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第2話

————万延元年3月29日


俺が一生忘れる事の無い日。

その日、空はやけに澄んでいた。春のくせに冷える朝だった。


近藤さんとつねさんの祝言。

皆が笑ってた。俺も杯を交わした。けど、どこか心が落ち着かなかった。


……千夜を、置いてきた。


少し咳をしていたが、ノブ姉も千夜を可愛がってくれてたし、心配をする事は無い。


そう、思ってたんだ。



家に帰ったら千夜の姿が無く、いつも遊んでる河原だろうと向かった。


多摩川河川敷に広がる、青々と茂ったヨシ原。人一人を隠してしまいそうなほどの密集ぶりで

そんな場所に、


————千夜が倒れていた。


まるで捨てられた人形のように、感情の一切を感じさせずに――。着物は、無惨に肩にかかっているだけ。身体に残る赤い華に足に伝う赤


コレは夢だと思うのに、膝から崩れた土方の足は、石に当たった痛みが襲う。


夢なら、痛いはずがない……


「……ち…よ?ちぃ!千夜っ!!」


抱き上げた身体は、異様に軽かった。

濡れた着物を合わせて、冷たい身体を必死に抱きしめた。


千夜は、目を開けていなかった。

けれど、唇はかすかに震えていた。


「よっ……ちゃ……」


たった、それだけだった。

誰かを信じるように、頼るように、縋るように呼ばれた、俺の名。


俺が——置いてったから……


どれだけ助けを求めたか、この小さな身体で、掠れた声がそれを物語る。


濡れて冷たいその手には、もうほとんど力なんて残っちゃいなかった。

それでも、確かに。

ほんの僅かな力で——俺を、掴んでいた。


生きようと、していた。


踏み躙られても、傷つけられても、

まだ……この世に繋がろうとしていた。


「……千夜。俺は……ここに、いる」


やっと声が出た。けど、かすれていた。

震えて、何も支えられない声だった。


「ここにいる……。お前を……もう、絶対に離さない」


そう言いながら、泣いた。どうしようもなく泣いた。何も守れなかったこの手で、それでも抱きしめていた。


家までの距離が長かった。

帰った途端、ノブ姉が絶叫した。千夜を見て、腰を抜かしかけた。

けど、すぐに我に返って、湯を沸かし、薬湯を拵えた。


だがノブ姉は、そこまでが限界だった。


目の下は青く、唇は切れ、指は傷だらけだった。


自分が、守ってやりたいと思った。一緒に生きたいと。つまらねぇ毎日を変えてくれた千夜。


なんで、千夜が、どうして、こいつなんだ…?

