千夜の姿は、噂に語られた“姫”と、まるで写し鏡のように重なっていた。
沖田は、千夜を見て、
————やはり、君が椿であり、巫女
それを知り、何を得たいのか、沖田には、わからなかった
ただ、胸の奥に残ったのは、奇妙な温度のない感情だけだった。
それは驚きではなく、安堵でもなく——
どこか、寂しさに似た何か。
沖田の視線が、ふと千夜に向いたまま止まっていた。
その様子を見ていた原田が、茶を片手ににやりと笑う。
「……なぁなぁ総司、もしかして、惚れたか?」
「は?」
沖田はまばたき一つせずに返す。
「いや、ほら、その目。見てるの、女としてじゃなくて、化け物を見るような目でもなくてさ。……まるで、忘れた誰かを思い出すような目」
「……そんな詩人みたいなこと言って、どうしたんですか、原田さん」
「冗談だよ。冗談。でも、ま、そういう顔しとったぞ?」
原田はあくまで軽く笑っていたが、どこかその目の奥に、察する者の静けさも垣間見えていた。
土方は、静かにそこに居た。何かを言うわけでもなく、千夜の横に座っていた。
芹沢は、千夜を知っている。
君菊でも懐刀でも無い、もっと違うことを
————椿
そう呼ばれた、自分の知らぬ彼女を知っている。
「また、怖い顔して。」
白い指先が、土方の頬をなぞった。
それはまるで、何かを宥めるようでもあり、何かを拒むようでもあった。柔らかな指先の温もりが、土方の肌に触れて、すっと離れていく。
それだけの所作に、周囲の空気がわずかに揺れた。
土方は何も言わなかった。
ただ、睫毛を伏せ、じっと千夜を見ていた。
その眼差しの奥にあったのは、怒りでも、戸惑いでもなく、ただひとつ、“触れることのできない過去”への沈黙だった。
「………また、黙って。言いたい事あるんでしょ?」
千夜の声は、微かに笑っているようでいて、少しだけ震えていた。言葉に乗せた感情を、彼女自身も測りかねている。
それでも、そう言わずにはいられなかったのは、土方が“何も言わない”まま隣にいるからだった。
土方は、その声にすぐには応えなかった。
ただ、茶を取るでもなく、視線を逸らすでもなく——
千夜を見たまま、まぶたを一つ、ゆっくりと伏せた。
「お前が、芹沢と知り合いだったとはな。」
出てきた言葉は、思った事とは違った。
だが、気になった事を口にしていた。
「………あぁ。梅姐の恋仲だからね。」
千夜は淡々とそう答えた。
まるで何でもないことのように、茶をすする仕草すら丁寧で、穏やかだった。
だが、その指先の動きはわずかに止まり、盃の縁をなぞるような癖が浮き出た。
「気にしてくれたの?」
千夜は、問いかけるというよりも、
ただそっと水面に小石を投げるような声でそう言った。返ってくる答えが、欲しいわけではない。けれど、沈黙のままでは、余白が痛む。
土方は、その言葉をしばし受け止めていた。
そして、静かに、視線だけを千夜から外す。
「…………いちいち気にしてたら、お前とは並べねぇよ」
それは拒絶ではなく、自分に言い聞かせるような低い声だった。その口調の端にだけ、わずかに滲んだ悔いがある。
千夜は、何も言わなかった。
ただ、微かに目を細め、盃を置く音を立てずに下ろした。
まるで、それが答えだとでも言うように。
「気にしてるくせに」
千夜は、言い終えたあと、そっと笑った。
けれど、その笑みにはどこか、苦味のような色が滲んでいた。
「………言うじゃねぇか。」
土方の低い声は、笑っているようでいて、どこか寂しげだった。その声音には、わずかな照れと、ひとさじの悔しさが混ざっていた。
何かを守るように、何かを諦めるように。
土方は、ふと懐から煙管を取り出し、火を点けた。
その沈黙に、千夜はすっと手を伸ばし、彼の煙管を取ると、自分の唇で吸い口を確かめるようにそっと咥えた。
「………お前、今、完璧に素だな………」
「……?へ?………あっ。」
千夜は、周りに人が居る事など頭から抜け落ちていた。火がついた煙管から紫煙が上がる。
煙管を唇に咥えた千夜の仕草は、あまりに自然で、そしてあまりに様になっていた。
盃を持ったまま、それを見つめていた永倉が、ふと低く呟いた。
煙管の紅が彼女の唇にかすかに残り、琥珀の瞳が小さく笑っている。
「……いや、その……吸うんだなって」
永倉が苦笑気味にそう言うと、千夜は少しだけ目を丸くした。
「え……うん、吸うけど……ダメだった?」
「いや、別に。けど……」
原田が言いかけ、言葉を探す。
千夜は細い指で吸口を持ち、軽く唇を添える。吐息とともに、煙が細く宙に流れていった。
