――その少し奥。縁側から障子を隔てた、控えの間。
障子一枚を隔てた向こうで交わされた言葉のすべてを、幹部たちは聞いていた。
いや、聞こえてしまったという方が正しかった。
風が静まり、空気が澄んだ朝のこと。
閉じられた障子の隙間は、音を遮るにはあまりにも頼りない。
「……最後の男になってね、だとよ」
永倉が、湯呑を唇に当てたまま、噴き出しそうになっている。
「おーい、聞いたか? あれ……」
藤堂は床に突っ伏しながら、顔を真っ赤にして必死に笑いをこらえている。
「しっ……黙れ。……聞こえるだろ」
斎藤のひと声に、全員が一瞬だけ口を閉ざす。
けれど、その沈黙も、すぐに破られた。
「……真面目に返しやがったな、あの副長がよ……」
原田は感無量という顔で、ぽりぽりと頭をかいている。
「お前ら……あの場面、いざ当事者になったら言えんぞ」
沖田は煙草盆の灰をそっとつつきながら、どこか遠い目をしていた。
「でもさ……あんな顔、初めて見たな、あの人」
藤堂の呟きに、永倉と原田がふと顔を見合わせる。
「照れてるだけだって」
「いや、あれはもう……惚れてるってやつでしょ」
「ずっと前から、そうだったのかもしれんな……」
斎藤のその言葉には、誰も茶化すことなく、ただ小さく頷いた。
――あの人は、命よりも誇りを重んじる男だ。
その彼が、誰かの言葉に揺れて、応える。
それだけで、全てが伝わる気がした。
「……よかったな、土方さん」
誰ともなく漏れたその言葉に、皆が少しだけ、笑った。
――そのときだった。
縁側に吹く風が、ふいに冷たさを帯びた。
ふたりの間に流れていた穏やかな空気が、どこか――裂けるような気配を孕む。
足音が、砂利をかすめて走る音に変わる。
控えの間では、茶をすすっていた沖田の指がぴくりと止まった。
永倉が眉を寄せ、斎藤は無言で立ち上がる。
ひゅん。
空気を裂く音が、鋭く一閃し、沖田の目の前に突き刺さる。
障子の向こうから、笑う声がした。
「……ずいぶん、甘い顔してるじゃないの、あんたたち」
それは、梅の声だった。
「うちの姫があんな台詞吐いたら……“最後の男になって”だなんて、普通はとっくに攫って逃げてるわよ」
障子がするりと開かれ、艶やかな着物に身を包んだ梅が現れる。その表情は、笑っていた。
だが――その笑みの奥には、明らかな獣のような気配が潜んでいた。
「————梅姐。」
唇に指先を添えてくすくすと笑うその女――梅。
だが、その笑みの奥に潜んだ“気配”を、幹部たちは即座に察していた。
誰よりも早く、斎藤が身を起こした。
視線は、わずかに鋭く絞られている。
永倉は眉を寄せ、無意識に腰のあたりへ手が伸びる。
原田がぽつりと呟く。
「……なんだ、あの女……」
藤堂が思わず耳打ちする。
「ねぇ……“梅姐”って言ってたよな? 千夜ちゃんの……」
「姐さん……っつって、あんなヤツ、見たことねぇぞ……」
沖田は表情を崩さぬまま、煙管を持ち直していた。
――全員、感じていた。
一線超えた強者の気配。
“喰う”者の気配。
しかもそれが、女の皮をかぶって、まるで遊ぶように此処に現れた。
「……どうも、はじめまして。浪士組の皆さん?」
梅は優雅に一礼した。
その仕草すら、艶めかしさと威圧感が入り混じっている。
「わたくし、吉原……、あ、今は島原の女将にして、“君菊”の師匠……兼、あたしが一番愛してる小娘の、“育ての親”でしてねぇ」
笑いながらそう名乗った瞬間、
控えの間の空気が、ぐっと引き締まる。
「……君菊って」
永倉が口にした名に、藤堂が思わず横目で千夜を見た。
「それ……"姐さん”のことじゃ」
「そうよ?」
梅は、さらりと言った。
「うちの姫は、君菊であり、椿であり、千夜。
あたしが拾って、あたしが鍛えた。
あたし以外、誰にも触らせたくなかったけど――」
目が、鋭くなる。
「……あんたら、ずいぶん好いように馴染んでるわね?」
全員が、言葉を失った。
対照的な二人を交互に見てしまう男達。
「————三日、休ませると言ったはずだ。」
静かに、けれど確かに空気を切り裂くような声だった。