泥だらけの着物を脱がせれば、赤い華と、殴られただろうアザが目に飛び込んでくる。


「……ちぃ、痛かったな…ごめんな……」


守ってやれなかった。


そう言いながら土方は、千夜の体を優しく拭いていった 。歯をくいしばっても、その痛々しい姿に涙が流れる。


「……なんで、こんな小せぇ娘を殴れるんだよ…。どうしてっっ!?」


足を拭き始めれば、赤が手拭いを汚していく。

気がおかしくなりそうだった。


自分の惚れた娘が、誰か、わからないものたちに汚された。それが、千夜が惚れた相手なら仕方ないと思うのに、無理矢理、力づくで犯した奴ら————


「————絶ってぇ、許さねぇ。」


俺は、千夜を着替えさせ、傷の手当てをしながら犯人の憎しみを募らせていた————。



この日を境に、千夜は壊れていく。

千夜は、ほとんど口をきかなくなった。

目だけが、静かで……どこか、諦めたようで……

何も食おうともしない。


「ちぃ。飯だ……食わねぇと……」

膝の上に乗せた粥の椀を、震える手で差し出す。けれど、千夜は微動だにしない。

口をつけようとさせても、首を横に振るわけでもない。ただ、感情の抜け落ちた人形のように、ぼんやりと前を向いていた。


「……せめて、一口……ちぃ、なあ……」

匙を唇に近づけた時だった。

——カタ、と、椀が落ちた。

千夜の手が、かすかに痙攣していた。


気がつけば俺は、膝を折っていた。

落ちた粥が畳を汚していくのを見つめながら、拳を握りしめた。


医者に見せても、匙を投げられた。

身体には、致命傷はない。だが「魂が籠っていない」と言われた。

子どもながら、心が壊れてしまっていると。


「時が……癒すしかない」

医者はそう言って、頭を下げて帰っていった。


——癒す? 時が? それまで、千夜が持ちこたえられると思ってんのか。

俺は机に拳を叩きつけた。だが、そんな怒りに意味はなかった。


夜になると、千夜は怯えたように震えた。

誰もいない部屋の隅を見つめ、時折、すすり泣くように喉を震わせていた。

「やだ……やだ……やめて……」

眠ったまま、誰かに縋るような声を上げる。


俺は、声もなくその手を握るしかなかった。

「ここにいる。もう誰も来ねぇ。……だから、大丈夫だ」

そう繰り返しても、千夜には届かない。むしろ、触れるたびに、身体がびくっと震えるのがわかる。


——触れちゃいけねぇのかもしれねぇ。けど、置いておけねぇ。


壊れていく————

ただ、普通に生きて笑っていた少女を

壊していく。

自分が置いていったから


何かを欲しがったり我儘すら言った事もない。いつも笑いかけ、何かを与えられるのは、自分の方。


あの笑顔で、

いつも元気をくれるのは、千夜だった。


千夜を抱きしめる。

「ちぃ、頼む。聞いてくれ。

————共に生きると誓った女は、お前だけ。背を託せるのは、お前しか居ない。」


それは、少し前に土方が千夜に言った言葉だった。


「お前には、意味は伝わらなかったんだろう?」


小さく頷いたように見えた千夜の睫毛が、ほんのわずか震えた。

それは涙か、ただのまばたきか。土方には、分からなかった。

けれど、彼はそれを「応えてくれた」と信じたかった。


「————お前が好きだ。

誰よりも、何よりも、そばにいて欲しくてあの言葉を送った。共にありたいと願って。」


不器用な土方の精一杯の言葉。


「……だから、もう一度、言う。

お前がこの先、何も言わなくても、笑えなくても構わねぇ。

俺は、傍にいる。お前を、もう二度と独りにはさせねぇ」


コレは、もしかしたら恋とは違う何かだったかも知れない。今となっては、そんな物どうだっていい。確かな事は、たった一つ


「頼む。

————傍に居てくれ。千夜」


たった一人、守れなかった男の本心だった


その時、

羽織りを握りしめる手が、動いた。土方の頬に伸びた小さな傷だらけになってしまった手。思わず、掴みそうになった。


「————………お腹、、減っちゃった。」


生きてくれる。そう言われた気がして、涙が流れた。


……桜が、散っていた。

あの日から、幾日が過ぎただろう。


少しだけ、千夜は食べるようになった。

声も、まだ掠れているが、時折、俺の名を呼ぶ。


その声に、どれだけ救われたか。


窓の外、春の陽が眩しく揺れていた。



※※※


————そして今、

不意に鼻先がくすぐったい。


「また、泣いちゃいそうな顔してる。」


その声に、今に引き戻され

距離感を知らぬ女が覗き込む。


土方の額に千夜の鼻先が触れる程


「………てめぇ。近すぎだろ。」


「こんなの、いつもじゃない?

何を今更………」


千夜は、わざとらしく首を傾げた。

けれど、目はちゃんと土方の奥を見つめてくる。


鼻を鳴らす土方


——あの日の夜から、何度もすれ違って、それでも、今、目の前にいる。


「……お前は昔から、こっちの懐に平気で入り込んできやがる」


白い腕、すらりと伸びた指先。

あの頃の傷は、もう残ってはない。

包み込む様に土方の首に回っていく。


「それも今更でしょ?

よっちゃんが入れてくれるんだもの。」


震えなくなった。だからといって、千夜の傷が消えた訳ではない。


「………お前なぁ…。」


「どうして泣いちゃいそうだったの?」


土方は少しだけ目を伏せて、やわらかく息をついた。


「俺だって、ふと思い出しっちまう過去があんだよ。」


「へぇ。いつも目釣り上げるのに必死なのかと思ってた。」


「………お前、俺をなんだと思ってんだ?」


土方の問いに、千夜は少しだけ首をかしげてから、くすっと笑った。


「私が恋した、土方歳三でしょう?」


その言葉は、まるで春の陽光のように柔らかく、けれども確かな強さを持って、土方の胸に届いた。


土方は一瞬、言葉を失った。胸の奥で何かが熱く膨らみ、少しずつ押し寄せてくるのを感じる。


「……ちぃ……」


土方の声は震え、いつもの強がりは影を潜めていた。


千夜の手が優しく土方の頬を撫で、顔を近づけて囁く。


「泣くのは弱さじゃないって、誰かが言ってたよ?」


土方は、ぎゅっと千夜を抱き寄せた。


壊れた日々を越えて、今ここにある確かなぬくもり。


「………そりゃ、誰かってより俺だろ。」


猫の様に胸に擦り寄ってくる千夜


共に生き、共に強くなりたいと思ったあの日から、少しずつ色を取り戻していく感覚に土方は頬を緩ませていた。





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