肩の力が抜け、柔らかく眠りへと沈んでいくその姿は――まるで幼子のように、穏やかだった。
その寝顔を見下ろしながら、土方はようやく、長い息を吐き出した。
静かに、深く、肺の底に溜まっていたものすべてを、外へ追い出すように。それは、安堵とも、後悔とも、祈りともつかぬ、曖昧な吐息だった。
けれど、それが彼のすべてを物語っていた。
まるで張り詰めていた弦が、ようやく弛んだような静けさが、そこにあった。
しばしの沈黙――
部屋の中にあるのは、千夜の寝息と、夏の終わりの風の音だけだった。
そして土方は、手のひらでそっと千夜の髪を撫でた。何かを確かめるように、ゆっくりと。
それは、言葉を持たぬままに交わされる、彼なりの「ここにいる」の証だった。
彼がようやく、千夜の眠りに肩の力を抜いたこと――それを、山崎は見逃さなかった。
そして、小さく、誰にも聞こえぬよう呟く。
「……まるで、親かいな。あんたは」
言葉に皮肉はない。
むしろ、微かに滲んだ安堵と、少しばかりの嫉妬――
「うるせぇな。こちとら親代わりもしてたんだよ。」
土方の声は迷いなく、けれど低く抑えられていた。手を止めることなく、千夜の髪を撫でながら、ただそのまま言葉を置いた。
「さっき、ちぃの前に出たあんた見て、
信じてもえぇかも知れん、思ったわ。」
土方は返事をしなかった。
ただ、撫でていた手を一瞬だけ止める。
その指先に、微かに力がこもったのを、山崎は見逃さなかった。
「……“親代わり”なんて言葉、冗談で流すかと思たけどな。
――ちゃんと、背負ってたんやな。あの子の全部を」
廊下の向こうで風が鳴る。
その音が、言葉の余白をやさしく埋めていった。
「……なら、これからも傍におったってや。
俺が背中預けられるの、あんたくらいや」
土方は、ゆっくりと千夜の髪から手を離した。
まるで、それが“約束”の代わりかのように。
そして、低く、短く。
「……預かった」
それだけだった。
だが、それで十分だった。
山崎は、満足げに小さく頷く。
土方歳三と――山崎烝。
その背を、幹部たちは静かに見ていた。
「……なんだろうな、あれ」
ぽつりと藤堂が呟く。
膝を立て、腕を抱えた姿勢のまま、目だけが真剣だった。
「何が」
永倉が茶を啜りながら返す。
声は落ち着いているが、その目線は、山崎から逸れていない。
「いや……話してるっていうか、通じ合ってるって感じ。言葉、そんな交わしてないだろ」
「……阿吽の呼吸ってやつだな」
原田が少し口を歪める。
「あいつ、あの梅って女の苦難を軽々弾き飛ばしやがった。」
原田が辺りを見渡し、梅を探す。
「あの女なら、縁側に。」
斎藤の言葉に、幹部たちの視線が一斉にそちらへ向いた。
夏の光が差す縁側の先――
朱を差した唇に扇を添え、しなやかに腰を預けて立っていたのは、確かに梅だった。
気怠げな笑みを浮かべ、廊下の柱に片肩を預けたまま、ただ黙って土方と山崎の背を見ている。
紅を引いた唇が動くことはなかったが、その視線はすでに“何手も先”を読んでいるようだった。何も言わず、何もせず、ただ“そこにいる”だけなのに、場の空気がどこか張り詰めたようになるのを、誰もが感じていた。
「それより、あの身体で、あの動き。
千夜ちゃんの方が脅威だよ。」
沖田の声は、笑っているようでいて、どこか底が見えなかった。
その言葉に、場の空気が、わずかに揺れた。
「……脅威、って……」
藤堂が振り向く。
だが、沖田の表情は変わらない。
「考えて見てよ。あれで
————体調が万全だったとしたら、」
沖田の声は、さらりとした調子だった。
だが、その言葉の奥には、冷静な眼差しが潜んでいた。
「たぶん、僕たち……誰一人、本気の千夜ちゃんに勝てない」
沈黙が落ちた。
藤堂が、半ば笑いかけた顔のまま、止まる。
永倉が、茶を啜る手をぴたりと止める。
原田は、一拍遅れて息を吐き出した。
「……冗談だろ、おまえ」
「冗談みたいに言ってるだけさ。
でも本気で言ってるよ?」
沖田の声に、曖昧さはなかった。
「剣も、身のこなしも、間合いの読みも……
戦場で生き延びるために“最短で仕上げた者”の動きだ」
斎藤が、目を細めた。
「あの動き、俺でも肝が冷えた。」
斎藤の低い声が静かに落ちた。
その声音には、驚きも称賛もない。ただ、事実だけが淡々と刻まれている。
沖田がふと視線を上げ、ぽつりと。
「……山崎くん。」
その呼びかけに、山崎がわずかに肩を動かし、ゆるりと振り返る。
「ん?」
「どうして、あの子のまわりに凄い人が集まるんだと思う?」
問いかけは、柔らかい声色のまま、しかし明らかに“本気”の響きを孕んでいた。
