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第9話

差し入れの菓子を手に、千夜が門をくぐると、

ちょうど庭先で竹刀の手入れをしていた永倉がふと顔を上げた。


「お……?」


陽の光を受けて歩み寄る女の姿に、彼の眉がわずかに動く。

白地に淡い藤の花が咲いた薄物の着物、足元は控えめな草履。

その清楚な佇まいの中にどこか凛とした気配を宿した千夜の姿は、どう見てもただの“客”ではない。


「……千夜ちゃん?」


すぐ隣にいた原田が振り返り、目をぱちくりとさせる。

竹刀を肩に担ぎかけたまま、彼女の姿に見入ったその手から、

カランッ――と竹刀が滑り落ちた。


「ちょ、ま、あれ千夜ちゃんじゃねぇか!?」


その声に周囲の隊士たちが一斉に振り向く。

訓練の手を止めた者、駆けてきた者、廊下にいた者、皆が呆気にとられたように固まった。


見知った顔に、千夜は微笑む。

「あ、原田さんに、永倉さん。沖田さんも。」


その中を、すっとひとり、歩みを進めてきた男がいた。


「……よく来たね。一人で。」


静かに言ったのは、沖田総司だった。

だが、その目はいつもの飄々としたものではない。警戒と、困惑と、微かに――安堵が混ざった色を宿している。


「たまたま、近くに用事があって、菓子を見つけたので皆さんで召し上がってもらおうと、届けに来ただけで、」


千夜の返答に、沖田は少し目を細めて、


「随分と馴染んでますね。……初めて来たとは思えません」


「気配で道は、分かります」


そう返した千夜に、永倉が「こぇえ」と呟いた。

原田は未だに竹刀を拾わず、放心している。


そのとき。


「惚れた奴は、目を逸らせ」


低く通った声に、場の空気がピタリと止まった。


土方歳三。

白の羽織に身を包み、日差しの奥からゆっくりと歩いてきた男の顔は、見慣れた冷厳そのもの。


土方のその言葉に、目を逸らすどころか反射的に全員が土方に視線を向けてしまった。だが次の瞬間、空気の張りつめた重みに皆がようやく我に返り、そそくさと視線を外す。


「土方さん……」


永倉が低く唸るように呟き、原田は慌てて竹刀を拾い直すが、それすらも気まずそうにぎこちない。


静かに歩み寄った土方は、無言のまま千夜の前に立つと、彼女の手にある包みをひょいと奪い取った。


「……一人で出歩くなと言った筈だがな」


「もう、子供じゃないよ?私。」


彼は、千夜の手から包みを静かに覗き込んだ。

中には、透けるような葛の皮に淡紅のこし餡を包み、桜の葉で巻いた涼やかな菓子――葛桜が並んでいる。


「……こんなもん、どこで」


「河原町の裏通りで、ふと香りにつられて。今日の陽気に、涼しそうだったから」


そう言って千夜が目を伏せた瞬間、ふわりと桜の葉の香が立ち上る。それを鼻先で受けた土方は、包みの中ではなく、彼女の姿をじっと見た。


「……よく似合う名だ」


ぽつりと、そんな言葉が落ちる。


彼が見つめていたのは、葛桜ではなく――千夜だった。


その言葉の余韻を残したまま、土方は何も言わず踵を返す。そして、振り返らぬまま背後の千夜にだけ声を落とす。


「来い」


それだけ。


千夜は静かに頷き、彼の後を追った。


※※※


縁側――。


五月の陽は優しく、庭に咲き始めた薄紅の杜若が風に揺れていた。土方は黙って座敷の縁に腰を下ろし、横に控えた千夜は懐から小ぶりな包みをもう一つ取り出す。


「よっちゃんの分も、買っておいたの」


包みを差し出す千夜に、土方は一瞬だけ視線を向けてから、それを受け取り、そっと膝に置いた。


「……たまたまじゃなかったのか」


「たまたまじゃなかったのは、“あなたに会いたくなった”方」


そう返して、千夜は小さく笑う。

けれどその笑みの裏に、どこか憂いの影があることに土方は気づいていた。


「今日は……何かあったのか?」


