ただ、嬉しかった。
悩んだ時が勿体なかった。そう思うぐらい
初めて紅を引いたのは、好きな人に振り向いて貰いたかったから。
鏡の中の自分に問いかけながら、
ほんの少し唇を染めた。それだけで、世の中が少し変わった気がした。でも、すぐにそれは落とした。背伸びをする「ガキ」自分で、そう見えてしまったからだ。
土方の隣に立つ女性は、大人びてた。
彼の、許嫁だった。
どれだけ背のびをしても届かない。どれだけ想っても、叶う事すらない恋。それが、千夜の初恋。
※※※
「歳三って、どういう女性が好みなの?」
ノブ姉が何気なくそう尋ねたのは、ある晩、夕餉の後の団欒のときだった。
土方は煙管を口にしながら、少しだけ視線を泳がせた後、低い声で静かに答えた。
「……俺は、強い女が好きだな。
ただ気丈って意味じゃねぇ。自分の信念を持ってて、誰かにすがらず立てるような女だ。
そういうのが、いい。」
「何、生意気言ってるんだい?」
「ノブ姉が聞いたんだろうに!」
音が遠ざかって行く。
土方の言葉に、皆が笑って流す中で、千夜は黙って湯呑みに口をつけた。
笑っていた。けれど、胸の奥がじわりと痛んだ。
「強くて、信念を持った女——」
彼の許嫁だと思った。
似合いの二人。皆が口々に言う。土方は、許嫁について、何も語らなかった。
それが、千夜を追いつめていく。
自分は、拾われた。恋した人に、自分は、いつか、————捨てられる。
生きて行く手立ても分からない。もうすぐで十四歳の時、君菊は生まれた。
君菊――その名は、美しいと褒められた。
「菊のように凛として、決して萎れぬ娘」と。
けれどその実、笑い方ひとつ、目の伏せ方ひとつ、すべては“作られた”女だった。
唇に紅を引く指先だけが、かつての自分とつながっている気がして、化粧を終えるたび、胸の奥に小さな痛みが残った。
手に入れられるとは思っても無い。ただ、自分を見て欲しい。貴方が拾った命は、知らぬ間に、恋をしてしまった。叶う事もない恋に。
————土方目線
ノブ姉が不意に聞いてきた言葉に、咄嗟に大人びてた女性像を口にした。自分が気になるのは、千夜。それは自覚し始めで、色々な事を盾にしていた。
歳が一回りも違う。
認めてもない許嫁がいる。
盾をして、己の気持ちに蓋をしていた。なのに、その答えが千夜を追いつめてた。
夜の帳が深まる中、俺は馴染みの顔ぶれと吉原へ足を運んだ。喧噪の中、華やかな灯りに誘われながらも、胸の奥はざわついていた。
そこで出会った女たちは、誰もが“強さ”と“儚さ”を併せ持っていた。
一瞬、目を奪われる。だがどこかで冷めている自分もいた。
その中で、目を惹きつける女、
それが君菊だった————
艶やかな黒髪に、白粉の肌。
伏し目がちの睫毛が落とす影の奥で、何かを隠しているような瞳。
誰よりも静かで、誰よりも美しかった。
だがそれは、着飾った華やかさではなかった。
……“痛み”のような美しさだった。
「君菊か。噂の女だろ」
連れの男が囁く。
「男を落とす仕草がたまらんらしい。惚れて通う侍も多いって話だ」
そんな言葉に、土方は応えなかった。
ただ、目が離せなかった。
いや――どこかで、心の底がざわついていた。
あの目を、知っている。
あの仕草を、見たことがある。
いや、あれは、間違いなく
「………千夜。」
似てるだけだと思いたかった。己に言い聞かせながらも、胸の鼓動が止まらなかった。そこにいたのは、誰にも媚びず、誰にもすがらず、
ただ、気高く立つ“女”だった。
艶やかな帳が降りた後、廓の灯りもまばらになった帰り道。
土方は、一言も発さぬまま、君菊――いや、千夜の袖を無言で引いた。
「……何の真似だ?」
小さく問えば、女は笑うでもなく、ただ首を傾げた。
夜気が冷たく肌を撫でる中、土方の声音は低く、刺すようだった。
「どうして……こんな場所に、こんな姿で立っていた?」
答えはなかった。
ただ、睫毛が震え、白粉の下の素顔が、ふと“千夜”へと戻った気がした。
