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第23話

————昼下がりの陽が庭を照らし、掛け声と木刀のぶつかる音が響いていた。

千夜は縁側に腰を下ろし、黙って隊士たちの稽古を眺めていた。


(……あの時は体調が悪くて、何もできなかった)

女であるがゆえに、稽古を怠ればあっという間に置いていかれる。それがわかっているからこそ、指先にまで力がこもる。


不意に、背後から影が差した。

「体調がいいなら、やるか?」

振り返ると、土方が腕を組んで立っていた。


「……いいの?」

千夜が問い返すと、土方は小さく鼻を鳴らす。

「俺の懐刀が弱くなったら困るからな」


その言葉に、千夜の口元がわずかに緩む。

木刀を握る手は、すでに迷いを捨てていた。


稽古場の空気が、一瞬にして張り詰めた。

縁側から立ち上がった千夜が木刀を構え、向かい合うのは土方。

周囲を囲む幹部たちが、思わず息を飲む。


「遠慮はいらねぇぞ」

土方の声に、千夜は短く「うん」と返す。


次の瞬間、地を蹴る音と同時に木刀が閃いた。

打ち込み、払い、受け流し――音が重なり、間合いがめまぐるしく変わる。

見ているだけで腕が痺れそうな速度と重さ。


稽古場の砂を踏みしめる音が、耳にやけに鮮明に響いた。

千夜は一歩下がる――引いた、と思わせた瞬間、ふっと体を沈めて土方の懐へと潜り込む。


「……っ!」

土方の木刀が横薙ぎに振られるが、その刃筋を肩越しに抜け、千夜の木刀が喉元を狙う。


瞬間、土方の腕が逆巻くように動き、木刀と木刀が高く乾いた音を立ててぶつかり合った。

力では押し切れない。千夜はそのまま相手の懐に身を絡めるように動き、間合いを乱す。


「引くようで……前に出るか」

土方の低い声が、木刀のぶつかる音に混ざって響いた。


次の刹那、両者は互いの首元へ木刀を止めていた。僅かな距離、呼吸が触れそうな位置で、互いに笑みを含んだ目を交わす。


稽古場の周囲では、幹部たちが息を殺して立ち尽くしていた。


稽古場に張りつめた空気がまだ解けきらぬまま、沈黙を破ったのは沖田だった。


「……何?あれ……」

笑っているようで、目はしっかりと千夜の動きを追っている。


原田が肩をすくめ、半ば呆れたように息を漏らす。

「今の動き……本気かよ。隊内でも、あれに対応できるやつはそうそういねぇぞ」


永倉が腕を組み、鼻で笑った。

「しかも相手は土方さんだ。あの懐に入り込むなんざ、並じゃねぇ」


千夜と土方はまだ木刀を構えたまま、互いを見据えていた。

その間合いと気迫は、見物している幹部たちの背筋までじわりと冷やすほどだった。



稽古場の空気が、また一段と熱を帯びる。


千夜が木刀を肩に担ぎ、山崎に視線を向けた。

「烝、手合わせしよ。君、ここ来たばかりだし、実力見せといた方がいいでしょ?」


その言葉に、土方が腕を組んだまま静かに頷く。

「……やれ」


山崎は木刀を手に取り、一歩前へ。

忍び特有の低く滑らかな構え、その体勢から生まれるのは音もなく迫る速さと、しなやかな身のこなし。


土方の視線が横に流れる。

「この動きに対応できるのは……千夜くらいだな」

幹部たちも黙ってその場を見守る。


千夜は木刀を軽く回し、山崎の間合いに踏み込む前に口を開いた。

「手合わせ、苦難にする?」


山崎の口元がわずかに緩む。

「あぁ。その方がやりやすい」


次の瞬間、砂を踏む音と共に二人の姿が消えたかのように揺らぎ、苦難と苦難が一閃、音を立てて交わった。


一歩踏み出したと思った瞬間、視界から輪郭が溶ける。

気づけば間合いの内側——山崎の影が、そこにあった。


千夜と山崎の動きは、目で追うことすら難しかった。

踏み込みと同時に砂煙が舞い、忍びのしなやかさと鋭さを持つ山崎の刃筋が幾度となく千夜に迫る。だが千夜は、その全てを紙一重でかわし、時には逆に山崎の懐へ滑り込む。


苦難——容赦のない斬り込みと攻め手。

それを何度投げても、互いにかすりすらしない。


幹部たちはただ目を凝らすことしかできず、木刀が交わる一瞬ごとに息を呑んでいた。


「……懐刀は、伊達じゃねぇな」

原田がぽつりと呟くと、永倉も「まったく…化けもん同士の稽古だ」と肩を揺らす。


視線を向けるだけで精一杯のその光景は、まさに二人だけの領域だった。


「……あの、おっとりしてる、甘えたな姐さんと同一人物なんて信じられねぇ」

藤堂が半ば呆れ、半ば感心したように漏らす。


木刀が交差するたび、鋭い衝撃音が耳に響き、その動きはますます速度を増していく。

普段の柔らかな笑顔も、甘えるような声も、今そこには一片もない。


千夜の目は鋭く、山崎も同じだけの集中を返している。稽古場の空気は、まるで本物の戦場のように張り詰めていた。


土方も腕を組んだまま、低く感心した声を漏らした。


「……想像以上だな」


その眼差しは厳しさを帯びながらも、どこか誇らしげだった。

互いの苦難が首元すれすれで止まった瞬間、わずかな間をおいて、山崎は苦難を軽く引き、浅く息を吐く。千夜も肩を上下させながら、一歩下がった。額に光る汗が、稽古の激しさを物語っている。


