「マリシャス! なぜ生きて……」
「自分が何をしたかわかっているの……。悪魔に魂まで売って、挙句にわたしの死まで奪って。あなたの自己責任よ、これは」
彼女が何を言ってるのか理解できない。聖女だから死なないのか――だとしても『死まで奪う』はいったいどういうことなのか。シリー皇帝の頭に刺さった剣を抜いて、もう一度彼女を殺そうと思ったが、マリシャスは嘲笑したような態度だった。
「何度やっても意味はないイカれ令嬢。わたしは殺せない――どんな人間でも、悪魔でも。私を死に導けるのは、幸せだけですもの」
「まさか、あなたも魂を悪魔に売った……」
「一緒にしないで。殺意なんて興味ない。わたしはこの世界で幸せを掴みたかっただけ、元の世界じゃできなかった王子との結婚、幸せの絶頂」
「マリシャスといい、いったい何が」
私が左右を見渡していると、天井を見上げたマリシャスが語り掛ける。
「どうして伝えないの、ラファエル。わたしの信仰心はあるはずよ」
「ふっふっ……信仰心はあって当然ですわ。それにわたくしは、伝えるのが役目ではありませんよ。願いを叶えるための力を渡すにすぎない、ただの天使ですわ」
天井から目を突くような光とともに降りてきたのは、白い髪をなびかせ、白い布を纏い、素足の女性だった。胸元で両手を手を合わせている。マリシャスの胡散臭さは彼女から発せらているように思えるぐらい、聖女の親みたいな顔をしていた。メフィストは彼女に話しかけた。
「クックッ……相変わらず転生者に夢を見させているのか」
「ふっふっ……そちらこそ欲の限りを尽くされていますよ」
「クックッ……」
「ふっふっ……」
「クックッ……」
「ふっふっ……」
どうやらメフィストとラファエルは知り合いのようだ。互いに嫌ってるような言い草をしているが、仲はよさそうに見える。「理解できてないのはイカれ令嬢だけのようね」マリシャスが顔の血を拭きながら、話し始めた。
「わたしは天使と契約したの、別世界で。こことは違う世界――ずっと夢見てた、王子との結婚を。だけど、わたしはそんな立場にも環境にもいなかったのよ。だから自ら命を絶った、生まれ変わることを信じて」
「正気の沙汰とは思えません。何をそこまであなたを――」
「殺しを楽しむあんたがそれを言うのはふざけた話よ」
気に入らないが、反論の余地はない。ラファエルが横から会話に割り込んできた。
「そんな命を絶った彼女ですが、信仰深かったのですよ。だから彼女の夢を叶えてあげたい――元の世界で立場を変えることはムリでも、別世界なら転生させることができる。ですから、マリシャスというお方を少しお借りたのですわ。彼女の夢を叶える聖女として」
「お借り……転生……元の人間とは違うと?」
「そうですわ。ですが安心してくださいませ。少々眠っているだけ、今のマリシャスが夢を叶えるまで死ぬこともない。そして目が覚めれば、力は失えど聖女という肩書は残り、誰も不幸になりませんわ」
マリシャスにラファエル、このふたりは不幸にさえならければ何をしてもいいと思っているようだ。私はマリシャスに指を差す。
「けどもラファエル、私が不幸になったのは、このマリシャスのせいです。彼女がイグノランスを取らなければこんなことにはならなかったはずです」
「まだ、わからないようねイカれ令嬢。わたしが彼と結婚すればわたしは天に召されることになっていたの。そして元のマリシャスが目覚める――そうすればすぐにでも別れて、あんたが寄りを戻すという魂胆だったのに……。台無しにして」
「どうして元のマリシャスが別れるという判断ができるのですか。イグノランスが少々アレでも、皇太子を手放すようなことは――」
「胸のないあんたが、安直な発言をしないでくれる」
これが猫被りを脱いだ本当のマリシャス。かなり生意気で口が悪い。イグノランスを擁護するわけではないが、さすがにこちらも黙ってはいられなかった。
「安直なわけありません。私は三年もイグノランスと過ごしてきたのです。たった三ヶ月程度の女にイグノランスの何がわかると――」
「赤ちゃんプレイ――彼にしてあげたことは?」
「何を言って――」
「わたしはさせられた。『ママ、ママ』と言われながら胸を吸われたの。わたしがやることはイグノランスの頭を撫でて、満足するまでよちよちすること。いくら皇太子で顔がよくても、あんなことを高頻度でやらされれば、別れない方がおかしい。あんたにはしなかったらしいけど、愛されていたのね。愛のない胸だけの関係なんて普通は耐えられない」
