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風船唐綿
風船唐綿
結月澪
歴史・時代日本歴史
2025年06月29日
公開日
7,294字
連載中
文久の京。 幕末の騒乱の中、誠を掲げた若き浪士たちが京へと集い、新選組の原型――浪士組が結成されようとしていた。 土方歳三は、武州・試衛館の出で、剣と己の意志のみを頼りにここまでのし上がってきた男である。非情を装い、誰よりも強く、正しくあろうとする土方だったが、京で再会した一人の少女が、その心に揺らぎをもたらす。

第1話

————島原・文久三年五月


煙管を燻らせる土方。

燻る紫煙がゆるやかに天井へと昇っていく。部屋の中は静かだった。

灯りも落ち、仄かな月明かりだけが障子越しに差し込んでいる。


布団の中、女がひとり、浅い呼吸で眠っていた。

あどけない寝顔。肩口からは滑らかな肌が覗いている。まるで、年月など知らぬように——無防備に、穏やかに。


土方は煙管を口元から離し、しばらくその姿を眺めていた。


「……変わらねぇな。お前は。あの時と」


独り言のように呟かれたその言葉と共に、記憶の奥底で何かが揺らめいた。


※※


——あの夜も、空はこんなふうに、鈍く重たかった。


行商帰りの荷は重たく、足も痛んでいたはずなのに、不意に立ち止まったのは、目にした光景のせいだった。

冷えた多摩川のほとり。

冬の終わりの空は白んでいた。朝になるかならぬかの時間。

土方は行商の帰り道を変え、ただの思いつきで川沿いを歩いていた。


「……ん?」


視界の端に、何かが揺れた。


最初は花かと思った。だが、近づいてみれば、それは少女の髪だった。


黒髪。だが、毛先だけが淡く——桜が滲んだように色づいていた。

泥にまみれた襦袢一枚のその身体は震えていた。

裸足。血の滲む足。唇は乾き、頬はこけ、けれど、顔立ちはどこか整いすぎていて。


「……人形みてぇだな。」


気づけば声に出ていた。少女がびくりと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返る。

その瞳が、琥珀色だったことを、土方は今でもはっきり覚えている。


「……お兄さん、私に用?」


その声は、かすれていたが、妙に澄んでいた。

そして何よりも——強がっていた。


「早く帰らねぇと、親が心配するぞ。」


その時、どこかで「嘘だ」と自分でもわかっていた。こんな姿で一人、この時間に川辺にいる娘に、帰る家などあるはずがない。


案の定、少女は首を横に振った。


「帰る場所、わからないの。」


「……名前は?」


「それも、わからない。」


足元を見る。指の先が切れている。歩けるのが不思議なほどだった。

このまま放っておけば、数日も持たない。

だが——。


(こんなガキ、一人拾ってどうすんだよ、俺は)


けれど、それでも目を逸らせなかったのは、あの髪のせいかもしれない。

夜の闇を吸った黒に、まるで“春の記憶”のように桜色が混じる、奇妙で美しい髪。

誰が、どうして、こんな少女を捨てたのか。


その理由を、確かめるように問うてみた。


「……怖くねぇのか?どこの馬の骨とも分からねぇ奴に拾われるのに」


「怖くないよ。お兄さん、優しそうだもん。」


「は……バカが。騙されやすいって言われねぇか。」


「ううん。……だって、さっきから、ちゃんと目を見て話してる。怖い人は、目を見ないもん。」


そう言って、少女は微笑んだ。


そのときだった。

土方は、自分がこの少女を手放すことはできないと、理解した。


「よし。じゃあ、名をつけてやる。今のお前にピッタリのやつだ。」


「……名?」


「“千夜”。千の夜、生き延びろ、いいな?」


少女は、少しきょとんとしていたが、やがてその小さな口で、確かめるように呟いた。


「……千夜。……うん。ありがとう。」


土方の右手が少女の髪に触れる。

硬くなっていた毛先に指を滑らせると、そこだけが、まるで春の花びらのようにやわらかだった。


——この娘は、どこから来たんだ。


その疑問は、今に至るまで解けていない。


※※※


——煙の向こう。


布団の中で寝息を立てる女が、寝返りを打つ。

黒い髪が流れ、毛先の桜色が光を拾ってちらついた。


まるで、あの夜の続きのように。


「お前は……変わらねぇ。」


名前を与えたときも、初めて刃を握ったときも、涙を隠したあの夜も。


あの時、まだ俺は「ガキ」を拾ったつもりだった。

けど——


(気づけば、俺の方が……お前に囚われてたんだな)


