———屯所・土方私室
褥に寝かせた細い身体は、熱を宿し、苦しげな息遣いだけが静まり返った部屋に残っていた。
土方は、煙管にかけた手を、しばし宙で止め、そのままそっと畳へと置いた。
この瞬間が、いつも、何よりも怖い。
彼女が、目を覚まさなかったら——
そう思ってしまう自分の心こそが、何より、恐ろしかった。
「……よっちゃん」
千夜が、かすれる声で彼を呼ぶ。
——変わってやりたい。
いつも、そう思う。
「俺は、此処にいる」
土方は、そっと応える。
千夜に病が牙を剥くたび、土方は何度も、人ならぬ気配を感じてきた。
部屋の隅でも、襖の向こうでもない。
名も知らぬ、誰かが、ただ千夜の苦しみに寄り添うように、そこに在る——そんな気配だった。
沖田と千夜が数日前に口にした、その名を、土方は一度だけ、誰にも聞かれぬよう、小さく呟いた。
「……山崎烝(やまざき すむ)」
まるで、独り言のように。
その名を口にした、ほんの数拍の後。
——まさか、呼ばれるとは思わなかったのか。
天井裏で、わずかに板の軋む音がした。
微かなそれは、人の気配の答えのように、闇の奥から確かに返ってきた。
⸻
「……案外、悪ぃ奴じゃねぇのかもな。あんた」
そう呟き、わずかに肩を落とした土方は、視線を天井に向けた。
「出てきても構わねぇ。……いるんだろ、山崎烝」
それは、監視でも敵意でもない。
ただ、“千夜のためなら黙っていてやる”という、不器用な譲歩だった。
呟きと同時に、鴨居の陰から影が滑るように降りてきた。
気配を消したまま、音もなく畳に着地したのは、一人の男だった。
黒衣に身を包み、視線を逸らさぬまま、ゆっくりと姿勢を正す。
「……よう言いますなあ」
呆れたような声音。けれど、その目には、油断も隙もなかった。
「初対面の相手に“出てこい”て。よう言われたこっちの身にもなってほしいもんですわ」
夕刻の斜陽が、部屋の隅を淡く照らす。
「お前が……山崎烝か」
土方の声に、山崎はほんのわずか眉を上げた。
「えぇ。まぁ。」
そう言って目線を外し、眠る千夜を一瞥する。
土方のまなじりが、かすかに動いた。
しかし、彼はそれ以上、何も言わなかった。
二人の間に流れるのは、沈黙。
敵意でも警戒でもない、ただ“千夜”という存在を挟んで立つ、
名も無き初対面の静けさだった。
「千夜を連れ戻す気か?」
声には刺も圧もなかった。ただ、確かめるように、まっすぐだった。
山崎は一瞬、視線だけで土方を見たあと、ゆっくりと首を振る。
「ちゃいます」
その一言に、曇りはなかった。
「うちは——ただ、あの子の噂が、思たより大きゅうなってしもうて……せやから、探しとっただけですわ」
土方は黙って耳を傾けていた。
「“巫女”がどうの言われとる。……笑うてしまいますやろ、あいつが姫やて」
山崎の目が細くなり、淡く微笑を含んだ。
「でも……ほんまに、姫みたいな子ですやろ? 優しゅうて、脆ぉて、けど、強くて……」
語尾を濁すように、山崎は視線を落とす。
褥の上、浅く息をする千夜の寝顔へと、その目が戻った。
「戻す気なんかあらへん。あの子が、今ここに居たい言うんやったら……うちは、それでええ」
「……守らんと、あかん思たから、来ただけですわ」
その声に、偽りはなかった。
土方は、それを黙して受け止めた。
まるで、自分の中に既に答えを持っていたかのように——
目の前の男に、言葉の綾も力もぶつける必要はない。
千夜が信じた男なら、それでいい。
今は、そう思えた。
その空気を読んだのか、山崎は、ほんのわずか口元をゆるめる。
「……知ってたんでしょう? 千夜の正体」
そう言って、土方の目を見据える。
「それで——それでも側における、あんたに敵う気なんて、うちには、あらへん」
それは、敗北の言葉ではなかった。
ただ、静かに認めたのだ。千夜が“どこに戻るか”を、彼女自身が選んだことを。
土方は、わずかに目を伏せた。
「……知ってたさ」
短く応じるその声には、どこか寂しげな温度があった。
それ以上、何も言わない。
けれどそれだけで、すべてが通じたような沈黙が、ふたりのあいだに降りる。
