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~幕間~ 上杉輝虎、義を知る




「儂は上杉殿が盟約を結んでくれるのなら、犀川を境にした北の善光寺平から越後までの国境を御料地として、帝に献上する意思が有る」

「なっ!?」



 信玄の同盟に対する熱意と呼ぶには生ぬるい不退転の覚悟に驚くしか出来なかった。

 間抜けな声が口から思わず飛び出て、その開いた口を閉じるのさえも忘れるくらいに。


 善光寺平は広大な信濃の中でも特に肥沃な地。

 東西南北の山々から流れる川と中央を横断する千曲川の豊富な水が大地を潤している。


 その為、戦国の世になってからは至るところで勢力図が何度も書き直されていた。

 儂と信玄もお互いに総力を上げて、三度も争っている。それだけをする価値が善光寺平には有った。


 なにしろ、善光寺平の石高は十万石を超える。

 それも検地帳が長年の戦乱で不正確になっている為、かなり少なく見積もっての推定で。


 犀川を境にした北をと前提に付けているが、事実上の全域である。

 信玄の手に残る土地は二割程度でしかなく、残りの八割を帝に譲ると言うのだから、驚くなというのが無理だ。


 しかし、同盟を結ぶにあたり、これ以上の保証は無い。

 帝の御料地を奪おうと兵を挙げた瞬間、その者はたちどころに朝敵となり、この日の本に住まう者達全ての討伐目標になるのだから。



「そして、その地を治める代官として、村上義清殿を推挙する。

 村上義清殿ならば、北信濃を良く知っているし……。まあ、過去の詫びも込めてな」



 だが、驚きはまだ続いた。

 同時に信玄の思惑を悟り、敗北感も悟るしかなかった。

 今、信玄が名前を挙げた『村上義清』は儂の臣下の一人だが、嘗ては北信濃と東信濃を統べていた大名である。

 東信濃へ進出してきた信玄と激しく対立して、戦では勝利を重ねながらも謀略によって敗北。言い換えるなら、儂と信玄の十年の長きに渡る争いの発端となった人物でもある。


 当然、村上殿は武田家との同盟は大反対。上杉家における反武田家の最先鋒。

 巧みな弁舌を持つ藤孝殿ですら、その頑な心を解そうと何度も試みた末に根を上げている。


 この会談ですら、最後の最後まで反対を訴えていた。

 それこそ、この高台がある中州へ渡る船に乗る直前、儂に『末代までの汚名は引き受けます。合図をくれたら、信玄を必ずや射殺してみせましょう』と耳打ちしてきたほど。


 しかし、この提案を持ち帰れば、村上殿は武田家との同盟に頷く。

 勿論、過去の因縁から即座に両手を挙げての賛成とはならないだろうが、最終的に頷かざるを得ない利と事情が村上殿には有った。



「何という尊王精神! この細川藤孝、感服を致しました!」

「即位式を挙げる為に随分と苦労なさったと聞く。

 知らなかったならまだしも、知った以上は臣として放置は出来ん。

 なら、何処を御料地として献上するのが良いかと考えた時、帝の御威光を利用するようで心苦しくはあるが、今言った地こそが最適地と閃いたのだ」

「なるほど、なるほど……。

 ……して、上洛はいつ頃になりましょうや?」



 己が呆然と立ったままで居るのを遅まきながら気づいて床几に座る。

 そんな儂を抜きにして、信玄と藤孝殿の二人が話に盛り上がっているが、今は丁度良かった。一人、静かに考えたかった。


 改めて言うが、村上殿は元大名である。

 大領を与えたら、それに相応しいだけの才覚を発揮して、大きな成果を出してくれるのは解っていた。


 だが、土地には限りが有る。

 儂を頼って落ち延びてきた時、信玄を追い払った後の北信濃の統治は確約が出来たが、当家に長く仕えている者達の既得権を削るのは難しくて、糸魚川の南に位置する姫川の上流にある山間の狭い平地を所領として与えるのがやっとだった。


 有事における可能動員兵数は500を超えない。

 心苦しさを感じる大名時代とは比べものにならない没落ぶり。


 しかも、糸魚川と中信濃を繋ぐ道が走っており、武田家に対する監視の役目を担っているのだが、冬は春日山以上に雪深くて、全域が山間で狭くて長い。

 大軍を進めるには不向きであり、大軍同士がぶつかり合った場合は戦域の狭さから互いに兵力を無駄に磨り潰すだけの消耗戦にしかならず、信玄が侵攻路に選ぶ可能性はゼロに等しい。端的に言えば、嫌がらせに過ぎない小競り合いは発生しても、影響を大局に全く与えない敵を見張る閑職である。


