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第6話

ただ、嬉しかった。

悩んだ時が勿体なかった。そう思うぐらい


初めて紅を引いたのは、好きな人に振り向いて貰いたかったから。


鏡の中の自分に問いかけながら、

ほんの少し唇を染めた。それだけで、世の中が少し変わった気がした。でも、すぐにそれは落とした。背伸びをする「ガキ」自分で、そう見えてしまったからだ。


土方の隣に立つ女性は、大人びてた。


彼の、許嫁だった。


どれだけ背のびをしても届かない。どれだけ想っても、叶う事すらない恋。それが、千夜の初恋。


※※※


「歳三って、どういう女性が好みなの?」

ノブ姉が何気なくそう尋ねたのは、ある晩、夕餉の後の団欒のときだった。


土方は煙管を口にしながら、少しだけ視線を泳がせた後、低い声で静かに答えた。


「……俺は、強い女が好きだな。

 ただ気丈って意味じゃねぇ。自分の信念を持ってて、誰かにすがらず立てるような女だ。

 そういうのが、いい。」


「何、生意気言ってるんだい?」


「ノブ姉が聞いたんだろうに!」


音が遠ざかって行く。

土方の言葉に、皆が笑って流す中で、千夜は黙って湯呑みに口をつけた。

笑っていた。けれど、胸の奥がじわりと痛んだ。


「強くて、信念を持った女——」


彼の許嫁だと思った。

似合いの二人。皆が口々に言う。土方は、許嫁について、何も語らなかった。


それが、千夜を追いつめていく。


自分は、拾われた。恋した人に、自分は、いつか、————捨てられる。


生きて行く手立ても分からない。もうすぐで十四歳の時、君菊は生まれた。


君菊――その名は、美しいと褒められた。

「菊のように凛として、決して萎れぬ娘」と。

けれどその実、笑い方ひとつ、目の伏せ方ひとつ、すべては“作られた”女だった。


唇に紅を引く指先だけが、かつての自分とつながっている気がして、化粧を終えるたび、胸の奥に小さな痛みが残った。


手に入れられるとは思っても無い。ただ、自分を見て欲しい。貴方が拾った命は、知らぬ間に、恋をしてしまった。叶う事もない恋に。



————土方目線


ノブ姉が不意に聞いてきた言葉に、咄嗟に大人びてた女性像を口にした。自分が気になるのは、千夜。それは自覚し始めで、色々な事を盾にしていた。


歳が一回りも違う。

認めてもない許嫁がいる。


盾をして、己の気持ちに蓋をしていた。なのに、その答えが千夜を追いつめてた。


夜の帳が深まる中、俺は馴染みの顔ぶれと吉原へ足を運んだ。喧噪の中、華やかな灯りに誘われながらも、胸の奥はざわついていた。


そこで出会った女たちは、誰もが“強さ”と“儚さ”を併せ持っていた。

一瞬、目を奪われる。だがどこかで冷めている自分もいた。


その中で、目を惹きつける女、

それが君菊だった————


艶やかな黒髪に、白粉の肌。

伏し目がちの睫毛が落とす影の奥で、何かを隠しているような瞳。


誰よりも静かで、誰よりも美しかった。

だがそれは、着飾った華やかさではなかった。

……“痛み”のような美しさだった。


「君菊か。噂の女だろ」

連れの男が囁く。

「男を落とす仕草がたまらんらしい。惚れて通う侍も多いって話だ」


そんな言葉に、土方は応えなかった。

ただ、目が離せなかった。

いや――どこかで、心の底がざわついていた。


あの目を、知っている。

あの仕草を、見たことがある。


いや、あれは、間違いなく


「………千夜。」


似てるだけだと思いたかった。己に言い聞かせながらも、胸の鼓動が止まらなかった。そこにいたのは、誰にも媚びず、誰にもすがらず、

ただ、気高く立つ“女”だった。


艶やかな帳が降りた後、廓の灯りもまばらになった帰り道。

土方は、一言も発さぬまま、君菊――いや、千夜の袖を無言で引いた。


「……何の真似だ?」


小さく問えば、女は笑うでもなく、ただ首を傾げた。

夜気が冷たく肌を撫でる中、土方の声音は低く、刺すようだった。


「どうして……こんな場所に、こんな姿で立っていた?」


答えはなかった。

ただ、睫毛が震え、白粉の下の素顔が、ふと“千夜”へと戻った気がした。


「言え。」


