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第13話

———翌朝。屯所・縁側。


まだ身体の熱は抜けきっていなかった。

けれど、あのまま何もせずに横になっていれば、きっと自分の心のほうが負けてしまいそうだった。


千夜は、縁側に腰を下ろすと、懐から小さな煙管を取り出す。


ふぅ、と吐き出す吐息は、煙のそれよりも、深くて熱を帯びている。


「……怒られる。」


自分で言いながら、唇の端がかすかにゆがんだ。


叱られることも、気づかれることも、全部分かっている。でも、どうしても吸いたかった。


夜の記憶が、熱の中で霞んでいる。

誰かが額に手を添えていたことも、呼びかけに応えてくれたことも。夢のように優しかった。


——だからこそ、怖かった。


このぬくもりに、甘えすぎてしまったことが。

誰かに助けを求めてしまった自分が。


煙管の吸い口に、そっと唇を寄せる。


「……あまい」


前に土方がそう言ったことを思い出しながら、ゆっくりと煙を吸い込む。薄紅の跡が吸い口に微かに残るよう、あえて唇をずらさず、しっかりとあてた。


吸い込んだ煙を、細く長く、肺の奥から吐き出す。


紫煙が朝の風に溶けていく。


襦袢の袖を押しのけて座る千夜の背に、ふと、気配が差した。


気配を読んでいたはずなのに、感じたのは――

ほんの一瞬の“静かな怒り”と、“呆れ”だった。


「……起きて、これか」


「本当は、風呂に入りたかったんだけどね。汗かいたし。」


でも、今はそれすら億劫で、身体拭きたいな


ゆっくりと振り返れば、縁側の柱にもたれる土方の姿があった。


彼は煙草を咥えていなかった。

ただ、まっすぐに千夜を見て、深く息を吐き出していく。


「………お前は、人が怒ってるっていうのに。」


呆れを通り越したような声だった。

けれど、その中に怒鳴るでもなく、叱りつけるでもなく、ただ――静かな“甘さ”があった。


千夜は、煙管を唇から離し、小さく笑う。


「わかってる。でも、怒られたって、吸いたい時もあるのよ」


「……身体がまともに動かねぇくせに、言い訳だけは一人前だな」


土方は、ゆっくりと歩み寄る。

その足取りは慎重で、音ひとつ立てない。


千夜の目が、ゆるく伏せられる。

けれど、その視線の奥には、薄く火が灯っていた。


「汗かいたまま、放っといたら、また熱ぶり返すぞ」


「……だから、拭きたいなって思ったの」


そう返す声は、ほんのりとかすれていた。

けれど、それでも――冗談めいた色は消えなかった。


「いつからだ。」


土方の問いは低く、感情を抑えた声だった。

そして短すぎて千夜は、土方を見て、


「何が?此処にいた時の話し?もしくは、体調が悪くなったのはいつかって話し?」


そう問い返す千夜の声は、軽く笑いを帯びていたが、その瞳には少しだけ戸惑いが浮かんでいた。


土方は、しばし黙ったまま、煙も吐かず、目を逸らすこともせずに少し目を細めて彼女を見つめる。


そして、静かに言葉を継ぐ。


「体調悪くなったのだ。」


その奥には確かに、怒りがあった。


怒鳴りたいわけじゃない。

責めたいわけでもない。

ただ――

「お前がそれを黙っていたこと」に、どうしようもない苛立ちがある。


千夜は、指先で煙管の吸い口をなぞりながら、小さく息を吐いた。


「君菊で座敷に上がった夜ぐらいかな。」


それは、二日前の話し。

体調が悪い彼女に気付かず、抱いてしまった土方は、額に手を当てていく。


「……あの晩、気づいていれば」


低く絞り出したその声に、言葉の続きはなかった。


千夜は、煙管を懐に戻しながら、静かに視線を落とす。


「……気づかれたくなかったのよ。あの夜だけは、ね」


吐息のように零れた言葉は、笑っているようで、どこか寂しかった。


「強がりも、綺麗にしてる振りも、全部。

君菊としての“私”だけ、見ててほしかったの」


その声に、土方はほんの僅か、眉を寄せた。


