障子の向こう、風の音が揺れていた。
庭の竹が、すこし擦れる。ひとつ、またひとつ、葉音が夜を撫でる。
中では火鉢が赤く灯り、燻らせた香が、細く白く空に昇っていた。湿った畳に、蝋燭の明かりがふわりと広がる。
君菊は何も言わず、帯を解いた。
白い布がするりと滑って床に落ちる音が、
部屋の空気を変える。
草履の音もなく、膝を折って座る君菊。
結い上げていた髪が緩み、うなじにひと房、黒髪が落ちる。その髪がふわりと揺れたとき、
ふわ、と紅の香が漂った。
衣擦れの音に、土方が、懐の煙管をそっと置いた。彼女に触れる指は荒くもなく、慎重でもない。ただ、躊躇いがなかった。
君菊の襦袢が肩から落ちる。
白磁のような肌が蝋燭の光に照らされ、淡い汗が肩先を伝う。
何も言わず、ただ音が重なっていく。
息が触れる。
唇が擦れる。
掌が布の上を滑る。熱が、肌を通して伝わっていく。
君菊の吐息が、すこし震えた。
火鉢のそば、敷いた薄布団の上でふたりの身体が重なる。汗が肌を伝う。胸元に落ちた雫が、畳にしみる。
顔を寄せると、耳元にふわりと甘い香が混じった。
そのまま、唇が触れ、君菊の指が、そっと土方の背をなぞる。
「……強く、してええよ」
小さくそう言った声に、土方の喉が、ごくりと鳴る。
「……泣くなよ」
「泣かせるほど、優しくしてくれるの?」
ほんの一瞬、笑った。
その唇を塞ぐように、土方が唇を重ねた。
その声も、風景の一部だった。空気の震え。呼吸というより、香の立ち上がる音。
畳に敷かれた薄布団の上で、身体が重なるたび、わずかに軋む音。
土方の額に滲む汗が、君菊の胸元に落ちる。
それが、熱を持って流れていく。
蝋燭の灯りが揺れ、風が少しだけ入り、部屋の香がかすかに変わる。
紅の匂い、線香の残り香、肌の熱、湿った畳の匂い。
夜は静かだった。
布団が擦れる音。君菊の足がわずかに動き、土方の腰を迎える。それに応えるように、重なる熱。
火鉢の中で炭がぱち、と弾けた。
彼女の指が、土方の背を掠める。爪を立てるでもなく、撫でるでもなく。
まるで「ここにいる」と伝えるように。
夜の深みに沈むほど、ふたりの身体は静かになっていく。熱はある。息もある。けれど音は、静かで、深く、まるで水底に沈むようだった。
やがて、風が少しだけ強くなる。
障子の隙間から入った風が、君菊の髪を揺らす。土方の指がそれをすくい、耳の後ろにそっと払った。
何も言わない。
でもそれが、「ここにいる」という合図だった。
君菊の手が、そっと土方の背にまわる。
蝋燭の火が、ひとつ、またひとつ消える。
香の匂いが消えていくなか、
彼女の吐く息だけが、甘く、熱かった。
夜がふたりを包んでいく。
湿った肌の間に、まだ灯った火の気配。
静かに、優しく、激しく、
それでも確かに、ふたりは触れていた。
朝はまだ来ない。
けれど、
そのぬくもりは——きっと朝になっても、消えない。
⸻翌朝・屯所の縁側
朝餉を終えたばかりの広間。
湯気の残る茶碗を下げながら、原田が小さく首をひねっていた。
「……でもさぁ土方さん、昨夜、君菊と一緒にいなくなったろ?……ほんと、あれだけ可愛い恋仲が居るのになぁ」
「千夜ちゃんの方が、ずっと素朴で愛想いいのにな」
永倉が茶を啜りながら、軽く相槌を打つ。
「君菊さんは綺麗だけど、……どっか掴みどころがないっつーか」
「分かる。なんか怖くて、あんま目、合わせらんねぇ感じ」
ふたりの声は、どこか“残念そう”で、どこか“勝手”だった。
「俺らがあぁいうのに手ぇ出したら、たぶん焼けるな。色気で」
「うん。焼け死ぬ」
原田と永倉の会話が妙に諦め交じりの声が続いていたそのとき――
「……何の話してるんです?」
すうっと風が通り抜けたように、沖田総司が縁側の端から現れた。日差しを受けた髪に朝露がかすかに光り、手には湯呑。首を傾げた沖田は、
「土方さんと君菊さんですか?それとも、
————土方さんと千夜ちゃんの話?」
原田と永倉の手が、ぴたりと止まった。
湯呑を持つ手も、茶を啜ろうとしていた動作も、すべてが一瞬にして凍りつく。
まるで“核心”を突かれたように、ふたりの間に張りつめた沈黙が落ちる。
「……な、なに言ってんだよ総司」
原田が、思わず声をひそめる。
「土方さんと君菊さんに決まってんだろ。千夜ちゃんは……あれだ、うん、恋仲。副長が大事にしてる……」
「……だからこそ、ちょっと可哀想だって話でな」
永倉も、慌てて言い訳のように言葉を重ねる。
(可哀想。ねぇ。)
この二人は気付いていないのか。
あの人が二人の女を同時に愛す事なんて、そんな器用な事、出来るはずがない。
甘味屋で、机の下ずっと手を握りしめた女を裏切る事さえ出来ない。
「何言ってるんです?
