私の両手は赤い血に塗れ、
聖女を絶頂のさなかで殺すまで、私のこの手は止まることはない。
◇◇◇
「この僕を騙し、父上を殺そうとしたのはお前かセレスティア」
私は彼の主張に反対する。
「なにを言いますか、イグノランス。あなた様の婚約者である私がなぜお父上様にそのようなことを」
断固として無実、否定しなくてはならない。彼の強気――確信的な態度はいったいどこからくるのか。私も向こう意気に挑んだ。
「イグノランス、これは濡れ衣という他ありません。婚約者として一緒にいられた時間は多くはなかったかもしれない……ですが三年。三年間で得た理解はそれ相応にあるはず」
この行動は控えたいが、そうせざる負えなかった。私は指を差した――それはイグノランスにではなく、その隣にいるマリシャスという女に。
「私より、マリシャスを信用するのですか! 聖女と称する、どこの馬の骨かもわからない子を」
純白のドレスを纏い、ウェーブした白い髪、常に片手のどちらかを胸元に置いているのが、ルイアナのマリシャス。一ヶ月前に突如として姿を現し、聖女と崇められ、エメリーカ帝国の皇帝シリー・ノートンに招待された。
私も含め誰もが彼女の『聖女』という肩書きに疑問を持っていたが、傷を癒したり、手から水を出したり、わざわざ相手の手を握って感謝したり、聖女らしい姿を見せていた。それもあって、周りはマリシャスに対して好意的であった。私もそうだった――皇帝シリー・ノートンの息子であり、私の婚約者である皇太子イグノランス・ノートンに近づくまでは。
私とイグノランスは十七の時に私のお父様の
最初に近づいてきたのはマリシャスだった――だが、イグノランスが彼女に興味を持つのは仕方のないことだと思っていた。聖女という珍しさ、愛らしい顔つき、慎ましさを感じられない胸、天然ボケ……私とは正反対に、なんとも男性が好きそうな仕草をするものだから、イグノランスが間抜けな顔のひとつふたつしていても、しょうがないとしていた。
だが、今日の夜会にてお父上様――皇帝シリー・ノートンが毒で倒れた。私も驚いたが、より驚いたのはマリシャスがイグノランスに告げていたのだ――。
「セレスティアが毒を盛ったとマリシャスが言っていたんだ。それも、父上が倒れる前にな。聖女である彼女の力のおかげで、父上も一命は取り留めた。信用に十分に値する行動だと僕は思う」
「なにを間抜けなことを口から……」
夜会は中断、このホールには私とイグノランスにマリシャス、それと夜会に招かれた貴族や学者たちがいる。いくらイグノランスの婚約者であっても私は伯爵の娘、この中では特別高い位ではない。発言の信用力とは地位で固まるところも多い、聖女のマリシャスとその後ろ盾に皇太子であるイグノランス――私の発言など低質な印刷物程度でしかない。
「セレスティアさんもうやめましょう。これ以上、罪を重ねないで。わたしは見てしまったのですから、シリー皇帝の暗殺を企てようと、怪しい人物と話していたところを……わたし、未だに信じらない」
マリシャスは涙を流し、イグノランスの腕に泣きつき「泣くな、君のおかげで父上は助かったのだから」とイグノランスは彼女を慰めていた。大層な茶番劇を繰り広げられ、私も我慢できなかった。
「なら、証拠はあるのですか。その怪しい人物という輩はどこに? 証拠がないのなら、私を貶めるための虚言としか言いようがありません。私、セレスティア・ロルフは徹底して無実を主張します」
屈することはせず、しっかり地に足をつけて高らかに声を上げた。周りからは「うーむ、ひとりの証言だけではな……」「聖女様が嘘をおっしゃられていると?」「結論が早計すぎる」「聖女様こっち見て」「この場では決められないだろう」「スラッとしてるから、セレスティア嬢かな俺は」「イグノランス皇太子次第ですな」と幾多の意見が交差するなかで、マリシャスはイグノランスの耳に向かって口を開く。
