縁側に、夏の終わりの風が吹き抜けた。
ふわりと、微かに甘く香ばしい香りが流れる。
それは、千夜の髪に残る香と、火の落ちた煙管の残り香だった。
「……ん……よっちゃん……」
夢の中のような声で千夜がもぞりと動くと、
すぐそばにいた土方の胸元へと、無意識に頬を寄せた。
そのまま、細い腕で抱きつく。
「……もうすこし……」
「寝ぼけてんぞ」
土方が片腕で支えながらも、やや照れたように低く囁く。
そこへ――
「……ちょ、なにこの展開」
呆れたような声とともに、ずらりと並ぶ幹部たちの姿が視界に入る。
藤堂、原田、沖田、永倉、斎藤――
そして柱の陰から顔を覗かせる浅野、梅姐に山崎まで勢ぞろいであった。
「……っ、あれ……もしかして……っ」
目が覚めた千夜は、事態を把握するなり、
土方から跳ねるように身を離し、ぱたぱたと襦袢を直した。
「え、あの、えっと……今のは……!」
「こりゃ明日から“甘えん坊の姫さん”って呼ばれるな。」
藤堂がにやにやと口元を歪める。
土方がじろりと睨むも、幹部たちは肩を揺らして笑いをこらえている。
だが、そんな空気を切り裂くように――
「……姫さん。あの煙管、見せて。」
低い声とともに浅野が前に出た。
「え?」
「さっき縁側で吸ってたやつ。ほら、胸元にさしてあるだろう?」
「……あ」
千夜は、しまったという顔で煙管を渡す。
浅野は受け取るなり、火皿の中を覗き込み、香りを嗅いだ。
「…………」
眉をひそめて一言。
「包み煙草詰めてたろ。……これ、普通のじゃねぇか」
「香りが、よかったから……ちょっとだけ」
「“ちょっと”で咳き込んで倒れたらどうすんだ。いつも吸ってるやつは、薬用のやつだろ。あれは医者の処方で軽く調合してんだから」
その一言に、幹部たちの間から微妙な間が生まれる。
「……え。ちょっと待ってください。
いつも姐さんが吸ってるあの甘ったるい煙管って――」
藤堂がぽかんと口を開けた。
「薬だったの?」
「香に包んで誤魔化してるだけで、れっきとした処方やぞ。鎮静と気管の保護が目的。あんだけ喉が細いくせに、香が好きだからな」
「……そういうの、もっと早く言ってほしかった……」
永倉が肩を落とす。
「あー。なるほど。」
沖田がぼそりと呟く。千夜は膝を揃え、恥ずかしそうに視線を伏せた。
「だって……よっちゃんと同じ匂いにしたかったんだもん……」
それを聞いた浅野がこめかみを押さえ、煙管をぐっと胸元にしまい込む。
「……没収な。後で薬詰めたやつ渡すから、それだけ吸っとけ。まったく……甘えん坊に付き合わされる身にもなれ」
浅野が溜め息混じりに煙管を懐にしまうと、千夜は「あ……」とわずかに手を伸ばしかけて――やめた。
そのまま、ぽすんと縁側に正座し直し、項垂れる。
「……ごめんなさい……」
声は小さく、掠れている。
襟元の髪がふわりと揺れて、火の落ちた香の残り香がまた風に乗る。
「しゅん、って音が聞こえた気がしたぞ」
原田がこっそり囁き、藤堂と沖田がくすくす笑う。
だが、誰ももうそれ以上責めはしなかった。
しゅんとした背中が、なんとも小さく、愛おしかったからだ。
土方がふと、腰を上げた。
視線の先には、柱の陰に控えていた黒衣の青年──山崎烝。
「……山崎」
その名が、凛と響いた。
一瞬、場の空気が張り詰める。
山崎の目が、まっすぐに土方をとらえた。
「昨日言ったこと、忘れてねぇよな」
声は低く、しかし澱みない。
それは、剣を抜かぬまま間合いを詰める武士のような声だった。
「組に入らねぇか、と言った。……あれは冗談でも脅しでもねぇ。お前の返事を、聞かせろ」
その言葉に、幹部たちの視線が山崎へと集中する。
山崎はゆっくりとその場に出て、縁側の上に膝をついた。頭を下げず、だが姿勢は正しい。
「姫さんを……いえ、椿さまをお護りすること。それが、俺の一番の務めやと、そう思うて生きてきました」
静かな声に、誰もが耳を澄ます。
「でも──、今は違います」
ふ、と視線をあげ、山崎はまっすぐ土方を見た。
「俺は、あの人を“守るだけ”の人間やない。あの人が此処で、隊士の皆さんと肩を並べて立っているなら──俺も、その傍に立ちたい」
土方の目が細められた。
「つまり……答えは?」
「はい。俺にできることがあるなら。俺でよければ」
