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第30話 その時、歴史は動いた




「お待ちを! 和を結ぶのに異存は有りませぬ!

 なれど、上洛に関しては……。そのお誘いは……。私は……。」

「関東か?」



関東から落ち延びてきた山内上杉家の養子となり、長尾景虎が名前を上杉輝虎と改めたのが今年の三月。

 棚ぼた的に譲られた官職『関東管領』であろうと、それは関東に覇を唱えつつある相模の北条家を打倒する為の大義名分になった。

 そこまで至った経緯など詳しい詳細を語ると非常に長くなるので省くが、そういった事情から上杉輝虎が上洛の誘いを断るのは最初から解っていた。



「そうです! 私は関東管領! 関東に平穏を導く役目が有ります!」



 その為、淡々とした拒否が返ってくると俺は考えていた。

 しかし、この半ば怒鳴るような叫びを聞く限り、本音が別にあるのは明らか。思わず笑みが零れそうになるのを堪えて、溜息を深々と漏らして見せる。


 去年、上杉輝虎は山内上杉家の要請に応える形で三国峠を越え、北条家が支配する上野へと攻め入っている。

 数多の城をあれよあれよと攻略。武田家が所有する国峰城を除き、上野一国をわずか半年の早さで平らげている。


 だが、武田家を警戒してだろう。三国峠が雪深くなる前に春日山城へと帰還。

 上野は一ヶ月と経たずに北条家の手に戻るが、上杉輝虎は置き土産を忘れてはいなかった。

 それが『来年、関東管領の名の下に北条家誅伐の挙兵を行う。関東の諸大名は毘沙門天の旗の元へ集え』という檄文だ。


 当然、軍神の異名に恥じぬ侵略ぶりを味わった北条家は焦った。

 長尾景虎のたった半年の上野支配を嘲笑っていたが、そもそもの目的が山内上杉家との養子縁組と関東管領の就任の為の実績作りでしかなかったと知って。


 山内上杉家のような名実が伴っていない関東管領の檄文なら笑い飛ばせても、関東管領となった長尾景虎の檄文となったらそうはいかない。

 関東の一鏡強になりつつあった北条家を恐れていた関東の大名達が勝ち馬に乗ろうと挙兵して、長尾景虎が率いる大軍勢が本拠地の小田原城まで攻めてくるのは目に見えていた。


 すぐさま北条家は長尾景虎に対する共闘を願う使者を諏訪の屋敷へ送ってきた。

 武田家の忍者が長尾景虎の檄文に関する情報を掴み、それが俺の元へ届いた三日後だった事実と様々なタイムラグを考えたら、北条家の焦りっぷりが良く解る。


 しかし、当時の武田家当主は義信。使者を俺のところへ送る前に義信のところへ送るが正しい道理。

 その旨を伝えて、あっさりと断ると、晴信と長尾景虎の確執は有名だけにまさかまさか断られるとは思ってもみなかったのだろう。その時の茫然とした使者の顔ときたら、今思い出しても笑える。


 義輝様からのお願いで長尾景虎との関係改善を悩んでいた義信も随分と悩んだらしいが、最終的に共闘を断っている。

 長尾景虎を警戒する必要が有るのは当家も同じ。長尾景虎が実際に関東へ現れたなら、その時は考えるが、今は援軍の約束は出来ないと。


 北条家が頑固な義信を説得するのは難しいと考え、二人目の使者を諏訪の屋敷へ送ってきたのは二週間後。

 それも北条家の重臣中の重臣を、北条家初代『北条早雲』の時代から仕える北条家の長老たる『北条幻庵』を送ってきた。


 北条幻庵は『良い返事を貰うまでは絶対に帰りませぬ!』とその日から諏訪に滞在。

 途中、義信の急死があり、武田家は戦略の方向性を変え、北条幻庵は共闘とは別の答えを北条家へ持ち帰っている。



「なるほど、関東に平穏を……。

 しかし、上杉殿。果たして、関東は乱れているのかな?」



 両手を腰で組みながら右手側へと、高台の東側へと歩いてゆく。

 その方向に意味は無い。前方には上杉輝虎が、左手側には藤孝殿が居り、後ろには自分が座っていた床几があるからに過ぎない。


 高台の縁に立ち、陽の光に反射して輝く犀川の水面を眺めながら投げる。

 関東管領として、上杉輝虎が関東へ攻め入る大義名分を根底から否定する問いかけを。



「何を仰る! 武田殿、貴方が知らぬ筈はあるまい!