「場を収めましょうイグノランス。わたし、こんな大ごとになるなんて思っていなかったの。それにセレスティアさんは婚約者なのでしょ? イグノランスにはつらい決断になってしまう、わたしが早くに彼女を止めていれば……」
「優しいなマリシャスは」
ひとりでは立つことすらできないみたいな雰囲気でマリシャスは体を押し付け、イグノランスはそんな彼女をあやしていた。マリシャスの一挙一動はイラつくが、一番イラついたのはその媚びを見抜けないイグノランス。
皇太子らしく、背筋も伸びてて、声にも芯がある。髪は小奇麗にさっぱり、ネクタイもきっちり。少し真面目さが出過ぎていた気もするが、そういう姿は好ましく思えたし、顔立ちに関しても私にとっては優等生すぎたが気にするほどでもなかった。
彼から好意を伝えてきたのは素直に嬉しかったし、私も彼のためにいろいろと答えてきた。だが、こんな間抜けな姿を見れば私が彼の婚約者であることすら、嫌になってくる。私のこんな思いもつゆ知らず、イグノランスは堂々と――皇太子としての振る舞いで、私に言った。
「セレスティア・ロルフ、僕にとっては苦しい決断ではあるが――この首都ワートン・ディ・シから追放する。そして、婚約も破棄させてもらうことをここに示そう」
私は反論するのをやめた。これ以上何を言っても無駄で、追放処分にされるだけマシだとも思えたから。シリー皇帝の暗殺容疑は不問といったところもあるはずだ。イグノランスなりの裁量と見える。
「これまでのイグノランス様との生活、とてもよいものでした。皇太子様の言うとおり、私、セレスティア・ロルフは身を引きます」
私は一歩後ろに、頭も下げた。周りがガヤガヤとくだらない戯言を言い出した辺りで頭を上げて出て行こうとしたら、私の目に飛び込んできた。
それは口角が上がり、私の
「マリシャス謀った行為を、よくも!」
一発でもぶつけなければ、理不尽だと思えた。冷静になれずに、彼女に手を出した。足を前に進め、片手を上げて、振り下ろした――だが、イグノランスが止められてしまった。そのときに冷静になったが、もう遅い。私が完全な悪としか見られない状況だった。
「もうやめろセレスティア。僕の恩情を無駄にするな」
私は手を静かに下げ「失礼、もう帰ります」と惨めなひと言を残し夜会を去った。イグノランスが守るべき相手がマリシャスになったのが、ひどく心にきた。
私は特別彼を大きく愛していたわけではないが、それでもこれは顔を歪んでるのが自分でもわかるぐらいにひどい感情の揺れだった。この宮殿には二度と来ることはない、なら――と廊下を歩く途中で、壁のひとつにでも穴を開けてやろうとしたが、白い壁は硬くて痛かった。
ロルフ家の城に戻ったあと、私に待ち構えていたのは首都からの追放。すぐさまに準備を整え、首都の隣にあるロルフ家の
半径百メートルほどに衛兵が、周りにいる。ミーシッピはまだ開拓途中の地域で、田舎といっても差し支えない。ノートン家の管理する邸宅らしいが、ここ何年も使われなくなっていて、半分放置されていたところに私は飛ばされた。
降水量が多く、熱くて湿度も高い、涼しさのあるバージアとは違い、重厚なドレスなど着る気すらわかない。壁や床も完全に木でできていて、風通しのいい空間になっている。外装は白いペンキが塗られているが、ところどころ剥げも出ていて、緑色の苔が僅かながらも生えている。
二ヶ月経ったが、悪い生活ではなかった。邸宅内では自由にいられ、庭も自由に移動できる。外出するには許可は取り、監視役が必要だが、大して苦になるようなものでもない。伸ばしていた髪もさっぱりと切り、動きやすいリネン地の薄いドレスに、底の薄い靴――ここじゃなければ、しないような格好で過ごしていた。
ここに飛ばされてからは本を熱心に読んでいる。何冊も、何冊も。落ち着いたからではない、ここで本を読んで優雅に暮らすわけでもない――理由は聖女マリシャスに復讐するためだ。
調べてみれば、聖女というのは稀に現れるらしい。理由は不明だが特別な力を持っている。そして共通しているのは、聖女になると人が変わったみたいになってしまう。