その仕草は、艶やかというより、あまりに自然だった。
誰に媚びるでもない。飾りも誇示もない。
ただ、煙を吸い、吐くという動作の中に、彼女の生きてきた時間と矜持が滲んでいた。
琥珀の瞳が薄く細められ、煙の向こうで微かに笑っている。
その一瞬、場の空気が静かに変わった。
その横で、不意に新たな声が割って入った。
「……ほんまもんの姐さんみたいやな」
廊下の柱に軽く背を預けていた若い男が、目を細めて呟いた。
藤堂平助だった。
千夜とは初対面だ。
彼の眼差しには驚きと、どこか無邪気な好奇心が混じっていた。
「けど、ちょっと違う。姐さんより、凄味があるって言うか……なんだろ、なんか……“慣れ”みたいなもんがある感じ」
藤堂はそう言って、無意識に千夜を値踏みするような視線を送った。
その視線に気づいた千夜が、ふいにそちらを向く。
琥珀色の瞳が静かに、しかし真っ直ぐに藤堂を捉えた。
「……初めまして、かな?」
「お、おう。藤堂平助。よろしくな。」
千夜は微かに笑いながらうなずいた。そして、少し離れた場所にも、また一人名を知らぬ男の姿
————斎藤一
土方は、千夜の視線を追い、
「あぁ。ありゃ、斎藤一だ。」
その笑みは柔らかくも、どこか内に距離を湛えていた。
痩せた輪郭。どこか影を帯びた眼差し。動かぬようでいて、隙を見逃さぬような、冷えた光を宿した瞳だった。
煙を吐き出した千夜は、土方に煙管を奪われ、口を尖らせる
「俺のだろうが。」
千夜が口を尖らせたまま、名残惜しげに煙管を見つめる。
「けち……」
千夜の視線は周りを見渡し、煙管の煙を感じながら、無口な男を再び視界に入れる。この男が信頼する仲間達。
土方は、何も語らぬが、そう言っているように見えた。
「……俺の女が、他の男の前で煙吐いてる姿なんて、あんま見せたかねぇんだよ」
「そういうもの?」
「そういうもんだ」
短く言い切ったあと、土方は視線を逸らすように煙管を奪い取った。
唇に残った紅を見つけ、そっと親指で吸い口を拭う。
「……紅、ついてんぞ。こんなもん、見せられたら、俺だって理性なくす」
「たかが、紅一つ…」
「されど、だ。バカ。」
土方の親指が、丁寧に吸い口の紅を拭う所作に、千夜は小さく瞬きをして、その手元を見つめた。
「……紅がついてたら、理性なくなるの?」
「言わせんな。余計なもんが、見えるってことだ」
ぼそりと吐いた土方の声に、千夜はふと、茶目っ気をにじませて笑う。
「……あのね、それ、たぶん誰かに言われたら、恥ずかしいよ?」
「誰にも言わねぇ」
即答した土方に、隣で茶を飲んでいた斎藤が、ふいに低く呟いた。
「……煙を吐く女ってのは、時代柄、軽んじられることもある。“男の真似事”だとか、“色気を振りまく技”だとか。そういう風に、見られがちだ」
「……そういうものなの?」
千夜が、斎藤の方にわずかに視線を向ける。彼は頷きもせず、ただ、続けた。
「だがな……それを“様になる”と思わせる女は、そういねぇ。姐さん、あんたは、それをやってのけた。だからこそ――土方さんが気にするんだろう」
「……斎藤くん、そんなに語るの、珍しいね」
沖田が笑って入ってきた。茶碗をくるくると回しながら、冗談めかして続ける。
「つまりは、“煙を吐いてさまになる女”ってのは、手に入らない女にも見える、って話さ」
「へぇ。」
千夜は微笑んだまま、茶碗を静かに置いた。
「……そう見えるなら、それでいいよ」
琥珀の瞳が揺れていない。強さも気負いもなく、ただ、自然体で。
それが、より一層「そういう女」に見せてしまうのだと、男たちは気づかされる。
「けど、煙くらいで慌てるなんて——
ねぇ、皆、案外……純だね?」
わずかに唇を吊り上げて、千夜が皆を見渡す。
沖田は口元を押さえて笑い、原田は「姉さんにゃ敵わん」と肩をすくめ、永倉は苦笑いを浮かべて茶を煽る。藤堂は何か言いかけて、うまく言葉にできず、頭を掻いた。
斎藤だけが、静かに目を伏せる。
そのとき、千夜はふと、立ち上がった。
風が、彼女の袖を揺らす。
そして、斎藤に向けて、ゆっくりと一歩踏み出す。
「君、強いね」
その声に、わずかに斎藤の眉が動く。
「いい目してるのに、勿体ない」
足を止めたのは、刀を抜かせないぎりぎりの距離。千夜はもう一歩、踏み込めた。
けれど——
「別に、踏み込んでもよかったんだけどね。懐刀としては、もう少し楽しみたいじゃない?」
肩越しに振り返り、微笑む。
「……ねぇ、よっちゃん」
その声に、土方は目を細めた。
