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第3話

五月の風は、鴨川からの涼やかな風を運び、町家の軒先や細い路地をそっと撫でていく。街路には新緑の若葉が風に揺れ、時折、咲き始めたつつじの鮮やかな紅色が目を引く。


昼下がり千夜は、淡い藤色の絹織りの着物に身を包んでいた。着物には控えめに桜の花びら模様があしらわれ、光を受けてほんのりと透ける質感が清楚さを際立たせる。


濃紺の帯がその細い腰を引き締め、袖口や裾から覗く白い襦袢が清潔感を添えている。


土方はそんな千夜の姿に思わず息を呑んだ。普段の彼女とは違う、凛とした佇まいに心を奪われていた。ほんの少し色づいた頬と、自然にまとめた髪が、昼の光に柔らかく映えている。

通りかかる町人たちはその美しさに思わず立ち止まり、口々に囁く。


「おお、あの娘はどなたじゃ?」


「着物がなんとも上品じゃな」


だが、土方の鋭い眼差しが人々の視線を抑え、見惚れていた者たちも次第に視線を逸らしていく。


その光景を背に、千夜は少し戸惑いながらも、土方の手をしっかりと握り返していた。


「————ねぇ」


歩みが早くなり、小走りになる千夜に気付き、土方の歩みはゆっくりに変わる


「突然、出掛けるってどこ行くの?」


少し胸元を押さえた千夜に土方は、目を細める。


「行き先なん、決めてねぇよ。

ただ、昔、行商してた頃みてぇに、昼間っから日の下歩きたかっただけだ。」


「……私、と?」


千夜が問いかけたその声は、風に揺れる藤の花のように柔らかく、どこか頼りなげだった。


土方は少しだけ足を止めると、握られた手を見下ろすように視線を落とし、口の端をわずかに上げた。


「お前以外、誰がいる?」


真っ直ぐに向けられる言葉に、喜びを感じ、そして思い出す。彼が知らぬ、自分の本当の名を


「よっちゃん、私————」


そう言いかけた時、

「おー。土方さんじゃねぇか?」


昼の京の町並みに、場違いなほど朗らかな声が響いた。


通りの向こうから、数人の男たちがこちらへと歩いてくる。先頭に立つ原田左之助の足取りは相変わらず軽快で、後ろには井上源三郎、永倉新八、沖田総司が続いていた。


千夜は、土方と繋いだままの手にきゅっと力がこもるのを感じた。


(……誰だろう?)