「……馬鹿が」


「無口さんは、酷いね。それだけ、好きって事なのに。」


——きっと、それは本音だった。


好きだから、黙ってしまう。

好きだから、遠ざけてしまう。

好きだからこそ、言えない言葉がある。


千夜はそれを、分かっていながら、口に出した。


黙ったままじゃ、伝わらないことがある。

伝えたいのに、伝わらないことも。


土方は、視線を落としたまま、しばし沈黙していた。そして、ようやく小さく、呟く。


「……お前が喋ってくれるうちは、俺は喋らなくていいと思ってた」


その言い方が、あまりに不器用で真っ直ぐで、

千夜は目を伏せて、ふっと笑う。


「……そういうとこだよ、無口さん」


「……言うな。分かったから」


土方の声には、どこか照れくささが滲んでいた。それを誤魔化すように、膝の上の手拭いを握りしめる指先が、わずかに力を帯びる。


千夜は、それを横目で見ながら、笑いを噛み殺すように肩を揺らした。


「ほら、着替えだ。立てるか?」


千夜が静かに腕を差し出すと、土方は一拍だけ間を置いてから、その手をそっと取った。


「……平気。歩ける。……多分」


口ではそう言いながらも、立ち上がろうとした千夜の膝が、わずかにぐらついた。


その瞬間、土方の腕がしっかりと支えていた。


「……無理すんな」


低く、息を呑むような声。


千夜は、そのまま彼の胸元に少し寄りかかるかたちになった。


「……ありがと」


「礼はいい。……浴衣、用意してある」


「もしかして……女物?」


「……お前のだ」


「へぇ、じゃあ……着せてくれる?」


冗談めかして言ったつもりだった。けれど。


土方は、ふと目を伏せて、静かに答える。


「着せる。襟も直す。帯も、結びなおす」


「……ほんとに?」


「お前が立てるまでの間は、俺の仕事だ」


そう言って、土方は千夜の肩をそっと抱いたまま、縁側の向こう――静かに湯を張られた内湯の方へと視線を送る。


「湯殿、今は誰も入ってねぇ。……行けるか」


千夜は、寄りかかったまま、小さく頷いた。


「朝から焚いてくれたの?風呂。」


千夜の問いかけは、冗談のようで――

どこか、胸の奥をそっと撫でるようなやわらかさがあった。


土方は、それにすぐ答えなかった。


ただ、千夜をそっと抱え直すように腕を回し直しながら、ゆっくりと縁側から立ち上がる。


「……お前が汗かいてたからな。寝汗もひどかった。風邪、ぶり返す前に入れときたくて」


低く、抑えた声。


千夜は、少しだけ目を伏せる。


「……そっか。ありがとう」


その声は、湯気のようにふんわりと漏れた。

頬がわずかに火照っているのは、熱のせいか、それとも照れか――自分でもよく分からなかった。


「朝の稽古が始まる前に入れちまえば、誰の目にも触れねぇ。……見られたくねぇだろ」


「うん」


「……女物の浴衣と襦袢、持って来といた。お前のに合わせて……」


ふと、言いよどむ土方。


「合わせて?」


「……色、似合うやつ、選んだだけだ」


その言葉に、千夜はゆるく微笑む。


「ほんとに、無口さんってば。器用なくせに、喋るのだけ不器用」


「喋らなくても、選べる」


「……ふふ。もう、それ言い訳って言うのよ」


湯殿の前に立ち止まり、襖を片手で開ける。

ふわりと立ち昇る湯気に、千夜はふっと目を細めた。


「……いい匂い。白檀?」


「ああ。お前、好きだろ。香、焚いといた」


その一言に、千夜は小さく肩を揺らして笑う。


「もう、だいすき」


「言うな」


「ううん、言う。好き。よっちゃん、ちゃんと見ててくれてる」


土方は答えなかったが、湯殿の中へと千夜をゆっくり降ろす手には、どこまでも静かな愛情がこもっていた。


そして、その湯の香に包まれるようにして、

千夜は土方の手を離さず――しばし、ふたりの時間が流れていった。

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