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第14話

——京・三条の茶屋にて。


通りに面した暖簾をくぐると、湯気の立つ茶碗蒸しの匂いが鼻をくすぐる。

店内には町娘や旅の商人が数名、世間話に花を咲かせていた。


「へえ、沖田はん。今日は一人で?」


奥から顔を出したのは、顔馴染みの茶屋の女将だった。


「ええ。土方さんはご多忙で。僕だけ、町の風にでも当たってこいってね」


「まぁた冗談……ほら、こないだの件、覚えてはりますか?」


女将は懐から、一枚の紙を取り出した。


「これな、描いた子が“本当に見た”って言うんですよ。“巫女様”やって」


その手から渡された和紙の端には、丁寧に描かれた女の面影があった。


白い襟元から覗く襦袢。

淡い藤色の着物に、桜のような毛先をなびかせた女——


「……」


沖田は、声を失った。


それは、確かに千夜だった。


けれど——

その表情は、どこか現実離れしていた。


穏やかな微笑み。揺れる髪に、舞う紅の蝶。

まるで、誰かの願いの中から抜け出してきた夢のように、神聖で、美しかった。


「ね、綺麗でしょ。京のあちこちに、この子の話が出てるんですわ。"巫女様"とか、“椿姫”とか。名前ははっきりせぇへんのやけど……」


「……誰が、描いたんですか」


声はかすれていた。


女将は少し眉を上げた。


「……顔は覚えてへんのやけど、女子が置いていったんですわ。あんたに見せたらええ思うて」


沖田は視線を落としたまま、紙の端をじっと見つめた。


この“絵”が町に出回れば——

千夜はもう、「君菊」でも「無名の女」でもいられない。


「……この絵、僕が預かっていいですか」


女将は、少しだけ寂しそうに頷いた。


「ええよ。……でもな、沖田はん。

 この子、どっか悲しい目してはるね」


「……」


沖田は何も言わず、絵をそっと懐にしまった。


外に出れば、夕暮れの風が頬を撫でた。

まるで、絵の中の“彼女”が、すでに遠くへ行ってしまったような感覚が、胸を締めつける。


夕暮れの三条を歩けば、町人たちの賑わいが少しずつ夜の色に溶けていく。

軒先では子供たちが紙風船を打ち合い、店先では商人たちが明日の仕込みを語り合っていた。


そして、ふと目に入ったのは——絵草紙屋の棚。


色とりどりの絵の中に、見覚えのある一枚があった。

紅の蝶と、桜のような髪。

淡い藤色の着物をまとった、どこか寂しげな笑みを浮かべた女——


「……」


巫女の絵草紙。

それは、随分前から京の町で囁かれていた。

話に聞いていた“千夜”に似た絵。

土方が無言でそれを手に取り、買い求めた姿も、沖田は見ていた。


当時は、ただ不思議だった。

誰かも知らぬ女の絵を、あの人がどうして——

そう思いながら、どこか、心の奥がざわついた。


——少し、妬いていた。


まだ“君菊”としての千夜に会う前。

その絵の中の女に向けられた眼差しの意味を、理解できなかったから。


「……土方さん、これ、知ってたのかな」


ぽつりと、誰に向けるでもなく呟く。


大切にしている子が、今や町の噂になっている。姿も、声も、匂いまでもが、絵草紙の中で“物語”にされていく。


それが、どれほど脆くて——残酷なことか。

分かっているはずの土方が、それでも絵を手にした理由を、今なら少しだけ分かる気がする。


沖田は、そっと懐に手を入れた。

女将から預かった、あの絵。誰かが祈るように描いた、“巫女様”の姿。


布の下から伝わる和紙の感触に、指先がわずかに震えた。


「……絵の中の千夜と、俺たちの千夜は……」


言葉の続きを、飲み込む。


胸の奥に滲むのは、焦燥か、喪失か。

それとも、名も知らぬ誰かと彼女を共有することへの、静かな嫉妬か。


絵がある場所に、静かに手を添えたまま——

沖田は、ひとつ深く息を吐いた。


その風の中に、どこかで聞いたことのある香の気配が、かすかに混じっていた。


——屯所・板間の一室


夕餉の準備が始まる少し前。

長屋の一室に、永倉・原田・斎藤・藤堂、そして沖田が集まっていた。


いつになく、沖田の顔は真剣だった。


「これ、見てください」


沖田が懐から丁寧に包んだ和紙を取り出し、畳の中央に置く。布をほどくと、そこに現れたのは——


淡い藤色の着物。桜のような毛先。

そして、紅の蝶を背に浮かべる、“ある女”の絵。


一瞬、誰もが息を飲んだ。


永倉が先に反応する。


「……これって、まさか……」


藤堂が低く呟く。


「……巫女様、とか、椿姫とか……噂になってる“あれ”だ」


千夜の身分も正体も知らない男達だが、京に囁かれている噂を知らない訳ではなかった。絵草紙にある、巫女の話。それは、彼らの中では、創作物であり、娯楽の一種。


だが、目の前に出された絵は、彼らが知る女で間違いがなく、


斎藤が、じっと絵を見下ろしたまま呟く。


