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第16話

――翌朝 屯所の食事処


湯気の立つ汁椀が並ぶ中、原田左之助はいつになく静かに飯を口に運んでいた。

その背中はどこか丸まり、言葉少な。


「……左之さん、汁、薄くないですか?」


藤堂が、何気ない風を装って問う。


「は? 別に。ふつうだろうが」


原田が渋く返すと、藤堂は目を細めて笑った。


「へえ。てっきり、昨夜の涙で塩気が抜けたのかと思いましたよ」


「おまっ……!」


思わず拳を振り上げかけた原田の肩を、永倉が肩越しにぽんと押さえた。


「まぁまぁ。ええじゃねぇか。

 心がやさしい証拠だよ、なぁ。涙もろい左之ってやつで」


「ふざけんな! そんなあだ名で呼んだら承知しねぇ!」


「でもほんとに、すごかったですよ。

 千夜ちゃんが『ありがとう』って言ったとき、左之さん、目ぇ真っ赤にして、“うっ”って……」


沖田が、お茶をすするふりをしながら口許で笑う。

「あれ見てちょっと感動しましたもん」


「……なんで全員して覚えてんだよ……」


原田はぐいと汁を飲み干した。

耳まで赤くなっているのが、誰の目にも明らかだった。


「昨夜は、左之が言葉にしただけのことだ」


ぽつりと斎藤が言った。


「……あの場にいた皆が、胸に詰まるものを感じていた。それを一番早くこぼしたのが、左之だっただけだ」


場が、静かになる。

誰も、笑いはせず、ただその言葉を飲み込むように聞いていた。


そして、いつの間にか席に現れていた千夜が、湯呑を一つ一つ配りながら、ふと口を開いた。


「左之さん。昨夜は、本当にありがとうございました」


原田は、箸を持ったまま固まる。


「……あの言葉で、私は救われました」


俯いたまま、原田はぽつりと言う。


「……ずるいな。お前……」


「はい?」


「そういうこと言われたら、こっちは……なんも言えねぇよ……」


そう言って、原田は膝の上で拳を握ったまま、もう一度、汁をすする。


「……くそ、なんで俺が泣いた話で、朝からこんなに集まってんだ……」


「それだけ皆、昨夜のことが心に残ってたってことじゃないですか?」


藤堂がニヤリと笑う。


「……惚れられて、よかったな。左之」


湯呑に口をつけたまま、土方がふっと口の端を上げて言った。


原田がぴくりと動きを止める。


「な、なに言ってやがる……っ!」


「文字どおりだ。感謝されて、惚れられて……よかったじゃねぇか」


その声はあくまで冷静。

けれど、それを聞いた千夜の指が、湯呑を持つ手の中でかすかに揺れた。


「惚れた。とは言ってないでしょう?

格好良かった。って話したのに。嫌味?」


「……さあな。」


土方は湯呑を机に戻し、ゆっくりと腰を上げた。煙管を手に取るでもなく、ただ立ち上がっただけなのに、空気がすっと変わる。


「風にでも当たってくる」


短くそう言い残して、障子の向こうへと歩いてゆく。


戸が開き、朝の光と涼やかな風が差し込む。ぱたり、と戸が閉まる音だけが残り、しばしの沈黙が落ちた。


「本当、すぐ逃げるんだから。」


千夜がぽつりと漏らした言葉に、誰もが一瞬きょとんとする。


藤堂が、茶碗を片手に小さく噴き出す。


「姐さん、それ、本人に言ってやってくださいよ。俺たちじゃ絶対に言えないやつですから」


「……ほんとにな」

永倉が苦笑交じりにうなずいた。


「それにしても、すげぇな千夜ちゃん。

あの人に“逃げた”なんて言えるやつ、今まで見たことねぇぞ」


「逃げたんじゃなくて、照れたんですよ」


沖田が茶をすする音を間に挟んで、さらりと言った。


「……あれは、煙草の火を点けるふりをして、自分の気持ちを落ち着かせに行ったんです」


「よく見てんな、お前……」


原田が呆れたように言うと、斎藤が静かにうなずいた。


「昨日の涙と同じだ。誰よりも早く、こぼれたのが土方さんだっただけのことだ」


場がしんと静まる。


そのなかで、千夜は笑っていた。

どこか寂しそうでもあり、けれど、穏やかで。


「……なら、行ってきます。」


そう言って、千夜もまた、盆を持ったまま席を立った。


障子の方へと向かうその背を、誰も止めなかった。むしろ、誰もが――


(行ってやれ)