縁側に立つ土方歳三が、じっと梅を見据えている。その目に揺れはない。
「その目、惚れそうやわ。」
梅は、面白がるように目を細め、口元に指を添える。
艶めいた声音。
まるで恋を囁くように、けれどその奥に潜むのは、女将として数多の死線を潜った者だけが持つ色気と猛毒だった。
「……惚れられても困るな。
お前の弟子で手一杯なんでな。」
土方の言葉に、梅の目がすっと細くなった。
「……へぇ。
“手一杯”って言葉、よく似合うわね。
まるで毒にあてられてるような顔してるもの」
笑っている。
けれど、梅の笑みは試すように尖っていた。
「千夜は、甘く見たら喰われるわよ。
触れるなら、肌ごと飲み込むくらいの覚悟でいかんと」
「それは助言か、牽制か?」
土方は表情を変えずに問う。
「そんな事真面目に言ってる場合じゃないだろ?これ。」
原田が皆の言葉を代弁していく。
そんな中で、土方は静かに煙を吐き出す。
「おい、覚えとけ。梅は気を抜くと、抱こうとしてくる」
「……は?」
永倉が聞き返した。
「気に入られたら、最後だ。あれは女も男も、喰う」
土方の声音はあくまで静かだったが、その目は警告の色を滲ませていた。
「つまり……千夜ちゃんも?」
「本命が千夜かもな。」
「よっちゃんっ!鳥肌立ったでしょ?」
黒い影が数本、しゅるりと空を裂く。よく見れば、それは仕込まれた苦無――しかも的確に、千夜の髪飾り、袖口、足元を狙って放たれていた。
「ちょっ……!」
藤堂が声を上げるより早く、千夜の身体が、ふわりと宙へと舞い上がる。
片足を軽く蹴り上げるように跳ね上がったかと思うと、そのまま、まるで蝶が舞うかのように空中で身を翻した。
着物の裾が花びらのようにひるがえり、数本の苦無が風を裂いて通り過ぎる。
何事もなかったかのように、千夜は縁側へふわりと着地した。
湯呑に添えていた手も乱れず、笑みのひとつさえ、崩れていない。
「……今の、避けたのか?」
永倉が呆然と呟き、原田がぽかんと口を開けたまま。
苦無の残響が、まだ空を裂いている。
その瞬間だった。
千夜が、ふと胸を押さえた。
「っ……」
苦無を避けた身体の動きが、わずかに乱れる。
それは恐怖ではない。誰よりも強く、誰よりも速く舞える彼女が、ふと、その身を固くした。
……いや、違う。
痛みに、耐えている。
「千夜——」
咄嗟に呼んだその声に応じる間もなく、千夜の身体が傾ぎかける。
土方は即座に、その細い肩を腕に引き寄せるように抱きとめた。ぐ、と彼女の前に立ちはだかり、鋭く梅を睨み据える。
「やめろ。……今のあいつに、無茶は通らん」
その声音は静かだが、確かに怒気を孕んでいた。
梅の表情がわずかに動く。
だが、次の瞬間——
キン、と甲高い音が跳ねた。
刹那、もう一本の苦無が梅の袖から滑るように放たれていた。目にも止まらぬ速さ。
狙いは、千夜の喉元——。
その刃を、何かが弾いた。
「ッ……!」
皆が立ち尽くす。
だが、その刃が届くよりも早く、
梁の上から黒い影がひとつ、音もなく降りていた。
懐から放たれた銀の閃き。
それは、正確に苦無の軌道を読み切り、迎撃した。
カシャンッ——
金属同士の激突音が、冷たい空気を震わせる。
刃と刃が交差した刹那。
その影が、静かに土方と千夜の前に降り立った。
「……姐さん。冗談にしちゃ、度が過ぎとるやろ」
低く、関西訛りを含んだ声。
振り返れば、そこに立っていたのは——
山崎烝だった。
その黒装束の男は、懐の小太刀をすっと引き、まるで舞うように収める。彼の目は、怒気に染まることなく、ただ淡々と、梅を見据えていた。
「ちぃの肌に、一つでも傷がついたら。
あんたでも、許さへん」
梅の笑みが、わずかに止まった。
だが、それは怯みではない。
むしろ楽しげな興味の色を帯びていた。
「——あらあら。見ないうちに、えらく男になったわね、烝」
「姫さんの従者や。側に仕えるのが普通やろ。それとも、同業者やのに、仕える意味すら忘れたか?梅。」
その声は、風のように静かで、だが誰にも真似できない“忠誠”の響きを持っていた。