目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第10話

縁側には、風がそっと吹いていた。


千夜は、土方の胸元に身を預けたまま、

何も言わず、ただその腕の中で、静かに呼吸を繰り返していた。


けれど、その呼吸が、ほんの少し浅いことに、土方はすでに気づいていた。


背を預けられたとき――

ほんの一瞬、彼女の身体が、微かに震えた。


「……千夜」


呼びかけに、千夜は応えない。

ただ、目を閉じたまま、背中にかすかな緊張を帯びていた。


土方は、その細い背にそっと手をまわす。


「背……見せてみろ」


千夜は僅かに肩をすくめた。


「俺に、見せてくれ。頼む」


その声に、千夜は黙って頷く。

そして、帯に添えられた彼の手を、拒まなかった。


土方は丁寧に、慎重に、千夜の帯に指をかける。するり、と音もなく絹がほどける。


薄物の着物が、静かに滑り落ち、千夜の肩甲骨があらわになる。


その肌の上、右の肩口から背の中心にかけて、赤黒く滲んだ擦過傷と、うっすらと腫れた痣が残っていた。


土方は、息を止めた。


まるで、見ることすら彼女を傷つけてしまうような気がして、指先が、宙に止まったまま動かせなかった。


気配と音に敏感な彼女が、何かを察し、

「よっちゃん、そろそろ……。」


「………あぁ。着ろ。」


千夜は黙って頷きながら、着物をそっと引き直した。肌に触れた風が、まだ微かに痺れている。その痣は、誰かの爪痕のようで。何より、自分が気づいてやれなかった悔しさが、そこに刻まれている気がして。


「痛ぇな。そりゃ………」


土方のそんな声が届いた。

自分の痛みの様な声に、千夜は小さく息を整えていく。



「……よっちゃん」


そう名を呼んだ声は、静かだったが、

どこか、かすかに震えていた。


「……着せてくれる?」


その一言に、土方はわずかに目を伏せる。


黙ったまま近づいて、

手早くも丁寧に帯を巻き直していく。


指先が、彼女の背中を撫でるように通り過ぎるたびに、

千夜の肩がほんの少しだけすくんだ。


「……帯、きつくないか」


「ちょうどいい」


「……なら、いい」


最後のひと結びをしてから、土方はふと手を止めた。


(優し過ぎるんだよ。貴方は。昔から、変わらない。)