「……これが、噂の“巫女様”の絵草紙か。……こんなにも、似ている」


「似てる、じゃねぇよ」


原田の声は低く、震えていた。


「……千夜、そのものじゃねぇか。顔も、髪も……この目も」


彼が指さしたのは、絵の中の女の微笑。

それは、たしかに見覚えのあるものだった。

——縁側で猫を撫でていたとき、

——初めてかのに会ったとき、

——ふとした拍子に、皆の言葉に笑っていたとき。


けれど、今目の前にあるその笑みは、どこか違っていた。


静かで、神聖で、そして——どこか、哀しかった。


「冗談、だろ」


藤堂がぽつりとつぶやく。


「……僕らが見てた千夜は、“ここにいる彼女”なんです。

 でも、京の町で語られているのは、“誰かの物語の中の彼女”」


沖田はゆっくりと絵を巻き取りながら言葉を続けた。


「絵草紙になって、噂になって……そのうち、作り話が加えられる。“美しき姫巫女”“未来を視る女”“死人に花を手向ける影”……そういう“像”が一人歩きしていく」


「……そして、いつか命を狙われる」


斎藤の言葉に、室内の空気が冷えた。


沖田は頷く。



——壬生・屯所 土方私室


夜も更け、灯明の揺れる部屋の中。


文机の上に一枚の絵草紙が置かれていた。


淡い藤色の衣。桜色の毛先。背に紅の蝶。

どこか浮世離れした笑みをたたえた女の姿は、誰の目にも“千夜”そのものだった。


その前に、五人の幹部が正座している。

沖田総司、永倉新八、原田左之助、斎藤一、そして藤堂平助。


彼らの視線は、皆、同じ一点に注がれていた。


沈黙を破ったのは、沖田だった。


「……町で手に入れました。三条の茶屋で女将が“見せたがってた”と言って、僕に預けたんです」


「どれだけ出回っている?」


「京の絵草紙屋にはもう並んでます。“巫女様”“椿姫”……名前は曖昧ですが、絵と話が独り歩きしている」


原田が、静かに眉をひそめる。


「誰が描いたんだ。」


「たぶん、そうだ。本人の名前は無いが、茶屋の女将が“長州の男と連れの女”が置いていったと言っていた」


土方は一言も発さず、絵の上に視線を落としたままだった。


それが、“千夜”であることを否定もしない。

むしろ、その沈黙が、すべてを物語っていた。


永倉が低く息を吐く。


「……君菊も、千夜も、巫女様も。みんな同一人物ってわけか」


「そうだ」


土方の声が、ようやく落ちる。


「本名は——“椿”。徳川斉昭と正室の娘。正真正銘の、将軍家の血筋だ」


その一言に、場の空気が凍りつく。


藤堂が、目を丸くする。


「……は? ま、待ってくれ。それって……」


「会津はすでに動いている。守るための達しが、我らの元に届いている。……だが」


土方は絵を手に取り、その視線のまま、言葉を続けた。


「十四のとき、襲われた。……男たちに囲まれ、護衛もなく、誰にも助けを求められなかった」


部屋の隅に置かれた煙管に、誰の手も伸びない。


「心を壊したまま、生きている。微笑んでいるようで、どこか虚ろだ。優しいが、人を寄せきらぬ」


斎藤が静かに言う。


「なら……なぜ、それを今、我々に」


土方の指先が、絵の紙をなぞる。


「これまでは、俺一人で守れると思っていた。アイツの名も、過去も、全て覆い隠して。だが——」


「……こうなってしまった以上、一人では守り切れねぇ」


その目に浮かんだものは、悔しさか、決意か。


「俺は、命を懸ける。だがそれでも届かぬ時がある。だから……頼む。皆の力を、貸してくれ」


沈黙。


その静けさの中で、最初に膝を進めたのは原田だった。


「……最初に手ェ貸すのは、俺だ。あの子が町に甘味持って来てくれたとき、何かに気づいてた。……手遅れになる前に、言ってくれてありがとうよ」


「俺もだ」


永倉が静かに言った。


「“巫女様”だの“椿姫”だのは知らねえ。だが、千夜って子が——お前が信じてんだろ? なら、俺も信じる……斬るべきときが来れば、俺がやる」


斎藤の言葉は冷たかったが、そこには確かな覚悟があった。


「でも、今はまだ、斬る時じゃない。……だから守る」


「えー……俺は、斬るのは遠慮するけど、甘味は分けてもらえると嬉しいです」


藤堂の言葉に、場がわずかに和らぐ。


最後に、沖田が口を開いた。


「……“絵の中の千夜”は、もう、皆のものになりかけてる。けど、“俺たちの千夜”は、まだここに居る」


静かに言い切ると、土方を見た。


「なら、守りましょう。“絵草紙”じゃなく、生きているあの子を」


その言葉に、土方はほんのわずか、唇を引き結んだ。


それは、彼にとっての「ありがとう」に等しいものだった。


——灯明が静かに揺れる中。

千夜の不在のまま、確かに彼女は、ここにいた。


その夜、灯明の下に彼女の姿はなかったが、静かに揺れる光の中で、確かにその名は守られていた



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