自然と丸みを帯びるだろう。


 幸いにして、苦し紛れから出た今さっきのアドバイスと上手く繋がっている。

 それと提案した以上、俺が先手を取って詠うのが礼儀になるが、この点にも幸運を感じる。


 なにしろ、左手側に見える千曲川沿いに青々と生い茂る林に俺は見覚えがあった。

 いや、目に焼き付いて忘れられない光景と言った方が正しいか。ここは戦国時代にタイムスリップしたばかりの俺が言われるがままに晴信の甲冑を身に纏い、俺の首を取ろうと追いかける長尾家の軍勢から命からがらに落ち延びた場所だ。


 即ち、現代では川中島古戦場跡と呼ばれる場所。

 死を隠す為に首を断たれて、身ぐるみを剥がされた褌一丁の姿で野ざらしにされた晴信が眠る草原がもう少し進んだ先にある。



「うむ、そうだな……。

 夏草や、兵どもが、夢の跡……。と言うのはどうだ?」



 そう、今の季節、この場所にこれ以上なく相応しい一句を俺は知っていた。

 俳句が馴染み薄くなった現代においても義務教育の国語の教科書で採用されている可能性が高い為、大抵の者が知っている有名な一句。

 江戸時代の歌人『松尾芭蕉』の俳句集『奥の細道』の中でも一、ニを争う一句をあたかも自分が作ったかのように青空を遠い目で見上げながら詠み上げた次の瞬間だった。



「素晴らすぃぃぃぃぃいいいいいしっ!」

「うおっ!?」



 勝頼とは逆側のすぐ左隣から絶叫が轟いた。

 この唐突な出来事に俺は勿論の事、勝頼も、周囲の者達もビックリ仰天。乗っている馬すらも驚き嘶いて前足を持ち上げる有り様。



「夏草や、兵どもが、夢の跡……。素晴らしい! 素晴らしい! 実に素晴らしい!

 ここは信玄様と輝虎殿が覇権をかけて戦い、数多の兵士達が武功を夢見て戦った散った場所!

 しかし、今は夏草が青々と生い茂っているだけ。その静けさの前では胸を焦がした野望も一炊の夢に思えてならない!

 即ち、人間の考える事や成す事は儚く消えるが、自然はどんな嵐に遭おうがいつも変わらずに逞しく存在している! ……という意味ですよね!」



 だが、人騒げさな張本人である藤孝殿は興奮しまくり。

 力強く握った両拳を大空に掲げながら絶叫を更に三連発。鼻息をフンフンと荒くさせて、俺がパクった松尾芭蕉の一句を解説すると、その確認を血走りまくった肉食獣の目で問いかけてきた。



「い、いや、それよりもだ。な、何故、ここに藤孝殿が居るのだ? ま、まずはそれを……。」

「そんな些細な事、今はどうでも良いでしょ!」

「い、いやいや、些細じゃないだろ? わ、我々は軍事行動中であって……。」

「だから、そんな下らない事よりも早く応えて下さい! 今、私が言った通りですよね!」

「う、うん……。ま、まあ、そうかな?」



 何故、藤孝殿がここに居るのか。いつから居たのか。

 その当然の疑問を藤孝殿の凄まじい気迫に圧されて飲み込み、顔を引きつらせながら頷く。



「くぅぅ~~~っ! やはり……。やはり、そうでしたか!

 んっ!? んんっ!? ……ややっ!? もしや、もしやっ!? なるほど、そうですか! 解りましたよ!

 明国の古の詩聖『杜甫』の春望! 国破れて山河在り、城春にして草木深し! この一節を置き換えたのですね!

 ますます素晴らしい! 詩聖『杜甫』ですら、八節を必要としたのを……。なんと、なんと三節に凝縮するとは!

 それが解ると、今まで一字一句を変えようが無い完璧さを感じていた春望の遠き故郷を思った部分が蛇足のように……。

 素晴らしい! 素晴らしい! 素晴らし過ぎる!

 特に夢の跡……。夢の跡! ああ、信玄様の嘆き、哀しみがひしひしと伝わってきます! この余韻が実に素晴らしい!!」

「そ、そうか……。」



 最早、藤孝殿の独壇場だった。

 その身振り手振りを交えた猛烈な勢いを誰も止められずにいた。


 この間、俺達の前を行く者達との距離がどんどんと離れてゆく。

 きっと後続の者達は俺達がいきなり行軍を止めて、何事かと思っているに違いない。


 俺も、勝頼も、周囲の者達も足を自然と止めた。止めざるを得なかった。

 藤孝殿の熱弁を黙って拝聴しなかったら烈火の如く怒られそうで怖かった。



「そして、何と言っても今の世の中を如実に風刺している点が素晴らしい!

 しかも、それを覇者として名を馳せた信玄様が詠っているところに意味が有ります!

 室町を蔑ろにして、三好に尻尾を振る木っ端共に今すぐ聞かせてやりたいくらいです!

 間違いなく、これは歴史的名句の予感! それが道々の暇潰しだけに消えてしまうのは誠に残念でなりません!

 信玄様、お願いが御座います! 今の一句、私に預けて頂けませんか? 来春、帝がご主催をなされる歌会初めで是非とも詠み上げたいのです!」

「ええっ!? ……い、いや、駄目だ! そ、それは困る!」



 しかし、これ以上は駄目だ。とても黙っていられない。

 大絶賛に継ぐ大絶賛の末、藤孝殿から持ち掛けられた提案に目をギョギョッと見開かせて、慌てて口を挟む。


 ちょっと前の自分に馬鹿、阿呆、止めろと罵りたい。

 勝頼にちょっと良いところを見せようと下らない見栄を張った結果がこれだ。


 只でさえ、影武者の俺は晴信が本来は得る筈だった名声を奪っている身である。

 この上、松尾芭蕉が約100年後に得る予定の名声を先取りして奪うなんて恥知らずな真似はとても出来ない。藤孝殿を何が何でも止めなければならなかった。



「何故です! どうしてです! 理解が出来ません! 

 これほどの名句、帝に献上すれば……。はっ!? そう、そうでしたか!

 申し訳御座いません! 信玄様の御心を理解する事が出来ず……。

 しかし、ご安心を! 今の一句で私の心は今日の空のように何処までも青く澄み渡りました!

 この上はご期待に一命を賭して必ずや応えてみせます! この細川藤孝に全てお任せを!

 さあ、島風よ! その名の如く、風となって走るんだ! さあ、急げ! はいよ、はいよ! おっそーいー!」



 だが、駄目だった。こちらが提案を拒否した途端、日頃の洗練された雅さは何処へ消えたのか。

 藤孝殿は結った髷が解けるほどに顔を左右に振り乱し、血走りきった目で唾を飛ばして怒鳴りまくり。


 挙句の果て、何やら謝罪した上に何やら一人納得しての自己完結。

 意味不明の並ならぬ決意を瞳に輝き宿すと、馬に鞭を何度も入れ、その背中をあっという間に小さくさせてゆく。



「何だったんだろうな?」

「何だったんでしょう?」



 置き去りにされた俺は茫然と目が点。

 救いを求めて、顔を隣に振り向けるが、勝頼もまた茫然とした間抜けな顔を晒していた。




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