座敷の奥、ひときわ華やかな一団の中央で、芹沢鴨が高らかに笑った。
「……来たぞ、君菊だ」
その名を口にするだけで、場の空気が変わる。
「おう、こっち来い。今夜は上座を空けてある」
芹沢が手を叩きながら呼びかけると、廊の奥から現れたのは、黒髪を結い上げた、一人の女だった。
君菊
白粉を薄くのせた頬。細く整えられた眉。
涼しげな目元に浮かぶ笑みは、どこか決して近寄らせぬ品を纏っている。
その姿に、座敷の誰も
が言葉失った。
「……やっぱ、別格だな」
「これが“島原一の新星”って噂の……」
そんな声が、左右から漏れる。
土方は口を噤んだまま、じっとその女の姿を見つめていた。
芸者としての所作、言葉の端々、すべてが洗練されている。だがそれでも、彼女が時折ふと見せる“隙”が、土方には痛いほどに伝わってくる。
(どれだけ取り繕おうと、あの目だけは誤魔化せねぇ)
芹沢が立ち上がり、君菊に近づく。
「どうだい、今宵はこっちに来てくれ。姐さんらにも声はかけてある。お前が来るとなりゃ、皆、沸いてるんだ」
それを受けた君菊は、一歩進み――そして、深く頭を下げた。
「お誘い、痛み入ります。ほんま、ありがたいことで」
所作は完璧だった。
だが、その次の言葉が、座敷の空気を僅かに凍らせる。
「せやけど……うちは、まだ新入りや。
噂を流してくれはる旦那はんらには感謝してますけど、うちより上の姐さん方を差し置いて、上座なん、よう座れまへん」
その声には、媚びも、気後れもなかった。
ただ静かに、凛とした芯の強さが滲んでいた。
芹沢の眉がぴくりと動く。だが、それを咎めるような真似はしない。ただ豪快に笑い、酒をあおった。
「ははっ、なるほど。ええ心がけやな。……それも、また艶ってやつか」
「………。」
君菊はするりと場の隅へ下がった。誰よりも目を引きながら、誰よりも静かに空気へと溶け込むように。
その一部始終を見ていた土方は、口元に煙管を運びながら、目を伏せた。心の奥に、何かが疼く。
君菊が一礼し、静かに席を外そうとした、その瞬間だった。
「……上座が嫌なら、ここに座るか?」
座敷の一角、少しだけ離れた卓の片隅から、
低く、乾いた声が聞こえた。
土方歳三。
口元に煙管を咥えたまま、ふっと目尻だけを緩めて、君菊を見やった。
その笑みは、侮蔑でも同情でもない。ただ少しだけ、意地悪で、少しだけ……優しい。
君菊の肩が、僅かに揺れた。だがすぐに、微笑みを浮かべたまま、深く頭を下げる。
「もったいないお言葉。けど……」
「けど?」
君菊が口篭った瞬間、
「若いのに、挨拶もよう出来て、気の利く子やわぁ」「あんたらも、ちったぁ見習いなぁ」
その場に並ぶ芸妓たちの中から、年嵩の姐さんがひとり、くすくすと笑いながら言った。
「せやけど君菊、そない遠慮せんでもええやないの。ほら、土方はんの隣、空いとるやろ」
「そ、そうや。せっかく声も掛かったんやし、座ったらええ」
「せやせや。あんたが座らへんと、場がしまらんわ」
——圧である。
遠巻きに聞いていた原田や永倉が、「あー……」と心の中で同時に察した。姐さん連中の“押し”は、若い舞妓よりも、よほど手強い。
「姐さんら……そない言うても、うちは……」
言いかけた君菊だったが、誰かが酒を注ごうと立ち上がったのを見て、静かに、ほんの一拍だけ息をのむ。
それから、一礼して。
「……ほな、少しだけ、失礼します」
裾を整え、足音を立てぬように畳の上を歩き、
ゆっくりと、土方の隣へ座した。
小さな気配に、土方がちらと目を向ける。
視線が交わった一瞬——
君菊は、目を伏せたまま、確かに頷いた。
「悪いな、巻き込んで」
ぽつりと、土方が呟く。誰にも聞こえぬような声だった。
君菊もまた、うっすらと笑みを浮かべ、静かに返す。
「……呼ばれたわけちゃいます。座れ言われただけです」
君菊は、土方の手元のお銚子に目をやる。
それが「早う盃を出せ」という無言の促しであることなど、とうに承知のうえだった。
彼女は音を立てぬよう盃を取ると、土方の前に差し出した。
「……注がせてもろうて、よろしおすか?」
「芸の一部だろ」
素っ気ない声に、微かに笑みが浮かぶ。
「ほな、失礼して」
君菊の白い指が、お銚子を傾ける。
土方の盃に酒が静かに注がれていく音だけが、ふたりの間に落ちた。
土方は黙ってそれを受け取り、