 元々は今川の臣でありながら、相模を掠め取ったばかりか、関東に百年の騒乱を招いた北条の大罪! 断じて、許せるものでは有りません!」



 たちまち上杉輝虎は激高した。

 床几を蹴り飛ばして立ち上がり、その怒鳴り声たるや天地を揺るがすが如し。


 覚悟した上での挑発だったにも関わらず、胸が飛び出そうなくらいドッキーンと跳ねた。

 土下座して謝りたい恐怖を堪えて、視線だけを左右に向けると、犀川の両端に控える両軍が俺達の様子に何事かとざわめき湧いているが見て取れる。


 心を落ち着ける為、震える息を大きく吐き出しての深呼吸を一つ。

 駄目元だった筈の武田家と上杉家のダブル上洛の提案に芽が有るっぽいのだから是非とも花を咲かせたい。



「勿論、知っている……。だが、しかしだ。

 そもそも、鎌倉公方と関東管領が争いさえしなければ、北条は今のような大領を持つどころか、大名にすらなっていなかった。

 幾内が乱れている時だからこそ、それを反面教師にして東国を纏め、宗家を助けなければならない役目を持ちながらも私利私欲に走り、内紛を重ねた両公方と両上杉家。

 彼等にこそ、罪過を感じないだろうか? 

 彼等さえ、役目をきちんと果たしていたら、今の戦国の世はとっくに終わっていたかも知れない。少なくとも、幾内の乱れは関東に及ばず、東日本はとうに治まっていただろう」



 上杉輝虎に背中を向けたまま語る。

 所謂『鶏が先か、卵が先か』的な揚げ足取りに過ぎないが、真実でもある。


 幸いにして、上杉家と北条家の確執は根深いが、上杉輝虎個人と北条家の確執は浅い。

 それに上杉家は上杉家でも上杉輝虎が家督を継いだ山内上杉家として見たら、昨年の侵攻で故地『上野』をいつでも容易く取り戻せる実力を見せつけている。


 つまり、上杉輝虎は山内上杉家の家督を継いだ者としての大義は果たしていると言っても良い。

 あとは関東管領としての大義をいかに納得させるかだが、それに関しては格好の説得材料が有った。



「そして、北条家を語る上で外せないのが、初代から頑なに守られている四公六民の租税。

 五公五民が当たり前。戦乱が有れば、六公、七公も有り得る今の世の中、民にとってみたら北条家の支配はこの世の極楽だ。

 しかし、北条家と接する大名にとって、これほどの脅威は無い。

 下手したら、民が北条家の支配が良いと言い出して、一揆を起こしかねない。これが軋轢を生み、北条悪しきの風潮を生んでいる」



 それにしても、ノッてきたと言うか、俺の舌もなかなか滑らかに動くではないか。

 実を言うと、今喋っている内容は台本をアレンジしたアドリブ。台本では上杉輝虎の正義感に訴えるのではなくて、責める予定だった。

 去年、上杉輝虎は北条家を攻めるにあたり、奇襲を初手に選んでおり、その辺りをポイントに責めて、北条家と上杉家を一時的に停戦させる思惑だった。

 この会談も本来は稲の刈り入れを終えた秋に行う予定だったのを早めたのも、上杉輝虎が檄文で予告した通りに関東へ出兵する兆しが見えたからである。


 無論、タダでは無い。

 武田家が総力を挙げての軍事行動を行ったら、上杉輝虎の目は武田家に釘付けとなり、北条家を結果的に救う為、北条家と上杉家の停戦に成功する、しないを問わず、今回の戦費は北条家持ちであり、成功した場合は上洛費用の援助が追加で約束されている。


