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第5話

鴨川沿いの茶屋を後にし、土方と千夜は再び二人きりになっていた。


沈黙のまま、ゆるやかな坂を歩く。行き交う人々の声は遠く、季節の匂いだけが風に乗って鼻先をくすぐる。


土方は、手を離さなかった。


千夜もまた、繋がれた手にそっと意識を寄せながら、ふと顔を上げた。


「……よっちゃん」


「ん」


「今日、夜来てくれる?」

土方は、足を止めた。


千夜の声は、風に溶けるように静かで、けれど確かな熱を孕んでいた。藤の着物の裾が、ふわりと揺れて、彼女の髪が首筋にかかる。


「……どういう意味で言ってんだ?」


低い声。だが、それは怒りでも拒絶でもなかった。むしろ、慎重に言葉の奥を探るような、そんな声音だった。


千夜は俯いて、小さく笑った。


「どう言う意味に聞こえた?」


挑むでも、惑わすでもなく。

ただ、心の奥から出た問いかけだった。


土方は、繋いだ手に視線を落とし、深く息を吐いた。土方が返事をしようと思った時、千夜が口を開く。


「さっき、沖田さんが言ってた山崎って人、

私の所にも来て……、その話をよっちゃんにもしときたくて。」


土方の瞳が、ほんのわずかに揺れた。


「……来たのか」


「うん。三日ぐらい前に。」


俯いた千夜は、少し唇を震わせ、

風がふたりの間を抜けていく。夕陽が傾き始め、京の町並みに長い影を落としはじめていた。


「どうして、黙ってた」


土方の問いは静かだった。責めるでも、問い詰めるでもなく、ただ知りたいという強さだけがあった。


己が大名の娘で姫。その事実だけでも受け入れ難いのに、先詠みの巫女の血まで受け継いでいる。それより何より、


「………怖くて。」


ぽつり溢れた言葉は、本心だった。


「よっちゃん知ったら……。

知ったらさ、居なくなっちゃう気がして、だから————っ。」


気付いたら、肩を強く抱きしめられていた。


「馬鹿だな。お前。」


嬉しい筈なのに、


「……っ。ねぇ、よっちゃん知ってる?

