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第4話

————鴨川沿い・甘味処


暖簾がふわりと揺れた。

白地に黒の丸文字で「京・甘味処」と染め抜かれたその布をくぐり、六人は一列になって店に入った。


「いらっしゃいませえ」


和やかな声に迎えられ、奥の小上がりへと案内される。板張りの床にはすでに陽が差し込み、格子窓から見える鴨川の流れが、まるで掛け軸のように揺れていた。


「わぁ……綺麗だね」


千夜が思わず声を漏らすと、原田左之助が頷いた。


「ここ、前に一度来たことがあってな。川の音がいいんだ」


彼女は草履を脱ぎ、慎ましく座布団に膝を揃えて腰を下ろす。

その動作は上品で、町娘にしてはあまりに洗練されていた——だが、誰もそこに言及しなかった。


「よっちゃん。ここ、好きなんだ?」


千夜の問いかけに、土方は軽く頷いた。


「……一度だけ、来たことがある」


その「一度」に、誰も気づかぬふりをした。

だが沖田だけは、土方の目の奥を盗み見るようにして黙っていた。


「おう、じゃあ俺は葛餅と白玉な。新八、甘いの食えんの?」


「誰が食えんて言った。白玉ぜんざい、もらおうか」


隊士たちが注文を告げる声が重なっていく。井上は落ち着いた様子で「冷やし抹茶を」と告げ、沖田は小さく「みたらし団子」と口にした。


千夜は、注文を迷っているふうを装いながらも、もうひとつの視線に気づいていた。

——永倉が、時折こちらを見ている。


(探られてるよね。コレは……。)


だが彼は、何も言わない。ただ、静かに湯呑を手に取っただけだった。


千夜は、心の奥に冷たいものがわずかに沈むのを感じた。名を変え、顔を作ってここに来た。

君菊として、土方と来た事がある店。


暖簾の揺れに小さく息を呑んだ千夜は、隣の土方の手をそっと握り締めた。

居心地の悪さは言葉にせずとも、六人の男たちの視線が彼女を鋭く突き刺していた。


(居辛い。とっても…)


だが、此処で逃げ出しても仕方がない。

己が考え抜いた答えは、


「……皆さん」


静かに、けれども確かな声音だった。

千夜は、湯呑を両手で包み込みながら顔を上げ、六人の視線を真正面から受け止めた。


「初めてお目にかかる方ばかりで、落ち着かないのは、お互いさまですね」


原田が、咄嗟に眉を上げた。井上と永倉は黙して様子を伺う。沖田は、小さく目を細めるだけで何も言わなかった。


「……もし、何かお気に障るような事がありましたら、申し訳ありません。ですが、私はこう見えても、豪農の家で育ちました。町娘のふりが拙ければ、ご容赦を」


その言い回しに、誰かがくすりと笑った。だが、それは冷笑ではなく、緊張をほぐす小さな綻びだった。


「……あ、手の事ですか? もし気になったなら、これは、昔少し護身術を習ってたせいで」


千夜は袖口をわずかに引き、指の節に残る小さな硬さを見せた。

男たちの目に映ったのは、闘う女ではない。生き抜くために選んだ、しなやかな覚悟だった。


永倉が、ふっと息をついて言った。


「いや、こちらこそ。不躾に見えたのなら、悪かったな」


「いえ。探られるのには……少し慣れてますから」


言葉の端に覗く皮肉に、今度は原田が大きく笑った。


「そりゃ肝が据わってるってことだ! こりゃ一本取られたな、新八」


「……名前で呼ぶな」


土方はそのやり取りを無言で見守っていた。

隣の千夜が、ふと彼を見上げて微笑んだ。

その笑みは、居場所を見つけようとする者の、それでも諦めない微かな光だった。


沖田は、それを見逃さなかった。

柔らかい、けれどどこか危うい、千夜という存在の輪郭。


彼女は、歩み寄ったのだ。


過去も、嘘も、重ねた名前も。

それでも「今、ここにいる私」を信じてほしいと、まっすぐに差し出してきた。


その姿に、隊士たちの心が少しずつほどけていく。


外では鴨川の水音が、絶え間なく流れていた。

まるで、あの日の記憶を洗い流すかのように。


甘味がひととおり運ばれ、場が落ち着きを取り戻した頃。

土方は箸を置き、湯呑に口をつけながら、隣に座る千夜に目をやった。


「……たいしたもんだ。」


声は低く、周囲には届かぬような調子だった。

千夜は、ゆっくりと視線だけを向けて微笑む。


「何が、ですか?」


「取り繕うのも、笑ってやり過ごすのも……あいつらを前に、たいしたもんだと思っただけだ」


千夜はその言葉に、ほんのわずかに目を伏せた。

爪の先が湯呑の縁をなぞる。


「……慣れました。見られることにも、聞かれることにも」


「そういうのは、“慣れていいもん”じゃねえ」


「でも、慣れないと、生きてこれなかった」


静かな返答に、土方はふと煙管に手を伸ばしかけたが、ここが甘味処であることを思い出して手を止めた。


「……あいつらに、全部話す気か?」


「いいえ。話せることは限られてます。ただ……」


千夜は、そっと外の鴨川に目をやった。

流れる水の音に混じって、風に乗る花の香。


「私は、ここで生きていくって決めたんです。だから、逃げるのも、隠れるのもやめたくて」


土方はその横顔をじっと見つめた。

色を抑えた髪、落ち着いた着物の裾、指先のかすかな緊張──すべてが、守りたいと願ってしまう何かを孕んでいた。


「……なら、言っておけ。あいつらは口は悪いが、筋は通す連中だ。……俺が拾った女を、貶すような真似はさせねぇ」


「……うれしいです」


土方が眉を動かし、怪訝そうな顔をする。


「お前、アイツが入ってるぞ。」


千夜は、口元を拭きながら


「気をつける。」


——演じなければ。そう思った瞬間、君菊が、勝手に入り込んでいた。


どこまでが“千夜”で、どこまでが“君菊”なのか。

鴨川の流れのように、定まらぬ輪郭が胸の奥を撫でていく。


(でも……それでも)


逃げずに、ここにいる。

嘘を重ねても、手放したくない時間がある。


土方の指先が、机の下でわずかに動く。

千夜の袖が、それに触れかけて、ぴたりと止まる。


何も言わずとも通じる温もり。

それは、“拾った女”ではなく、“共にいる者”としての確かな証。


外では鴨川の水音が、また一つ、過去を洗い流していた。


土方と千夜の姿が甘味処を後にし、まだ日の高い街角へと消えていく。

残された隊士たちは互いに顔を見合わせ、胸の内をぽつりぽつりと漏らし始めた。


井上が口を開いた。

「正直、あの女は只者じゃねえな……」


永倉も頷く。

「強さだけじゃない。何か秘めたものがある」


原田は軽口を叩きつつも、目は真剣だ。

「土方さんが拾っただけのことはある。あいつもそう簡単に女は信用しねえ」


沖田は静かに口を開く。

「千夜ちゃんは……何か、強い意志を感じる。でも同時に、どこか寂しげでもある」


新八が顔を赤らめながらも言った。

「土方さん、やっぱりああいう女には弱いんだな、と思ったさ」


それぞれの胸に、あの二人の存在が重く、しかし温かく刻まれていった。


「これからが楽しみだな」


誰かが言うと、皆が静かに頷いた。

夜風が彼らの言葉を運び、静かな決意が鴨川の水音に溶けていった。






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