 だが、どうせなら停戦を超えた大成功を狙ってみたい。

 北条幻庵殿から提案はされたが、俺も、信繁さんも、勘助さんも成功以上は絶対に望めないと考えていた大成功を。


 それと遅すぎる言い訳だが、この熱意を現代に生きていた頃に持っていたらと最近はしみじみと思う。

 斜に構えていたと言ったら格好は良いかも知れないが、現代で生きていた頃の俺は一日、一日を大事にしていなかった。


 学生時代は勉強に、運動に、社会人になってからは仕事に全力の努力を注いだ覚えが無かった。

 いや、注いだつもりになって満足していたと言うべきか。何をするにしても『これくらいで良いや』と自分の限界を決めていた。


 しかし、戦国時代にタイムスリップしてからは違う。

 晴信の影武者として疑われた瞬間、俺の人生はそこで終わる可能性が有る。こうして、アドリブがポンポン出てくるのは日々の努力の賜物だ。


 常に信繁さんや勘助さんが傍に居てくれるとは限らない。常に台本が用意されている訳では無い。

 完璧な晴信を演じるには筆跡や立ち振舞いの真似事だけでは足りない。戦国時代にタイムスリップした直後の三ヶ月間で学んだソレは最低限の要素に過ぎない。


 晴信が持っていただろう知識を、交友関係を一年、二年、三年と少しづつ学んで血肉にしてきた。

 それが認められたからこそ、こんな大舞台を信繁さんと勘助さんの二人に任される様になったし、任せてくれた二人の期待に応えたい。こんな気持ち、現代に生きていた頃は一度も持った事が無かった。


 そんな今だから解る事が有る。

 影武者修行が終わった頃、俺は信繁さんと勘助さんに信用はされていたが、信頼はされていなかった。

 住む家と贅沢な食事、あとは可愛い女を与えたら、十分だと思われていたに違いない。信繁さんが忙しい合間を縫って、諏訪の屋敷へ訪れていたのも第一の目的は俺の監視だったのだろう。


 もちろん、それをボヤくつもりは無い。信用して貰っただけ有り難い。

 二人からの信頼を感じるようになったのは三年目が過ぎてから。以前は笑い飛ばされたり、聞く耳を持ってくれなかった未来の知識を改めて尋ねられるようになり、それが武田家の政策などに大きく関わるようになってから。



「では、武田殿は……。北条を許せと?」

「いいや、許すのでは無い。正すのだ」

「正す?」



 そして、俺の判断は間違っていなかったと確信する。

 上杉輝虎の声に先ほどまでのような猛りは見えない。問いかけてくる行為自体もこちらの説得に耳を積極的に傾けている証拠だ。



「そう、北条家の誤りは帝と幕府を軽んじたところに有る。

 今は戦国の世、鎌倉公方や関東管領にその資格無しと判断したのなら、それに挑むのは結構。

 しかし、北条家は勝ったら勝ちっ放し。

 勝者としての義務を疎かにして、所持する官位は相模守と左京大夫の二つのみ。

 これでは関東が治まる筈が無い。帝と義輝様に謁見して、その大領に相応しい官位と官職を得るべきだったのだ」

「然り然り、信玄様の仰る通り。

 義輝様も、先代様も、そのまた先々代様も上洛を促していますが、梨の礫。北条家は何を考えているのやら」



 藤孝殿のアシストが上手い具合に入る。

 機は熟した。懐に忍ばせてあった書状を取り出して振り返り、封書の中に折り畳まれたソレを背中から吹いてきた風に翻して広げる。



「よって、儂はここに提案する!