深く、深く頭を下げる山崎。
千夜は、小さく呟いた。
「……烝は、私の……」
ふとした、熱を帯びた声音。
だが、その言葉は“私のもの”とも、“私の従者”とも続かず、そこで止まった。
“従者”という言葉が嫌いだった。
それは、彼との関係に境界線を引いてしまうから。彼が選んでくれた立場であっても、口にすれば、そこにしか収まってしまいそうで。
ただ、“私の”としか、言えなかった。
千夜の「私の……」という呟きが、ふわりと風に乗って消えたあと――
沈黙が、場を包んだ。
その中で、山崎は動かなかった。
顔を上げず、膝をついたまま、ただ静かに息を吐く。
ほんの一瞬、瞼が震えた。
だが、誰にも気づかせぬよう、彼はそのままの姿勢を保ち続ける。
──“従者”とは呼ばれなかった。
けれど、“私の”とだけ言ってくれた。
それだけで、十分だった。
いや、むしろ、そこにこそ、自分の居場所があるとわかる。
千夜が名を与えぬことが、枠に嵌めぬことが、
なによりも彼にとっての“赦し”であり、証だった。
「……あんたが、俺を“私の”って思うてくれてるんなら……」
ぽつりと、顔を上げぬまま、山崎が言葉を落とす。
「俺は、それだけで、どこにでも行けますわ」
まるで、千夜にだけ聞かせるような、小さな声だった。
だが、そこには確かな覚悟と、寄り添うような愛があった。
土方がふと、目を伏せた。
その声の熱に、誰よりも胸を突かれていたのは、彼かもしれない。
「……よく言ったな、山崎」
低く、それでいてどこか満足げに土方が呟く。
「だったら、お前は“俺の懐刀の刀身”だ。折れるなよ」
「……承知しました」
今度は、しっかりと顔を上げて応える山崎の瞳は、凛としていた。
そして、その瞬間。
千夜がようやく、小さく笑った。
誰にも気づかれぬほどの、泣きそうで、でもあたたかい笑みだった。
そのまま、千夜は少しだけ顔を上げる。
風が、頬に触れ、香の残り香が、淡く揺れた。
そして、ぽつりと。
「……ありがとう。よっちゃん」
その声音には、甘えも遠慮もなかった。
「烝にも、居場所をくれて」
ただ真っ直ぐに、まるで当たり前のように、感謝を口にした。
風が過ぎ、香が揺れる。
千夜の「ありがとう」が場に沁み渡ったのち、
山崎はもう一度、静かに膝をついた。両手を膝に添え、背筋をまっすぐ伸ばしたまま――
そのまま、深く、深く、頭を垂れる。
誰にでもない。けれど、確かに、彼女のためだけに。
その動作は、仕える者としての礼ではなかった。むしろ、“想いに応えた者”としての、静かな敬意。
その様子を、幹部たちは言葉もなく見ていた。
からかう声も、冗談も、今は誰一人として口にしない。
永倉は、腕を組んだまま、どこか誇らしげに鼻を鳴らし、斎藤は、ほんのわずかに眉を上げた。沖田は、ふと視線を下ろし、藤堂は、ただじっと見つめていた。
原田だけが、ぽつりと。
「……いいな、あれ」
その一言に、藤堂がふっと笑った。
「お前も、膝くらいついてみます?」
「膝つく相手がいねぇんだよ」
小さな声だった。
だが、そこには、からかいではなく――
まっすぐな羨望があった。浅野は何も言わず、ただ煙管を懐にしまいながら、「……やるな。あいつ。」と、口の中だけで呟いた。
梅だけが、誰にも聞こえぬほどの声で囁く。
「……ほんま、ええ子になったなぁ、烝」
千夜は、彼のその姿を、黙って見つめていた。
そして、ゆっくりと膝をつくと、わずかに身体を傾け、彼と視線の高さを揃える。
風が、また吹く。
火の落ちた香が、二人の間をやわらかく揺れた。
千夜は、目を細める。
笑おうとしたのではない。ただ、心がほどけたのだ。やがて、微笑がその唇に、静かに咲いた。声は、要らなかった。
山崎は、顔を上げる。
その瞳には、言葉以上のものがあった。
彼女の微笑に応えるように、彼もまた、目を細めて――ただ、一つ、小さく頷いた。
何も言わずとも、すべてが通じていた。
彼女がここにいる限り、彼は、傍にいる。
そして、これからは――
ただ守るのではなく、共に在る者として。
その静かな誓いを胸に、山崎は立ち上がる。
背を伸ばし、ふとだけ、土方と目を合わせ――
何も言わず、控えの間へと歩を進めた。その背はもう、迷ってなどいなかった。