「……やっぱり、お前じゃなきゃ面白ないわ」

山崎が口元をわずかに緩める。


千夜は苦難を懐に仕舞いながら、息を整えた。

「君も……思ったより速かったよ」


幹部たちはまだ呆然としたまま、二人を見ていた。永倉が口を開く。

「……なぁ、あれ……本気でやってたんだよな?」


原田は腕を組み、笑うでもなく唸るように答える。

「本気だ。本気であれなら……戦場じゃ無敵だろ」

藤堂はため息混じりに笑った。

「あの甘えた姐さんと、今の姐さん……どっちが本物なんだよ」


その時、沖田が木刀を肩に担ぎながら口を挟んだ。

「言ったでしょう?……あれは、脅威だって」


原田がちらりと振り返る。

「お前が脅威って言うなんざ、相当だな」


沖田は唇の端をわずかに上げる。

「だってそうだろ。あの動き、相手が俺でも面倒だよ。……正面からやり合う気にはならないね」


幹部たちは顔を見合わせ、誰も軽口を返さなかった。その静けさは、千夜と山崎の稽古が残した衝撃の深さを物語っていた。



土方は黙って二人のやり取りを見つめていたが、やがて歩み寄り、千夜の手元に視線を落とした。

「……上出来だ」


その言葉に、千夜はふっと笑う。

「よっちゃんに褒められるなんて、珍しい」


土方は鼻を鳴らし、視線を逸らした。

「……褒めてねぇ。ただ、想像以上だったってだけだ」


山崎は木刀を脇に抱え、静かに頷いた。

「……あんたの懐刀、冗談じゃなく伊達やないな」


その場の誰もが、今しがた目にした稽古を忘れることはなかった。昼下がりの陽は変わらず庭を照らしていたが、幹部たちの胸の中には、稽古場の熱気がまだ確かに残っていた。


――夕刻。

稽古場の砂はまだ踏み荒らされたままで、庭は橙色の陽に染まっていた。

幹部たちは屯所の奥の小部屋に集まり、盃を手に静かに息をついていた。


永倉が、ぽつりと呟く。

「……あの動き、やっぱ本物だな」


原田が盃を煽りながら、苦笑混じりに首を振る。

「本物どころじゃねぇ。懐入り、俺じゃ防げねぇ」


藤堂は腕を組んだまま天井を仰ぎ、ため息をつく。

「おっとりして甘えた姐さんが、あんな化け物みたいな戦い方するなんてな……信じられねぇ」


その時、柱に背を預けて黙っていた沖田が、盃を置いた。

薄い笑みを浮かべたまま、低く言う。


「……勝てない。そう思ったのは初めてだ。だから言ってる」


全員の視線が一斉に沖田へ向く。

彼はゆっくり顔を上げ、続けた。


「千夜が味方でいるうちはいい。でも……敵に回すな。絶対に」


原田が眉をひそめ、永倉は盃を持ったまま固まった。

藤堂が口を開きかけたが、言葉が出ない。


——その時。

障子が音もなく開き、土方が片手に湯呑を持って立っていた。


「……随分と物騒な話してるな」


部屋の空気が一瞬で引き締まる。

幹部たちは視線を交わし、言葉を探すが、誰もすぐには声を出せない。


土方は湯呑を置き、静かに皆を見回す。

「……あいつは俺の懐刀だ。脅威だろうが化け物だろうが、使い方を間違えなければ、それでいい」


その言葉に誰も反論できなかった。

ただ、さっきまでの密談は、すべて土方に聞かれていた——そう悟った。


原田がぼそっと漏らす。

「……可愛い顔して、やることは容赦ねぇんだからな」


永倉も苦笑し、盃を置いた。

「まったくだ。あの懐入り、夢に出そうだぜ」


そのとき、台所の方から軽い足音が近づき、障子がそっと開く。

「もうすぐ夕餉が出来るよ」


縁側から差し込む橙色の光の中、小首を傾げて笑う千夜。

さっきまで脅威だ化け物だと評していた幹部たちは、一瞬にして言葉を失った。


「もうすぐ出来るから、皆さんも手洗って来てね」


幹部たちは、さっきまで「脅威」「化け物」などと評していた自分たちの会話を思い出し、妙にぎこちなく頷いた。


原田は咳払いし、永倉は頭をかき、藤堂は無理に笑顔を作って「お、おう」と返す。

沖田だけは口の端を上げ、茶化すように言った。

「……可愛い顔して、さっきの姐さんはどこ行っちゃったの?」


千夜はきょとんと小首を傾げる。

「さっきって……稽古のこと?」


その無邪気さに、幹部たちはますます返す言葉を失い、土方だけが低く鼻を鳴らした。

「いいから、さっさと夕餉にしろ」


千夜はぱちりと瞬きをして、小さく笑った。

「……そんなお腹減ったの?」


土方は視線を逸らし、「減ってねぇ」とそっけなく答える。だが幹部たちは、そのわずかな間を見逃さなかった。

永倉が口元を押さえて笑いを堪え、原田は「絶対減ってるな」と小声で呟く。


千夜はそんなやり取りを気にも留めず、軽やかに立ち上がって勝手場へ向かった。

その背を、先ほどまで「脅威」と呼んでいた面々が、どこか柔らかな眼差しで見送っていた。

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