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第17話

――その少し奥。縁側から障子を隔てた、控えの間。


障子一枚を隔てた向こうで交わされた言葉のすべてを、幹部たちは聞いていた。


いや、聞こえてしまったという方が正しかった。


風が静まり、空気が澄んだ朝のこと。

閉じられた障子の隙間は、音を遮るにはあまりにも頼りない。


「……最後の男になってね、だとよ」


永倉が、湯呑を唇に当てたまま、噴き出しそうになっている。


「おーい、聞いたか? あれ……」


藤堂は床に突っ伏しながら、顔を真っ赤にして必死に笑いをこらえている。


「しっ……黙れ。……聞こえるだろ」


斎藤のひと声に、全員が一瞬だけ口を閉ざす。

けれど、その沈黙も、すぐに破られた。


「……真面目に返しやがったな、あの副長がよ……」


原田は感無量という顔で、ぽりぽりと頭をかいている。


「お前ら……あの場面、いざ当事者になったら言えんぞ」


沖田は煙草盆の灰をそっとつつきながら、どこか遠い目をしていた。


「でもさ……あんな顔、初めて見たな、あの人」


藤堂の呟きに、永倉と原田がふと顔を見合わせる。


「照れてるだけだって」

「いや、あれはもう……惚れてるってやつでしょ」


「ずっと前から、そうだったのかもしれんな……」


斎藤のその言葉には、誰も茶化すことなく、ただ小さく頷いた。


――あの人は、命よりも誇りを重んじる男だ。

その彼が、誰かの言葉に揺れて、応える。


それだけで、全てが伝わる気がした。


「……よかったな、土方さん」


誰ともなく漏れたその言葉に、皆が少しだけ、笑った。


――そのときだった。


縁側に吹く風が、ふいに冷たさを帯びた。


ふたりの間に流れていた穏やかな空気が、どこか――裂けるような気配を孕む。


足音が、砂利をかすめて走る音に変わる。


控えの間では、茶をすすっていた沖田の指がぴくりと止まった。


永倉が眉を寄せ、斎藤は無言で立ち上がる。


ひゅん。

空気を裂く音が、鋭く一閃し、沖田の目の前に突き刺さる。


障子の向こうから、笑う声がした。


「……ずいぶん、甘い顔してるじゃないの、あんたたち」


それは、梅の声だった。


「うちの姫があんな台詞吐いたら……“最後の男になって”だなんて、普通はとっくに攫って逃げてるわよ」


障子がするりと開かれ、艶やかな着物に身を包んだ梅が現れる。その表情は、笑っていた。


だが――その笑みの奥には、明らかな獣のような気配が潜んでいた。


「————梅姐。」


唇に指先を添えてくすくすと笑うその女――梅。


だが、その笑みの奥に潜んだ“気配”を、幹部たちは即座に察していた。


誰よりも早く、斎藤が身を起こした。

視線は、わずかに鋭く絞られている。


永倉は眉を寄せ、無意識に腰のあたりへ手が伸びる。


原田がぽつりと呟く。


「……なんだ、あの女……」


藤堂が思わず耳打ちする。


「ねぇ……“梅姐”って言ってたよな? 千夜ちゃんの……」


「姐さん……っつって、あんなヤツ、見たことねぇぞ……」


沖田は表情を崩さぬまま、煙管を持ち直していた。


――全員、感じていた。


一線超えた強者の気配。

“喰う”者の気配。


しかもそれが、女の皮をかぶって、まるで遊ぶように此処に現れた。


「……どうも、はじめまして。浪士組の皆さん?」


梅は優雅に一礼した。

その仕草すら、艶めかしさと威圧感が入り混じっている。


「わたくし、吉原……、あ、今は島原の女将にして、“君菊”の師匠……兼、あたしが一番愛してる小娘の、“育ての親”でしてねぇ」


笑いながらそう名乗った瞬間、

控えの間の空気が、ぐっと引き締まる。


「……君菊って」


永倉が口にした名に、藤堂が思わず横目で千夜を見た。


「それ……"姐さん”のことじゃ」


「そうよ?」


梅は、さらりと言った。


「うちの姫は、君菊であり、椿であり、千夜。

 あたしが拾って、あたしが鍛えた。

 あたし以外、誰にも触らせたくなかったけど――」


目が、鋭くなる。


「……あんたら、ずいぶん好いように馴染んでるわね?」


全員が、言葉を失った。

対照的な二人を交互に見てしまう男達。


「————三日、休ませると言ったはずだ。」


静かに、けれど確かに空気を切り裂くような声だった。

