「姫さんの従者や。側に仕えるのが普通やろ。それとも、同業者やのに、仕える意味すら忘れたか? 梅。」
その声は、風のように静かで、だが誰にも真似できない“忠誠”の響きを持っていた。
その場の空気が、ひときわ深く凍りつく。
控えの間の障子越しでも、その重みははっきりと伝わった。
「……従者、だと?」
原田が、ぽつりと呟く。
その声音には、驚きよりも先に、なぜか納得が混じっていた。
皆が姫だったと思い出し、それ以上何も言えなかった。
「ありがとう、烝。………ごめん。」
その一言には、深い意味があった。
山崎は黙っていたが、わずかに眉を下げた。
そして、すっと膝を折って千夜と視線を揃えるように屈むと、ぽつりと呟いた。
「自分シンドイのに、謝る必要なんないやろに。」
その声音には、咎めでも、責めでもない。
ただただ、あたたかい叱咤と、揺るぎない信頼がこもっていた。
千夜の睫毛が、ふるりと揺れた。
けれど、涙はこぼれない。
代わりに、ごく小さな声で、笑うように言った。
「……そう言うときだけ、ちょっと怒るよね」
「そら怒るわ。そないな顔されたら、俺まで苦しくなる」
静かな、風のような会話だった。
そのやりとりを聞いて、土方は、ゆっくりと、まるで確かめるように、彼女の頭に手を置いた。
その大きな手が、そっと髪をなでる。
千夜は、それを受けるように瞼を閉じた。
わずかに口元を緩めて――けれど、またぽつりと呟いた。
「……よっちゃんも、ごめん」
言葉は、かすかだった。
けれど、その声が宿す想いの重さに、土方の手が一瞬だけ止まる。
「……なんで、謝る」
低く、抑えた声。
それは、叱るようでいて、苦しむようでもあった。千夜は、ほんの少しだけ首を振る。
「巻き込んで、危ない目にあわせた。……でも……」
言葉が続かない。
連なる咳に、千夜はそっと手を口元に添えた。
けれど、すぐにそれさえも止めるように、肩をすくめて背を丸めていく。
「……っ、けほ、……っ……」
堪えようとしたのか、抑えたその咳は、逆に苦しげに胸を揺らしていた。
まるで、自分の弱ささえ音にすることが怖いとでも言うように。
「……千夜」
土方の声が、静かに落ちる。
その手が、彼女の肩へとすべり、そっと抱き寄せた。
――そのとき。
「せや。浅野先生連れて来たんやったわ」
不意に、梅の声音が落とされた。
その場にふと、奇妙な“間”が生まれる。
唐突なひと言に、幹部たちが目を見合わせた。
永倉が、ひときわ眉をひそめる。
「……え?」
藤堂が首を傾げる。
原田は「誰だよ……」と唇を動かしかけて止める。
土方が千夜を抱き上げ、とりあえず縁側へと下ろしていく。
「浅野薫。千夜がよく診てもらってる医者だ。」
その名に、幹部たちの顔が揃って動く。
「……医者、って。まさか、あの“変わり者”って噂の?」
永倉が首をひねる。
「うちの弟が江戸で見てもらったとき、わざわざ毒見して薬渡してきたってやつだろ……」
原田が思い出したように顔をしかめる。
「それで“あの人は喋る漢方”って、変なあだ名ついてた医者だよな?京に来てたの?あの人」
藤堂は首を傾げたまま、障子の向こうを見やる。
すると――
「……あのな。患者の前で妙な呼び方すんじゃねえよ、バカ共が」
低い声が、廊下の奥から淡々と落とされた。
しゅっ、と薬草の香りが風に乗ってくる。
廊下の陰から現れたのは、白衣に羽織を引っかけ、肩に薬包を提げた細身の男。
髪は後ろで束ね、片目にかかる前髪の奥から、鋭い目が覗いている。
「……顔色、最悪だな。喉も焼けてるし、無理してたんだろ。倒れなかったのが奇跡だな、これ」
気だるげな足取りのまま、浅野は縁側へと歩み寄り、そのまましゃがみ込んで千夜を見下ろす。
千夜は、目を開けた。浅野はすぐさま彼女の手首を取って脈を測る。
「熱もあるし、脈も乱れてる。……これで“平気”って言うなら、医者やめるわ」
懐から包みを取り出し、薬を取り分ける。
「ほら、喉の薬。噛むな、ゆっくり飲め。苦くても文句言うなよ。可愛い顔がもっと歪む」
その一言に、控えの間からざわりと空気が動く。
「……今、さらっととんでもないこと言ったぞ」
藤堂が震える声で囁く。
斎藤は腕を組んだまま、表情一つ変えずに言う。
「医者の特権だろうな」
千夜は薬を受け取りながら、微かに頷く。
「……相変わらず、口が……悪い……」
「うるさい。口がきける元気があるなら大丈夫だな。……寝ろ、千夜」
その声音だけは、不思議と優しかった。
土方がその様子をじっと見つめていると、浅野の視線がぴたりと合う。
「腹違いの兄って思えば平気だが、サラッと可愛いとかいってんじゃねぇ。」
その言葉に、何かが明らかに止まった。
永倉が縁側に腰をつけようとしたまま固まり、藤堂は半笑いで硬直し、原田は「……今の、聞いていいやつか?」と顔だけで訴えている。
「……先生」
千夜がかすかに呼びかけた。
その声に浅野が目を向ける。
「なんて?」
