————鴨川沿い・甘味処
暖簾がふわりと揺れた。
白地に黒の丸文字で「京・甘味処」と染め抜かれたその布をくぐり、六人は一列になって店に入った。
「いらっしゃいませえ」
和やかな声に迎えられ、奥の小上がりへと案内される。板張りの床にはすでに陽が差し込み、格子窓から見える鴨川の流れが、まるで掛け軸のように揺れていた。
「わぁ……綺麗だね」
千夜が思わず声を漏らすと、原田左之助が頷いた。
「ここ、前に一度来たことがあってな。川の音がいいんだ」
彼女は草履を脱ぎ、慎ましく座布団に膝を揃えて腰を下ろす。
その動作は上品で、町娘にしてはあまりに洗練されていた——だが、誰もそこに言及しなかった。
「よっちゃん。ここ、好きなんだ?」
千夜の問いかけに、土方は軽く頷いた。
「……一度だけ、来たことがある」
その「一度」に、誰も気づかぬふりをした。
だが沖田だけは、土方の目の奥を盗み見るようにして黙っていた。
「おう、じゃあ俺は葛餅と白玉な。新八、甘いの食えんの?」
「誰が食えんて言った。白玉ぜんざい、もらおうか」
隊士たちが注文を告げる声が重なっていく。井上は落ち着いた様子で「冷やし抹茶を」と告げ、沖田は小さく「みたらし団子」と口にした。
千夜は、注文を迷っているふうを装いながらも、もうひとつの視線に気づいていた。
——永倉が、時折こちらを見ている。
(探られてるよね。コレは……。)
だが彼は、何も言わない。ただ、静かに湯呑を手に取っただけだった。
千夜は、心の奥に冷たいものがわずかに沈むのを感じた。名を変え、顔を作ってここに来た。
君菊として、土方と来た事がある店。
暖簾の揺れに小さく息を呑んだ千夜は、隣の土方の手をそっと握り締めた。
居心地の悪さは言葉にせずとも、六人の男たちの視線が彼女を鋭く突き刺していた。
(居辛い。とっても…)
だが、此処で逃げ出しても仕方がない。
己が考え抜いた答えは、
「……皆さん」
静かに、けれども確かな声音だった。
千夜は、湯呑を両手で包み込みながら顔を上げ、六人の視線を真正面から受け止めた。
「初めてお目にかかる方ばかりで、落ち着かないのは、お互いさまですね」
原田が、咄嗟に眉を上げた。井上と永倉は黙して様子を伺う。沖田は、小さく目を細めるだけで何も言わなかった。
「……もし、何かお気に障るような事がありましたら、申し訳ありません。ですが、私はこう見えても、豪農の家で育ちました。町娘のふりが拙ければ、ご容赦を」
その言い回しに、誰かがくすりと笑った。だが、それは冷笑ではなく、緊張をほぐす小さな綻びだった。
「……あ、手の事ですか? もし気になったなら、これは、昔少し護身術を習ってたせいで」
千夜は袖口をわずかに引き、指の節に残る小さな硬さを見せた。
男たちの目に映ったのは、闘う女ではない。生き抜くために選んだ、しなやかな覚悟だった。
永倉が、ふっと息をついて言った。
「いや、こちらこそ。不躾に見えたのなら、悪かったな」
「いえ。探られるのには……少し慣れてますから」
言葉の端に覗く皮肉に、今度は原田が大きく笑った。
「そりゃ肝が据わってるってことだ! こりゃ一本取られたな、新八」
「……名前で呼ぶな」
土方はそのやり取りを無言で見守っていた。
隣の千夜が、ふと彼を見上げて微笑んだ。
その笑みは、居場所を見つけようとする者の、それでも諦めない微かな光だった。
沖田は、それを見逃さなかった。
柔らかい、けれどどこか危うい、千夜という存在の輪郭。
彼女は、歩み寄ったのだ。
過去も、嘘も、重ねた名前も。
それでも「今、ここにいる私」を信じてほしいと、まっすぐに差し出してきた。
その姿に、隊士たちの心が少しずつほどけていく。
外では鴨川の水音が、絶え間なく流れていた。
まるで、あの日の記憶を洗い流すかのように。
甘味がひととおり運ばれ、場が落ち着きを取り戻した頃。
土方は箸を置き、湯呑に口をつけながら、隣に座る千夜に目をやった。
「……たいしたもんだ。」
声は低く、周囲には届かぬような調子だった。
千夜は、ゆっくりと視線だけを向けて微笑む。
「何が、ですか?」
「取り繕うのも、笑ってやり過ごすのも……あいつらを前に、たいしたもんだと思っただけだ」
千夜はその言葉に、ほんのわずかに目を伏せた。
爪の先が湯呑の縁をなぞる。
「……慣れました。見られることにも、聞かれることにも」
「そういうのは、“慣れていいもん”じゃねえ」
「でも、慣れないと、生きてこれなかった」
静かな返答に、土方はふと煙管に手を伸ばしかけたが、ここが甘味処であることを思い出して手を止めた。
「……あいつらに、全部話す気か?」
「いいえ。話せることは限られてます。ただ……」
千夜は、そっと外の鴨川に目をやった。
流れる水の音に混じって、風に乗る花の香。
「私は、ここで生きていくって決めたんです。だから、逃げるのも、隠れるのもやめたくて」
土方はその横顔をじっと見つめた。
色を抑えた髪、落ち着いた着物の裾、指先のかすかな緊張──すべてが、守りたいと願ってしまう何かを孕んでいた。
「……なら、言っておけ。あいつらは口は悪いが、筋は通す連中だ。……俺が拾った女を、貶すような真似はさせねぇ」
「……うれしいです」
土方が眉を動かし、怪訝そうな顔をする。
「お前、アイツが入ってるぞ。」
千夜は、口元を拭きながら
「気をつける。」
——演じなければ。そう思った瞬間、君菊が、勝手に入り込んでいた。
どこまでが“千夜”で、どこまでが“君菊”なのか。
鴨川の流れのように、定まらぬ輪郭が胸の奥を撫でていく。
(でも……それでも)
逃げずに、ここにいる。
嘘を重ねても、手放したくない時間がある。
土方の指先が、机の下でわずかに動く。
千夜の袖が、それに触れかけて、ぴたりと止まる。
何も言わずとも通じる温もり。
それは、“拾った女”ではなく、“共にいる者”としての確かな証。
外では鴨川の水音が、また一つ、過去を洗い流していた。
土方と千夜の姿が甘味処を後にし、まだ日の高い街角へと消えていく。
残された隊士たちは互いに顔を見合わせ、胸の内をぽつりぽつりと漏らし始めた。
井上が口を開いた。
「正直、あの女は只者じゃねえな……」
永倉も頷く。
「強さだけじゃない。何か秘めたものがある」
原田は軽口を叩きつつも、目は真剣だ。
「土方さんが拾っただけのことはある。あいつもそう簡単に女は信用しねえ」
沖田は静かに口を開く。
「千夜ちゃんは……何か、強い意志を感じる。でも同時に、どこか寂しげでもある」
新八が顔を赤らめながらも言った。
「土方さん、やっぱりああいう女には弱いんだな、と思ったさ」
それぞれの胸に、あの二人の存在が重く、しかし温かく刻まれていった。
「これからが楽しみだな」
誰かが言うと、皆が静かに頷いた。
夜風が彼らの言葉を運び、静かな決意が鴨川の水音に溶けていった。