という気持ちで見送っていた。


――壬生・縁側


朝の風が、まだどこか夜の余韻を残していた。

陽は昇りきらず、屋根の影が縁側に長く差し込んでいる。


土方は、煙管を指に挟んだまま、ただ黙って煙を見つめていた。

火はついているのに、吸う気配はない。


ふいに、畳を踏む音がする。

けれど、それはあまりにも静かで、空気を乱すほどではなかった。


背を向けたままの彼のそばへ、

千夜が静かに立ち止まる。


そして、言葉もなく――

そっと、けれど確かに土方の袖を引いた。


柔らかく、ほんの少しだけ。

けれど、その引き方には迷いがなかった。


土方は、ゆっくりと顔を向ける。

無言のまま視線を落とせば、袖をつまんだ千夜の細い指が見える。


「……何だよ」


低く、けれどどこか掠れた声。


千夜は袖を離さず、静かに微笑んだ。


「お茶、持ってこようとしたのに忘れちゃった。」


「お前なぁ………。言っとくが、俺は、逃げちゃいねぇよ。」


それでも、袖をつかまれたままの腕が、わずかに熱を帯びていくのを、土方自身が一番よくわかっていた。


千夜は何も言わなかった。

ただ、指先をゆっくりと離し、縁側に腰を下ろす。


隣に並ぶように、いつものように。そこに言葉はいらなかった。



千夜が懐から、そっと包煙草を取り出す。


白い和紙に丁寧に包まれた小さな束。

端はしっかりと折り込まれ、墨で「駿河葉」と細く書かれていた。


「……町で見つけたの。香り、よかったから」


そう言って、千夜はそれを土方の手のひらに乗せた。


「お前……それ、包煙草か」


「うん。よっちゃん、火が点きにくいの嫌がるから、ちゃんと乾いてるやつ選んだよ」


包みを受け取った土方は、わずかに目を伏せ、無言のまま和紙を開いた。

ふんわりと立ちのぼる、草と香の混じるやわらかな匂い。


「……悪くねぇな」


火を点け、煙を吸う。

煙が風に乗って流れた先に、千夜が静かに微笑んでいた。


ふたりの間には、それきり言葉はなかった。けれど、それでよかった。


千夜もそっと、懐から自分の煙管を取り出す。つややかな黒塗りの細身のものだ。


無言のまま、土方の包から葉を少し分けてもらい、指先で丁寧に詰める。


「……貸して」


千夜が手を差し出すと、土方は無言で火種を寄せた。


ぱち、と音を立てて火が灯り、千夜の煙管からも細い煙が立ちのぼる。


ふたりで並んで煙をくゆらせる縁側。

朝の風が、静かにそれを攫っていく。


言葉はなくても、煙とぬくもりが、その場をやさしく満たしていた。


千夜が、自分の煙管をふうっと細く吹かし、ぽつりと呟いた。


「……最初の男には、なれなかったけど」


土方が、ちらりと横目を向ける。

けれど、千夜はまっすぐ前を見たまま、微笑んでいた。


「だから――」


少しだけ、間をあける。

煙が風に溶けて、ふたりの視線の間にゆらめいた。


「……最後の男になってね。よっちゃん」


土方の煙管が、かすかに音を立てた。


何も言わず、視線を逸らすこともなく、ただ彼は煙を吸い込んだ。


そして、吐き出したその煙の奥で、わずかに、眉が揺れた。


「……ああ」


それは、小さく、けれど、誰にも真似できないほど真っ直ぐな返事だった。


「………真面目に返してくるとは、思わなかったんだけど。」


土方は小さく鼻を鳴らし、煙をふたたび吸い込んだ。


その横顔を、千夜はふいに、ちらりと見上げた。けれど、なにも言わなかった。


ただ、もう少しだけ。このまま煙のなかに、ふたりの時間が溶けていくのを、許したかった。



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