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第20話

縁側に、夏の終わりの風が吹き抜けた。


ふわりと、微かに甘く香ばしい香りが流れる。

それは、千夜の髪に残る香と、火の落ちた煙管の残り香だった。


「……ん……よっちゃん……」


夢の中のような声で千夜がもぞりと動くと、

すぐそばにいた土方の胸元へと、無意識に頬を寄せた。


そのまま、細い腕で抱きつく。


「……もうすこし……」


「寝ぼけてんぞ」


土方が片腕で支えながらも、やや照れたように低く囁く。


そこへ――


「……ちょ、なにこの展開」


呆れたような声とともに、ずらりと並ぶ幹部たちの姿が視界に入る。


藤堂、原田、沖田、永倉、斎藤――

そして柱の陰から顔を覗かせる浅野、梅姐に山崎まで勢ぞろいであった。


「……っ、あれ……もしかして……っ」


目が覚めた千夜は、事態を把握するなり、

土方から跳ねるように身を離し、ぱたぱたと襦袢を直した。


「え、あの、えっと……今のは……!」


「こりゃ明日から“甘えん坊の姫さん”って呼ばれるな。」


藤堂がにやにやと口元を歪める。

土方がじろりと睨むも、幹部たちは肩を揺らして笑いをこらえている。


だが、そんな空気を切り裂くように――


「……姫さん。あの煙管、見せて。」


低い声とともに浅野が前に出た。


「え?」


「さっき縁側で吸ってたやつ。ほら、胸元にさしてあるだろう?」


「……あ」


千夜は、しまったという顔で煙管を渡す。

浅野は受け取るなり、火皿の中を覗き込み、香りを嗅いだ。


「…………」


眉をひそめて一言。


「包み煙草詰めてたろ。……これ、普通のじゃねぇか」


「香りが、よかったから……ちょっとだけ」


「“ちょっと”で咳き込んで倒れたらどうすんだ。いつも吸ってるやつは、薬用のやつだろ。あれは医者の処方で軽く調合してんだから」


その一言に、幹部たちの間から微妙な間が生まれる。


「……え。ちょっと待ってください。

 いつも姐さんが吸ってるあの甘ったるい煙管って――」


藤堂がぽかんと口を開けた。


「薬だったの?」


「香に包んで誤魔化してるだけで、れっきとした処方やぞ。鎮静と気管の保護が目的。あんだけ喉が細いくせに、香が好きだからな」


「……そういうの、もっと早く言ってほしかった……」


永倉が肩を落とす。


「あー。なるほど。」


沖田がぼそりと呟く。千夜は膝を揃え、恥ずかしそうに視線を伏せた。


「だって……よっちゃんと同じ匂いにしたかったんだもん……」


それを聞いた浅野がこめかみを押さえ、煙管をぐっと胸元にしまい込む。


「……没収な。後で薬詰めたやつ渡すから、それだけ吸っとけ。まったく……甘えん坊に付き合わされる身にもなれ」


浅野が溜め息混じりに煙管を懐にしまうと、千夜は「あ……」とわずかに手を伸ばしかけて――やめた。


そのまま、ぽすんと縁側に正座し直し、項垂れる。


「……ごめんなさい……」


声は小さく、掠れている。


襟元の髪がふわりと揺れて、火の落ちた香の残り香がまた風に乗る。


「しゅん、って音が聞こえた気がしたぞ」


原田がこっそり囁き、藤堂と沖田がくすくす笑う。


だが、誰ももうそれ以上責めはしなかった。

しゅんとした背中が、なんとも小さく、愛おしかったからだ。


土方がふと、腰を上げた。

視線の先には、柱の陰に控えていた黒衣の青年──山崎烝。


「……山崎」


その名が、凛と響いた。


一瞬、場の空気が張り詰める。

山崎の目が、まっすぐに土方をとらえた。


「昨日言ったこと、忘れてねぇよな」


声は低く、しかし澱みない。

それは、剣を抜かぬまま間合いを詰める武士のような声だった。


「組に入らねぇか、と言った。……あれは冗談でも脅しでもねぇ。お前の返事を、聞かせろ」


その言葉に、幹部たちの視線が山崎へと集中する。



山崎はゆっくりとその場に出て、縁側の上に膝をついた。頭を下げず、だが姿勢は正しい。


「姫さんを……いえ、椿さまをお護りすること。それが、俺の一番の務めやと、そう思うて生きてきました」


静かな声に、誰もが耳を澄ます。


「でも──、今は違います」


ふ、と視線をあげ、山崎はまっすぐ土方を見た。


「俺は、あの人を“守るだけ”の人間やない。あの人が此処で、隊士の皆さんと肩を並べて立っているなら──俺も、その傍に立ちたい」


土方の目が細められた。


「つまり……答えは?」


