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第22話

――朝餉の後、湯気の名残がまだ膳の上に漂っていた。

千夜は、袖を軽くたくし上げると、箸や椀を重ね始める。


「よし、あとは――」

「おっと、姫さんは触らなくていい」


横から永倉が、すっと椀を奪い取った。


「何を言ってるんですか。片付けぐらい――」

「いやいや、客人にやらせるわけにゃいかねぇだろ」原田が笑いながら箸を回収する。


「美味い飯食わせてくれたんだから、片付けは俺らの役目だ」

藤堂まで加わり、残った膳を抱えて土間へ向かう。


「……やってくれるとは、思わなかった。」

小さくこぼした千夜の声は、湯呑を持ったまま立っていた土方の耳にも届いていた。


「……甘やかされすぎだな、お前」

口元にかすかな笑みを浮かべ、土方はそう言った。だが、その手から湯呑を受け取った千夜の所作に、やはり彼も、何も言わず受け入れてしまうのだった。


――しばらくして。

片付けの賑わいも収まり、勝手場に静けさが戻ったころ、土間から軽い足音が近づいてきた。


「……おーい、姫さん。いるだろ」


戸口から顔をのぞかせたのは浅野だった。

白い手拭を肩に掛け、診察道具を入れた小さな箱を片手に持っている。


「こんな朝っぱらから何の用です?」千夜が首を傾げると、

「何の用って、診るに決まってんだろ。朝餉食った後が一番わかりやすい」

浅野は勝手に上がり込み、土方の方をちらりと見る。


「副長、さっさとどいてくれ。そこ座らせたい」

「……お前な、もうちっと言い方ってもんが――」

ぶつぶつ言いながらも、土方は湯呑を持って一歩退く。


千夜は観念したように腰を下ろし、浅野の指先が手首に触れる。

脈を取る間、部屋には薪の残り香と、まだほんのりと温かい朝の空気が漂っていた。



浅野は千夜の脈を測りながら、少し顎を引いた。

「……脈、ちょっと早ぇな。貧血気味ってのもあるが……朝から血糖が上下してる感じだ」


「血糖……?」千夜が首を傾げる。

「もともと食が細ぇから、ちょっとしたことで変動が出やすい。空腹の後に急に食うと、脈も一時的に跳ね上がるんだよ」


「……朝は、いつもよりは食ってたな」

土方がぽつりと言うと、千夜は視線を落として笑う。

「だって……皆さんと一緒だったから」


浅野は鼻で笑いながらも、軽く頷いた。

「まぁ、悪くねぇ理由だが、間食も入れとけ。脈で分かっちまうぞ」


「分かっちまうって言われても……体質的な問題でしょう?」

千夜は困ったように笑い、手首を浅野から引いた。


「まぁ、そういう面もあるな」浅野は肩をすくめる。

「けど、それを放っとくと本当に倒れるぞ。お前の場合は特にな」


土方が黙って湯呑を置く音が、畳に小さく響いた。

「……倒れられても困る。間食は俺が用意する」


浅野が脈診を終え、箱の蓋を閉めたときだった。湯呑を畳に置いた土方が、低く切り出す。


「……で、なんでこいつはこんなに身体が弱ぇんだ?」


その声音に、千夜はふと目を上げる。

浅野は一瞬だけ千夜の顔を見やり、それから土方に向き直った。


「体質だな。もともと持って生まれたもんだ」

「体質……?」土方が眉をひそめる。


「動き回るより守られて育った分、筋力も持久力も鍛えられてねぇ。それに加えて、食が細ぇから血の巡りも悪く、体温の維持も下手だ。ついでに言えば持病の喘息もある。」


浅野は指先で軽く千夜の肩を叩いた。

「血糖の変動にも敏感だし、熱や寒さにも弱い。悪く言えば“外で戦う仕様じゃねぇ”ってことだ」


土方は黙って千夜を見た。

千夜は笑ってごまかすように肩をすくめる。

「……でも、強くなろうとはしてますから」


浅野は鼻を鳴らし、土方は短く「知ってる」とだけ答えた。


体質も、持病も、弱さも――

それに抗いながら、彼女は生きている。


だからこそ、誰よりも傍で支えたいと、土方は思った。