縁側に、さらりと足音が近づいた。


「……千夜ちゃん、お茶、入ったよ」


ひょこりと顔を出したのは、原田だった。


土方の背に声をかけるような体でありながら、その視線は千夜に向けられている。

包みの中の葛桜を見つけた時から、どこか落ち着かぬ様子だった彼は、ずっと様子をうかがっていたのだろう。


「ほら、入れ立てを飲んどかないと、ぬるくなるからさ」


気取らぬ調子でそう言って、手には盆と湯呑みが乗っていた。だがその盆の縁を持つ指先が、わずかに緊張しているのを、千夜は見逃さなかった。


「……ありがと。原田さん」


千夜が小さく頭を下げると、原田は「いやいや」と照れたように笑って、それでも真っ直ぐに彼女を見つめた。


そして――ふと、その視線が千夜の右腕に落ちる。


捲った袖口の下、まだ戻しきれていなかった部分から、うっすらと紫の痣がのぞいていた。


原田は一瞬だけ目を見張ったが、すぐに視線を逸らした。彼の視線が、千夜の腕を捉えたまま、ふと鋭さを帯びた。

それは、敵を見定めるときの目だ。

そして、土方に気づかれぬように、わざと軽く冗談を言う。


「まさか……千夜ちゃんが甘味持参で来てくれるとはなぁ。ありがたく頂くよ、あれ。な、永倉の分は半分な」


「聞こえてんぞ」


廊下の奥から、永倉がぼやく声が返ってきた。


土方は何も言わず、黙ってそのやりとりを聞いていた。千夜の背を支えたまま、ただ静かに。


原田はそれを横目に見て、やがて真顔に戻る。


「……よかったら、茶だけでも。飲みにおいで」


そう言い置いて、原田は踵を返した。

その背中には、彼なりの“気遣い”と“遠慮”が滲んでいた。


縁側にふたたび静けさが戻る。


千夜は、土方の胸元に頬を寄せたまま、ぽつりと呟いた。


「……優しいね。皆」


「お前がそうさせてんだよ」


土方の返事に、千夜はくすりと微笑んだ。

頬にはまだ熱が残っていたが、もう震えはない。


「みんな気付いてたのに、本当、優しい。」


風が、少しだけ強くなった。

葛桜の香がふたたび立ち上り、夏の始まりを告げていた。


その香にまぎれて、土方はふと、目を伏せた。


千夜の背には、まだ帯を巻いたばかりの温もりが残っている。その下にある傷の輪郭が、まるで指先にまで残っているようで、拭いきれない。


彼女は黙って、頬を寄せたまま、じっとしていた。それがかえって、土方の胸を締めつける。


言葉ではなく、何か別の形で、その痛みに触れたくなった。


そっと、背へ顔を寄せる。ほんのわずか。帯の結び目の上、傷のない箇所へ。


その肌に、息が触れるか触れぬかの距離で、唇を寄せた。千夜は驚いたように、けれど身じろぎひとつしなかった。


ただ、少しだけ呼吸が深くなった気がした。


土方は、それ以上何も言わず、

唇を離すと、また静かに彼女の背を支えたまま、遠くを見つめた。


風が、さっきよりも穏やかに吹いていた。

縁側の陽が、もう少し傾きはじめている。


「……戻るか。」


低く言ったその声に、千夜は黙って頷いた。そして、そっと顔を上げたその目は、どこか柔らかかった。


————屯所・縁側


千夜は、気づいていた。


縁側に座す幹部たちの視線。

永倉の視線はまっすぐだったが、どこか測るようで。

原田は何気ない調子を装っていたが、袖の奥で手を組み直していた。

沖田は、一度も目を合わせようとしなかった。


彼らと共に過ごした時間は、まだわずか。

語らずとも分かる絆には、程遠い。

それでも千夜は、肌で分かる。


——この空気は、土方が何かを話した空気だ。


語ったのは、過去のことか。

それとも、正体のことか。

いずれにせよ、知られたという感覚は、言葉以上に重い。


(……あの人が、話したんだ)


千夜は、土方の背を見た。

彼は黙ったまま湯を注いでいたが、背中にひどく疲れが滲んで見えた。


問いかけることはしなかった。

けれど、沈黙の奥にある“距離”は、確かに胸に触れた。


皆の前では、笑っていた。

軽く言葉も交わした。けれど、そのどれもが「探るような静けさ」に包まれていた。


まだ――受け入れられたわけではない。

どこかに、境がある。


(……当然だよね)


そう、千夜は思う。

彼らは、この場所に命を賭けて戦おうとしている。そこへ現れた“名も知れぬ女”に、簡単に心を許すはずがない。


たとえ、土方が語ったとしても。


風が吹いた。

微かに香の匂いが混じる風だった。


千夜は、小さく息をついた。

その目元に、ほんの少しだけ翳りが宿った。


指先が湯呑に触れたとき、ふいに原田の手がそれを取って差し出してきた。

「……飲みな。冷めちまう」


言葉はぶっきらぼうだったが、視線は逸らさずにこちらを見ていた。


千夜は小さく笑った。

まだ、迎え入れられてはいない。けれど、拒まれてもいない。


そんな、曖昧な場所に立っていることを、今はただ、受け入れるしかなかった。



茶の香がほのかに漂う縁側。

湯呑の音、木の葉のざわめき、微かな笑い声——

ようやく訪れた一時の静けさに、誰もがほっと息をつき始めていた。


その空気を、まるで断ち切るかのように。


「……おい、誰か来るぞ」


永倉の低い声に、場が揺れる。

原田が湯呑を置き、沖田がそっと立ち上がる。


足音。

ゆったりと、だが重さのあるそれは、遠慮というものを感じさせない。


やがて、門の向こうから、その姿が現れた。


——芹沢鴨。


黒紋付きの羽織を肩に掛け、裾を少し乱したまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。

その姿に、場の空気が一変した。


「……ご無沙汰してます。芹沢」


千夜が、誰よりも早く口を開く。

立ち上がりもせず、ただ座したまま、その名を呼んだ。


芹沢の足が止まる。

そして、鼻を鳴らすように笑った。


「……なんだ。君菊じゃねぇか」


幹部たちが揃って目を見張った。

その名を口にされたこともさることながら——

あの芹沢が、まるで懐かしむような声色で言葉を返したことに。


沖田が土方の方を盗み見る。

土方は、唇を引き結んだまま微動だにしない。だが、視線だけは鋭く芹沢を捉えていた。


(驚かないって事は、君菊であるって事は、もう知られている。)


ならば、隠す必要も無いと芹沢を見る千夜。


「昨日はありがとうございました。

おかげで、君菊の名が売れました。また後日、銘酒を持参しますね。」


千夜の声音は柔らかく、まるで座敷にいるときのような物腰だった。

だが、その笑みの奥には、一分の曇りもない覚悟が宿っている。


芹沢はそれを面白げに見やり、唇の端を吊り上げた。


「ははっ、やっぱり肝が据わってんな……お前は、昔から変わらねぇ」


まるで躾けられた犬がご主人に懐くような声音に、場の空気が変わった。


——おかしい。


誰よりも感じたのは、原田と永倉だった。


あの芹沢鴨が、あんな風に女に頭を下げるような態度を取るとは。


「……お前ら、知らねぇのか?」


唐突に、芹沢が全員に向き直り言い放った。


「この女が、どんなもんかを」


その問いに、誰もが無言になる。


千夜は座したまま、表情を変えずに土方の背を見る。

土方はゆっくりと顔を上げ、低く言った。


「——知った上で、共にいる。そんだけの話だ」


静かな口調だったが、その声音には切っ先のような鋭さがあった。


芹沢は満足げに頷き、次いで新見錦を振り返った。


「新見」


新見はすっと一歩前へ出ると、千夜の方へと頭を垂れた。


「姫。お変わりなく」


その所作に、場の緊張が一気に高まった。


幹部たちの視線が、はっきりと千夜に集まる。


——姫。


その一言が、あらゆる仮面を剥ぎ取った。


永倉は、唇の端を引きつらせながら、


「……ちょっと待て。今、“姫”って言ったか、今……?」


原田が小さく肩をすくめ、


「……夢でも見てんのか、俺らは」


千夜は、全てを理解する。

土方が言ったのは、君菊である事と懐刀だと告げた事のみ。


「新見。頭を下げるのは、やめてね。

私、姫でもなんでも無いから。」


場の空気が、一瞬だけ凍りついた。


千夜のその一言が、静かに、しかし確かに場を制したのだった。千夜の声音には、微笑が混じっていた。


だが、それは装った柔らかさではなく、確かな意志の下にある静けさだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?