「言え。」
その一言に、千夜は瞳を伏せたまま、やがてぽつりと口を開く。
「………捨て、られると、思って。」
そう言った千夜は、もうそれ以上何も言わなかった。
それが全てなのだと、自分に言い聞かせるように、目を逸らした。
土方は、ただ黙ってその姿を見ていた。
あの目を、何度も見たことがある。
泣くまいとする女の目。誰にも甘えず、誰にも寄りかからない女の、張りつめた孤独。
——千夜の目だった。
何かを言えば、壊れてしまいそうだった。
でも、何も言わなければ、もう触れられない気がした。
「…………寒いな」
それが、土方の口から出た唯一の言葉だった。
千夜は、小さく笑った。
それは、返事のようでもあり、終わりの合図のようでもあった。彼女は、背を向け歩いて行く。
足音が遠ざかる。
月が、白く二人の影を伸ばしている。けれど、交わることはなかった。
ひとりになった土方は、懐に残る煙管に火を点けようとしたが、やめた。
風が冷たい。あの子の手は、きっと、もっと冷えていたのに。
「……捨てるわけねぇだろ」
誰にも聞かれない声で、ひとりごとのように呟いた。
けれどそれは、もう千夜には届かない。
互いに、相手のためを思って言葉を飲み込む。
その優しさが、残酷なくらいに、二人を遠ざけた夜だった。
――――共に生きると誓った女は、お前だけ。背を託せるのは、お前しか居ない。
不器用な男の告白があったのは、この数ヶ月後。彼女の動きは、決して無駄ではなかった。
————
—————壬生村・屯所
土方が鼻を鳴らす。
「何です?急に笑って。気持ち悪い。」
帳簿に目を落としたまま、沖田が問いかける。眉一つ動かさず、
「もしかして、総上げするのがそんな嬉しいんで?」
土方は口元をひくつかせ、煙管の灰をぽんと落とした。
「総上げなん無駄だろうに。」
「いや。でも芹沢さん本気みたいですよ。ちらほら遊女や舞妓、芸妓まで姿を見せてます。なんなら、今夜ひと晩貸し切りにしたって話まで……」
沖田は涼しい顔で、箸を転がすような声を落とす。
「金の使いどころってのは、人によって随分と違うもんですね」
「……くだらねぇ」
吐き捨てるように言ったその声音に、沖田はちらと目を向けた。
「面倒なのが沢山いる。
寒気がしそうですよ。僕、苦手なんで。あーいうの。」
「好きにしろ」
土方は帳簿に視線を戻しながらも、煙管を弄る手を止めなかった。
「まぁ、でも副長は――行かれるんですよね?」
「……誰が行くか。バカらしい」
即答した土方に、沖田は心底面白そうに目を細めた。
「へぇ。それは意外ですね。
あんなに綺麗な芸妓が揃うって話、耳にしても揺るがないなんて」
「綺麗なら何だ。着飾った女に色気なんざ感じねぇよ。……それが、まやかしなら、尚更だ」
ふいに土方の声が沈む。
その響きに、沖田は茶を啜るふりをして、目線を逸らした。その時、扉が勢いよく開いた。
「おい、副長、こんなところに籠もっててどうすんだよ!今夜は楽しい話があるってのに!」
原田が笑いながら大声で言い放つ。永倉も後ろから顔を出し、
「そうだよ、土方さん、総司もさ、さっさと来なよ!噂の君菊、見逃すなんてありえないぜ!」
土方は眉間に皺を寄せ、煙管の火を消す仕草をしながらも、
「……俺は行かねぇって言ってんだ。」
「おいおい、そんなこと言わずにさぁ。隊の士気だって大事だろ?みんなで楽しむのが一番じゃねぇか。」
原田はしつこく土方の腕を掴む。
永倉も「ねぇねぇ、総司、お前も来るんだろ?こんな面白い機会、逃すわけないだろ?」
沖田は冷静に、
「俺は……別に、嫌じゃないけど。」
土方はふっと苦笑しながらも、諦めたように立ち上がった。
「……しゃあねぇな。お前らがそこまで言うなら、一緒に行ってやる。」
原田は満面の笑みで拳を突き上げ、
「それでこそ副長だぜ!」
永倉も軽く頭を下げながら、
「じゃあ、さっそく行こうや!」
その場の空気が一気に明るくなる中、土方と沖田は覚悟を決めて外へと歩き出すのだった。