縁側に立つ土方歳三が、じっと梅を見据えている。その目に揺れはない。


「その目、惚れそうやわ。」


梅は、面白がるように目を細め、口元に指を添える。


艶めいた声音。

まるで恋を囁くように、けれどその奥に潜むのは、女将として数多の死線を潜った者だけが持つ色気と猛毒だった。


「……惚れられても困るな。

お前の弟子で手一杯なんでな。」


土方の言葉に、梅の目がすっと細くなった。


「……へぇ。

 “手一杯”って言葉、よく似合うわね。

 まるで毒にあてられてるような顔してるもの」


笑っている。

けれど、梅の笑みは試すように尖っていた。


「千夜は、甘く見たら喰われるわよ。

触れるなら、肌ごと飲み込むくらいの覚悟でいかんと」


「それは助言か、牽制か?」


土方は表情を変えずに問う。


「そんな事真面目に言ってる場合じゃないだろ?これ。」


原田が皆の言葉を代弁していく。


そんな中で、土方は静かに煙を吐き出す。


「おい、覚えとけ。梅は気を抜くと、抱こうとしてくる」


「……は?」


永倉が聞き返した。


「気に入られたら、最後だ。あれは女も男も、喰う」


土方の声音はあくまで静かだったが、その目は警告の色を滲ませていた。


「つまり……千夜ちゃんも?」


「本命が千夜かもな。」


「よっちゃんっ!鳥肌立ったでしょ?」


黒い影が数本、しゅるりと空を裂く。よく見れば、それは仕込まれた苦無――しかも的確に、千夜の髪飾り、袖口、足元を狙って放たれていた。


「ちょっ……!」


藤堂が声を上げるより早く、千夜の身体が、ふわりと宙へと舞い上がる。


片足を軽く蹴り上げるように跳ね上がったかと思うと、そのまま、まるで蝶が舞うかのように空中で身を翻した。


着物の裾が花びらのようにひるがえり、数本の苦無が風を裂いて通り過ぎる。

何事もなかったかのように、千夜は縁側へふわりと着地した。


湯呑に添えていた手も乱れず、笑みのひとつさえ、崩れていない。


「……今の、避けたのか?」


永倉が呆然と呟き、原田がぽかんと口を開けたまま。



苦無の残響が、まだ空を裂いている。


 その瞬間だった。


 千夜が、ふと胸を押さえた。


 「っ……」


苦無を避けた身体の動きが、わずかに乱れる。

それは恐怖ではない。誰よりも強く、誰よりも速く舞える彼女が、ふと、その身を固くした。


 ……いや、違う。


痛みに、耐えている。


 「千夜——」


咄嗟に呼んだその声に応じる間もなく、千夜の身体が傾ぎかける。


土方は即座に、その細い肩を腕に引き寄せるように抱きとめた。ぐ、と彼女の前に立ちはだかり、鋭く梅を睨み据える。



 「やめろ。……今のあいつに、無茶は通らん」


その声音は静かだが、確かに怒気を孕んでいた。


梅の表情がわずかに動く。

 だが、次の瞬間——


キン、と甲高い音が跳ねた。

刹那、もう一本の苦無が梅の袖から滑るように放たれていた。目にも止まらぬ速さ。

狙いは、千夜の喉元——。

その刃を、何かが弾いた。


 「ッ……!」

皆が立ち尽くす。


だが、その刃が届くよりも早く、

梁の上から黒い影がひとつ、音もなく降りていた。


懐から放たれた銀の閃き。

それは、正確に苦無の軌道を読み切り、迎撃した。


 カシャンッ——


金属同士の激突音が、冷たい空気を震わせる。

刃と刃が交差した刹那。

その影が、静かに土方と千夜の前に降り立った。


 「……姐さん。冗談にしちゃ、度が過ぎとるやろ」


 低く、関西訛りを含んだ声。


振り返れば、そこに立っていたのは——


山崎烝だった。


その黒装束の男は、懐の小太刀をすっと引き、まるで舞うように収める。彼の目は、怒気に染まることなく、ただ淡々と、梅を見据えていた。


「ちぃの肌に、一つでも傷がついたら。

  あんたでも、許さへん」


 梅の笑みが、わずかに止まった。


だが、それは怯みではない。

むしろ楽しげな興味の色を帯びていた。


「——あらあら。見ないうちに、えらく男になったわね、烝」


「姫さんの従者や。側に仕えるのが普通やろ。それとも、同業者やのに、仕える意味すら忘れたか?梅。」


その声は、風のように静かで、だが誰にも真似できない“忠誠”の響きを持っていた。

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