山崎は、それにすぐには答えず、ちらと千夜の寝顔に目をやった。そして、ぽつりと――
「……そもそも、生まれながらに偉人に囲まれてたからやろ」
一瞬、幹部たちの中にざわりとした沈黙が流れた。
山崎は続ける。
「物心つく前から、あの子の周りには――
天子さまも、将軍さまも、幕臣も、攘夷志士もおった。あらゆる思想と命が交差する場所で、生きるも死ぬも、選べんまま、全部見てきた子や」
その語り口は、淡々としている。
けれど、そこに込められた事実の重みは、冗談にできる類ではなかった。
「せやから――誰よりも、“真贋”を見抜く目を持っとる。魂の熱を持っとる者しか、あの子のそばには残らん」
沖田が、目を細めた。
「……つまり、僕たちも選ばれたってことかな?」
「まぁな」
山崎はあっさりと返し、そしていたずらめいた微笑を浮かべた。
「けど――選ばれた、言うより……」
言葉を一拍置いて、
「……あの子の“生き方”に、巻き込まれたっちゅうのが、正解かもな」
幹部たちが一様に、黙る。風が再び、廊下をかすめた。そして誰からともなく、ふとこぼれた溜息のあと、原田が笑う。
「……なんか、色々すげぇな、あの子」
「そう言うと思ったよ、左之さん」
沖田が笑った。
「とんでも無い子を拾ったよね。土方さん。」
そして、彼女を取り巻く凄腕達。
た。
――ぱん。
乾いた音がひとつ、縁側に響いた。
誰かが扇子を畳んだ音だった。
柱にもたれ、扇を片手に見下ろすように幹部たちを眺めている。
紅を引いた唇が、ふっと笑った。
「まぁ、私が手をかけた子やから当然かもしれへんけど――それにしても、よくもまぁ、あの“十七の小娘”ひとりに、みーんな骨抜きになって」
その一言に、時が止まった。
「……は?」
永倉が、湯呑を傾けかけた手を止める。
「じゅ……う、なな?」
藤堂が、絶句した顔で口を開ける。
「え、え……まって、今なんて?」
「十七やて……?」
原田は素で聞き返したあと、自分の手元を見る
「そもそも、君菊のときから二十代後半ぐらいだと思ってたんだけど……」
永倉がぼそり。
「それ、色気と所作に騙されとるだけだ」
斎藤が冷静に挟む。
「いや、騙されてねぇ!? 普通に見たら大人の色香だって!」
原田が叫ぶように言うと、
「そやなぁ。十七であれは、もう“犯罪的”やねん」
梅は艶やかに笑いながら、階段に腰かける。
「体はもう大人。でも、心の奥はまだ――」
その言葉に、土方が目を細めた。
「――梅」
低く、釘を刺すような声。
けれど梅は気にした風もなく、軽く扇を振る。
「はいはい。わかってますって。言わんようにしときますよ、“ほんとの誕生月”までは」
その一言に、さらに幹部たちの脳裏が混乱する。
「誕生月……? え、もっと若い可能性あるってこと……?」
「え、君菊って遊女だろ?」
「君菊は、本来舞妓や。遊女の着物がよぉ似合うからな。」
そのとき、静かに空気が凍った。
「……舞妓、だった……?」
永倉の声が、わずかに掠れる。
「でも、座敷に上がってたろ……? 客もつけて……」
藤堂がぽつりと呟いたその言葉に、斎藤が珍しく、ぴたりと眉をひそめた。
「本格的に芸妓にならんうちに、呼び出されてたってことか」
「そういうこと。ほんとはな――君菊は、客に肌売ったことなんて、一度もあれへんのやで」
梅の艶やかな声が、悪戯めいて笑う。
「おい……冗談だろ、それ」
原田が口を開けかけて、だがその声には戸惑いと、なにか拭いきれない感情が滲んでいた。
肌を合わさず、君菊の名は、広まっていく。
ただそこにいるだけで、酒の味を変え、座敷の空気を変える。
それだけで、男たちは皆、夢を見る。
――それほどまでに、完璧だった。
「……そんな馬鹿な」
原田の呟きが、静けさの中に沈んだ。
「じゃあ、あの眼差しも、あの笑みも、全部……」
「“芸”やで」
梅が扇子を立てて、紅を引いた唇でさらりと断言する。
「ほんまもんの“芸”や。心まで惹かせて、手も触れさせへん。だからこそ、名が残る」
藤堂が、ごくりと唾を飲む音だけが響いた。
「十七で……それを……」
「お前ら、全員やられとるわ」
永倉が頭をかきむしるようにして呟いた。
「見た目も、言葉も、間も、香も……全部、計算し尽くされとる。それでいて、無垢なままって……」
「――無垢、じゃねぇ」
そこに、ぽつりと声が落ちた。
土方だった。
その顔には、怒りでも呆れでもない、ただ深い影が落ちていた。
「無垢だったら、あんな眼、しねぇ」
「……」
「“全部わかった上で”演じてた。覚悟の上で、名前を使ってた。あいつは……命賭けて、立ってたんだ」
梅が、ふっと扇を伏せた。
その横顔に、はじめて一瞬だけ、年齢の重みが滲んだ気がした。