淡々とした問い返し。だが、その奥には、少しだけ期待するような響きがあった。
千夜はほんの一瞬、視線を土方へ向けた。
土方は、黙っていた。
ただ、何も言わずにその場に立ち、淡々とした顔をしている――のに、どういうわけか。
……無言の圧がすごい。
(うわ、……こわ)
千夜の睫毛がふるふると震える。
そして、観念したように、ぼそりと呟いた。
「………薫にぃ……」
その一言が落ちた瞬間。
藤堂が盛大にむせた。
「けほっ、……ちょっ……あ、あんな可愛い呼び方すんのかよ……!」
原田が笑いをこらえて机に突っ伏し、永倉が真顔のまま肩を震わせている。
「……圧、すごかったもんな」
「見えねぇだけで、完全に“圧”で押し切ったやつだ、アレ……」
斎藤は、肩を竦めただけで黙っていた。
一方そのころ、浅野は。
(……っ)
あからさまに耳の裏まで赤くなりながら、やや目を逸らした。
「……別に、そう呼べって言ったわけじゃねぇんだけどな」
口ではそう言いつつ、声が微妙に引きつっている。土方がちらりと彼に視線をやる。
「……なら、照れてんじゃねぇよ。」
その声に、浅野はますます目を逸らす。
そして土方は、口元を僅かに歪め――それだけで、すべてを済ませた。
「……呼んだ私が、照れそうなんだけど。」
そう呟いた千夜は、薬を手のひらに乗せたまま、そっと目を伏せた。
そして次の瞬間――
土方の袖が、ほんのかすかに引かれる。
力のない、けれど確かな意思を持った、小さな指先。その手が、彼の袖をそっと摘むようにして引いたのだ。土方は驚く素振りも見せず、ただ静かにその手を見下ろす。
土方が千夜の手をそっと包んだ、その直後だった。
その場に、ふわりと艶を帯びた声が落ちる。
「――仮病やないみたいやね」
言ったのは、梅だった。
柱に寄りかかるように立ったまま、扇を片手に、ゆるりと瞳を細めている。
場にいた誰もが、その一言の“色”を読み取ろうとした。
嘲りでも、責めでもない。
けれど、あまりに的確で、あまりに“見えている”物言い。
梅の言葉が落ちた瞬間、浅野は再びしゃがみ直し、薬包を一つ指先で回しながら言った。
「――ああ。仮病どころか、これ以上悪化してたら、下手すりゃ呼吸止まってたな」
その声は静かだったが、場にいた全員の背筋をぴんと伸ばすのに十分だった。
「……先生?」
永倉が訝しげに問う。
浅野は千夜の脈を測る指をそのままに、目だけを彼に向けた。
「喉の腫れ、熱の籠もり、呼吸の浅さ。全部、気管支に来てる。――喘息の再燃だ」
「喘息……」
原田が唸るように繰り返すと、藤堂も顔を曇らせた。
「子供の病気じゃないのか、それ」
浅野は首を横に振る。
「体質による。子供のころに発症しても、成長とともに落ち着くこともあるが、治ったわけじゃない。何かをきっかけに再燃する」
そう言って、千夜の肩をそっと押しながら、横たわらせる。
「千夜の場合、熱と咳で肺の気道が炎症を起こしてる。無理して話し続けてたせいで、声帯も腫れてる。……寝てても突然発作が出る可能性がある」
「……発作って、そんな……」
藤堂の口調が低くなる。
浅野は頷く。
「ひどい発作なら、息ができないどころか、そのまま窒息もある。……“音がしない咳”が出たら、一番危ない」
その一言に、控えの間の空気がはっきりと変わった。
幹部たちの顔から、冗談や軽口が完全に消えていく。
「自分がよくわかってるだろ?
医術だって出来るんだから。なぁ、千夜。」
浅野の言葉に、千夜はかすかに目を細めた。
その声音には、叱責よりもむしろ、姉弟のような親愛と心配が滲んでいた。
「……分かってる。……でも、放っておけなかったの。」
千夜の囁きは、弱いけれど、芯の通った声だった。
浅野は、ため息をひとつ吐く。
「そうやって“自分が動けば解決する”って考えるの、医者の悪い癖なんだよ。
お前は医者でもあるけど、患者でもあるんだ。――それを忘れるな。」
藤堂が思わず首を傾げる。
「え、千夜ちゃんって医術できるの?」
原田が、目を丸くした。
「マジかよ……。刀だけじゃなくて薬のこともわかるのか?」
千夜は少し困ったように微笑む。
「……昔、梅姐さんや……烝に教わったの。
毒草と薬草の見分け方、脈の取り方、包帯の巻き方くらい……」
「おお、それだけできりゃ十分だろ!」
原田は感心して頷いたが、浅野がすぐさま口を挟む。
「知識があるならなおさらだ。自分の限界もちゃんと理解しろ、千夜。」
その真剣な声に、千夜は黙って頷いた。
その頷きを確認して、浅野は薬を彼女の口元に持っていく。
「ほら、もう余計なこと考えずに飲め。今は回復が仕事だ。」
千夜は薬を口に含み、ゆっくりと喉を鳴らした。
その後、目を閉じて、小さく吐息を落とす。
――ほんの一瞬、場がしんと静まった。
土方はその様子を見つめながら、そっと彼女の耳元に顔を寄せる。
「……今は、休め。全部、俺が見てる。」
その低く深い声に、千夜はかすかに口元を緩めると、ゆるやかにまどろみに落ちていった。