目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第21話

――壬生屯所・勝手場 朝


朝の光がまだぼんやりと淡いころ、勝手場の土間には、かすかな薪の匂いと、白く立ち昇る湯気が漂っていた。


しゃり……しゃり、と、包丁の音が規則正しくまな板を打つ。


立つのは一人の女――千夜だった。


細い指先に包丁を添え、豆腐をひとつ、丁寧に角を揃えるように切り分けていく。その動きには無駄がなく、けれどどこか柔らかく、流れるような所作があった。


火鉢にかけた鍋からは、昆布と煮干しの合わせ出汁がじんわりと香りを放つ。静かな空間に、時折ぱち、と薪がはぜる音が混じる。


千夜はふっと湯気に顔を近づけると、ひとつ息を吸い込んだ。


「……うん、いい香り」


静かに呟いた声は、誰に向けるでもなく、ただ空気に溶けた。


袖を少し捲り上げた腕には、水滴がきらりと光り、結んだ髪の後れ毛が頬に触れては、火の熱にわずかに濡れている。朝の冷えた空気と、湯気の熱とのあいだで、肌はほんのり桜色に染まっていた。


傍らには、味噌椀を数つ並べた小さな膳。


その脇には、ほんの少し早く目覚めた誰かのための、湯漬けと漬物も用意されている。


彼女が手にしているのは、江戸ではなく、西の地から取り寄せた甘口の麦味噌だった。


「お味噌、江戸のは手に入らなかったけど……大丈夫かな」


ひとりごとのように、けれどどこかで“誰かの好み”を気にするような声音だった。


味噌を溶きながら、千夜は火加減を見て、くるりと鍋の蓋を傍らに伏せた。


空間には、静かな“やさしさ”が漂っていた。


目立つことはなく、声高でもなく、ただ、そこに居るだけで場が和らぐような、そんな気配だった。


背後から、襖の開くわずかな音がした。


「……もう起きたの?」


振り返らずに言う千夜に、聞き慣れた低い声が返る。


「お前の作る味噌汁の匂いは、やけに甘ぇからな」


振り向けば、髪を手ぐしで整えたばかりの土方歳三が、湯気の立つ勝手場に足を踏み入れていた。まだ寝起きの気怠さを引きずった目元には、仄かに柔らかさがあった。


彼の視線は千夜の手元を一瞬だけ見やると、何も言わずに湯漬けの膳を手に取ろうとしたが、千夜は、さっと味見椀を差し出した。


「味見して?熱いよ。……でも、ちょっと甘いかも。江戸の味噌がなくて、西のを使ったの」


土方は黙って受け取ると、湯気の立つそれに口を近づける。


すする音がひとつ。


そして、静かに息を吐くように呟いた。


「……悪くねぇ。ちょっと甘いが、寝起きにはちょうどいい」


「……甘くした覚えはないけど」


千夜は鍋をかき混ぜる手を止めずに、ぽつりと呟いた。


それは照れ隠しでもなく、ただ素直な本音だったのかもしれない。


けれど、背後から伸びた影がそっと近づき――


次の瞬間、土方の大きな手が、千夜の後頭部にやわらかく添えられた。


「……よっ――」


言葉の続きを、唇がそっと奪った。


唇と言っても、触れたのは千夜の額だった。


熱すぎず、冷たくもない、ちょうど朝の空気とおなじ温度の口づけ。


ぴたり、と千夜の動きが止まる。


包丁も、鍋の蓋も、薪の音さえ遠のいたような気がした。


「……お前は、自分がどれだけ甘いか、分かってねぇ」


低く、微かに掠れた声。


それは湯気に溶けるようにして、千夜の耳にだけ、届いた。


千夜は、ふわりと頬を染めながら、目を伏せる。


火鉢の炎がぱちりと弾け、ふたりの間の静寂に、そっと彩りを添えた。


「……ずるい」


小さく呟いた千夜の声に、土方は返事をせず、ただ彼女の髪を一度、ゆっくり撫でた。


ほんのわずかな朝の時間。