障子の向こうで、膝を崩していた幹部たちは、誰一人として口を開かなかった。

軽口の一つも飛ばせず、ただ静かにその言葉を飲み込む。


永倉は腕を組み、原田は天井を仰ぎ、藤堂はうつむいたまま。それぞれが、今まで知らなかった千夜の背景を噛みしめていた。


「……さ、洗い物しなきゃ、ね」

沈黙を切るように、沖田が立ち上がる。

わざと明るく言ったその声に、他の幹部たちは短く頷き、何事もなかったかのように立ち上がった。


けれど、その動きはどこかぎこちなく、心のどこかに先ほどの会話の余韻を残していた。


守りたい。

幹部たちの心に灯る小さな火。


洗い物をしていた沖田が、ふっと息を吐く。

「……不思議だよね、あの子」


永倉が手を止めて振り向く。

「ん?」


「勝手に人の心の中、土足で入ってくるのにさ……ほっとけない気持ちにさせてくる」

水面に映る沖田の横顔は、笑っているようで、どこか真剣だった。


「……まだ、出会って間もないはずなのにな」永倉がぼそりと続ける。


沖田は拭いていた椀を置き、少し間を置いて言った。

「もしかしたら……彼女の過去に触れちゃったからかな」


ただ、聞かされただけの千夜の過去。

だが、原田は涙を流し、他の者たちも心を大きく揺さぶられた。

それは哀れみではなく――

痛みを分け合いたいと願う、ごく自然な衝動だった。


————守りたい


永倉は黙って桶を持ち上げ、藤堂は布巾を丁寧に絞る。原田は皿を重ねながらも、その手つきがやけに慎重だった。


何も言わない。

けれど、それぞれの胸の奥に灯った火は消えないまま、静かに、そして確かに燃え続けていた。


「……ごめんね。手伝うつもりが」

いつの間にか勝手場の入口に立っていた千夜が、少し肩をすくめて笑った。


永倉は桶を下ろし、わざと軽い声を返す。

「いいって。これは俺たちの役目だ」

原田も頷き、藤堂は布巾を振って笑みを見せた。

千夜はその様子を見回し、ふっと目を細める。

「……みんな、カッコいいね」


「剣術出来て、家事出来たらさ、モテそうって、思ったんだけど」

千夜の言葉に、永倉が吹き出し、原田は「そりゃあ、間違いねぇな」と肩を揺らす。

藤堂は「でも俺たち、今さらモテてもなぁ」とぼやき、沖田は片眉を上げて「僕は別に困ってないけど?」と涼しい顔。


千夜はくすっと笑いながら、ふと沖田の袖口に目をやった。

「……総ちゃん、袖濡れてるよ?」


「総ちゃん?」沖田が瞬きをして千夜を見る。

「だって“総司さん”じゃ固いし、“沖田さん”じゃ距離あるでしょ?」

千夜は何でもないことのように微笑んだ。


沖田はしばらく答えず、やがて小さく笑って袖を絞った。

「……まぁ、悪くないかな」


永倉と原田が目を見合わせ、「おいおい、特別扱いかよ」と小声で茶化す声が、勝手場に溶けていった。


「じゃあ、みんなにもあだ名つけるね」

千夜は指折り数えながら、ひとりずつ見ていく。


「総ちゃん、新八さん、左之さん、平ちゃん、……はじめ」


「おいおい、俺だけ呼び捨てかよ」斎藤が眉をひそめると、

「呼び捨てのほうが格好いいから」千夜はさらりと返した。


永倉が「確かに“はじめさん”よりは締まってるな」と笑い、

原田も「呼びやすくていいじゃねぇか」と頷く。

藤堂は「子供みたいって言ったくせに」と小さく抗議し、勝手場に笑いが広がった。


沖田は袖を軽く振りながら、「総ちゃんか……」と小さく呟き、千夜に目を向ける。

その視線に気づいた千夜は、にこりと笑って「これで、もっと呼びやすくなったでしょ」と告げた。


笑い声と水音が交じり合い、勝手場の空気はすっかりいつもの明るさを取り戻していた。


「……やっぱ放っとけねぇな」永倉の低い声に、誰も反論はしなかった。

水音だけが、静かに勝手場に残っていた。

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