————島原・文久三年五月
煙管を燻らせる土方。
燻る紫煙がゆるやかに天井へと昇っていく。部屋の中は静かだった。
灯りも落ち、仄かな月明かりだけが障子越しに差し込んでいる。
布団の中、女がひとり、浅い呼吸で眠っていた。
あどけない寝顔。肩口からは滑らかな肌が覗いている。まるで、年月など知らぬように——無防備に、穏やかに。
土方は煙管を口元から離し、しばらくその姿を眺めていた。
「……変わらねぇな。お前は。あの時と」
独り言のように呟かれたその言葉と共に、記憶の奥底で何かが揺らめいた。
※※
——あの夜も、空はこんなふうに、鈍く重たかった。
行商帰りの荷は重たく、足も痛んでいたはずなのに、不意に立ち止まったのは、目にした光景のせいだった。
冷えた多摩川のほとり。
冬の終わりの空は白んでいた。朝になるかならぬかの時間。
土方は行商の帰り道を変え、ただの思いつきで川沿いを歩いていた。
「……ん?」
視界の端に、何かが揺れた。
最初は花かと思った。だが、近づいてみれば、それは少女の髪だった。
黒髪。だが、毛先だけが淡く——桜が滲んだように色づいていた。
泥にまみれた襦袢一枚のその身体は震えていた。
裸足。血の滲む足。唇は乾き、頬はこけ、けれど、顔立ちはどこか整いすぎていて。
「……人形みてぇだな。」
気づけば声に出ていた。少女がびくりと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返る。
その瞳が、琥珀色だったことを、土方は今でもはっきり覚えている。
「……お兄さん、私に用?」
その声は、かすれていたが、妙に澄んでいた。
そして何よりも——強がっていた。
「早く帰らねぇと、親が心配するぞ。」
その時、どこかで「嘘だ」と自分でもわかっていた。こんな姿で一人、この時間に川辺にいる娘に、帰る家などあるはずがない。
案の定、少女は首を横に振った。
「帰る場所、わからないの。」
「……名前は?」
「それも、わからない。」
足元を見る。指の先が切れている。歩けるのが不思議なほどだった。
このまま放っておけば、数日も持たない。
だが——。
(こんなガキ、一人拾ってどうすんだよ、俺は)
けれど、それでも目を逸らせなかったのは、あの髪のせいかもしれない。
夜の闇を吸った黒に、まるで“春の記憶”のように桜色が混じる、奇妙で美しい髪。
誰が、どうして、こんな少女を捨てたのか。
その理由を、確かめるように問うてみた。
「……怖くねぇのか?どこの馬の骨とも分からねぇ奴に拾われるのに」
「怖くないよ。お兄さん、優しそうだもん。」
「は……バカが。騙されやすいって言われねぇか。」
「ううん。……だって、さっきから、ちゃんと目を見て話してる。怖い人は、目を見ないもん。」
そう言って、少女は微笑んだ。
そのときだった。
土方は、自分がこの少女を手放すことはできないと、理解した。
「よし。じゃあ、名をつけてやる。今のお前にピッタリのやつだ。」
「……名?」
「“千夜”。千の夜、生き延びろ、いいな?」
少女は、少しきょとんとしていたが、やがてその小さな口で、確かめるように呟いた。
「……千夜。……うん。ありがとう。」
土方の右手が少女の髪に触れる。
硬くなっていた毛先に指を滑らせると、そこだけが、まるで春の花びらのようにやわらかだった。
——この娘は、どこから来たんだ。
その疑問は、今に至るまで解けていない。
※※※
——煙の向こう。
布団の中で寝息を立てる女が、寝返りを打つ。
黒い髪が流れ、毛先の桜色が光を拾ってちらついた。
まるで、あの夜の続きのように。
「お前は……変わらねぇ。」
名前を与えたときも、初めて刃を握ったときも、涙を隠したあの夜も。
あの時、まだ俺は「ガキ」を拾ったつもりだった。
けど——
(気づけば、俺の方が……お前に囚われてたんだな)
煙管の火が尽きる。
土方は静かに灰を払うと、煙を吐き、目を伏せた。
女が寝返りを打ち、のっそりと起きたとおもえば、布団をゆっくり抜けてふらりと立ち上がった。彼女は名を複数持っている。今は君菊。普段は千夜。
乱れた襦袢一枚、裾はずり落ち、肩も片方ははだけている。けれど、本人は気にも留めぬ様子で、月明かりの差す部屋をふわりと歩く。
土方はその姿を、正面から見ていた。
じっと、真っ直ぐに。
視線を逸らすことなく、けれど不意に、低く言った。
「……前ぐらい、隠せよ。」
「……なにそれ。さっき、散々見たくせに。」
女は半ば呆れ顔で笑った。
「見たけりゃ見ればいいじゃん。……よっちゃん、そういうとこ、真面目すぎ。」
土方は眉をひとつ吊り上げ、煙管の灰を落とした。
「見てるから言ってんだ。俺が言わなきゃ誰が言うんだよ。」
「じゃあ、見なきゃいいのに。」
「それができりゃ、とっくにそうしてる。」
女は肩をすくめて笑う。