マリシャスも生まれながらにしてではない。名だって大して知られるような人物ではなく、田舎にいるごく普通の少女だったという。ある時に聖女となり、人々を驚かせ、今に至る。そして、歴代の聖女たちにはもう一つ共通点があり、急に記憶を失い、聖女の力も失ってしまうということだ。マリシャスはその状態ではないが、いつかはそうなるのかもしれない。力の代償なのかはわからないが、聖女に関する本にはそう記述されている。
私は邸宅の絨毯を動かした。重い絨毯だが、隠すのにはうってつけ。脱出などという、くだらないことをするつもりはない。私の目的はマリシャスに対する復讐だ、そのためには手段は選ばない。
聖女としての記憶を失ってしまえば、私が彼女に復讐したところで意味などなく、あの媚びを売るマリシャスでなければ私の気も収まらない――だから用意した。聖女に打ち勝つための手段を。
絨毯をどけると、そこには私がここ三週間掛けて書いた魔法陣がある。壁の修復と称し、白いペンキを用意させ少しずつ描いていった。ついに完成し、あとは私の血が必要なだけ。
果物を切るためのナイフを持った。窓から入る太陽の明かりがギラリとナイフの先端を光らせた。指に押し付け、小さく粘性のある泡のように血が指から漏れた。魔法陣に数滴垂らし、準備ができた。
「エロイムエッサイム――我は求め訴えたり」
私がそう唱えると、魔法陣の白いペンキは垂らした赤い血と同じ色に染まっていった。私が呼び出したのは悪魔。聖女に勝つには、私ひとりの力では到底かなわない。だから悪魔と契約する、その悪魔の名は――。
「――メフィスト」
私の言葉に彼は否定する。
「違うな、俺はメフィスト三世。メフィスト一世はもう引退だ」
メフィスト三世だと返してきたのは、紳士的でもなく、汚らしいわけでもない。悪魔という割には、身勝手なひねくれた男性像のような姿。首に手を当て、肩慣らしでもしているのか首を動かしていた。血のような赤い目をしている。
「メフィスト三世、私と契約をしましょうか」
「そうじゃなきゃ呼ぶ必要ないもんな」
「軽い口を叩く悪魔、ですがやることはやってもらいます」
悪魔だから
変なところは、ジャケットも羽織らずにシャツのボタンも三つも開けているところ。軽薄な印象を受けた。イグノランスとはそりがあわなそうだ。
「それで、セレスティアは何をご希望で?」
薄ら笑いとも取れる表情を浮かべ、私に尋ねてきた。悪魔には私の名前すら名乗る必要はないようだ。私の目の前に立ち、見下ろしてくる姿にひるむことなく、答えた。
「聖女、ルイアナのマリシャスを私の手で――殺す」
「願えば今すぐ俺が殺しにいっても――」
「いいえお断りします。私の手で、この手で彼女を手に掛けたい」
誰かの手で殺されることも私は許さない。マリシャスがイグノランスを使い私を排除するなら、私は私自身で彼女を排除する。
対等な行いで復讐なんてしない、私が上であると知らしめてマリシャスの命を取る。うざったく胸元に置く手も切り倒してやる。時間が経つほど恨みが燃え上がり、復讐に意味がないという言葉すら私の復讐心をたぎらせる。私の殺意の大きさに気づいたのか、メフィストは顔に手を当て笑っていた。
「そこまで恨まれることをしたのか、マリシャスという奴は。クックッ……どんなふうに手を掛けるか、それは楽しみなことだな。だが、悪魔と契約。このメフィスト三世と契約するということは――」
メフィストは一歩近づき、これ以上は前にこれないというぐらいまできた。人差し指で私の顎をくいっと上げた。
「代償はその魂。共に地獄へと連れて行かせてもらうからな」
赤い瞳で私を見た。口元は僅かに微笑んでるようだが、目元は一切笑っていない。この問いがもう契約であると理解できるぐらいに、厳めしいものだと感じた。
「――望むところ。その悪魔との契約も失望させるものではないことを見せて、答えてくれるメフィスト」