けれど、そのぬくもりは、味噌の香りよりも深く、千夜の胸の奥に残っていた。



――壬生屯所・広間 朝餉の席


低い膳が並べられ、湯気の立つ味噌汁と炊きたての飯、焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。

土間から広間へ運ばれてきた膳の一つに、千夜が自ら鍋からよそった味噌汁が置かれる。


「今日は麦味噌だぞ。江戸の味噌が切れてたらしい」

永倉が箸を構えながら、興味深そうに椀を覗き込む。


一口すすった原田が「お、悪くねぇな。ちょっと甘いけど、これはこれでいい」と素直に頷くと、

藤堂が「確かに朝にはちょうどいいな。胃がやさしい」と笑った。


沖田は味噌汁を啜り、にやりと笑う。

「千夜さん、これ……甘口にしたの、わざとですか?」

「わざとしてないけど?」千夜はあっさり返し、箸を進める。


そのやり取りに土方は口元をわずかに緩め、黙って飯を口へ運んだ。

普段は淡々と食事をする広間も、この朝だけはやわらかな空気が漂っていた。


永倉が焼き魚を頬張りながら、ふと膳の端に置かれた玉子焼きに目を止めた。

「お、今日は卵焼きか。珍しいな」


藤堂も覗き込み、「卵なんて、この時代じゃ贅沢品ですよね」と感心する。

「ほんとは味噌汁だけにするつもりだったけど、ちょっと奮発したの」千夜がさらりと言えば、

原田が「奮発って………。卵は金と同じくらい価値あるからな」と笑う。


沖田は卵焼きを一口食べ、「西の味付けだ、甘い」と口元をほころばせた。


山崎が、

「ちぃは、生まれは西やけど、育ちは江戸やからな。」


「え、なんで西?」藤堂が素直に首を傾げる。

山崎は箸を置き、何でもないことのように口を開いた。

「千夜の母親が西の人やからや。」


千夜は味噌汁を啜りながら、「生まれが西ってだけ。育ちは江戸よ」と淡々と返す。


「しかし、姐さん料理出来たんだな。」


原田が感心したように言えば、千夜は片眉を上げて笑う。

「出来ないと思ってたの?」


永倉が頭をかきながら、少しばつの悪そうな顔をする。

「いやぁ……俺たちの勝手な思い込みだ。姫と名乗るような血筋の女は、台所なんか立たねぇもんだと、ついな」


千夜は味噌汁をすすり、わずかに口角を上げる。

「……そんな先入観初めて聞いた。そういうもん?」


永倉は肩をすくめ、苦笑いする。

「まあな。姫ってのは、守られて、着飾って……そういうもんだと思ってた」


「じゃあ、今の私は?」

「……ちょっと違う姫だな」


千夜は小さく吹き出し、箸を持ち直した。


「なら、良かった。」


「ごちそうさん」

焼き魚を食べ終えた原田が、口の端を拭いながら素直に礼を言う。


「朝からこんなもん食えるなんて、ありがてぇ話だ」永倉も茶をすすりつつ頷く。


藤堂が笑いながら、「姐さん、これからもたまに作ってくれると嬉しいな」と遠慮なく言えば、

沖田も箸を置き、「そうそう。姐さんの味噌汁なら、何杯でもいけますよ」と軽口を叩く。


山崎は静かに膳を下げながら、「ごちそうさん。朝から、ほっこりあったまるわぁ」と関西訛りで短く言葉を添えた。


千夜はふっと笑い、

「お礼言ってくれるなんて、頑張って作った甲斐があったよ」

と柔らかく返す。


その言葉に、広間にはまた小さな笑い声が広がった。


「……礼を言うぐれぇ、美味かった。」

いつの間にか膳を片付け終えた土方が、湯呑を手にして低く呟いた。声音は淡々としているのに、口元にはわずかな笑みが滲む。


千夜は小さく瞬きをし、その横顔に目を留める。

湯気の向こうでほんのりと浮かぶ笑みが、差し込む朝の光よりも、不思議とあたたかく感じられた。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?