「堂々と見て、堂々と注意するなんて、ほんと、よっちゃんらしいよ。」
ぽつりと小さく呟く。
「そういうとこ、嫌いじゃないけど。」
「……だろうな。」
女は肩をすくめ、ようやく襦袢を軽く引き寄せた。
土方の唇が、煙と一緒にわずかにほころんだ。
その憎らしくも誘うような唇に引き寄せられ、君菊は自然と唇を重ねていった。
——月明かりの下、二人の間を流れるのは、照れと皮肉と、そして確かな情であった。
土方の手が君菊の背に回る。折角引き寄せた襦袢は元通り落ちていく
二人の間に流れる空気が少しだけ熱を帯び、言葉よりもずっと深いものが伝わる。
土方はゆっくりと息を吐き、白い肌を覆う袖の縁に指先を這わせた。
煙管の先でくゆる紫煙を見つめながら、君菊は静かに問いかける。
「何人の女を泣かせてきたの?」
土方は、淡く微笑みながら肩をすくめた。
「そりゃ、こっちのセリフだよ。お前も散々、泣かせてきただろ。」
一瞬だけ眉を寄せた土方は、煙をゆっくり吐き出す。
「……泣かせてきたのは、勝手に泣いてる奴らの方だ。」
君菊は小さく鼻で笑い、くるりと土方の視線を見返す。
「勝手って言い訳、よっちゃんには似合わないな。」
土方は君菊の肩にそっと手を置き、ゆっくりと身体を寄せて覆い被さるように身を沈めた。月明かりが彼らの影を障子に映し出す中、その声は低く、震えるほどに切なく響いた。
「千夜………」
この名には、生きて欲しいという土方の想いが詰まっている。初めて貰った土方からの贈り物。それが"千夜"という名前だった。
「ほんと、ずるいよ、よっちゃん……」
照れや意地を隠しきれないその言葉に、土方の目が柔らかく細まる。
君菊のふとした仕草や言葉、笑顔のひとつひとつが、土方の胸を締めつけ、何度でも守りたいと願わせる。
年の差も、過去の重みも、彼女を愛おしく思う気持ちには何の影響も与えなかった。
むしろ、そんな複雑な想いが、さらに強く彼女を惹きつけていく。
土方は君菊の頬にそっと触れた。
その手の温もりは、長い時を経て育まれた絆の証だった。
君菊は、そんな土方の手をじっと見つめてから、ほんの少しだけ照れたように目を伏せる。
「よっちゃん……」
土方はにやりと笑いながら、彼女の名前を呼ぶ。その声には、どこまでも溺れるような愛情と、静かな決意が混じっていた。
月明かりの中、二人の距離はゆっくりと縮まり、時間さえも忘れさせるように深い情が満ちていく——。
————
———
強くなりたいと思ったのは、土方が己を助ける為に怪我を負った時だった。ただひたすらに木の棒を振り回した。今なら分かる。そんな事しても強くなれないなんて。
————でも、
「あの時は、それしか知らなかった。」
何も知らない、世の中の事も、思想も、何もかも。知りたかった。行商の途中にもいろんな人の話を聞いた。噂を耳にした。時には、気になった事も調べ意味を理解した。
情報は、武器になると知った今、それを耳にする事すら怖い
少し前、男が一人、君菊を訪ねてきた。お国言葉の男は、彼と同じくらいの歳で、中立な顔立ちの綺麗な瞳を持った人だった。
※※
はじめは警戒した。けれど男は、敵意も好奇心も混じらぬまま、ただ“事実”だけを君菊に届けに来た。
まるで使いの者のように。けれどその眼差しは、ほんのわずかに、哀しみを含んでいた。
「俺の名は、山崎烝。
————お前の従者で、ずっと探してた。」
従者を持つ自分は、何者なのか、記憶が無い事など既に忘れていた事実に、この先を聞くのが怖かった。
そんな心情など目の前の男が知るはずも無く、
「あんたは、徳川斉昭様のご息女、
————椿様や。」
豪農で育った千夜という名を貰って生きてきた彼女にとって、それは信じがたい事実であり、すぐに返事などできるはずも無く、
「その髪の色は間違いなく、
先詠みの巫女の血を継ぐ者の証や。」
巫女の伝説や噂、絵草紙までも売られて、彼女自身見た事がある。土方にせがんで買ってもらった絵草紙をよく読んでもらった。
「………私が、、巫女?」
その響きはあまりに遠く、まるで別人の名を呼んでいるようだった。けれど、山崎烝の眼差しは、紛れもなく彼女を見据えていた。
この世のどこにも居場所がなかった彼女に、“帰るべき名”を与えるように。
「信じられんのも、無理はない」
山崎の声は低かったが、どこか祈るようでもあった。
「けどな、俺は……、ずっとあんたの姿だけを探してきた。
——命を懸けてでも、守らなあかんと思える人間なんて、そうおらん」
彼の目に嘘はない。
君菊は、ついに膝から崩れ落ちる。
※※※
今尚、答えなど出ない。
愛した男は、目の前で眠っているのに
彼の隣で生きる事すら、叶わないのか。
————いや。
今更、血脈がなんだという。
「………今更、迎えなんて
遅すぎるでしょ。」
もう、10年は彼と共にあるのに。