一口、口に含むと、軽く顎をしゃくった。
「次は、そっちの番だ」
君菊は一礼し、盃を戻す。
——まるで約束事のような流れだった。
座敷では、姐さんたちがひそひそと笑い合っている。
「まあまあ、なんやええ感じやわ」
「若いの、こういうの見習いなぁ」
「……こら、恋仲やな」
そんな囁きも、もう止まらない。
遠巻きに見ていた原田が、呆れたように眉を上げた。
「……ええんか、あれ。公然と惚気てへんか?」
永倉がぼそりと返す。
「いや、逆や。あんだけ堂々としてると、逆に“ただの客あしらい”に見えてくる」
「こえぇな……女って」
沖田は酒を口にしながら、くすりと笑う。
「でも土方さん……あれ、ぜったい素だよ?」
「……バレてねぇつもりだろな」
原田と永倉が同時に小声で呟いた。
だが、当の本人たちは、どこまでも静かだった。
土方の呟きは、誰にも届かないほど低かった。
「……あのとき、掬えてたらな」
膳の向こうで、盃を持つ君菊の手が、ぴたりと止まる。
周囲では姐さんが笑い、舞妓が酌を続けている。笑い声も盃の音も、にぎやかなまま。
けれど――その一角だけは、まるで別の空気が流れていた。
「おまえが差し出してくれたもんを……ちゃんと受け止めてたら、きっと、おまえは……あんな傷、負わんでもよかったんだろうな。」
土方の声は、まるで煙のように薄く、重かった。
それに、君菊はなにも返さなかった。
言葉を探すことも、誤魔化すこともなく。
ただ、顔を伏せたまま、膝の前で盃をそっと置く。
そして――
きゅっ、と唇を噛み締めた。
ほんの一瞬。
それだけで、彼女のすべての答えがそこにあった。
「……」
土方は、それを見ていた。
見て、何も言わなかった。
言葉は、もう要らなかった。
あの夜、すがるように差し出された手を、
怖くて掴めなかった自分。
その代償を、彼女がずっと背負って生きてきたこと。それを、ようやく“知る”側に回っただけだった。
土方は煙管の火皿を傾け、火を落とす。
誰にも気づかれぬように。
座敷の灯りがちらちらと揺れ、三味線の音がまた始まる。
君菊は顔を上げない。
けれど、噛み締めたその唇の痕が、胸の奥に、いつまでも残っていた。
三味線の音が、ふたたび静かに流れ始めた。
「君菊、舞をお願いできるかえ?」
年嵩の姐さんの声に、座敷の空気が少しだけ引き締まる。
君菊は、一礼する。
「……ようございましたら。少しだけ」
立ち上がる姿は穏やかで、乱れなく。
帯に指を添え、扇を手に取る仕草も、すでに舞の一部のようだった。
彼女が畳の中央へ進むと、座敷が自然と静まっていく。
そして、扇がふわりと開かれた。
舞が始まる。
——静かだった。
大げさな振りも、色香を振りまくような仕草もない。
けれど、一つ一つの所作が、まるで風に浮かぶ花のようにしなやかで、どこか遠く、哀しい美しさを纏っていた。
面をつけず、仮面もなく、ただ、自分の想いと記憶をなぞるように、舞っていた。
誰かを想うでも、誰かに見せるでもなく。
それは、ただ一人に届くためだけの舞だった。
扇をすっと下ろすとき、袖の先がわずかに揺れた。その揺れが、まるで彼女の“迷い”や“過去”を映しているようで、見ている誰もが息を飲んだ。
土方は、その舞から目を逸らさなかった。
彼女が、こんなにも静かに、自分のすべてを晒していることを、誰よりも深く理解していた。
(……あれが、“今”のあいつなんだ)
もう、過去に取りこぼした“あの娘”ではない。
傷を背負い、それでも立って、笑って、ここにいる。
舞い終えた君菊が、扇を畳む。膝をつき、頭を下げる。座敷が静寂に包まれ、そして、ようやく拍手がぽつりぽつりと漏れはじめる。
「……見惚れた」
「まるで、風の舞いや……」
誰かが呟き、誰かが嘆息する。
君菊は、なにも言わずに頭を下げたまま。
その背に向けて、土方は煙管の火皿をそっと傾ける。
彼の目だけが、誰よりも静かに、あの舞に込められた“返事”を、受け止めていた。
夜の座敷を離れ、君菊はひとり、庭先に出ていた。
縁側の隅。灯りからも人目からも、わずかに外れた場所。
白い手が袖の奥から細身の煙管を取り出し、
火皿に刻み煙草を詰める。
ぱち、と火打石の音。
細くくゆる煙が、ふわりと宙へと上がっていく。
髪をゆるく結い直し、肩を落とした君菊の横顔は、座敷のそれとは別人のようだった。
