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第8話

障子の向こう、風の音が揺れていた。

庭の竹が、すこし擦れる。ひとつ、またひとつ、葉音が夜を撫でる。


中では火鉢が赤く灯り、燻らせた香が、細く白く空に昇っていた。湿った畳に、蝋燭の明かりがふわりと広がる。


君菊は何も言わず、帯を解いた。


白い布がするりと滑って床に落ちる音が、

部屋の空気を変える。


草履の音もなく、膝を折って座る君菊。

結い上げていた髪が緩み、うなじにひと房、黒髪が落ちる。その髪がふわりと揺れたとき、

ふわ、と紅の香が漂った。


衣擦れの音に、土方が、懐の煙管をそっと置いた。彼女に触れる指は荒くもなく、慎重でもない。ただ、躊躇いがなかった。


君菊の襦袢が肩から落ちる。

白磁のような肌が蝋燭の光に照らされ、淡い汗が肩先を伝う。


何も言わず、ただ音が重なっていく。


息が触れる。

唇が擦れる。

掌が布の上を滑る。熱が、肌を通して伝わっていく。


君菊の吐息が、すこし震えた。


火鉢のそば、敷いた薄布団の上でふたりの身体が重なる。汗が肌を伝う。胸元に落ちた雫が、畳にしみる。


顔を寄せると、耳元にふわりと甘い香が混じった。


そのまま、唇が触れ、君菊の指が、そっと土方の背をなぞる。


「……強く、してええよ」


小さくそう言った声に、土方の喉が、ごくりと鳴る。


「……泣くなよ」


「泣かせるほど、優しくしてくれるの?」


ほんの一瞬、笑った。


その唇を塞ぐように、土方が唇を重ねた。

その声も、風景の一部だった。空気の震え。呼吸というより、香の立ち上がる音。


畳に敷かれた薄布団の上で、身体が重なるたび、わずかに軋む音。


土方の額に滲む汗が、君菊の胸元に落ちる。

それが、熱を持って流れていく。


蝋燭の灯りが揺れ、風が少しだけ入り、部屋の香がかすかに変わる。


紅の匂い、線香の残り香、肌の熱、湿った畳の匂い。


夜は静かだった。

布団が擦れる音。君菊の足がわずかに動き、土方の腰を迎える。それに応えるように、重なる熱。


火鉢の中で炭がぱち、と弾けた。

彼女の指が、土方の背を掠める。爪を立てるでもなく、撫でるでもなく。

まるで「ここにいる」と伝えるように。


夜の深みに沈むほど、ふたりの身体は静かになっていく。熱はある。息もある。けれど音は、静かで、深く、まるで水底に沈むようだった。


やがて、風が少しだけ強くなる。

障子の隙間から入った風が、君菊の髪を揺らす。土方の指がそれをすくい、耳の後ろにそっと払った。


何も言わない。


でもそれが、「ここにいる」という合図だった。


君菊の手が、そっと土方の背にまわる。


蝋燭の火が、ひとつ、またひとつ消える。


香の匂いが消えていくなか、

彼女の吐く息だけが、甘く、熱かった。


夜がふたりを包んでいく。


湿った肌の間に、まだ灯った火の気配。

静かに、優しく、激しく、

それでも確かに、ふたりは触れていた。


朝はまだ来ない。


けれど、

そのぬくもりは——きっと朝になっても、消えない。



⸻翌朝・屯所の縁側


朝餉を終えたばかりの広間。

湯気の残る茶碗を下げながら、原田が小さく首をひねっていた。


「……でもさぁ土方さん、昨夜、君菊と一緒にいなくなったろ?……ほんと、あれだけ可愛い恋仲が居るのになぁ」


「千夜ちゃんの方が、ずっと素朴で愛想いいのにな」

永倉が茶を啜りながら、軽く相槌を打つ。


「君菊さんは綺麗だけど、……どっか掴みどころがないっつーか」

「分かる。なんか怖くて、あんま目、合わせらんねぇ感じ」


ふたりの声は、どこか“残念そう”で、どこか“勝手”だった。


「俺らがあぁいうのに手ぇ出したら、たぶん焼けるな。色気で」

「うん。焼け死ぬ」


原田と永倉の会話が妙に諦め交じりの声が続いていたそのとき――


「……何の話してるんです?」


すうっと風が通り抜けたように、沖田総司が縁側の端から現れた。日差しを受けた髪に朝露がかすかに光り、手には湯呑。首を傾げた沖田は、


「土方さんと君菊さんですか?それとも、

————土方さんと千夜ちゃんの話?」


原田と永倉の手が、ぴたりと止まった。


湯呑を持つ手も、茶を啜ろうとしていた動作も、すべてが一瞬にして凍りつく。

まるで“核心”を突かれたように、ふたりの間に張りつめた沈黙が落ちる。


「……な、なに言ってんだよ総司」

原田が、思わず声をひそめる。


「土方さんと君菊さんに決まってんだろ。千夜ちゃんは……あれだ、うん、恋仲。副長が大事にしてる……」


「……だからこそ、ちょっと可哀想だって話でな」

永倉も、慌てて言い訳のように言葉を重ねる。


(可哀想。ねぇ。)


