縁側には、風がそっと吹いていた。
千夜は、土方の胸元に身を預けたまま、
何も言わず、ただその腕の中で、静かに呼吸を繰り返していた。
けれど、その呼吸が、ほんの少し浅いことに、土方はすでに気づいていた。
背を預けられたとき――
ほんの一瞬、彼女の身体が、微かに震えた。
「……千夜」
呼びかけに、千夜は応えない。
ただ、目を閉じたまま、背中にかすかな緊張を帯びていた。
土方は、その細い背にそっと手をまわす。
「背……見せてみろ」
千夜は僅かに肩をすくめた。
「俺に、見せてくれ。頼む」
その声に、千夜は黙って頷く。
そして、帯に添えられた彼の手を、拒まなかった。
土方は丁寧に、慎重に、千夜の帯に指をかける。するり、と音もなく絹がほどける。
薄物の着物が、静かに滑り落ち、千夜の肩甲骨があらわになる。
その肌の上、右の肩口から背の中心にかけて、赤黒く滲んだ擦過傷と、うっすらと腫れた痣が残っていた。
土方は、息を止めた。
まるで、見ることすら彼女を傷つけてしまうような気がして、指先が、宙に止まったまま動かせなかった。
気配と音に敏感な彼女が、何かを察し、
「よっちゃん、そろそろ……。」
「………あぁ。着ろ。」
千夜は黙って頷きながら、着物をそっと引き直した。肌に触れた風が、まだ微かに痺れている。その痣は、誰かの爪痕のようで。何より、自分が気づいてやれなかった悔しさが、そこに刻まれている気がして。
「痛ぇな。そりゃ………」
土方のそんな声が届いた。
自分の痛みの様な声に、千夜は小さく息を整えていく。
「……よっちゃん」
そう名を呼んだ声は、静かだったが、
どこか、かすかに震えていた。
「……着せてくれる?」
その一言に、土方はわずかに目を伏せる。
黙ったまま近づいて、
手早くも丁寧に帯を巻き直していく。
指先が、彼女の背中を撫でるように通り過ぎるたびに、
千夜の肩がほんの少しだけすくんだ。
「……帯、きつくないか」
「ちょうどいい」
「……なら、いい」
最後のひと結びをしてから、土方はふと手を止めた。
(優し過ぎるんだよ。貴方は。昔から、変わらない。)
縁側に、さらりと足音が近づいた。
「……千夜ちゃん、お茶、入ったよ」
ひょこりと顔を出したのは、原田だった。
土方の背に声をかけるような体でありながら、その視線は千夜に向けられている。
包みの中の葛桜を見つけた時から、どこか落ち着かぬ様子だった彼は、ずっと様子をうかがっていたのだろう。
「ほら、入れ立てを飲んどかないと、ぬるくなるからさ」
気取らぬ調子でそう言って、手には盆と湯呑みが乗っていた。だがその盆の縁を持つ指先が、わずかに緊張しているのを、千夜は見逃さなかった。
「……ありがと。原田さん」
千夜が小さく頭を下げると、原田は「いやいや」と照れたように笑って、それでも真っ直ぐに彼女を見つめた。
そして――ふと、その視線が千夜の右腕に落ちる。
捲った袖口の下、まだ戻しきれていなかった部分から、うっすらと紫の痣がのぞいていた。
原田は一瞬だけ目を見張ったが、すぐに視線を逸らした。彼の視線が、千夜の腕を捉えたまま、ふと鋭さを帯びた。
それは、敵を見定めるときの目だ。
そして、土方に気づかれぬように、わざと軽く冗談を言う。
「まさか……千夜ちゃんが甘味持参で来てくれるとはなぁ。ありがたく頂くよ、あれ。な、永倉の分は半分な」
「聞こえてんぞ」
廊下の奥から、永倉がぼやく声が返ってきた。
土方は何も言わず、黙ってそのやりとりを聞いていた。千夜の背を支えたまま、ただ静かに。
原田はそれを横目に見て、やがて真顔に戻る。
「……よかったら、茶だけでも。飲みにおいで」
そう言い置いて、原田は踵を返した。
その背中には、彼なりの“気遣い”と“遠慮”が滲んでいた。
縁側にふたたび静けさが戻る。
千夜は、土方の胸元に頬を寄せたまま、ぽつりと呟いた。
「……優しいね。皆」
「お前がそうさせてんだよ」
土方の返事に、千夜はくすりと微笑んだ。
頬にはまだ熱が残っていたが、もう震えはない。
「みんな気付いてたのに、本当、優しい。」
風が、少しだけ強くなった。
葛桜の香がふたたび立ち上り、夏の始まりを告げていた。
その香にまぎれて、土方はふと、目を伏せた。
千夜の背には、まだ帯を巻いたばかりの温もりが残っている。その下にある傷の輪郭が、まるで指先にまで残っているようで、拭いきれない。
彼女は黙って、頬を寄せたまま、じっとしていた。それがかえって、土方の胸を締めつける。
言葉ではなく、何か別の形で、その痛みに触れたくなった。
そっと、背へ顔を寄せる。ほんのわずか。帯の結び目の上、傷のない箇所へ。
その肌に、息が触れるか触れぬかの距離で、唇を寄せた。千夜は驚いたように、けれど身じろぎひとつしなかった。
ただ、少しだけ呼吸が深くなった気がした。
土方は、それ以上何も言わず、
唇を離すと、また静かに彼女の背を支えたまま、遠くを見つめた。
風が、さっきよりも穏やかに吹いていた。
縁側の陽が、もう少し傾きはじめている。
「……戻るか。」
低く言ったその声に、千夜は黙って頷いた。そして、そっと顔を上げたその目は、どこか柔らかかった。
