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第11話

千夜の姿は、噂に語られた“姫”と、まるで写し鏡のように重なっていた。


沖田は、千夜を見て、

————やはり、君が椿であり、巫女


それを知り、何を得たいのか、沖田には、わからなかった


ただ、胸の奥に残ったのは、奇妙な温度のない感情だけだった。

それは驚きではなく、安堵でもなく——

どこか、寂しさに似た何か。


沖田の視線が、ふと千夜に向いたまま止まっていた。


その様子を見ていた原田が、茶を片手ににやりと笑う。


「……なぁなぁ総司、もしかして、惚れたか?」


「は?」


沖田はまばたき一つせずに返す。


「いや、ほら、その目。見てるの、女としてじゃなくて、化け物を見るような目でもなくてさ。……まるで、忘れた誰かを思い出すような目」


「……そんな詩人みたいなこと言って、どうしたんですか、原田さん」


「冗談だよ。冗談。でも、ま、そういう顔しとったぞ?」


原田はあくまで軽く笑っていたが、どこかその目の奥に、察する者の静けさも垣間見えていた。


土方は、静かにそこに居た。何かを言うわけでもなく、千夜の横に座っていた。


芹沢は、千夜を知っている。

君菊でも懐刀でも無い、もっと違うことを


————椿


そう呼ばれた、自分の知らぬ彼女を知っている。


「また、怖い顔して。」


白い指先が、土方の頬をなぞった。


それはまるで、何かを宥めるようでもあり、何かを拒むようでもあった。柔らかな指先の温もりが、土方の肌に触れて、すっと離れていく。

それだけの所作に、周囲の空気がわずかに揺れた。


土方は何も言わなかった。

ただ、睫毛を伏せ、じっと千夜を見ていた。

その眼差しの奥にあったのは、怒りでも、戸惑いでもなく、ただひとつ、“触れることのできない過去”への沈黙だった。


「………また、黙って。言いたい事あるんでしょ?」


千夜の声は、微かに笑っているようでいて、少しだけ震えていた。言葉に乗せた感情を、彼女自身も測りかねている。

それでも、そう言わずにはいられなかったのは、土方が“何も言わない”まま隣にいるからだった。


土方は、その声にすぐには応えなかった。

ただ、茶を取るでもなく、視線を逸らすでもなく——

千夜を見たまま、まぶたを一つ、ゆっくりと伏せた。


「お前が、芹沢と知り合いだったとはな。」


出てきた言葉は、思った事とは違った。

だが、気になった事を口にしていた。


「………あぁ。梅姐の恋仲だからね。」


千夜は淡々とそう答えた。

まるで何でもないことのように、茶をすする仕草すら丁寧で、穏やかだった。


だが、その指先の動きはわずかに止まり、盃の縁をなぞるような癖が浮き出た。


「気にしてくれたの?」


千夜は、問いかけるというよりも、

ただそっと水面に小石を投げるような声でそう言った。返ってくる答えが、欲しいわけではない。けれど、沈黙のままでは、余白が痛む。


土方は、その言葉をしばし受け止めていた。

そして、静かに、視線だけを千夜から外す。


「…………いちいち気にしてたら、お前とは並べねぇよ」


それは拒絶ではなく、自分に言い聞かせるような低い声だった。その口調の端にだけ、わずかに滲んだ悔いがある。


千夜は、何も言わなかった。

ただ、微かに目を細め、盃を置く音を立てずに下ろした。

まるで、それが答えだとでも言うように。


「気にしてるくせに」


千夜は、言い終えたあと、そっと笑った。

けれど、その笑みにはどこか、苦味のような色が滲んでいた。


「………言うじゃねぇか。」


土方の低い声は、笑っているようでいて、どこか寂しげだった。その声音には、わずかな照れと、ひとさじの悔しさが混ざっていた。

何かを守るように、何かを諦めるように。


土方は、ふと懐から煙管を取り出し、火を点けた。


その沈黙に、千夜はすっと手を伸ばし、彼の煙管を取ると、自分の唇で吸い口を確かめるようにそっと咥えた。


「………お前、今、完璧に素だな………」


「……?へ?………あっ。」


千夜は、周りに人が居る事など頭から抜け落ちていた。火がついた煙管から紫煙が上がる。


煙管を唇に咥えた千夜の仕草は、あまりに自然で、そしてあまりに様になっていた。


盃を持ったまま、それを見つめていた永倉が、ふと低く呟いた。


煙管の紅が彼女の唇にかすかに残り、琥珀の瞳が小さく笑っている。


「……いや、その……吸うんだなって」


永倉が苦笑気味にそう言うと、千夜は少しだけ目を丸くした。


「え……うん、吸うけど……ダメだった?」


「いや、別に。けど……」


原田が言いかけ、言葉を探す。


千夜は細い指で吸口を持ち、軽く唇を添える。吐息とともに、煙が細く宙に流れていった。


