帳簿の音も筆の走る音も、今はない。
障子の向こうから、かすかな湯の匂いとともに、足音が近づいてきた。
「……失礼します」
いつもより少しだけ柔らかい声が響く。
部屋にいた面々が一斉に振り向いた。
千夜だった。
小ぶりな盆の上には、丁寧に淹れられた湯呑みがいくつか、静かに並んでいた。蒸気が細く立ち上り、白い湯気がふわりと千夜の睫毛を撫でる。
「皆さん、お疲れでしょう? 口、潤してください」
土方は、ふっと笑う。
「相変わらず、間がいいな。」
「では、お話は、終わったところでした?」
「あぁ。丁度な。」
千夜は、土方の言葉を受けて、微かに微笑んだ。
その表情は、どこか安心したようにも見える。
「では……少しだけ、お邪魔しますね」
そう言って、そっと膝をつく。
畳の上に置かれた盆から、湯呑みを一つずつ丁寧に取り上げていく。その動きに幹部達は、視線で追ってしまった。
ポツリ口にしたのは、原田だった。
「………巫女って言われてるんだろ。千夜ちゃん。」
その言葉に、茶を差し出しかけていた千夜の手が、わずかに止まった。
けれど、彼女はすぐに笑う。
それはどこまでも穏やかで、しかし、ほんの少しだけ、遠い微笑みだった。
「……はい。そう噂されているみたいですね」
「ほんとに、そうなのか?」
原田は、まっすぐな目で千夜を見つめていた。
「嘘は、言いません。
ただ、私がよっちゃんと出会った頃より前の記憶は、ほぼないのと同じ。名も知らず、"千夜"という名を貰ったのは確かです。」
言葉は静かだった。
けれど、その中にある“断絶された過去”と、“今ここにいる自分”との線引きは、確かなものだった。
幹部たちは誰も、すぐには言葉を返さなかった。
沈黙が、湯の香の中にふわりと漂った。
そのなかで、千夜は一人、ゆっくりと動き続ける。
藤堂の前に小さな湯呑みを差し出しながら、ふと口元に笑みを浮かべた。
「ぼんやりとだけ思い出したのは、
皆さんが思い描く煌びやかな姫とは、違うもので、はっきりとは思い出せない。」
藤堂の前に湯を置きながら、千夜は視線を伏せる。
「……ただ、すごく、寒かったんです。
薄暗い場所で、ひとりで……ずっと、誰かの声を待っていた気がします」
ふと、湯気が揺れた。
その言葉に、空気が少しだけ重くなる。
「……あんな過去、思い出さなくていい」
ぽつりと落ちた声は、土方のものだった。
土方は、懐から調べた時に手にした名家の記録、その写しを皆の前に差し出した。
「………双子?」
沖田は、読み上げ、首を傾げ、原田と永倉は、それを見て顔を強張らせた。
一人は幼い頃に亡くなり、もう一人は、“器”として育てられたが、十年前、江戸城奥にて消息不明となった。
――名は、“椿”。
「否子、牢。これが写しなら、他の文字は、読み取れなかった。って事だろ?土方さん。」
永倉の声は、低く沈んでいた。
土方は何も言わず、淡く黄ばんだ写しを見下ろした。
紙の端は、墨に滲んだ指の跡で歪んでいる。
「……椿」
沖田が、ぽつりと呟いた名に、室内の空気がぴたりと凍る。
千夜は、立ち上がることもなく、ただ、畳の上で静かに座していた。
「そう。その椿という名の子には、特徴があって、噂になってる毛先が桜色の髪。それと、腹に傷がある事だそうです。」
千夜は、声を荒げるでもなく、淡々とそう言った。
語るというより、確認するように。
思い出すというより、受け止めるように。
藤堂が、はっとしたように千夜の髪を見た。
湯気にゆらめく髪の端——淡く、桜の色を帯びている。
そして、腹の傷。
皆が土方に視線を向ける。
「傷がねぇなら、写しなんて持つ必要もねぇだろうに。」
土方がそう言った声は、低く静かで、どこか遠くを見つめるようだった。
誰かを責めるわけでもない。
ただ、目の前の事実を、そのまま言葉にした声音だった。
皆が、その言葉の意味をすぐに悟った。
——彼は、すでに知っていたのだ。
千夜の“腹の傷”も、名の由来も、そして、その向こうにある痛みも。