 それでも、村上殿は不満を漏らした事は一度も無かった。

 その理由は言うまでもない。現状の不満より信玄に対する憎しみが勝っていたからだ。


 しかし、儂の臣下となって、十数年。村上殿も歳を取り、今は六十を数える。

 酒を飲んで酔う度、大名時代に得た官位の数々を嫡男に継がせるだけの力を自身が持っていない事を嘆いているらしい。


 それをどうにかしたかが、儂では駄目だった。

 朝廷は寄進を積んでも、官位に相応しい力を持たなければ駄目という至極当然の返事。


 だが、信玄の提案を飲んだら話は違ってくる。

 帝の御料地を預かる代官であるなら官位は必須。村上殿が持つ官位を嫡男に継がせるだけの理由は十分に立つ。



「くっくっくっ……。藤孝殿も忙しないな。

 だが、教えてやろう。……この後、すぐにもだ」

「へっ!?」

「だから、この同盟が纏まりさえすれば、すぐにも上洛する予定だ」

「な、なんとっ!?」

「……と言うのも、ここだけの話。

 先月、氏真殿から手紙が届いたのだが……。

 どうしても三河の松平を討ちたい。

 しかし、準備は万全と言い難く、儂の力を借りたいと懇願されてな」



 それに儂自身がこの提案を断れない。

 儂も帝が自身の即位式を挙げるのに随分と苦労した話は聞いている。

 更に付け加えるなら、御歳を召してきた帝が最近はお労しい事に体調を崩しがちとなり、譲位を考えながらもやはり資金面での問題が有り、在位し続けているのもだ。


 だったら、どう考えても断るどころか、歓迎すべき提案である。

 信玄が提示する犀川を境に北の善光寺平一帯が御料地となったら、資金面での問題はたちどころに解決するのだから。


 正しく、藤孝殿の言った通り、見上げた尊王精神。

 信玄が上洛した時の京での行いの数々を聞く度、半信半疑を抱くと共に尊王精神の高さを感じてはいたが、こうも高いとは思ってもみなかった。



「ああ、義元様が桶狭間で討ち死になさった後、そのどさくさに紛れて独立した者ですな?

 私がこちらへ訪れる直前、嵐鹿毛なる駿馬の献上があり、義輝様から三河守の名乗りを認めるかの是非を相談されました」

「何っ!? 義輝様は認めてしまったのか?」

「いえ、松平殿が得たのは三河の西半分。

 三河守を名乗りたいなら、まずは三河全域の平定後となりました」

「そうか……。なら、良いのだ。

 義元殿の姪を娶り、今川の一門に列せられながらも義元殿が亡くなるや否や、その恩を忘れて裏切った松平は断じて許せん」



 その上、この提案は儂にも大きな利が有る。

 今の儂は長尾家の主筋だった山内上杉家の家督を継ぐと共に関東管領の官職も継ぎ、関東の地に騒乱を四代に渡って起こしている相模の北条家と敵対関係にある。


 しかし、越後から関東は遠い。

 遠征路とて、南魚沼の坂戸城から沼田へと南下する道が一本のみ。

 春日山城を始めとする上越の軍勢はまず坂戸城へ向かう為に柏崎経由の大回りの道をどうしても進まなければならない。


 だが、善光寺平が御料地となり、その代官が村上殿になったら、もう一つの選択肢が生まれる。

 通過の謝礼を支払う必要が有るのと山越えの険しさは有るが、善光寺平の須坂から草津を越える関東へ延びる道が使えるようになる。


 遠征路が二つになれば、今より素早い進軍が出来るばかりか、軍略の幅がぐんと広がる。

 譬え、今はたった一つの関東への出入口である箕輪城を北条家に奪われようと、東西からの挟撃が可能なら奪還は容易い。



「では、三河を足がかりに上洛を?」

「うむ、氏真殿の援軍に応える形でな。

 切り取り放題の約束は貰っているが、兵糧も提供して貰うのだから京への道が拓けたら十分だ。無用な欲をかいて、時間を徒に費やすのは悪手だからな」

「なるほど」



 ところが、この提案。不可解な点が一つだけ有る。

 それは帝も、義輝様も、儂も、村上殿も大きな利を得ているにも関わらず、肝心の発案者である信玄は利を得ていない点だ。



 間違いなく、帝はお喜びになる。義輝様もだ。

 帝はその勤王精神の高さに相応しい新たな官位を信玄に下賜するだろうし、義輝様も自分の期待に応えてくれた信玄に幕府の官職を与えるだろう。


 しかし、今の戦国の世において、官位も、官職も残念ながら名誉の意味合いが強い。

 関東管領である儂が関東を実際に支配していないように、家格を示す箔だったり、その地を治める大義名分に過ぎない。


 それを何よりも欲する者は確かに存在するが、信玄もそうかと問われたら違うと断言が出来る。

 長い年月と莫大な戦費、数多の将兵。その三つを用いて、手中に収めた善光寺平を手放すのだから、それと同等か、それ以上の利を引き換えにしている筈に違いないが、その利が幾ら考えても解らない。