煙管の火が尽きる。

土方は静かに灰を払うと、煙を吐き、目を伏せた。


女が寝返りを打ち、のっそりと起きたとおもえば、布団をゆっくり抜けてふらりと立ち上がった。彼女は名を複数持っている。今は君菊。普段は千夜。


乱れた襦袢一枚、裾はずり落ち、肩も片方ははだけている。けれど、本人は気にも留めぬ様子で、月明かりの差す部屋をふわりと歩く。


土方はその姿を、正面から見ていた。


じっと、真っ直ぐに。


視線を逸らすことなく、けれど不意に、低く言った。


「……前ぐらい、隠せよ。」


「……なにそれ。さっき、散々見たくせに。」


女は半ば呆れ顔で笑った。


「見たけりゃ見ればいいじゃん。……よっちゃん、そういうとこ、真面目すぎ。」


土方は眉をひとつ吊り上げ、煙管の灰を落とした。


「見てるから言ってんだ。俺が言わなきゃ誰が言うんだよ。」


「じゃあ、見なきゃいいのに。」


「それができりゃ、とっくにそうしてる。」


女は肩をすくめて笑う。


「堂々と見て、堂々と注意するなんて、ほんと、よっちゃんらしいよ。」


ぽつりと小さく呟く。


「そういうとこ、嫌いじゃないけど。」


「……だろうな。」


女は肩をすくめ、ようやく襦袢を軽く引き寄せた。


土方の唇が、煙と一緒にわずかにほころんだ。

その憎らしくも誘うような唇に引き寄せられ、君菊は自然と唇を重ねていった。


——月明かりの下、二人の間を流れるのは、照れと皮肉と、そして確かな情であった。


土方の手が君菊の背に回る。折角引き寄せた襦袢は元通り落ちていく


二人の間に流れる空気が少しだけ熱を帯び、言葉よりもずっと深いものが伝わる。

土方はゆっくりと息を吐き、白い肌を覆う袖の縁に指先を這わせた。


煙管の先でくゆる紫煙を見つめながら、君菊は静かに問いかける。

「何人の女を泣かせてきたの?」


土方は、淡く微笑みながら肩をすくめた。

「そりゃ、こっちのセリフだよ。お前も散々、泣かせてきただろ。」


一瞬だけ眉を寄せた土方は、煙をゆっくり吐き出す。

「……泣かせてきたのは、勝手に泣いてる奴らの方だ。」


君菊は小さく鼻で笑い、くるりと土方の視線を見返す。

「勝手って言い訳、よっちゃんには似合わないな。」


土方は君菊の肩にそっと手を置き、ゆっくりと身体を寄せて覆い被さるように身を沈めた。月明かりが彼らの影を障子に映し出す中、その声は低く、震えるほどに切なく響いた。


「千夜………」


この名には、生きて欲しいという土方の想いが詰まっている。初めて貰った土方からの贈り物。それが"千夜"という名前だった。


「ほんと、ずるいよ、よっちゃん……」


照れや意地を隠しきれないその言葉に、土方の目が柔らかく細まる。


君菊のふとした仕草や言葉、笑顔のひとつひとつが、土方の胸を締めつけ、何度でも守りたいと願わせる。


年の差も、過去の重みも、彼女を愛おしく思う気持ちには何の影響も与えなかった。

むしろ、そんな複雑な想いが、さらに強く彼女を惹きつけていく。


土方は君菊の頬にそっと触れた。

その手の温もりは、長い時を経て育まれた絆の証だった。


君菊は、そんな土方の手をじっと見つめてから、ほんの少しだけ照れたように目を伏せる。

「よっちゃん……」


土方はにやりと笑いながら、彼女の名前を呼ぶ。その声には、どこまでも溺れるような愛情と、静かな決意が混じっていた。


月明かりの中、二人の距離はゆっくりと縮まり、時間さえも忘れさせるように深い情が満ちていく——。


————

———


強くなりたいと思ったのは、土方が己を助ける為に怪我を負った時だった。ただひたすらに木の棒を振り回した。今なら分かる。そんな事しても強くなれないなんて。


————でも、


「あの時は、それしか知らなかった。」


何も知らない、世の中の事も、思想も、何もかも。知りたかった。行商の途中にもいろんな人の話を聞いた。噂を耳にした。時には、気になった事も調べ意味を理解した。


情報は、武器になると知った今、それを耳にする事すら怖い



少し前、男が一人、君菊を訪ねてきた。お国言葉の男は、彼と同じくらいの歳で、中立な顔立ちの綺麗な瞳を持った人だった。



※※


はじめは警戒した。けれど男は、敵意も好奇心も混じらぬまま、ただ“事実”だけを君菊に届けに来た。

まるで使いの者のように。けれどその眼差しは、ほんのわずかに、哀しみを含んでいた。


「俺の名は、山崎烝。

————お前の従者で、ずっと探してた。」


従者を持つ自分は、何者なのか、記憶が無い事など既に忘れていた事実に、この先を聞くのが怖かった。


そんな心情など目の前の男が知るはずも無く、


「あんたは、徳川斉昭様のご息女、

————椿様や。」


豪農で育った千夜という名を貰って生きてきた彼女にとって、それは信じがたい事実であり、すぐに返事などできるはずも無く、


「その髪の色は間違いなく、

先詠みの巫女の血を継ぐ者の証や。」


巫女の伝説や噂、絵草紙までも売られて、彼女自身見た事がある。土方にせがんで買ってもらった絵草紙をよく読んでもらった。


「………私が、、巫女?」


その響きはあまりに遠く、まるで別人の名を呼んでいるようだった。けれど、山崎烝の眼差しは、紛れもなく彼女を見据えていた。

この世のどこにも居場所がなかった彼女に、“帰るべき名”を与えるように。


「信じられんのも、無理はない」

山崎の声は低かったが、どこか祈るようでもあった。

「けどな、俺は……、ずっとあんたの姿だけを探してきた。

——命を懸けてでも、守らなあかんと思える人間なんて、そうおらん」


彼の目に嘘はない。

君菊は、ついに膝から崩れ落ちる。


※※※


今尚、答えなど出ない。

愛した男は、目の前で眠っているのに

彼の隣で生きる事すら、叶わないのか。


————いや。

今更、血脈がなんだという。


「………今更、迎えなんて

遅すぎるでしょ。」


もう、10年は彼と共にあるのに。

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