見覚えはない。しかし、空気の張り詰め方と土方の目の奥の光が、それが“ただの知り合い”ではないことを伝えていた。


「やっぱり土方さんだ。京の町でもあんたの歩き方は隠せねぇな。」


先頭にいた原田左之助が、ひときわ大きな声で笑いながら近づいてくる。彼の明るさが、町のざわめきを押し返すようだった。


「……うるせぇ。もう少し静かに歩け、ここは江戸じゃねぇぞ」


土方が眉間を寄せながら返すが、怒気はなかった。むしろどこか、懐かしげな声音すらにじむ。


「それにしても、土方さんが女連れとは珍しい」


永倉が口元を綻ばせ、千夜をちらりと見やる。


千夜が視線をそちらに向けると——


「……」


沈黙が降りた。


原田左之助が口を開きかけ、言葉にならずに飲み込んだ。


永倉新八は無意識に背筋を伸ばしていた。

井上源三郎は手に持っていた手拭いをぎゅっと握り、沖田総司に至っては、珍しく瞳を細めたまま何も言わない。


まるで誰もが、言葉を失ったようだった。


千夜が土方の横で静かに立ち、こちらに一礼を送ったとき、ようやく声を上げたのは永倉だった。


「……なんだい、土方さん。いったいどこの姫様を連れてるんだ」


冗談のように言ったが、その声にはほんの僅かな緊張が滲んでいた。


「………まぁ、そう言うのは無理もねぇが、こいつは、千夜だ。」


土方は淡々と名を紹介したが、その声はどこか誇らしげだった。沖田総司がふと目を細めた。


その瞳は笑っていたが、その奥には一筋の違和感が走っていた。


「……ねぇ、土方さん」


「なんだ」


「この子……いや、千夜さんだったっけ」


わざとらしく確かめるように、沖田は千夜に視線を移す。


「数日前、町で“椿”って名の姫を探してた男に会ったんだけど。名前が確か、 山崎って言ってた」


「……!」


千夜の肩が、ごくわずかに動いた。


土方の眼差しもまた、鋭くなる。


沖田は構わず続ける。冗談のような口調を保ちながらも、その目だけは鋭く観察していた。


「随分と細かく姫の特徴を話してくれてさ。桜色の髪先に、琥珀色の目。透けるような白い肌に、声が妙に耳に残るとか——」


言葉の節々が、千夜の姿にぴたりと重なる。


「なんだか、不思議な気がしてね」


「……で、その“姫”とやらをお前は見たのか」


土方の声は低く、警戒を滲ませていた。


「いや、あいにく」


沖田は笑った。


「だけど、ここに“瓜二つの姫”が立ってるのを見ると、少し気になるでしょ? 」


千夜は静かに、その場で微笑を崩さずにいた。


だが、その目の奥には確かに動揺の影があった。


——山崎が京に来ている。


——「椿」を探している。


それを、沖田総司が知ってしまった。


「椿……」


その名を呟きそうになる喉を、千夜はそっと抑える。


だが、沖田の観察眼はすでに全てを見抜いていた。


(やっぱり、君が……)


ただの姫ならこんなに気にもしなかった。

その山崎という男が探すのは


————先詠みの巫女


絵草紙の中にしか、存在しないと思ってた。だが妙な事が多々あった。土方が話した内容とたまに絵草紙が一致する。


前から可笑しいと思ってた。

なぜ一人の女をそんなに必死に隠すのか


——あの眼差しは、笑っていない。


千夜は気づいていた。

沖田総司という男の“眼”は、土方とは違う冷たさを孕んでいる。 柔らかに笑うその面影の奥に、氷のような沈黙がある。


(……まるで、見透かして刺してくる様な視線)


風が吹き抜けた瞬間、藤の着物が揺れ、千夜の毛先がふわりと浮く。

その桜色に、沖田の視線が僅かに留まったのを——千夜は、確かに見ていた。


逃げるように視線を逸らしたのは、沖田のほうだった。けれど、それが情けではないことも、千夜には分かっていた。


その瞬間、風が吹いた。

淡い藤色の着物の裾が揺れ、千夜の髪がわずかにめくれた。桜色の毛先が、昼の日差しにきらりと光る。


沖田は何も言わずに、その様を目に焼き付けた。そして、笑った。


「……気のせいか。似てる人なんて、どこにでもいるからね」


沖田はわざとらしく笑って、視線を逸らした。


だが、確かに千夜は見た——

その目が、自分の桜色の髪先に確かに留まったことを。


「鏡を見てる様だな」


そう言ったのは、土方だった。


沈黙が落ちる。


沖田の口元に、わずかに笑みが浮かぶ。


「よっちゃん、面白いこと言うのね」


千夜が、ふっと笑った。

その瞬間、張り詰めた空気が和らぐ。町の風が通り、花の香がほのかに漂った。


「折角ですし、甘味でも食べません?」


何気ない千夜の一言に、原田が目を見開き、「それいいな!」と声を弾ませた。井上はほっとしたように笑い、永倉も肩の力を抜く。


沖田は、じっと千夜の笑顔を見つめていた。


「……面白いね。君」


その声に含まれるものが、興味か、探りか、それとも——


千夜は静かに答えた。


「私と貴方、少し似ているのかもしれません。ねぇ、沖田さん」


「似てる?」


「孤独と、過去と、苦しみと……少しの希望。君は私を刺さないよ」


沖田の目が、ゆっくりと見開かれる。


「違うな。……刺せないんだ。きっとね」


——そして、何も言わなかった土方。


彼の視線が、千夜と沖田の間を静かに見守り、千夜と繋いだ手に少しだけ力を入れた。


京の初夏、光の中で。

出会いと、何かの予感が、風とともに静かに動き始めていた。

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