土方の低い問いに、千夜は笑みのままほんのわずかに首を横に振った。

けれどその肩の線は僅かに強張り、まるで何かを抱えているように見える。


「ただ……甘いものが欲しくなる日って、あるでしょ?」


言葉とは裏腹に、視線は菓子の包みではなく、自分の膝のあたりへと落とされていた。


ふいに、千夜が手を伸ばし、着物の袖口をそっと引き直す。

その一瞬の動作で、土方は気づく。彼女の右腕のあたり――薄物の生地越しに、紫がかった影が微かに滲んでいた。


「……どうした?」


袖越しに滲んだ痣の影を見つけた土方が、静かに声を落とす。

彼の声音は、いつもの厳しさを抑えた低音で――だが、どこか張り詰めた刃のような鋭さが潜んでいた。


千夜は一瞬、言葉を呑み込むように目を伏せる。

だが、嘘はつけなかった。

ましてや、この男の前では。


「……数日前から、千夜の姿で外に出ると、“巫女”だ、“姫だ”って。騒がれることが増えたの」


その言葉に、土方の眉がわずかに動く。


「今日の朝……よっちゃんと別れて、ほんの少し歩いた先で、知らない男に呼び止められたの。――腕を、掴まれて」


その言葉の最後は、ひどく細く、そして震えていた。


土方の視線が、そっと彼女の袖に落ちる。

その下にある傷と、その奥にある恐怖を見抜いていた。


「すぐに……梅が来てくれて。割って入ってくれたから、何も……されなかった」


そこまで言って、千夜はきゅっと唇を結んだ。


「だけど――男が最後、私を突き放すようにして……それで、背を打って。咳が止まらなくなって、梅に“医者へ行け”って叱られて」


「……だが、医者には行かずに、ここに来た」


土方の問いに、千夜は頷いた。


「うん。気づいたら、この壬生が近くにあって。――身体よりも、心が……駄目だったのかも。よっちゃんの顔が、見たくなった」


土方は黙っていた。

だが、その沈黙には、激しい感情が潜んでいた。


言葉にしてしまえば、怒りがあふれてしまいそうだった。


誰だ、その男は。なぜ、千夜が傷つけられなければならない。

彼女がどれほどの想いで、名前を偽り、人目を避けて生きているか――

その意味を、誰も知らずに。誰にも知られずに。


「袖、見せろ」


ぽつりと、低く。


千夜は少しだけ躊躇ったあと、黙って袖を捲った。


白い肌に、くっきりと紫色が浮かんでいる。まるで手の形をなぞったかのように、皮膚が腫れていた。


それを見た瞬間、土方の拳が静かに膝の上で握られる。


「……こんな痣、ひとつも……」


思わず漏れたその声に、千夜は目を見開く。


土方は、歯を食いしばったまま、じっと傷を見ていた。

自分の目の届かぬところで、こんな痛みを――

千夜が背中を強打していたことも、息が浅くなっていることも、包み隠してここまで来たことも、何もかもが。


「……千夜」


土方は顔を上げ、まっすぐ彼女を見た。

その目には、怒りではなく、ただ悔しさと、深い愛情が滲んでいた。


「この命全部くれてやってでも、お前を守る。それが俺のつもりだった。……なのに、また一人にさせちまった」


その言葉に、千夜の目が揺れる。


彼の悔しさが、まっすぐ胸に刺さった。


「……私は、大丈夫だよ」


そう言いかけて、けれど千夜の喉が震える。


言葉より先に、涙がこぼれそうになったのを、彼女は慌てて袖で拭う。


「ほら。葛桜も、よっちゃんの分ちゃんと買ったの。涼しそうで、甘くて……」


土方はそれに応えず、ただそっと千夜の背に手を伸ばし、力強く、その華奢な身体を抱き寄せた。


「………お前の痛みぐらい、俺に寄越せ」


その胸元で、千夜は小さく頷いた。

背中の痛みに少し顔を顰めながらも、黙って、そこに身を預ける。


ただ静かに、風が吹いていた。

庭の杜若が揺れ、包みの中の葛桜の香が、ふたたび優しく薫った。





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