――壬生屯所・勝手場 朝
朝の光がまだぼんやりと淡いころ、勝手場の土間には、かすかな薪の匂いと、白く立ち昇る湯気が漂っていた。
しゃり……しゃり、と、包丁の音が規則正しくまな板を打つ。
立つのは一人の女――千夜だった。
細い指先に包丁を添え、豆腐をひとつ、丁寧に角を揃えるように切り分けていく。その動きには無駄がなく、けれどどこか柔らかく、流れるような所作があった。
火鉢にかけた鍋からは、昆布と煮干しの合わせ出汁がじんわりと香りを放つ。静かな空間に、時折ぱち、と薪がはぜる音が混じる。
千夜はふっと湯気に顔を近づけると、ひとつ息を吸い込んだ。
「……うん、いい香り」
静かに呟いた声は、誰に向けるでもなく、ただ空気に溶けた。
袖を少し捲り上げた腕には、水滴がきらりと光り、結んだ髪の後れ毛が頬に触れては、火の熱にわずかに濡れている。朝の冷えた空気と、湯気の熱とのあいだで、肌はほんのり桜色に染まっていた。
傍らには、味噌椀を数つ並べた小さな膳。
その脇には、ほんの少し早く目覚めた誰かのための、湯漬けと漬物も用意されている。
彼女が手にしているのは、江戸ではなく、西の地から取り寄せた甘口の麦味噌だった。
「お味噌、江戸のは手に入らなかったけど……大丈夫かな」
ひとりごとのように、けれどどこかで“誰かの好み”を気にするような声音だった。
味噌を溶きながら、千夜は火加減を見て、くるりと鍋の蓋を傍らに伏せた。
空間には、静かな“やさしさ”が漂っていた。
目立つことはなく、声高でもなく、ただ、そこに居るだけで場が和らぐような、そんな気配だった。
背後から、襖の開くわずかな音がした。
「……もう起きたの?」
振り返らずに言う千夜に、聞き慣れた低い声が返る。
「お前の作る味噌汁の匂いは、やけに甘ぇからな」
振り向けば、髪を手ぐしで整えたばかりの土方歳三が、湯気の立つ勝手場に足を踏み入れていた。まだ寝起きの気怠さを引きずった目元には、仄かに柔らかさがあった。
彼の視線は千夜の手元を一瞬だけ見やると、何も言わずに湯漬けの膳を手に取ろうとしたが、千夜は、さっと味見椀を差し出した。
「味見して?熱いよ。……でも、ちょっと甘いかも。江戸の味噌がなくて、西のを使ったの」
土方は黙って受け取ると、湯気の立つそれに口を近づける。
すする音がひとつ。
そして、静かに息を吐くように呟いた。
「……悪くねぇ。ちょっと甘いが、寝起きにはちょうどいい」
「……甘くした覚えはないけど」
千夜は鍋をかき混ぜる手を止めずに、ぽつりと呟いた。
それは照れ隠しでもなく、ただ素直な本音だったのかもしれない。
けれど、背後から伸びた影がそっと近づき――
次の瞬間、土方の大きな手が、千夜の後頭部にやわらかく添えられた。
「……よっ――」
言葉の続きを、唇がそっと奪った。
唇と言っても、触れたのは千夜の額だった。
熱すぎず、冷たくもない、ちょうど朝の空気とおなじ温度の口づけ。
ぴたり、と千夜の動きが止まる。
包丁も、鍋の蓋も、薪の音さえ遠のいたような気がした。
「……お前は、自分がどれだけ甘いか、分かってねぇ」
低く、微かに掠れた声。
それは湯気に溶けるようにして、千夜の耳にだけ、届いた。
千夜は、ふわりと頬を染めながら、目を伏せる。
火鉢の炎がぱちりと弾け、ふたりの間の静寂に、そっと彩りを添えた。
「……ずるい」
小さく呟いた千夜の声に、土方は返事をせず、ただ彼女の髪を一度、ゆっくり撫でた。
ほんのわずかな朝の時間。
けれど、そのぬくもりは、味噌の香りよりも深く、千夜の胸の奥に残っていた。