君菊さんって、千夜ちゃんでしょう?」
あの土方の目、あれが無ければ沖田でさえ気付かなかった。
「あの子、いくつ名を持ってるんですかね?」
原田と永倉は、まるで何かを飲み込み損ねたように固まった。
「……え?」
永倉の声が、ひどく間の抜けた音で漏れる。
「い、いや、ちょっと待て。何言って……」
原田が茶碗を置きかけ、手が宙に浮いたまま止まる。
沖田は、にこにこといつもの調子で湯を啜りながら、しかしその目だけは、真っ直ぐにふたりを見据えていた。
「ほんとに気づかなかったんですか? ……ふたりとも?」
「そりゃ……あの、でも……顔、違うし」
「振る舞いも、言葉も、ぜんぜん別人だろ……?」
「だから、見抜けなかったんでしょう」
そう言った沖田の笑みは、どこか淋しげだった。
「君菊として見た時、ただの芸者の艶にしか見えなかった。千夜ちゃんとして出会った時は、ただの可愛らしい娘にしか思えなかった。……違いますか?」
原田と永倉は、何も言えずに顔を見合わせた。
沖田は、縁側の柱にもたれかかり、朝の陽を受けながら、遠い目をした。
「……僕もね。最初は気づかなかった。
でも、土方さんの目を見たとき、分かったんです。“その目は、同じ女に向けている”。そうとしか言えない目だった」
**
沈黙。
どこかで、竹が風に擦れ、庭のどこかで鳥が鳴いた。
————
静かな声が、廊の向こうから降ってきた。
「やっぱり、気付いたか。」
柱の陰から現れたのは、土方歳三だった。
片手に煙管、もう片方の手は袖の中。
その姿は、まるで最初からすべてを聞いていたようで、しかし目は何も語らず、ただ静かに光っていた。
原田と永倉が、ぎくりと背筋を伸ばす。
「ひ、土方さん……いつから……」
「……お前らが“焼け死ぬ”だの何だの言ってる頃からだな」
土方は無表情にそう言いながら、庭へ目をやる。風が竹を揺らし、朝日が静かに葉を撫でていた。
「ほんとに、気付かなかったのか。あいつが千夜だって」
声に咎める調子はなかった。ただ、少しだけ疲れたような響きがあった。
「……すまん、土方さん」
原田が頭を掻きながら俯く。
「俺たち……あいつの名前に、目を奪われてたんだな。顔や、声や、振る舞いなんかに惑わされて……」
「ま、それが“あいつのやり方”だ」
土方は煙管を口に咥え、火皿を傾けた。
ちり、と微かな音。煙がくゆり、土方の横顔を淡く包む。
「——惚れたのが俺でなきゃ、きっと全部、見破れてなかった」
その一言に、永倉が思わず言葉を漏らした。
「……土方さんは、いつから?」
土方はしばらく黙っていたが、ふいに目を細めた。
「最初からだ」
その声は、静かで、確かだった。
「お前達には、先に言っておく。
アイツは、————俺の懐刀だ。」
永倉の喉が、ごくりと鳴った。
「……懐刀、って……」
「表向きの話は要らん」
土方が短く遮るように言った。
「——俺の懐刀だ」
その一言が、場を凍らせた。
原田と永倉はただ頷くしかなかったが、沖田だけは、ほんの少し目を伏せる。
(そう言い切るには、どれだけの想いを抱えてきたのか)
沖田には分かっていた。
あの夜、君菊として舞う彼女を見ていたとき。
その舞が、ただの“芸”ではなく、“返事”だったことを。
(……僕には、到底、あんな眼はできない)
縁側に立つ土方の背は、どこか遠くて、どこか切なく見えた。