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第18話

「姫さんの従者や。側に仕えるのが普通やろ。それとも、同業者やのに、仕える意味すら忘れたか? 梅。」


その声は、風のように静かで、だが誰にも真似できない“忠誠”の響きを持っていた。


その場の空気が、ひときわ深く凍りつく。


控えの間の障子越しでも、その重みははっきりと伝わった。


「……従者、だと?」


原田が、ぽつりと呟く。

その声音には、驚きよりも先に、なぜか納得が混じっていた。


皆が姫だったと思い出し、それ以上何も言えなかった。


「ありがとう、烝。………ごめん。」


その一言には、深い意味があった。


山崎は黙っていたが、わずかに眉を下げた。


そして、すっと膝を折って千夜と視線を揃えるように屈むと、ぽつりと呟いた。


「自分シンドイのに、謝る必要なんないやろに。」


その声音には、咎めでも、責めでもない。

ただただ、あたたかい叱咤と、揺るぎない信頼がこもっていた。


千夜の睫毛が、ふるりと揺れた。


けれど、涙はこぼれない。


代わりに、ごく小さな声で、笑うように言った。


「……そう言うときだけ、ちょっと怒るよね」


「そら怒るわ。そないな顔されたら、俺まで苦しくなる」


静かな、風のような会話だった。


そのやりとりを聞いて、土方は、ゆっくりと、まるで確かめるように、彼女の頭に手を置いた。


その大きな手が、そっと髪をなでる。


千夜は、それを受けるように瞼を閉じた。

わずかに口元を緩めて――けれど、またぽつりと呟いた。


「……よっちゃんも、ごめん」


言葉は、かすかだった。

けれど、その声が宿す想いの重さに、土方の手が一瞬だけ止まる。


「……なんで、謝る」


低く、抑えた声。


それは、叱るようでいて、苦しむようでもあった。千夜は、ほんの少しだけ首を振る。


「巻き込んで、危ない目にあわせた。……でも……」


言葉が続かない。

連なる咳に、千夜はそっと手を口元に添えた。


けれど、すぐにそれさえも止めるように、肩をすくめて背を丸めていく。


「……っ、けほ、……っ……」


堪えようとしたのか、抑えたその咳は、逆に苦しげに胸を揺らしていた。

まるで、自分の弱ささえ音にすることが怖いとでも言うように。


「……千夜」


土方の声が、静かに落ちる。


その手が、彼女の肩へとすべり、そっと抱き寄せた。



――そのとき。


「せや。浅野先生連れて来たんやったわ」


不意に、梅の声音が落とされた。


その場にふと、奇妙な“間”が生まれる。


唐突なひと言に、幹部たちが目を見合わせた。

永倉が、ひときわ眉をひそめる。


「……え?」


藤堂が首を傾げる。

原田は「誰だよ……」と唇を動かしかけて止める。


土方が千夜を抱き上げ、とりあえず縁側へと下ろしていく。


「浅野薫。千夜がよく診てもらってる医者だ。」


その名に、幹部たちの顔が揃って動く。


「……医者、って。まさか、あの“変わり者”って噂の?」


永倉が首をひねる。


「うちの弟が江戸で見てもらったとき、わざわざ毒見して薬渡してきたってやつだろ……」


原田が思い出したように顔をしかめる。


「それで“あの人は喋る漢方”って、変なあだ名ついてた医者だよな?京に来てたの?あの人」


藤堂は首を傾げたまま、障子の向こうを見やる。


すると――


「……あのな。患者の前で妙な呼び方すんじゃねえよ、バカ共が」


低い声が、廊下の奥から淡々と落とされた。


しゅっ、と薬草の香りが風に乗ってくる。


廊下の陰から現れたのは、白衣に羽織を引っかけ、肩に薬包を提げた細身の男。


髪は後ろで束ね、片目にかかる前髪の奥から、鋭い目が覗いている。


「……顔色、最悪だな。喉も焼けてるし、無理してたんだろ。倒れなかったのが奇跡だな、これ」


気だるげな足取りのまま、浅野は縁側へと歩み寄り、そのまましゃがみ込んで千夜を見下ろす。


千夜は、目を開けた。浅野はすぐさま彼女の手首を取って脈を測る。


「熱もあるし、脈も乱れてる。……これで“平気”って言うなら、医者やめるわ」


懐から包みを取り出し、薬を取り分ける。


「ほら、喉の薬。噛むな、ゆっくり飲め。苦くても文句言うなよ。可愛い顔がもっと歪む」


その一言に、控えの間からざわりと空気が動く。


「……今、さらっととんでもないこと言ったぞ」


藤堂が震える声で囁く。

斎藤は腕を組んだまま、表情一つ変えずに言う。


「医者の特権だろうな」


千夜は薬を受け取りながら、微かに頷く。


「……相変わらず、口が……悪い……」


「うるさい。口がきける元気があるなら大丈夫だな。……寝ろ、千夜」


その声音だけは、不思議と優しかった。


土方がその様子をじっと見つめていると、浅野の視線がぴたりと合う。


「腹違いの兄って思えば平気だが、サラッと可愛いとかいってんじゃねぇ。」


その言葉に、何かが明らかに止まった。


永倉が縁側に腰をつけようとしたまま固まり、藤堂は半笑いで硬直し、原田は「……今の、聞いていいやつか?」と顔だけで訴えている。


「……先生」


千夜がかすかに呼びかけた。


その声に浅野が目を向ける。


「なんて?」


淡々とした問い返し。だが、その奥には、少しだけ期待するような響きがあった。


千夜はほんの一瞬、視線を土方へ向けた。


土方は、黙っていた。

ただ、何も言わずにその場に立ち、淡々とした顔をしている――のに、どういうわけか。


……無言の圧がすごい。


(うわ、……こわ)


