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第12話



———屯所・土方私室


褥に寝かせた細い身体は、熱を宿し、苦しげな息遣いだけが静まり返った部屋に残っていた。


土方は、煙管にかけた手を、しばし宙で止め、そのままそっと畳へと置いた。


この瞬間が、いつも、何よりも怖い。


彼女が、目を覚まさなかったら——

そう思ってしまう自分の心こそが、何より、恐ろしかった。


「……よっちゃん」


千夜が、かすれる声で彼を呼ぶ。


——変わってやりたい。

いつも、そう思う。


「俺は、此処にいる」

土方は、そっと応える。


千夜に病が牙を剥くたび、土方は何度も、人ならぬ気配を感じてきた。

部屋の隅でも、襖の向こうでもない。

名も知らぬ、誰かが、ただ千夜の苦しみに寄り添うように、そこに在る——そんな気配だった。


沖田と千夜が数日前に口にした、その名を、土方は一度だけ、誰にも聞かれぬよう、小さく呟いた。


「……山崎烝(やまざき すむ)」

まるで、独り言のように。


その名を口にした、ほんの数拍の後。

——まさか、呼ばれるとは思わなかったのか。


天井裏で、わずかに板の軋む音がした。

微かなそれは、人の気配の答えのように、闇の奥から確かに返ってきた。




「……案外、悪ぃ奴じゃねぇのかもな。あんた」


そう呟き、わずかに肩を落とした土方は、視線を天井に向けた。


「出てきても構わねぇ。……いるんだろ、山崎烝」


それは、監視でも敵意でもない。

ただ、“千夜のためなら黙っていてやる”という、不器用な譲歩だった。


呟きと同時に、鴨居の陰から影が滑るように降りてきた。


気配を消したまま、音もなく畳に着地したのは、一人の男だった。

黒衣に身を包み、視線を逸らさぬまま、ゆっくりと姿勢を正す。


「……よう言いますなあ」


呆れたような声音。けれど、その目には、油断も隙もなかった。


「初対面の相手に“出てこい”て。よう言われたこっちの身にもなってほしいもんですわ」


夕刻の斜陽が、部屋の隅を淡く照らす。


「お前が……山崎烝か」


土方の声に、山崎はほんのわずか眉を上げた。


「えぇ。まぁ。」


そう言って目線を外し、眠る千夜を一瞥する。


土方のまなじりが、かすかに動いた。

しかし、彼はそれ以上、何も言わなかった。


二人の間に流れるのは、沈黙。


敵意でも警戒でもない、ただ“千夜”という存在を挟んで立つ、

名も無き初対面の静けさだった。


「千夜を連れ戻す気か?」


声には刺も圧もなかった。ただ、確かめるように、まっすぐだった。


山崎は一瞬、視線だけで土方を見たあと、ゆっくりと首を振る。


「ちゃいます」


その一言に、曇りはなかった。


「うちは——ただ、あの子の噂が、思たより大きゅうなってしもうて……せやから、探しとっただけですわ」


土方は黙って耳を傾けていた。


「“巫女”がどうの言われとる。……笑うてしまいますやろ、あいつが姫やて」


山崎の目が細くなり、淡く微笑を含んだ。


「でも……ほんまに、姫みたいな子ですやろ? 優しゅうて、脆ぉて、けど、強くて……」


語尾を濁すように、山崎は視線を落とす。

褥の上、浅く息をする千夜の寝顔へと、その目が戻った。


「戻す気なんかあらへん。あの子が、今ここに居たい言うんやったら……うちは、それでええ」


「……守らんと、あかん思たから、来ただけですわ」


その声に、偽りはなかった。


土方は、それを黙して受け止めた。

まるで、自分の中に既に答えを持っていたかのように——


目の前の男に、言葉の綾も力もぶつける必要はない。

千夜が信じた男なら、それでいい。

今は、そう思えた。


その空気を読んだのか、山崎は、ほんのわずか口元をゆるめる。


「……知ってたんでしょう? 千夜の正体」


そう言って、土方の目を見据える。


「それで——それでも側における、あんたに敵う気なんて、うちには、あらへん」


それは、敗北の言葉ではなかった。

ただ、静かに認めたのだ。千夜が“どこに戻るか”を、彼女自身が選んだことを。


土方は、わずかに目を伏せた。


「……知ってたさ」


短く応じるその声には、どこか寂しげな温度があった。


それ以上、何も言わない。

けれどそれだけで、すべてが通じたような沈黙が、ふたりのあいだに降りる。