「はい。俺にできることがあるなら。俺でよければ」


深く、深く頭を下げる山崎。


千夜は、小さく呟いた。


「……烝は、私の……」


ふとした、熱を帯びた声音。


だが、その言葉は“私のもの”とも、“私の従者”とも続かず、そこで止まった。


“従者”という言葉が嫌いだった。

それは、彼との関係に境界線を引いてしまうから。彼が選んでくれた立場であっても、口にすれば、そこにしか収まってしまいそうで。


ただ、“私の”としか、言えなかった。


千夜の「私の……」という呟きが、ふわりと風に乗って消えたあと――


沈黙が、場を包んだ。


その中で、山崎は動かなかった。

顔を上げず、膝をついたまま、ただ静かに息を吐く。


ほんの一瞬、瞼が震えた。


だが、誰にも気づかせぬよう、彼はそのままの姿勢を保ち続ける。


──“従者”とは呼ばれなかった。


けれど、“私の”とだけ言ってくれた。


それだけで、十分だった。

いや、むしろ、そこにこそ、自分の居場所があるとわかる。


千夜が名を与えぬことが、枠に嵌めぬことが、

なによりも彼にとっての“赦し”であり、証だった。


「……あんたが、俺を“私の”って思うてくれてるんなら……」


ぽつりと、顔を上げぬまま、山崎が言葉を落とす。


「俺は、それだけで、どこにでも行けますわ」


まるで、千夜にだけ聞かせるような、小さな声だった。


だが、そこには確かな覚悟と、寄り添うような愛があった。


土方がふと、目を伏せた。


その声の熱に、誰よりも胸を突かれていたのは、彼かもしれない。


「……よく言ったな、山崎」


低く、それでいてどこか満足げに土方が呟く。


「だったら、お前は“俺の懐刀の刀身”だ。折れるなよ」


「……承知しました」


今度は、しっかりと顔を上げて応える山崎の瞳は、凛としていた。


そして、その瞬間。

千夜がようやく、小さく笑った。


誰にも気づかれぬほどの、泣きそうで、でもあたたかい笑みだった。


そのまま、千夜は少しだけ顔を上げる。

風が、頬に触れ、香の残り香が、淡く揺れた。

そして、ぽつりと。


「……ありがとう。よっちゃん」


その声音には、甘えも遠慮もなかった。


「烝にも、居場所をくれて」


ただ真っ直ぐに、まるで当たり前のように、感謝を口にした。


風が過ぎ、香が揺れる。

千夜の「ありがとう」が場に沁み渡ったのち、

山崎はもう一度、静かに膝をついた。両手を膝に添え、背筋をまっすぐ伸ばしたまま――

そのまま、深く、深く、頭を垂れる。


誰にでもない。けれど、確かに、彼女のためだけに。


その動作は、仕える者としての礼ではなかった。むしろ、“想いに応えた者”としての、静かな敬意。


その様子を、幹部たちは言葉もなく見ていた。

からかう声も、冗談も、今は誰一人として口にしない。


永倉は、腕を組んだまま、どこか誇らしげに鼻を鳴らし、斎藤は、ほんのわずかに眉を上げた。沖田は、ふと視線を下ろし、藤堂は、ただじっと見つめていた。


原田だけが、ぽつりと。


「……いいな、あれ」

その一言に、藤堂がふっと笑った。

「お前も、膝くらいついてみます?」

「膝つく相手がいねぇんだよ」


 小さな声だった。


だが、そこには、からかいではなく――

まっすぐな羨望があった。浅野は何も言わず、ただ煙管を懐にしまいながら、「……やるな。あいつ。」と、口の中だけで呟いた。


梅だけが、誰にも聞こえぬほどの声で囁く。


「……ほんま、ええ子になったなぁ、烝」

千夜は、彼のその姿を、黙って見つめていた。

そして、ゆっくりと膝をつくと、わずかに身体を傾け、彼と視線の高さを揃える。


風が、また吹く。

火の落ちた香が、二人の間をやわらかく揺れた。


千夜は、目を細める。


笑おうとしたのではない。ただ、心がほどけたのだ。やがて、微笑がその唇に、静かに咲いた。声は、要らなかった。


山崎は、顔を上げる。

その瞳には、言葉以上のものがあった。

彼女の微笑に応えるように、彼もまた、目を細めて――ただ、一つ、小さく頷いた。


何も言わずとも、すべてが通じていた。


彼女がここにいる限り、彼は、傍にいる。

そして、これからは――

ただ守るのではなく、共に在る者として。

その静かな誓いを胸に、山崎は立ち上がる。

背を伸ばし、ふとだけ、土方と目を合わせ――

何も言わず、控えの間へと歩を進めた。その背はもう、迷ってなどいなかった。


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