夕刻の風が、障子の隙間を抜けて、部屋の空気をかすかに揺らした。
千夜の息遣いは、ほんの少しだけ、穏やかになっていた。
夕刻の風が障子を揺らし、室内に淡い橙の光が差し込んでいた。
千夜の寝息が、ほんの少しだけ落ち着いたのを確認した土方は、再びゆっくりと山崎を見た。
——この気配だ。
昔から、どこかで感じていた。
姿はなくとも、誰より静かに、鋭く、的確に“何か”を見ている気配。
誰かの背後。
戦場の気流。
あるいは、ふとした夜の風の中に——
あれは、こいつだったのか。
一目を置く。
そんな言葉が、自然と土方の中に立ち上がっていた。
「……お前」
土方は、膝を崩したまま、少しだけ身体を傾ける。
「行くとこが無ぇなら、隊士になるか?」
それは、気まぐれではない。
ただの勧誘でもない。
“俺の目は誤魔化せなかった”
“千夜のそばにいたお前を、否定しねぇ”
——そのすべてを含んだ、土方なりの返事だった。
山崎は、一瞬だけ黙る。
口元がわずかに吊り上がり、肩が揺れる。
「……ほんま、よう分からん人ですな。土方はんて」
そう呟きながらも、その声音には、どこか安心したような色があった。ふと視線を千夜へと戻す。
「けど……千夜が、この人やったら、言うてへんでも、ちょっと分かる気がしましたわ」
淡く笑ってから、再び土方を見据える。
「隊士に、ですか。……考えときますわ」
そう言って、軽く頭を下げた。
それは冗談めいた調子でありながらも、
“ここに居てもええと言われた”ことへの、静かな感謝と承諾のようでもあった。
「……まぁ、あの子が目ぇ覚ましたら、うちが此処に居ったこと、きっと怒るでしょうけどな」
そう言って、ほんの少し肩をすくめる。
けれどその背には、もう以前のような“距離”はなかった。
土方は何も言わず、それを見ていた。
——千夜を、ひとりにしないために。
ふたりの男が、同じ場に立っただけのこと。
それ以上でも、それ以下でもない、
けれど確かに信頼の種が落とされた、夕刻のひとときだった。
視線は、眠る千夜へ。
その寝顔を、ただ一度、目に焼きつけるように見つめた。
そして——踵を返す。
足音も気配も残さず、影はするりと部屋の端へと溶けていく。
鴨居の上に戻る気配もなく、まるで最初からいなかったかのように、ただ静かに姿を消した。
ただ静かに、煙管へと手を伸ばし、ふと、口の端にだけ微かな笑みを浮かべる。
「……変な奴だ」
そう呟いた声は、夜へと溶けていった。
まるで、誰かの気配がまだそこにあるとでも言うように。
障子の外、縁側に佇んでいた沖田は、風の向こうからかすかに残った“気配”に目を細めた。
何も見えない。
誰もいない。
だが、わかる。
ほんの数息前まで、誰かがそこにいた。
千夜の部屋に、土方の隣に、そして——千夜の眠りに寄り添うように。
「……やっぱり、いたんですね。山崎くん」
風が揺らした竹の葉が、かさりと音を立てた。
沖田は足音も立てずに立ち上がると、障子の方へ軽く視線を送る。
だが、それ以上は何もせず、ただ風と気配だけを感じながら、その場を離れた。
静寂が戻る。
部屋の中、千夜の睫毛がかすかに震える。
「……よっちゃん……?」
寝息の隙間からこぼれた声は、まだ熱を帯びていた。
土方は立ち上がらず、褥の傍にいたまま、ただその額にそっと手を添える。
「ここにいる。……心配すんな」
その言葉に応えるように、千夜の眉間の皺がすっとほどけ、浅く熱を帯びた頬がわずかに赤みを帯びたまま、再び穏やかな眠りへ落ちていった。
土方は、その様子をしばし見つめたあと、ふと視線を天井にやる。
——気配はもう、なかった。
けれど、確かにそこに“いた”ということだけは、疑いようもなかった。
「……悪ぃ奴じゃねぇ。あいつは」
独り言のように、けれど確かな声音で呟く。
千夜を見守り、そっと去った男。
名を呼ばれて姿を現したくせに、何も奪わず、何も残さず、ただ確かにここにいた。
一目を置かざるを得ない。
それが“山崎烝”という男だ。
——もし、あいつが隊士になるというなら。
土方はふと、そんなことを思いながら、またひとつ、煙管に手を伸ばした。
夜が、静かに、屯所を包み込んでいく。