千夜の睫毛がふるふると震える。

そして、観念したように、ぼそりと呟いた。


「………薫にぃ……」


その一言が落ちた瞬間。


藤堂が盛大にむせた。

「けほっ、……ちょっ……あ、あんな可愛い呼び方すんのかよ……!」


原田が笑いをこらえて机に突っ伏し、永倉が真顔のまま肩を震わせている。


「……圧、すごかったもんな」


「見えねぇだけで、完全に“圧”で押し切ったやつだ、アレ……」


斎藤は、肩を竦めただけで黙っていた。


一方そのころ、浅野は。


(……っ)


あからさまに耳の裏まで赤くなりながら、やや目を逸らした。


「……別に、そう呼べって言ったわけじゃねぇんだけどな」


口ではそう言いつつ、声が微妙に引きつっている。土方がちらりと彼に視線をやる。


「……なら、照れてんじゃねぇよ。」


その声に、浅野はますます目を逸らす。

そして土方は、口元を僅かに歪め――それだけで、すべてを済ませた。


「……呼んだ私が、照れそうなんだけど。」


そう呟いた千夜は、薬を手のひらに乗せたまま、そっと目を伏せた。


そして次の瞬間――


土方の袖が、ほんのかすかに引かれる。


力のない、けれど確かな意思を持った、小さな指先。その手が、彼の袖をそっと摘むようにして引いたのだ。土方は驚く素振りも見せず、ただ静かにその手を見下ろす。


土方が千夜の手をそっと包んだ、その直後だった。


その場に、ふわりと艶を帯びた声が落ちる。


「――仮病やないみたいやね」


言ったのは、梅だった。


柱に寄りかかるように立ったまま、扇を片手に、ゆるりと瞳を細めている。


場にいた誰もが、その一言の“色”を読み取ろうとした。


嘲りでも、責めでもない。

けれど、あまりに的確で、あまりに“見えている”物言い。


梅の言葉が落ちた瞬間、浅野は再びしゃがみ直し、薬包を一つ指先で回しながら言った。


「――ああ。仮病どころか、これ以上悪化してたら、下手すりゃ呼吸止まってたな」


その声は静かだったが、場にいた全員の背筋をぴんと伸ばすのに十分だった。


「……先生?」


永倉が訝しげに問う。

浅野は千夜の脈を測る指をそのままに、目だけを彼に向けた。


「喉の腫れ、熱の籠もり、呼吸の浅さ。全部、気管支に来てる。――喘息の再燃だ」


「喘息……」


原田が唸るように繰り返すと、藤堂も顔を曇らせた。


「子供の病気じゃないのか、それ」


浅野は首を横に振る。


「体質による。子供のころに発症しても、成長とともに落ち着くこともあるが、治ったわけじゃない。何かをきっかけに再燃する」


そう言って、千夜の肩をそっと押しながら、横たわらせる。


「千夜の場合、熱と咳で肺の気道が炎症を起こしてる。無理して話し続けてたせいで、声帯も腫れてる。……寝てても突然発作が出る可能性がある」


「……発作って、そんな……」


藤堂の口調が低くなる。


浅野は頷く。


「ひどい発作なら、息ができないどころか、そのまま窒息もある。……“音がしない咳”が出たら、一番危ない」


その一言に、控えの間の空気がはっきりと変わった。


幹部たちの顔から、冗談や軽口が完全に消えていく。


「自分がよくわかってるだろ?

医術だって出来るんだから。なぁ、千夜。」


浅野の言葉に、千夜はかすかに目を細めた。

その声音には、叱責よりもむしろ、姉弟のような親愛と心配が滲んでいた。


「……分かってる。……でも、放っておけなかったの。」


千夜の囁きは、弱いけれど、芯の通った声だった。

浅野は、ため息をひとつ吐く。


「そうやって“自分が動けば解決する”って考えるの、医者の悪い癖なんだよ。

お前は医者でもあるけど、患者でもあるんだ。――それを忘れるな。」


藤堂が思わず首を傾げる。


「え、千夜ちゃんって医術できるの?」


原田が、目を丸くした。


「マジかよ……。刀だけじゃなくて薬のこともわかるのか?」


千夜は少し困ったように微笑む。


「……昔、梅姐さんや……烝に教わったの。

毒草と薬草の見分け方、脈の取り方、包帯の巻き方くらい……」


「おお、それだけできりゃ十分だろ!」

原田は感心して頷いたが、浅野がすぐさま口を挟む。


「知識があるならなおさらだ。自分の限界もちゃんと理解しろ、千夜。」


その真剣な声に、千夜は黙って頷いた。

その頷きを確認して、浅野は薬を彼女の口元に持っていく。


「ほら、もう余計なこと考えずに飲め。今は回復が仕事だ。」


千夜は薬を口に含み、ゆっくりと喉を鳴らした。

その後、目を閉じて、小さく吐息を落とす。


――ほんの一瞬、場がしんと静まった。


土方はその様子を見つめながら、そっと彼女の耳元に顔を寄せる。


「……今は、休め。全部、俺が見てる。」


その低く深い声に、千夜はかすかに口元を緩めると、ゆるやかにまどろみに落ちていった。



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