その仕草は、艶やかというより、あまりに自然だった。


誰に媚びるでもない。飾りも誇示もない。

ただ、煙を吸い、吐くという動作の中に、彼女の生きてきた時間と矜持が滲んでいた。


琥珀の瞳が薄く細められ、煙の向こうで微かに笑っている。


その一瞬、場の空気が静かに変わった。


その横で、不意に新たな声が割って入った。


「……ほんまもんの姐さんみたいやな」


廊下の柱に軽く背を預けていた若い男が、目を細めて呟いた。


藤堂平助だった。


千夜とは初対面だ。

彼の眼差しには驚きと、どこか無邪気な好奇心が混じっていた。


「けど、ちょっと違う。姐さんより、凄味があるって言うか……なんだろ、なんか……“慣れ”みたいなもんがある感じ」


藤堂はそう言って、無意識に千夜を値踏みするような視線を送った。


その視線に気づいた千夜が、ふいにそちらを向く。


琥珀色の瞳が静かに、しかし真っ直ぐに藤堂を捉えた。


「……初めまして、かな?」


「お、おう。藤堂平助。よろしくな。」


千夜は微かに笑いながらうなずいた。そして、少し離れた場所にも、また一人名を知らぬ男の姿


————斎藤一


土方は、千夜の視線を追い、


「あぁ。ありゃ、斎藤一だ。」


その笑みは柔らかくも、どこか内に距離を湛えていた。


痩せた輪郭。どこか影を帯びた眼差し。動かぬようでいて、隙を見逃さぬような、冷えた光を宿した瞳だった。


煙を吐き出した千夜は、土方に煙管を奪われ、口を尖らせる


「俺のだろうが。」


千夜が口を尖らせたまま、名残惜しげに煙管を見つめる。


「けち……」


千夜の視線は周りを見渡し、煙管の煙を感じながら、無口な男を再び視界に入れる。この男が信頼する仲間達。


土方は、何も語らぬが、そう言っているように見えた。


「……俺の女が、他の男の前で煙吐いてる姿なんて、あんま見せたかねぇんだよ」


「そういうもの?」


「そういうもんだ」


短く言い切ったあと、土方は視線を逸らすように煙管を奪い取った。

唇に残った紅を見つけ、そっと親指で吸い口を拭う。


「……紅、ついてんぞ。こんなもん、見せられたら、俺だって理性なくす」


「たかが、紅一つ…」


「されど、だ。バカ。」


土方の親指が、丁寧に吸い口の紅を拭う所作に、千夜は小さく瞬きをして、その手元を見つめた。


「……紅がついてたら、理性なくなるの?」


「言わせんな。余計なもんが、見えるってことだ」


ぼそりと吐いた土方の声に、千夜はふと、茶目っ気をにじませて笑う。


「……あのね、それ、たぶん誰かに言われたら、恥ずかしいよ?」


「誰にも言わねぇ」


即答した土方に、隣で茶を飲んでいた斎藤が、ふいに低く呟いた。


「……煙を吐く女ってのは、時代柄、軽んじられることもある。“男の真似事”だとか、“色気を振りまく技”だとか。そういう風に、見られがちだ」


「……そういうものなの?」


千夜が、斎藤の方にわずかに視線を向ける。彼は頷きもせず、ただ、続けた。


「だがな……それを“様になる”と思わせる女は、そういねぇ。姐さん、あんたは、それをやってのけた。だからこそ――土方さんが気にするんだろう」


「……斎藤くん、そんなに語るの、珍しいね」


沖田が笑って入ってきた。茶碗をくるくると回しながら、冗談めかして続ける。


「つまりは、“煙を吐いてさまになる女”ってのは、手に入らない女にも見える、って話さ」


「へぇ。」


千夜は微笑んだまま、茶碗を静かに置いた。


「……そう見えるなら、それでいいよ」


琥珀の瞳が揺れていない。強さも気負いもなく、ただ、自然体で。


それが、より一層「そういう女」に見せてしまうのだと、男たちは気づかされる。


「けど、煙くらいで慌てるなんて——

 ねぇ、皆、案外……純だね?」


わずかに唇を吊り上げて、千夜が皆を見渡す。


沖田は口元を押さえて笑い、原田は「姉さんにゃ敵わん」と肩をすくめ、永倉は苦笑いを浮かべて茶を煽る。藤堂は何か言いかけて、うまく言葉にできず、頭を掻いた。


斎藤だけが、静かに目を伏せる。


そのとき、千夜はふと、立ち上がった。

風が、彼女の袖を揺らす。


そして、斎藤に向けて、ゆっくりと一歩踏み出す。


「君、強いね」


その声に、わずかに斎藤の眉が動く。


「いい目してるのに、勿体ない」


足を止めたのは、刀を抜かせないぎりぎりの距離。千夜はもう一歩、踏み込めた。


けれど——


「別に、踏み込んでもよかったんだけどね。懐刀としては、もう少し楽しみたいじゃない?」


肩越しに振り返り、微笑む。


「……ねぇ、よっちゃん」


その声に、土方は目を細めた。

何も言わないが、その目は「やり過ぎるな」と語っていた。