原田は、しばらく何も言わず、膝の上で拳を握りしめていた。
その背が、わずかに震えていることに、永倉が気づいたのは、ほんの一瞬のことだった。
「……っ」
声にならない吐息が、喉の奥で詰まったまま漏れる。
ぽたり、と。
落ちた雫が、畳に染みた。
誰も、それを責めなかった。
茶の香りの中、原田だけが、静かに顔を伏せていた。
千夜は、
「ありがとう。左之さん。」
ただそれだけを言い、手拭いを渡した。
原田は、それを見つめたまま、しばらく動けなかった。
掴んだ拳を、ゆっくりとほどいて、
震える指で、その布を受け取る。
言葉は出ない。
けれど、視線だけがまっすぐに千夜を見ていた。
千夜は、それにふっと小さく微笑んだ。
静かに、何も言わず、膝を正し直し、再び盆に手をかける。
立ち上がる気配を察した土方が、ほんの一瞬、目を伏せた。
何かを押し込むように、煙管の火を軽く叩く。
永倉がそっと視線を外し、藤堂が、少し目を赤くしながらも何も言わなかった。
斎藤だけが、静かに湯を啜っていた。
けれど、その指がほんの少しだけ湯呑を強く握っていたことを、誰も言わなかった。
自分の過去を聞き、泣いてくれる人がいる。
誰も、彼を茶化す人も居ない。
誰もが、それぞれのかたちで千夜の言葉を受け止め、原田の沈黙の涙に、何も言わず寄り添っていた。
(よっちゃんと、同じ。)
千夜は、湯気の向こうでそっと目を伏せた。
土方も、原田も。
誰もが、口にはしないまま、自分の“過去”に触れてくれた。
痛みを押しつけることもなく、ただ、黙って手を差し伸べてくれた。
誰も、私を責めなかった……
誰も、“壊れた私”を、避けなかった……
気づけば、頬を伝うものがあった。
温かくも冷たくもない、小さな雫。
千夜は、それに自分でも気づいていなかった。
静かに膝を正したまま、顔を上げることもなく。ただ、目元からこぼれた涙が、落ちる音すら立てずに、白い襟を濡らした。
誰も、それを見て咎めなかった。
湯気は揺れ、灯明がふわりとまたたいた。
誰かが湯を啜る音だけが、かすかに響いた。
それでも、確かにそこには——
誰かに流す涙ではなく、“自分のために”こぼれる涙があった。
何年ぶりかも分からない、それだけが、静かに頬を伝っていた。
その涙に気づいた者も、気づかぬふりをした。
誰も言葉をかけないまま、ただ湯の香が静かに漂い続けていた。
けれど、それでよかった。
その静けさこそが、今の千夜を包む、何よりもやさしいぬくもりだった。
——ここに居ていい。
そう思えたことが、
今夜、彼女にとっての救いだった。
灯明の揺れる静寂の中、千夜はそっと盆に手をかけた。
立ち上がる間際、その袖口に涙の痕が淡く滲んでいることに、土方は気づいていた。
そして、先ほど原田に手渡した手拭いが、もう千夜の手には残っていないことも。
土方は、何も言わず、そっと懐に手を差し入れた。
ごく自然な動きで、手拭いを一枚取り出すと、湯呑を持ち上げるような仕草で千夜の前へと差し出す。
「……これ」
それだけだった。
押しつけるでもなく、見返りを求めるでもなく。
千夜は、一瞬だけきょとんと目を見開いた。
けれど、すぐにその意味を理解して、小さく息を呑んだ。
「……ありがとうございます」
小さな声が、静かに漏れた。
受け取った手拭いを、強く握りしめるわけでもなく。
ただ、大切なものに触れるように、そっとその布に指を添えた。
土方はそれ以上、何も言わなかった。
湯気の向こうで煙管の火を整え、視線を逸らしたまま。
だがその仕草すらも、千夜にとっては、
何よりやさしい返事に思えた。
灯明が、二人の間に淡い光を落とす。
言葉よりも深く、静けさの中で交わされるやさしさが、そこには確かにあった。
そして千夜は、ほんの少しだけ、口元を綻ばせた。
ささやかなぬくもりを手に、再び静かに一礼すると、そっと部屋を後にする。
障子が閉まる音も、やわらかく、穏やかだった。
——その夜、涙の余韻とともに、
千夜の心に静かな光がひとつ、灯った気がした。