「クックッ……ご立派な精神を持った奴だ。なら、その証としてこれから行うことも逃げずにできそうだ」
「証……とは?」
私が聞くと、顎に当てていた彼の指が動き出した――なぞるようにそっと。頬をじりじりと伝い、上に、上に、向っていく。鼻よりも上で、眉より下、メフィストの止まった指は私の目だった。
「セレスティア、貴様の片目と俺の片目を交換させてもらう。力を与え、そして逃げることもできない。悪魔との契約は痛みが伴うものだからな」
目元をするりとなぞると、口の中で唾液が分泌されてくる。目の交換がどれくらいの痛みなのか想像がつかず、体がこわばるばかり。メフィストは私からの許可を待っている。私が答えれば、彼の言うとおりに目が交換されるはず――そして想像できない痛みが待ってるはずだ。
躊躇してしまうのは本能的なもの、ここでやめたとしても、私は大きく困ることなどない。この少々暑苦しい地域で、草木と花を育てながら暮らすのもひとつなのかもしれない。気張らずに生活できる未来もここにあるはずだ――。
だけど、私はここで止まらない。あれ以降何度ひとりで泣いたか。ただ単にイグノランスに愛想をつかされたなら、納得しよう。ただ単にマリシャスが勘違いをしていたなら、多少は納得できる。だがそうじゃない。イグノランスはマリシャスに目移りし、マリシャスは意図的に私を貶めた。
私を侮辱した者を許せるはずがない。泣き寝入りなどするか。悪魔にだって魂を売ってやる。そう覚悟したんだ私は。苦しみは慰めで癒されることなどないのだから。
「お願い、目の交換を。そして、聖女を倒す力を私に」
「契約完了だな」
メフィストは指を使い私の目を覆った。唾液を飲み込む時間などメフィストはくれなかった。肌に食い込む感覚がきたと思ったら、痛覚が悲鳴をあげ、閉じていた口も一瞬のうちに開いた。自分でもうるさく聞こえるぐらいの叫び声と、いますぐナイフで自分の心臓を貫いて楽になりたいという気持ちが噴出した。
百回顔を刺されても、経験したと言えるぐらいの痛み。鋭い痛みではない、重苦しく逃れらない爪で肌を上から下に容赦なく引っ張られているような、重い痛み。意識を失うことすら許してくれず、ドレスの裾を引きちぎる勢いで両手を握った。
外から足音が聞こえた。衛兵が私の声を聞きつけたのだと予想できる。膝をつき、息を切らし、左目を抑え、私はいる。
「セレスティア令嬢、なにが――何者だ!」
彼らの視線はメフィストに向かっていた。メフィストは悠々と立ち、私に言った。
「力を試してみるか、我が主」
メフィストの手には剣が握られていた。衛兵の物で、気づいたときには彼の手にあった。取られた衛兵すら気づくまで数秒掛かっていた。私はそれを受け取り、立ち上がる。
「剣なんて振るったことなどありません。それでも?」
「聖女を倒すんだろう。自身の手で」
その言葉で私は剣を強く握り、刃先を衛兵に向けた。「我らに剣を向けるということは、皇太子への反逆として見做しますぞ」と衛兵たちが言っていたが、その覚悟だ。どう剣を振るえばいいかわからなかったが、何故か負ける気はしなかった。
「この力、試させてもらう――メフィスト」
――時間は掛からなかった。赤い血を私は纏い、太陽の日を浴びている。人生でここまで清々しいことがあったか。人など簡単に斬れる、こんなことを私は知らなかった。いま、床や地面に這いつくばっているのは衛兵で――私が殺した。頬に触れれば、返り血がついている。四人殺したが、まだ足りない。もっと試したくなっていた。
「で、どうするんだ、セレスティア?」
メフィストはそう聞いてきた。私は歩き出して、馬車がある納屋に向かった。
「決まっているではありませんか。宮殿に行き、イグノランスとマリシャスに復讐するのです――この私の手で」
「いい答えだな――クックッ。血塗られた令嬢の誕生と言ったところか」
メフィストは馬車を走らせ、私たちはミーシッピから首都ワートン・ディ・シへと向かった。返り血を拭う必要はない。またすぐに血に染まるのだから。