マリシャスの言葉に嘘はなさそうだった。思い出したかのように眉をひそめ、ピクピクとしていた。私はそんなこと一切知らなかった。イグノランスが間抜けなことはわかっていたが、ここまで間抜けなことをしてるとは思わなかった。
だけど、私が愛されていたのはそうらしい。よく考えてみれば、私が上半身を脱ぐたびに彼の眉尻の角度が十五度程度下がっていた。彼のクセみたいなものかと思っていたが、ただ単に悲しんでいただけだったようだ。
「イグノランス、なんて間抜けな……」
この胸の悲しみは、どこからだろうか。長くも短い三年の月日が、走馬灯のように私に流れる。この図書室で文学を語り合い、夜会では手を取り合い踊り、宮殿の庭では風をただ受けながら共に歩き、木陰のある青空の下で盛り、その日の夜に私は顎を痛める……そのような日々が懐かしく落ちてくる。
私の足元にはイグノランスの頭が転がっていて、三十回は踏まなくてはならないと思っていたが、十回程度で済ましても良いと思えた。彼を許すことは決してできないが、彼からの愛は真摯に受け取っておこう。
私はイグノランスの髪を握って頭を抱きかかえた――胸で抱き、彼が好きだったというよちよちと頭を撫でてやった。イグノランスの母は早くして亡くなっている。きっとそれが彼の心残りだったのかもしれない。
「気づいてやれなくてごめんなさいイグノランス。私の胸の中で存分に寝てください」
うんともすんとも、言うことはない。だらだらと血だけが下に流れている。私に必要だったのは剣ではなく、胸だったのだ。どうしてそれに気づかなかったのか。間抜けなイグノランス……いつか地獄で会う時はやって差し上げよう。死んでもなお、穏やかであった顔のように――きっと喜んでくれるはずだ。
私は胸で抱きかかえていたイグノランスの頭を離した。彼の穏やかな顔を最後にもう一度見たかったからだ。血が抜けてきたせいか、少し軽くなった頭を動かして顔を見ると、悪夢にうなされているようなしかめっ面をしていた……私はするっと手放し、床に落とし、彼を抱くためにと置いといた剣でイグノランスの頭をぶっ刺した。
「どういう精神してるのよ……このイカれ令嬢は」
マリシャスが呆れ気味に言っていた。私は手の汚れを落とすように叩く。
「イグノランスの件はもう片付きました。ですがマリシャス――あなたが死なない限り、私も死ぬことができない。いたぶる分には結構ですが、叩き殺すことができないとなると、永遠に私の復讐も終わらないのです」
「だからそこが問題だって言ってるの。わたしだって、イカれ令嬢に付きまとわれるのはごめん。早く王子と結婚して、幸せの絶頂を謳歌したいの」
「王子と結婚したいがために天使と契約するなんて、どういう人生を歩みになったのか」
「そのわたしに寝取られたからって悪魔と契約して、惨殺の京楽に溺れる令嬢が異常よ」
私とマリシャスが睨み合うと、ラファエルがまた横槍を入れてきた。
「どちらにしても、おふたりは願いは叶えたい――ですが、どちらも邪魔になるということ」
メフィストが近寄ってきた。
「なら、いっそのこと協力すればいい。マリシャスの王子との結婚願いを叶え、その叶った瞬間にセレスティアがマリシャスを殺す」
「そうですわ。互いに足を引っ張り合っても終わることありませんもの。協力すればおふたりは早くに願いが叶い、呪いから解放される」
「クックッ……殺戮令嬢は聖女を殺すために彼女を幸せにする」
「ふっふっ……聖女は殺戮令嬢に邪魔されないために手を貸す」
ふたりは同時に言う。
「これは面白いな」
「これは面白いですわ」
メフィストとラファエルは不気味な笑みを浮かべて、私たちに提案をした。私が
それは聖女としてチヤホヤされているマリシャスも同じことだ。王子との結婚が彼女の目的なのだから、ずっと留まっていることにも我慢できるわけがない。マリシャスは手を差し伸べてきた。
「わたしは絶頂の寸前で止められた――責任は取ってもらう、協力しなさいよ」
手を組んでマリシャスを幸せにしなくてはならないなどというのは、反吐が出る。徹底的に陥れ、殺さなければ未だに収まることなどない。だが、マリシャスが幸せの頂点に達した瞬間に殺せるのは私にとっても最大限の喜びだ。もはや、普通のご令嬢などとして生きる道は私にはない。人を斬り、血を浴びることが幸せの一部になってしまったのだから。
「わかりました、協力しましょうか。絶頂のさなかで刺し殺して差し上げます」
私はマリシャスの差し伸べた手を握った。悪魔と契約した殺戮令嬢と天使と契約した聖女――利害一致のために私たちは協力し合うことになった。聖女ルイアナのマリシャスを私の手で殺すために――。