――壬生屯所・広間 朝餉の席
低い膳が並べられ、湯気の立つ味噌汁と炊きたての飯、焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。
土間から広間へ運ばれてきた膳の一つに、千夜が自ら鍋からよそった味噌汁が置かれる。
「今日は麦味噌だぞ。江戸の味噌が切れてたらしい」
永倉が箸を構えながら、興味深そうに椀を覗き込む。
一口すすった原田が「お、悪くねぇな。ちょっと甘いけど、これはこれでいい」と素直に頷くと、
藤堂が「確かに朝にはちょうどいいな。胃がやさしい」と笑った。
沖田は味噌汁を啜り、にやりと笑う。
「千夜さん、これ……甘口にしたの、わざとですか?」
「わざとしてないけど?」千夜はあっさり返し、箸を進める。
そのやり取りに土方は口元をわずかに緩め、黙って飯を口へ運んだ。
普段は淡々と食事をする広間も、この朝だけはやわらかな空気が漂っていた。
永倉が焼き魚を頬張りながら、ふと膳の端に置かれた玉子焼きに目を止めた。
「お、今日は卵焼きか。珍しいな」
藤堂も覗き込み、「卵なんて、この時代じゃ贅沢品ですよね」と感心する。
「ほんとは味噌汁だけにするつもりだったけど、ちょっと奮発したの」千夜がさらりと言えば、
原田が「奮発って………。卵は金と同じくらい価値あるからな」と笑う。
沖田は卵焼きを一口食べ、「西の味付けだ、甘い」と口元をほころばせた。
山崎が、
「ちぃは、生まれは西やけど、育ちは江戸やからな。」
「え、なんで西?」藤堂が素直に首を傾げる。
山崎は箸を置き、何でもないことのように口を開いた。
「千夜の母親が西の人やからや。」
千夜は味噌汁を啜りながら、「生まれが西ってだけ。育ちは江戸よ」と淡々と返す。
「しかし、姐さん料理出来たんだな。」
原田が感心したように言えば、千夜は片眉を上げて笑う。
「出来ないと思ってたの?」
永倉が頭をかきながら、少しばつの悪そうな顔をする。
「いやぁ……俺たちの勝手な思い込みだ。姫と名乗るような血筋の女は、台所なんか立たねぇもんだと、ついな」
千夜は味噌汁をすすり、わずかに口角を上げる。
「……そんな先入観初めて聞いた。そういうもん?」
永倉は肩をすくめ、苦笑いする。
「まあな。姫ってのは、守られて、着飾って……そういうもんだと思ってた」
「じゃあ、今の私は?」
「……ちょっと違う姫だな」
千夜は小さく吹き出し、箸を持ち直した。
「なら、良かった。」
「ごちそうさん」
焼き魚を食べ終えた原田が、口の端を拭いながら素直に礼を言う。
「朝からこんなもん食えるなんて、ありがてぇ話だ」永倉も茶をすすりつつ頷く。
藤堂が笑いながら、「姐さん、これからもたまに作ってくれると嬉しいな」と遠慮なく言えば、
沖田も箸を置き、「そうそう。姐さんの味噌汁なら、何杯でもいけますよ」と軽口を叩く。
山崎は静かに膳を下げながら、「ごちそうさん。朝から、ほっこりあったまるわぁ」と関西訛りで短く言葉を添えた。
千夜はふっと笑い、
「お礼言ってくれるなんて、頑張って作った甲斐があったよ」
と柔らかく返す。
その言葉に、広間にはまた小さな笑い声が広がった。
「……礼を言うぐれぇ、美味かった。」
いつの間にか膳を片付け終えた土方が、湯呑を手にして低く呟いた。声音は淡々としているのに、口元にはわずかな笑みが滲む。
千夜は小さく瞬きをし、その横顔に目を留める。
湯気の向こうでほんのりと浮かぶ笑みが、差し込む朝の光よりも、不思議とあたたかく感じられた。