その場の誰もが、千夜の一挙一動に、言葉を失っていた。


藤堂が思わず呟く。


「……すげぇな、あれ。なんつーか、場を……全部持ってってる」


原田が苦笑しながら頷く。


「そりゃあ土方さんが惚れるわけだ。……俺でもちょっと痺れるくらいや」


永倉は目を細めながら茶を啜り、静かに言った。


「……あの女がいる限り、土方さんは、絶対に折れねぇだろうな」


沖田だけは、土方の顔を見ていた。

誰よりも複雑な色を浮かべたその横顔を、じっと。


——あれが、“守る”顔だ。

それも、簡単に折れてしまいそうなほど、強くて、脆い。


千夜はくす、と笑って、また斎藤を見やる。


「今度は手合わせしてね。はじめちゃん」


斎藤の目が、わずかに揺れた。


「——けど今日は、ちょっと、体調が悪くてね。次の機会に」


そう言って千夜が胸元を押さえた瞬間——

小さな咳が、静かに、肺の奥から漏れ出た。


それは、絹の布が裂けるような、か細く、それでいて確かな音。


「……っ」


咄嗟に土方が動いた。


あえて声をかける者はいない。

背を押す者も、咎める者も。


けれど、その視線のすべてが――

あの細い背に、そして彼女を追う土方に、注がれていた。


幹部たちは、何も言わなかった。

ただ、彼女の存在の重さと、脆さとを、各々の胸に刻みながら。


──あの女の異変に、誰より早く気づいたのは、やはりあの男だった。千夜の背に手を添える。


「千夜、発作か?」


その言葉に、場が凍ったような静けさに包まれる。


沖田が、永倉が、原田が、斎藤が。

皆がそれぞれに、千夜の異変に気づき、距離を取りながらも視線を注ぐ。


ゆっくりと顔を向けた千夜の目は潤み、けれど、かすかに微笑もうとした。


「……だいじょうぶ。……ちょっと、息がしづらいだけ」


声は掠れ、微かに震えていた。

土方はその額に手をやる。

――呼吸が浅い。


「熱、あるじゃねぇか。」


土方は無言で羽織を脱ぎ、千夜の肩へかけた。

そして、千夜の背中に手を添え、そっと引き寄せる。


 千夜の身体は軽い。

抱き寄せた瞬間、土方はその華奢さにわずかに眉をひそめた。羽織越しでも伝わる熱が、彼の掌を刺すように熱い。


「吸入薬は――」


 問いかけながら懐を探ると、巾着に仕込んだ小さな竹筒が見つかった。

 千夜は息を切らしながらも頷く。指先でそれを示すより早く、土方が蓋を外し、薬草の粉を吸口に詰める。 


「――ゆっくり、吸え」


 千夜の肩を支え、唇へ筒を当てる。

 ひと息、ふた息。吸入のたびに胸板が上下し、苦しげな笛のような音が微かに鳴る。

 しかし三度目には、喉奥のひゅうという音が次第に収まり、肩の震えが静まった。


「……はぁ……」


 長く吐き出された息。千夜は瞳を閉じ、土方の胸に額を預けた。

 柔らかな髪が頬に触れる。土方の腕に、自然と力がこもる。


「言ったろう。身体に訊け、と」


 叱責の色は薄い。声を低く潜めたまま、そっと後れ毛を耳の後ろに払う。

 千夜は、くぐもった声でかすかに笑う。


「……よっちゃん、怖い顔してる」


「お前がこうなる度、誰がどれだけ血を凍らせるか分かってんのか」


「……ごめん」


 謝りながらも、千夜は首を振る。

 そのままの姿勢でしばし呼吸を整える彼女を、土方は黙って抱き留めた。


 縁側から数歩下がったところに、幹部たちの気配が集まる。

 沖田は腕を組んだまま視線を落とし、永倉は湯呑を持った手を膝に置いて動かない。

 原田は眉根を寄せ、藤堂は唇を噛み、斎藤はただ静かに瞑目していた。


 しかし誰ひとり声をかけない。

 この時間は土方のものだと、全員が暗黙に知っている。


「寒気は?」


「……少しだけ。でもだいじょうぶ」


「大丈夫の基準が甘いんだ、お前は」


 土方は羽織を直し、背を支えたまま立ち上がる。

 千夜は抗うことなく、その腕の中で体重を預けた。


「悪い。部屋に連れていく。薬湯を煎じなきゃな。」


「僕がやりますよ。土方さんは、ついててあげてください。」


沖田が名乗り出て

藤堂は急ぎ戸を開け、原田は湯たんぽを探しに走る。


土方は千夜を抱いたまま、ゆっくりと廊下を進む。

 腕の中で彼女が胸を上下させるたび、己の心音もわずかに速まるのを感じる。


「……よっちゃん」


「なんだ」


「ありがとう」


それは、かすれた声でも確かな感謝。

土方は答えず、ただ「当たり前だ」と唇を動かしただけだった。

 夕映えの光が、二人の背を長く伸ばす。

遠巻きに見守る幹部たちの視線は、尊敬とも羨望ともつかぬ色を帯び、やがてその影ごと、静かに土方の部屋へと続いていった。


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