この二人は気付いていないのか。

あの人が二人の女を同時に愛す事なんて、そんな器用な事、出来るはずがない。


甘味屋で、机の下ずっと手を握りしめた女を裏切る事さえ出来ない。


「何言ってるんです?

君菊さんって、千夜ちゃんでしょう?」


あの土方の目、あれが無ければ沖田でさえ気付かなかった。


「あの子、いくつ名を持ってるんですかね?」


原田と永倉は、まるで何かを飲み込み損ねたように固まった。


「……え?」

永倉の声が、ひどく間の抜けた音で漏れる。


「い、いや、ちょっと待て。何言って……」

原田が茶碗を置きかけ、手が宙に浮いたまま止まる。


沖田は、にこにこといつもの調子で湯を啜りながら、しかしその目だけは、真っ直ぐにふたりを見据えていた。


「ほんとに気づかなかったんですか? ……ふたりとも?」


「そりゃ……あの、でも……顔、違うし」

「振る舞いも、言葉も、ぜんぜん別人だろ……?」


「だから、見抜けなかったんでしょう」


そう言った沖田の笑みは、どこか淋しげだった。


「君菊として見た時、ただの芸者の艶にしか見えなかった。千夜ちゃんとして出会った時は、ただの可愛らしい娘にしか思えなかった。……違いますか?」


原田と永倉は、何も言えずに顔を見合わせた。


沖田は、縁側の柱にもたれかかり、朝の陽を受けながら、遠い目をした。


「……僕もね。最初は気づかなかった。

でも、土方さんの目を見たとき、分かったんです。“その目は、同じ女に向けている”。そうとしか言えない目だった」


**


沈黙。


どこかで、竹が風に擦れ、庭のどこかで鳥が鳴いた。


————


静かな声が、廊の向こうから降ってきた。


「やっぱり、気付いたか。」


柱の陰から現れたのは、土方歳三だった。

片手に煙管、もう片方の手は袖の中。

その姿は、まるで最初からすべてを聞いていたようで、しかし目は何も語らず、ただ静かに光っていた。


原田と永倉が、ぎくりと背筋を伸ばす。


「ひ、土方さん……いつから……」


「……お前らが“焼け死ぬ”だの何だの言ってる頃からだな」


土方は無表情にそう言いながら、庭へ目をやる。風が竹を揺らし、朝日が静かに葉を撫でていた。


「ほんとに、気付かなかったのか。あいつが千夜だって」


声に咎める調子はなかった。ただ、少しだけ疲れたような響きがあった。


「……すまん、土方さん」

原田が頭を掻きながら俯く。


「俺たち……あいつの名前に、目を奪われてたんだな。顔や、声や、振る舞いなんかに惑わされて……」


「ま、それが“あいつのやり方”だ」


土方は煙管を口に咥え、火皿を傾けた。

ちり、と微かな音。煙がくゆり、土方の横顔を淡く包む。


「——惚れたのが俺でなきゃ、きっと全部、見破れてなかった」


その一言に、永倉が思わず言葉を漏らした。


「……土方さんは、いつから?」


土方はしばらく黙っていたが、ふいに目を細めた。


「最初からだ」


その声は、静かで、確かだった。


「お前達には、先に言っておく。

アイツは、————俺の懐刀だ。」


永倉の喉が、ごくりと鳴った。


「……懐刀、って……」


「表向きの話は要らん」

土方が短く遮るように言った。


「——俺の懐刀だ」


その一言が、場を凍らせた。


原田と永倉はただ頷くしかなかったが、沖田だけは、ほんの少し目を伏せる。


(そう言い切るには、どれだけの想いを抱えてきたのか)


沖田には分かっていた。

あの夜、君菊として舞う彼女を見ていたとき。

その舞が、ただの“芸”ではなく、“返事”だったことを。


(……僕には、到底、あんな眼はできない)


縁側に立つ土方の背は、どこか遠くて、どこか切なく見えた。




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