 既に結ばれている甲相駿の三国同盟。ここに上杉殿の越後を加えた東国同盟の締結を!」

「「と、東国同盟っ!?」」



 上杉輝虎と藤孝殿が驚愕に異口同音を揃って叫ぶ。

 無理もない。これほど巨大な一勢力が東国に存在したのは戦国時代以前にしかない。

 それを踏まえて、俺がここまで重ねてきた説得の意味をちゃんと理解しているなら、これは東国のみならず、日本全体の戦国時代そのものを終わらせるチャンスになる。


 但し、それもこれも全ては上杉輝虎次第。

 北条家に対するわだかまりを捨てて、北条家討伐の檄文を関東の大名達に放った関東管領としての面子が潰れるのを飲み込まなければならない。


 しかし、上杉輝虎の弱点は正義感。

 上杉輝虎が北条家討伐以上に上洛を強く望んでおり、そのチャンスに気づきさえしたら絶対に食いついてくる自信が俺にはあった。



「この書は北条家の重臣、北条幻庵殿と共に纏めた東国同盟に関する腹案だ」

「み、見せて下され!」



 案の定、すぐさま上杉輝虎は俺が手に持つ北条幻庵殿から預けられた書状を確かめようと右手を伸ばしてきた。

 それもこちらが歩み寄るまでもなく駆け寄り、今にも俺の手から書状を引ったくり取りそうな必死の形相で。


 余談だが、この東国同盟の素晴らしい点は、天下を握ろうとする野心を抱く者が一人も居ないところ。

 上杉輝虎は言うに及ばず、俺も天下なんて面倒事は真っ平御免。北条家も初代より一貫して、その目は西よりも東へ向いている。


 今川家を継いだ今川氏真は野心を抱いていたとしても、その器量を持っていない。

 俺が知っている歴史とは違い、武田家は甲相駿の三国同盟を破棄しておらず、支援も行っている為、三河の松平家と辛うじて拮抗した勝負を続けているが、それを独力で解決する事が出来ずに武田家を頼ってきた時点でお察しである。


 唯一の心配はまだ若い勝頼だが、勝頼も諏訪の方の育て方が良かったのだろう。

 義信ほどでないにしろ、正義感が強い。真田幸隆と真田昌幸の二人を傍に置いた点も加えて、生来の性格を変えてしまうようなよっぽどの出来事が起こらない限りは大丈夫だろうと心配はしていない。



「上杉殿、断言しよう……。

 北条家の統治は既に四代。貴殿が春日山で関東の平穏を幾ら叫ぼうが無駄だ。

 もし、それを本気で成そうと考えるのなら、貴殿は居城を関東へ移す必要が有る。

 それも北条の影響力が薄れるまで貴殿のみならず、次代、次々代……。最低でも四代、五代に渡ってだ。

 先ほども言ったが、民にとってみたら、北条家の支配はこの世の極楽と言うべきもの。

 貴殿が春日山へ帰る度、民は北条家の兵を歓迎して引き入れ、城を取っては取り返されてを繰り返すのが目に見えている」



 書状に書かれている内容は簡単なもの。

 北条家が上杉家と停戦、或いは同盟を結ぶ意思が持っており、具体的な旨は何処に互いの境界線を定めるか程度。

 それ以外は当主同士が実際に会って話し合おうとしか書かれておらず、その日時も、場所も未定で書かれていない。


 その一度読んだら十分な書状を渡すと、上杉輝虎は食い入るように無言で見つめた。

 最初から最後まで視線を忙しなく何度も、何度も走らせているその隣に立ち、堪えきれない笑みをニヤリと零しながら駄目押しを加える。


「それに関東が治まったとしてもだ。中央が乱れていては意味が無い。

 関東の平穏など、ちょっとしたきっかけで吹き飛ぶ。

 だから、選択を誤ってはならない。東国同盟、これこそが百年の長きに渡る戦乱の世を終わらせる絶好の機会だ」



 もうすぐ、今すぐ、次の瞬間を以て、歴史が大きく変わる。

 それは俺にしか解らない出来事だが、その神の所業とも言える行為を自分が成してしまった強烈な禁忌感と達成感に心がゾクゾクと震えて止まりそうになかった。




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