————屯所・縁側
千夜は、気づいていた。
縁側に座す幹部たちの視線。
永倉の視線はまっすぐだったが、どこか測るようで。
原田は何気ない調子を装っていたが、袖の奥で手を組み直していた。
沖田は、一度も目を合わせようとしなかった。
彼らと共に過ごした時間は、まだわずか。
語らずとも分かる絆には、程遠い。
それでも千夜は、肌で分かる。
——この空気は、土方が何かを話した空気だ。
語ったのは、過去のことか。
それとも、正体のことか。
いずれにせよ、知られたという感覚は、言葉以上に重い。
(……あの人が、話したんだ)
千夜は、土方の背を見た。
彼は黙ったまま湯を注いでいたが、背中にひどく疲れが滲んで見えた。
問いかけることはしなかった。
けれど、沈黙の奥にある“距離”は、確かに胸に触れた。
皆の前では、笑っていた。
軽く言葉も交わした。けれど、そのどれもが「探るような静けさ」に包まれていた。
まだ――受け入れられたわけではない。
どこかに、境がある。
(……当然だよね)
そう、千夜は思う。
彼らは、この場所に命を賭けて戦おうとしている。そこへ現れた“名も知れぬ女”に、簡単に心を許すはずがない。
たとえ、土方が語ったとしても。
風が吹いた。
微かに香の匂いが混じる風だった。
千夜は、小さく息をついた。
その目元に、ほんの少しだけ翳りが宿った。
指先が湯呑に触れたとき、ふいに原田の手がそれを取って差し出してきた。
「……飲みな。冷めちまう」
言葉はぶっきらぼうだったが、視線は逸らさずにこちらを見ていた。
千夜は小さく笑った。
まだ、迎え入れられてはいない。けれど、拒まれてもいない。
そんな、曖昧な場所に立っていることを、今はただ、受け入れるしかなかった。
茶の香がほのかに漂う縁側。
湯呑の音、木の葉のざわめき、微かな笑い声——
ようやく訪れた一時の静けさに、誰もがほっと息をつき始めていた。
その空気を、まるで断ち切るかのように。
「……おい、誰か来るぞ」
永倉の低い声に、場が揺れる。
原田が湯呑を置き、沖田がそっと立ち上がる。
足音。
ゆったりと、だが重さのあるそれは、遠慮というものを感じさせない。
やがて、門の向こうから、その姿が現れた。
——芹沢鴨。
黒紋付きの羽織を肩に掛け、裾を少し乱したまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その姿に、場の空気が一変した。
「……ご無沙汰してます。芹沢」
千夜が、誰よりも早く口を開く。
立ち上がりもせず、ただ座したまま、その名を呼んだ。
芹沢の足が止まる。
そして、鼻を鳴らすように笑った。
「……なんだ。君菊じゃねぇか」
幹部たちが揃って目を見張った。
その名を口にされたこともさることながら——
あの芹沢が、まるで懐かしむような声色で言葉を返したことに。
沖田が土方の方を盗み見る。
土方は、唇を引き結んだまま微動だにしない。だが、視線だけは鋭く芹沢を捉えていた。
(驚かないって事は、君菊であるって事は、もう知られている。)
ならば、隠す必要も無いと芹沢を見る千夜。
「昨日はありがとうございました。
おかげで、君菊の名が売れました。また後日、銘酒を持参しますね。」
千夜の声音は柔らかく、まるで座敷にいるときのような物腰だった。
だが、その笑みの奥には、一分の曇りもない覚悟が宿っている。
芹沢はそれを面白げに見やり、唇の端を吊り上げた。
「ははっ、やっぱり肝が据わってんな……お前は、昔から変わらねぇ」
まるで躾けられた犬がご主人に懐くような声音に、場の空気が変わった。
——おかしい。
誰よりも感じたのは、原田と永倉だった。
あの芹沢鴨が、あんな風に女に頭を下げるような態度を取るとは。
「……お前ら、知らねぇのか?」
唐突に、芹沢が全員に向き直り言い放った。
「この女が、どんなもんかを」
その問いに、誰もが無言になる。
千夜は座したまま、表情を変えずに土方の背を見る。
土方はゆっくりと顔を上げ、低く言った。
「——知った上で、共にいる。そんだけの話だ」
静かな口調だったが、その声音には切っ先のような鋭さがあった。
芹沢は満足げに頷き、次いで新見錦を振り返った。
「新見」
新見はすっと一歩前へ出ると、千夜の方へと頭を垂れた。
「姫。お変わりなく」
その所作に、場の緊張が一気に高まった。
幹部たちの視線が、はっきりと千夜に集まる。
——姫。
その一言が、あらゆる仮面を剥ぎ取った。
永倉は、唇の端を引きつらせながら、
「……ちょっと待て。今、“姫”って言ったか、今……?」
原田が小さく肩をすくめ、
「……夢でも見てんのか、俺らは」
千夜は、全てを理解する。
土方が言ったのは、君菊である事と懐刀だと告げた事のみ。
「新見。頭を下げるのは、やめてね。
私、姫でもなんでも無いから。」
場の空気が、一瞬だけ凍りついた。
千夜のその一言が、静かに、しかし確かに場を制したのだった。千夜の声音には、微笑が混じっていた。
だが、それは装った柔らかさではなく、確かな意志の下にある静けさだった。