「しかし、今だから言うが……。

 儂は荒廃した京を憂いてはいたが、去年まで上洛の意思は持っていなかった。

 何故かと言ったら、御所が絶えたなら吉良が継ぎ、吉良が絶えたら今川が継ぐ。

 それを知りつつ、義元殿から上洛の意思も聞いていた手前、出しゃばるのはどうかと考えていたからだ」

「そのような事情が……。言葉は悪いですが、以前の煮え切らぬ態度はそれが理由でしたか」

「ああ、そうだ。

 ところが、義元殿がまさかの討ち死に。その知らせが届いた時、儂は焦った。

 人間五十年……。それを考えたら、儂の時間はそう残っていない。今、動かねば間に合わぬとな」



 だが、人間五十年。その信玄の口から発せられた言葉が耳に届いた瞬間、全てを理解した。

 雷が脳天から足の裏まで突き抜けたかのような驚愕に身体がブルリと震えて、いつしか考えに没頭するあまり伏せていた視線を慌てて上げてみると、信玄は覚悟を決めた強い眼差しで大空を見上げながらも、口元は爽やかな笑みを浮かべていた。


 そう、信玄は己に残された半生と武田家の全てを賭けて、天下を正そうと言うのだ。

 その大いなる義の前に打算など無い。儂と同盟を結び、後方の安全を買えるなら北信濃程度は安いものだと眼差しが、微笑みが語っていた。


 穴が有ったら、今すぐ入りたい。儂の今の心境は正にそれだった。

 この会談を前にして、儂と爺が何を話し合ったかと言ったら、信玄と同盟を結ぶとしたら何処に境界線を引き、何処までの土地を手に入れられるかだ。



「では、改めて申し上げよう。

 上杉殿、今まであったわだかまりを捨てて、武田家と和を結んではくれまいか?」



 人間は変わりさえしたら、こうも変れるのかと驚嘆する。

 その気高さを知った今、躊躇いは無かった。信玄から同盟の是非を改めて問われて頷こうとした次の瞬間。



「そして、今すぐは無理でも儂と共に京を目指さないか?」

「なっ!?」



 続けざまに信玄の口からとんでもない言葉が飛び出した。

 驚愕のあまり身を乗り出した上に顔も突き出して、目を見開ききって口も大きく開ける。


 さぞや間抜けな姿を晒しているに違いない。

 しかし、口を真一文字に結んだ信玄は床几から立ち上がると、儂との間にあった距離を真ん中まで歩み寄り、右手をゆっくりと差し出した。



「お前の強さは儂が誰よりも知っている。

 お前も儂の強さを誰よりも知っている筈だ。

 ならば、儂等二人が手を結べば、天下無敵!

 浅井、朝倉、六角は当然として、三好も敵ではない! 儂と共に義輝様を、天下を支えようではないか!」



 昨日までの好敵手から贈られた最大の賞賛に魂が打ち震える。

 今、この場に一人だけだったら、涙が止めどなく流れていただろう感動が押し寄せてくる。


 胸がドキドキと高鳴る高揚感を感じながら理解した。

 信玄の大望を耳にして、それを気高いと感じる一方、それを実行に移せる立ち場にある信玄を羨む自分が居たのを。



「おおっ!? 正に、正に! その通ぉ~りに御座います!

 御二人が揃えば、怖いものは無し! 三好なんて、ちょちょいのちょいですな!」



 藤孝殿は頭上で拍手喝采。大はしゃぎの大興奮。

 当然の反応だ。藤孝殿が我々に同盟を結ばせようと奔走していたのはあくまで準備段階に過ぎず、大本命は同盟の先にある儂か、信玄のどちらかが大兵力を率いての上洛にこそ有る。


 その苦労がまだまだ続くと思いきや、信玄が大兵力を率いての上洛が確定。

 この上に儂が大兵力を率いての上洛が確定したら、義輝様の元へ大手を振って帰れる。



「ま、待て! い、いや、待って下され!」



 慌てて開ききった右掌を勢い良く突き出す。

 義輝様を支えようとする意思は信玄に負けないものを持っているが、今の儂には大兵力を率いての上洛が出来ない事情が有った。



「ふっふっ……。解っておる、解っておる。

 昨日まで槍を突き合わせていた者同士が今日は轡を列べるなど難しい事くらい。

 だから、上杉殿は北から、儂は南から京を目指すのだ。

 はっはっはっ! 今度はどちらが先に京へ辿り着けるかで勝負だ! 上杉殿、儂は負けぬぞ?」



 だが、信玄は差し出した右手を下ろさない。

 下ろさないどころか、悪巧みを誘うようにニヤニヤと笑いながら、こちらへ一歩、二歩、三歩と歩み寄ってきた。



「お待ちを! 和を結ぶのに異存は有りませぬ!

 なれど、上洛に関しては……。そのお誘いは……。私は……。」

「関東か?」

「そうです! 私は関東管領! 関東に平穏を導く役目が有ります!」



 信玄との距離はたったの数歩。

 今すぐ立ち上がり、差し出された右手を手に取りたかったが、その数歩が果てしなく遠かった。




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