その一言に、千夜は瞳を伏せたまま、やがてぽつりと口を開く。


「………捨て、られると、思って。」


そう言った千夜は、もうそれ以上何も言わなかった。

それが全てなのだと、自分に言い聞かせるように、目を逸らした。


土方は、ただ黙ってその姿を見ていた。


あの目を、何度も見たことがある。

泣くまいとする女の目。誰にも甘えず、誰にも寄りかからない女の、張りつめた孤独。

——千夜の目だった。


何かを言えば、壊れてしまいそうだった。

でも、何も言わなければ、もう触れられない気がした。


「…………寒いな」


それが、土方の口から出た唯一の言葉だった。


千夜は、小さく笑った。

それは、返事のようでもあり、終わりの合図のようでもあった。彼女は、背を向け歩いて行く。


足音が遠ざかる。


月が、白く二人の影を伸ばしている。けれど、交わることはなかった。


ひとりになった土方は、懐に残る煙管に火を点けようとしたが、やめた。

風が冷たい。あの子の手は、きっと、もっと冷えていたのに。


「……捨てるわけねぇだろ」


誰にも聞かれない声で、ひとりごとのように呟いた。

けれどそれは、もう千夜には届かない。


互いに、相手のためを思って言葉を飲み込む。

その優しさが、残酷なくらいに、二人を遠ざけた夜だった。



――――共に生きると誓った女は、お前だけ。背を託せるのは、お前しか居ない。


不器用な男の告白があったのは、この数ヶ月後。彼女の動きは、決して無駄ではなかった。


————



—————壬生村・屯所


土方が鼻を鳴らす。


「何です?急に笑って。気持ち悪い。」


帳簿に目を落としたまま、沖田が問いかける。眉一つ動かさず、


「もしかして、総上げするのがそんな嬉しいんで?」

土方は口元をひくつかせ、煙管の灰をぽんと落とした。


「総上げなん無駄だろうに。」

「いや。でも芹沢さん本気みたいですよ。ちらほら遊女や舞妓、芸妓まで姿を見せてます。なんなら、今夜ひと晩貸し切りにしたって話まで……」


沖田は涼しい顔で、箸を転がすような声を落とす。


「金の使いどころってのは、人によって随分と違うもんですね」


「……くだらねぇ」


吐き捨てるように言ったその声音に、沖田はちらと目を向けた。


「面倒なのが沢山いる。

寒気がしそうですよ。僕、苦手なんで。あーいうの。」


「好きにしろ」


土方は帳簿に視線を戻しながらも、煙管を弄る手を止めなかった。


「まぁ、でも副長は――行かれるんですよね?」


「……誰が行くか。バカらしい」


即答した土方に、沖田は心底面白そうに目を細めた。


「へぇ。それは意外ですね。

あんなに綺麗な芸妓が揃うって話、耳にしても揺るがないなんて」


「綺麗なら何だ。着飾った女に色気なんざ感じねぇよ。……それが、まやかしなら、尚更だ」


ふいに土方の声が沈む。

その響きに、沖田は茶を啜るふりをして、目線を逸らした。その時、扉が勢いよく開いた。


「おい、副長、こんなところに籠もっててどうすんだよ!今夜は楽しい話があるってのに!」

原田が笑いながら大声で言い放つ。永倉も後ろから顔を出し、


「そうだよ、土方さん、総司もさ、さっさと来なよ!噂の君菊、見逃すなんてありえないぜ!」


土方は眉間に皺を寄せ、煙管の火を消す仕草をしながらも、


「……俺は行かねぇって言ってんだ。」


「おいおい、そんなこと言わずにさぁ。隊の士気だって大事だろ?みんなで楽しむのが一番じゃねぇか。」

原田はしつこく土方の腕を掴む。


永倉も「ねぇねぇ、総司、お前も来るんだろ?こんな面白い機会、逃すわけないだろ?」


沖田は冷静に、


「俺は……別に、嫌じゃないけど。」


土方はふっと苦笑しながらも、諦めたように立ち上がった。


「……しゃあねぇな。お前らがそこまで言うなら、一緒に行ってやる。」


原田は満面の笑みで拳を突き上げ、


「それでこそ副長だぜ!」


永倉も軽く頭を下げながら、


「じゃあ、さっそく行こうや!」


その場の空気が一気に明るくなる中、土方と沖田は覚悟を決めて外へと歩き出すのだった。
















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