何も言わないが、その目は「やり過ぎるな」と語っていた。
その場の誰もが、千夜の一挙一動に、言葉を失っていた。
藤堂が思わず呟く。
「……すげぇな、あれ。なんつーか、場を……全部持ってってる」
原田が苦笑しながら頷く。
「そりゃあ土方さんが惚れるわけだ。……俺でもちょっと痺れるくらいや」
永倉は目を細めながら茶を啜り、静かに言った。
「……あの女がいる限り、土方さんは、絶対に折れねぇだろうな」
沖田だけは、土方の顔を見ていた。
誰よりも複雑な色を浮かべたその横顔を、じっと。
——あれが、“守る”顔だ。
それも、簡単に折れてしまいそうなほど、強くて、脆い。
千夜はくす、と笑って、また斎藤を見やる。
「今度は手合わせしてね。はじめちゃん」
斎藤の目が、わずかに揺れた。
「——けど今日は、ちょっと、体調が悪くてね。次の機会に」
そう言って千夜が胸元を押さえた瞬間——
小さな咳が、静かに、肺の奥から漏れ出た。
それは、絹の布が裂けるような、か細く、それでいて確かな音。
「……っ」
咄嗟に土方が動いた。
あえて声をかける者はいない。
背を押す者も、咎める者も。
けれど、その視線のすべてが――
あの細い背に、そして彼女を追う土方に、注がれていた。
幹部たちは、何も言わなかった。
ただ、彼女の存在の重さと、脆さとを、各々の胸に刻みながら。
──あの女の異変に、誰より早く気づいたのは、やはりあの男だった。千夜の背に手を添える。
「千夜、発作か?」
その言葉に、場が凍ったような静けさに包まれる。
沖田が、永倉が、原田が、斎藤が。
皆がそれぞれに、千夜の異変に気づき、距離を取りながらも視線を注ぐ。
ゆっくりと顔を向けた千夜の目は潤み、けれど、かすかに微笑もうとした。
「……だいじょうぶ。……ちょっと、息がしづらいだけ」
声は掠れ、微かに震えていた。
土方はその額に手をやる。
――呼吸が浅い。
「熱、あるじゃねぇか。」
土方は無言で羽織を脱ぎ、千夜の肩へかけた。
そして、千夜の背中に手を添え、そっと引き寄せる。
千夜の身体は軽い。
抱き寄せた瞬間、土方はその華奢さにわずかに眉をひそめた。羽織越しでも伝わる熱が、彼の掌を刺すように熱い。
「吸入薬は――」
問いかけながら懐を探ると、巾着に仕込んだ小さな竹筒が見つかった。
千夜は息を切らしながらも頷く。指先でそれを示すより早く、土方が蓋を外し、薬草の粉を吸口に詰める。
「――ゆっくり、吸え」
千夜の肩を支え、唇へ筒を当てる。
ひと息、ふた息。吸入のたびに胸板が上下し、苦しげな笛のような音が微かに鳴る。
しかし三度目には、喉奥のひゅうという音が次第に収まり、肩の震えが静まった。
「……はぁ……」
長く吐き出された息。千夜は瞳を閉じ、土方の胸に額を預けた。
柔らかな髪が頬に触れる。土方の腕に、自然と力がこもる。
「言ったろう。身体に訊け、と」
叱責の色は薄い。声を低く潜めたまま、そっと後れ毛を耳の後ろに払う。
千夜は、くぐもった声でかすかに笑う。
「……よっちゃん、怖い顔してる」
「お前がこうなる度、誰がどれだけ血を凍らせるか分かってんのか」
「……ごめん」
謝りながらも、千夜は首を振る。
そのままの姿勢でしばし呼吸を整える彼女を、土方は黙って抱き留めた。
縁側から数歩下がったところに、幹部たちの気配が集まる。
沖田は腕を組んだまま視線を落とし、永倉は湯呑を持った手を膝に置いて動かない。
原田は眉根を寄せ、藤堂は唇を噛み、斎藤はただ静かに瞑目していた。
しかし誰ひとり声をかけない。
この時間は土方のものだと、全員が暗黙に知っている。
「寒気は?」
「……少しだけ。でもだいじょうぶ」
「大丈夫の基準が甘いんだ、お前は」
土方は羽織を直し、背を支えたまま立ち上がる。
千夜は抗うことなく、その腕の中で体重を預けた。
「悪い。部屋に連れていく。薬湯を煎じなきゃな。」
「僕がやりますよ。土方さんは、ついててあげてください。」
沖田が名乗り出て
藤堂は急ぎ戸を開け、原田は湯たんぽを探しに走る。
土方は千夜を抱いたまま、ゆっくりと廊下を進む。
腕の中で彼女が胸を上下させるたび、己の心音もわずかに速まるのを感じる。
「……よっちゃん」
「なんだ」
「ありがとう」
それは、かすれた声でも確かな感謝。
土方は答えず、ただ「当たり前だ」と唇を動かしただけだった。
夕映えの光が、二人の背を長く伸ばす。
遠巻きに見守る幹部たちの視線は、尊敬とも羨望ともつかぬ色を帯び、やがてその影ごと、静かに土方の部屋へと続いていった。