さっきから、ずっと視線が痛いのに、さらに悪化したんだけど。」


振り返る町人や商人、行き交う人の視線を浴びて、千夜の耳まで赤くなっていく。


土方は、千夜の言葉に思わず肩を揺らした。笑ったのか、呆れたのか——たぶんその両方だった。


「知ってたんだよね?よっちゃん。

さっき、沖田さんが言った時、そんな感じがした。」


「………。」


「それとも私が変だから、みんなが見てる

の?」


土方は、ふっと目を細めた。

そして、千夜の手をぐっと引いたかと思えば——彼女の耳元に、低く囁くように言った。


「違ぇよ。」


少し口角を上げた彼に見惚れてしまった。

「お前が、綺麗すぎるからだ」


「……え」


「髪の色も、歩き方も、仕草も……全部、人間の形してねぇみてぇに、目を引くんだよ」


人間の形。

人形みたい。それは、昔からよく言われた。土方に初めて会った時も、そう言われたのをよく覚えていた。


「……私、人形じゃないもん。」


千夜の言葉に、土方は目を伏せた。

数歩先を行く町人が、ちらとこちらを振り返り、ひそひそと何かを囁いている。

女たちの中には、口元を押さえて黄色い声を上げる者もいた。


——江戸では見られぬ、異形の女。

髪の先に淡く光る桜の色。

肩にかかる薄衣が、風に撓んで空を孕む。


「……ああ、知ってる。

お前は人形なんかじゃねぇ。ちゃんと、俺の手ぇ、握り返してくれる」


そう言った土方の声は、穏やかで、けれどどこかぎこちなく。

それでも、千夜の指先に伝わるその温度だけが、確かだった。


「ただ、よっちゃんと居たいだけなのに。」


千夜がそう呟いた瞬間、風が二人の間を吹き抜けた。

その風は、どこか懐かしい匂いを運んでいた。


——あの日、名をくれたあの夜の、煙草と藤の花の匂い。


土方は、口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。

そして代わりに、手を引く。

視線の先には、町はずれの人気のない石段。


「……行こう。あの先なら、誰の目にもつかねぇ」


それは、逃げでも誤魔化しでもなく。

この街のざわめきから、千夜を守ろうとする行為だった。



遠くに川のせせらぎが聞こえる、そんな石段に、腰を下ろした。千夜はふてくされたように顔をそむけた。


「でも、綺麗すぎるとか、人間の形してねぇとか言ったの、よっちゃんだもん……」


その声音は、怒っているというより拗ねているだけで。

手元で揺れる藤色の袖に、彼女の赤くなった耳が少しのぞく。


——なんでコイツ、こんなに可愛いんだよ。


土方は思わず、内心で毒づいた。

恋だの情だのに振り回される性質ではないはずなのに、千夜のこういう一面だけは、どうにも抗えなかった。


「……知ってるよ。お前が人間だってことぐらい」


「じゃあもっと、人間扱いしてよ」


ぼそりと返された言葉に、土方はほんの少しだけ口元を緩めた。

けれどそれは、彼女に見せるためのものじゃなかった。


「でもさ、何で知ったの?私の生まれとかそういうの。」


風が吹き抜け、土方は、千夜に目を合わせていく。


「一つ、俺は、この手を離すつもりなんざねぇ。今から聞くことが俺が見た事実だ。理由なんざ知らない。それでも聞くか?」


千夜は一瞬だけ戸惑ったように瞳を揺らし、けれどすぐに小さく頷いた。


「……うん。聞かせて」


土方はしばらく無言で、夕陽に染まる京の町並みを見下ろしていた。目の奥に、今はもう過ぎた時間が映っているようだった。


※※※


あの日、あの河原で、

土方が千夜にすぐに駆け寄れなかった理由があった。確かに姿は、千夜なのに


————髪が桜色だった。


今の様に毛先だけでは無く、全ての髪色がそれだった。


見た時、巫女だと思った。


土方がよく千夜にせがまれて読んでた巫女様の絵草紙。そんな物ただの作り話だと思ってた。


目の前に現れたら、

それだ。そう思わせるほど、それは、俗っぽい本の中で語られる“異形”の美しさだった。


風に揺れる髪は、まるで春を孕んだ霞のようで。白磁の肌に、夜露がこぼれるような瞳。

あれは——この世のものじゃないと、心が勝手に認めた。


だが、目の前の惨状は、見て美しい。なんて言ってる場合では無く、


「…見た瞬間に、頭が真っ白になったんだ。」


土方の声が、静かに落ちていく。


「お前が、千夜であるはずがないと思いたかった。いや……思おうとしたのかもしれねぇ」


膝が砕けて、石にぶつけた痛みだけが現実だった。目の前にあるその姿が、何かの間違いであってほしいと、心のどこかで願ってしまった。


「逃げたんだ。ほんの、一瞬だけ」


そう言って、土方は拳を握り締める。


「俺は——目を逸らした。違うと、思いたかった。だって……」


言葉が詰まり、喉の奥が震える。


「……あんな姿、誰が見て、正気でいられるってんだよ。お前が、あんなふうに……」


千夜は何も言わなかった。ただ、黙って土方の横顔を見つめていた。眉間の皺も、唇を噛む癖も、その時のままだ。


「でも、それでも、千夜だってわかった。桜色の髪だろうが、目が碧くなろうが……お前の声だけが、俺を呼んでくれた」


ふっと、土方の目尻が熱を帯びる。


「“よっちゃん”って、呼んでくれたから」


たったそれだけが、偽物じゃない証だった。


「……俺の名を、あの声で呼んでくれたから、逃げちゃいけねぇって、思い直したんだ」


千夜が、小さく息を飲んだ。瞳の奥が、微かに濡れていた。


土方は、巫女について調べた。

千夜が来てから、彼女の身元を探さなかった訳ではない。行商に一緒に連れて行き、彼女の家族、兄弟、親戚。なにか手掛かりはないか、土方なりに探していた。だが、何の手がかりもないまま月日だけが過ぎていく。


早く手放したかった訳でもない。

月日が経つごとに、自ずと手放し難くなる。むしろ土方は、千夜を手放す気すら無かった。


だが、それを決めるのは自分では無い。


「少しづつ、飯を食う事が出来る様になったぐらいの時、千夜の出生、身分を知った。お前に現実を突きつけれる筈がなかった。」



土方は、行商へ行くたび、名家の記録を調べた。神田の古書店を何軒も渡り歩き、薩摩や水戸の御家騒動の残滓を拾い集めた。


時には、自分が長州の間者と誤解されかねぬ危険も承知で、古い茶坊主の口から裏話を聞き出した。


名家の内証話には、煙のように「彼女」の名が漂っていた。


――徳川斉昭には、表に出されなかった双子の姫君がいた。


ーー一人は幼い頃に亡くなり、もう一人は、“器”として育てられたが、十年前、江戸城奥にて消息不明となった。

――名は、“椿”。


土方の手元に残る資料はわずかで、そこには「否子(いなこ)」という言葉が添えられていた。


否子――拒絶された子。

その言葉は、彼女が家にあっても認められず、隠され、厳しい運命を背負っていたことを示していた。


牢――その文字は、彼女が囚われていたかもしれない過去の闇を暗示した。


土方は、その文字を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。


「……寧ろ、記憶を失ってくれて、助かったと思った。あんな過去、知る価値もねぇ。

知れば、お前の心まで、あの牢に閉じ込められる気がして……怖かった」


壊れかけた彼女に、これを告げる事は、出来る筈がない。


「身分は、姫でも、見つけた物に腹が立った。

これじゃ、罪人と何ら変わらないとさえ感じた。」


呟いた土方の声は低く、どこか怒りを孕んでいた。

斉昭の娘として、一橋慶喜の妹として——

しかし彼女は、ただ「椿」として、誰にも知られず、愛されず、生き抜いてきた。


「でもな、千夜。俺にとっちゃ……

お前が“千夜”だろうが“椿”だろうが、関係ねぇんだよ」


千夜が、はっと息を呑んだ。


「知りてぇのはな——

名前でも、家柄でもねぇ。

……今、こうして俺の手ぇ、ちゃんと握ってくれてる“お前”だけだ」


そう言って、土方はもう一度その手を、確かに握りしめた。


冷たい風の中、その温もりだけが、確かにふたりを繋いでいた。





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