夕刻の風が、障子の隙間を抜けて、部屋の空気をかすかに揺らした。


千夜の息遣いは、ほんの少しだけ、穏やかになっていた。


夕刻の風が障子を揺らし、室内に淡い橙の光が差し込んでいた。


千夜の寝息が、ほんの少しだけ落ち着いたのを確認した土方は、再びゆっくりと山崎を見た。


——この気配だ。


昔から、どこかで感じていた。

姿はなくとも、誰より静かに、鋭く、的確に“何か”を見ている気配。


誰かの背後。

戦場の気流。

あるいは、ふとした夜の風の中に——


あれは、こいつだったのか。


一目を置く。

そんな言葉が、自然と土方の中に立ち上がっていた。


「……お前」


土方は、膝を崩したまま、少しだけ身体を傾ける。


「行くとこが無ぇなら、隊士になるか?」


それは、気まぐれではない。

ただの勧誘でもない。


“俺の目は誤魔化せなかった”

“千夜のそばにいたお前を、否定しねぇ”

——そのすべてを含んだ、土方なりの返事だった。


山崎は、一瞬だけ黙る。

口元がわずかに吊り上がり、肩が揺れる。


「……ほんま、よう分からん人ですな。土方はんて」


そう呟きながらも、その声音には、どこか安心したような色があった。ふと視線を千夜へと戻す。


「けど……千夜が、この人やったら、言うてへんでも、ちょっと分かる気がしましたわ」


淡く笑ってから、再び土方を見据える。


「隊士に、ですか。……考えときますわ」


そう言って、軽く頭を下げた。


それは冗談めいた調子でありながらも、

“ここに居てもええと言われた”ことへの、静かな感謝と承諾のようでもあった。


「……まぁ、あの子が目ぇ覚ましたら、うちが此処に居ったこと、きっと怒るでしょうけどな」


そう言って、ほんの少し肩をすくめる。


けれどその背には、もう以前のような“距離”はなかった。


土方は何も言わず、それを見ていた。


——千夜を、ひとりにしないために。

ふたりの男が、同じ場に立っただけのこと。


それ以上でも、それ以下でもない、

けれど確かに信頼の種が落とされた、夕刻のひとときだった。


視線は、眠る千夜へ。

その寝顔を、ただ一度、目に焼きつけるように見つめた。


そして——踵を返す。


足音も気配も残さず、影はするりと部屋の端へと溶けていく。

鴨居の上に戻る気配もなく、まるで最初からいなかったかのように、ただ静かに姿を消した。


ただ静かに、煙管へと手を伸ばし、ふと、口の端にだけ微かな笑みを浮かべる。


「……変な奴だ」


そう呟いた声は、夜へと溶けていった。


まるで、誰かの気配がまだそこにあるとでも言うように。


障子の外、縁側に佇んでいた沖田は、風の向こうからかすかに残った“気配”に目を細めた。


何も見えない。

誰もいない。


だが、わかる。


ほんの数息前まで、誰かがそこにいた。

千夜の部屋に、土方の隣に、そして——千夜の眠りに寄り添うように。


「……やっぱり、いたんですね。山崎くん」


風が揺らした竹の葉が、かさりと音を立てた。


沖田は足音も立てずに立ち上がると、障子の方へ軽く視線を送る。

だが、それ以上は何もせず、ただ風と気配だけを感じながら、その場を離れた。


静寂が戻る。


部屋の中、千夜の睫毛がかすかに震える。


「……よっちゃん……?」


寝息の隙間からこぼれた声は、まだ熱を帯びていた。


土方は立ち上がらず、褥の傍にいたまま、ただその額にそっと手を添える。


「ここにいる。……心配すんな」


その言葉に応えるように、千夜の眉間の皺がすっとほどけ、浅く熱を帯びた頬がわずかに赤みを帯びたまま、再び穏やかな眠りへ落ちていった。


土方は、その様子をしばし見つめたあと、ふと視線を天井にやる。


——気配はもう、なかった。


けれど、確かにそこに“いた”ということだけは、疑いようもなかった。


「……悪ぃ奴じゃねぇ。あいつは」


独り言のように、けれど確かな声音で呟く。


千夜を見守り、そっと去った男。


名を呼ばれて姿を現したくせに、何も奪わず、何も残さず、ただ確かにここにいた。


一目を置かざるを得ない。

それが“山崎烝”という男だ。


——もし、あいつが隊士になるというなら。


土方はふと、そんなことを思いながら、またひとつ、煙管に手を伸ばした。


夜が、静かに、屯所を包み込んでいく。



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