誰にも媚びず、笑わず、ただ静かに、煙を吸って、吐く。
紅を引いた唇が、細い煙管を咥える。
ちり……と火皿が赤く灯り、吸い込んだ煙が喉奥をくゆって、白く吐き出される。
そのひと吹きすら、どこか艶めいて見えた。
「なんや、あれ。口つけてるだけで、あかんわ……」
「なぁ、あの煙管になりたいとか思ってもうた俺を、誰か止めてくれ……」
廊の陰。
顔を覗かせた浪士たちの目が、まるで見世物のように彼女を追っていた。けれど、誰も声をかけられない。
まるで、手を伸ばせば触れられそうなのに、*踏み込めば焼かれるような空気が、彼女の周囲を包んでいた。
君菊は、視線に気づかぬふりで、煙管をひと撫でする。紅がうつる。
その吸い口を親指で拭う仕草すら、なぜか“誘い”のように見えてしまう。
そのとき。
「……そこまでにしておけよ」
低く、鋭い声がした。
背筋の凍るような、静かな声だった。
廊の陰。
石畳を踏む音もなく、土方歳三が立っていた。
月光に浮かぶその影に、男たちは一斉に息を飲む。
「女を肴にするにしても、場所を弁えろ」
そう言っただけで、誰にも目を向けず、
ただまっすぐに——君菊だけを見ていた。
浪士たちは口を噤み、そそくさと退いた。
土方は何も言わず、縁に歩み寄る。
君菊が、ちらと目だけでこちらを見る。その視線に応えるように、土方は低く呟いた。
土方は、ふっと小さく息を吐き、君菊の持つ煙管を紅を引いた口から外した。
(あれを見た誰もが、惚れたような顔しやがって……)
口にこそ出さなかったが、その言葉は、確かに胸の奥で転がった。嫉妬でもない。所有欲でもない。ただ、それほどに彼女は美しい。
「………わっちの煙管…。」
ぽつりと呟いた君菊の声は、どこか間の抜けたようでいて、寂しさを帯びていた。
土方は答えなかった。ただ、紅のうつった吸い口をじっと見つめる。
「そないに睨まんといて。火、落とす前に返してもろてええ?」
冗談めかした口ぶりで言いながら、君菊はそっと手を差し出す。だが、土方は煙管を返さなかった。代わりに、手の中でゆっくりと回しながら、ぽつりと呟いた。
「……あれを見た誰もが、惚れたような顔しやがって……」
君菊は眉をわずかに動かす。
けれど、口元にはふっと微笑が浮かんでいた。
しばらくの沈黙。けれど、それを破ったのは、音ではなく所作だった。
土方が、君菊の煙管を持ち上げる。
吸い口には、君菊の紅が淡く残っていた。それを拭おうともせず、土方はそのまま唇に咥え、ちり……と火皿が灯る。
小さく、赤く、呼吸の音さえ飲み込むように。土方は、煙を深く吸い込んだ。
君菊の残り香と、刻み煙草の香が混じる。
「……甘ぇな。」
煙と共に、土方の喉奥からこぼれたその一言は、呟きというより、確信の吐息。
君菊は、目を伏せたまま笑った。それは、声に出さぬまま洩れた、諦めに近い微笑だった。
「……火皿、苦いのに」
「そうかもな。けど、……口んとこが甘ぇ」
今度は、君菊が息を呑んだ。土方はそれ以上、何も言わなかった。ただ煙を吐き、吸い口をゆっくりと親指で拭う。
紅が、指にうつった。
彼はそれを眺め、
「この後、抜けれるか?」
不意に、土方がそう呟いた。君菊は、一瞬、目を見張り、
「誰に言うてるん?」
そう土方に聞いたのは、どうしてか自分にも分からなかった。
君菊の問いに、土方はすぐには答えなかった。
ただ、煙管の吸い口にうつった紅を親指でなぞり、ふと息をつく。その仕草一つが、まるで返事のようにも見えた。
「……人前でそんな目、すんじゃねぇよ」
ぽつりと落とされた声は、咎めでもなければ、照れでもない。ただの、土方歳三の本音だった。
君菊は、笑わなかった。
ただ、そっと煙管を受け取り、紅のついた吸い口を見つめる。そして、小さく、呟いた。
「……よっちゃんも、同じ目ぇしてたよ」
風が吹いた。
どちらからともなく立ちのぼった煙が、ふたりのあいだを静かに漂う。
土方は、それを払いもせず、ただ君菊の髪にかかる一筋の乱れを指先でそっと払った。
「抜けるぞ。……ついて来い」
君菊は答えなかった。
けれど、そのまま静かに立ち上がり、灯りの届かぬ庭の奥へ、足音ひとつ立てずに歩き出した。
その後ろ姿に、土方もまた、煙管を手に、無言で続いた。
月明かりの下——
静けさの中に、ふたりの影が重なる。
それは、ひとつの夜の始まりだった。