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第24話

夕食の刻限、幹部たちはまだ稽古場の余熱を引きずっていた。その視線の先で、千夜は、持ってた膳をそっと置き、こちらに向き直る。


「……私は、強くない」


唐突なその言葉に、沈黙が落ちる。

沖田が半ば笑みを含ませて問い返した。


「嫌味?」


千夜は首を横に振り、視線を庭のほうへ流す。

その横顔は、夕映えに縁どられていた。


「自分の過去をね、必死に隠してた。でも、それをしたら強くなれないって気づいたの。過去も、自分の一部。抱きしめてあげたら、変わったの」


その声には、ひと欠片の迷いもない。

「よっちゃんの動きも、烝の動きも……見えるようになった」


淡々と告げられた言葉は、戦いの理屈ではなかった。けれど幹部たちは、誰一人として軽口を挟まなかった。それぞれが、自分の胸の奥に眠る“隠してきたもの”を思い起こしていた。


土方は何も言わず、湯呑を傾けたまま千夜を見ていた。その眼差しに、夕刻の光が静かに揺れていた。


——夕餉の後。

勝手場の灯りは落とされ、広間には行燈の柔らかな明かりだけが漂っていた。

湯呑や盃が手に渡り、誰からともなく小さな笑い声が漏れる。稽古場の緊張が、ようやく溶けていく時間だった。


原田が大きく伸びをしながら、ぽつりと呟く。

「……やっぱ、姐さんは化け物だな」

口調は笑っているが、その眼差しには尊敬が滲んでいた。


「化け物って言うなよ」永倉が笑いながら茶をすすり、「でも、あの懐入りは夢に出るぜ」と続ける。


藤堂は盃をくるくる回し、にやりと笑った。

「おっとりして甘えた姐さんが、あんな戦い方するなんてな……。正直、まだ信じられねぇ」


その時、沖田が湯呑を置き、静かに言った。

「……あの言葉、忘れるなよ」

幹部たちの視線が集まる。


「過去を抱きしめたら変われた、って。あれ、冗談じゃなく本物だったよ」

短くそう言って、また湯を口に運ぶ。


沖田の胸にも、確かにその言葉は刻まれた。

それは戦いの極意でも、剣の技術でもない。

けれど、刃を振るう者なら誰もが避けては通れぬ答えだった。


永倉は湯呑を揺らしながら、黙って一口。

原田は盃を置き、天井を仰ぐ。

藤堂は、さっきまでの笑みをすっと引っ込めて、火皿の揺れる灯を見つめていた。


行燈の影が、壁にゆらゆらと揺れる。

千夜はその輪の中にはいなかったが、彼女の声だけが、まだそこに在るように感じられた。


——過去を抱きしめたら、変われた。


その一言が、広間の静けさに溶け、夜の深みに落ちていった。


広間の行燈がゆらゆらと影を揺らし、湯呑や盃の香りがまだ残っていた。

幹部たちはそれぞれに腰を下ろし、時折、昼間の稽古の話を思い返しては笑ったり黙ったりしている。


土方は盃を置き、ふと千夜のほうへ視線を向けた。

さっきまで笑っていた顔が、急に静まる。


「……千夜」

その声色に、場の空気がわずかに変わった。

幹部たちの視線が、自然と二人へ集まる。


「此処に……住まないか」

淡々と、だが一切の迷いなく告げられた言葉だった。


千夜は膝の上の手をきゅっと握り、瞬きを一度だけして、彼を見返す。

「……いいの?」

その声音はかすかに震えていた。


「俺がそう決めた。——懐刀なら、側に置くのが筋だろ」

土方は視線を逸らさず、低く言い切った。


幹部たちは一瞬、口を開きかけては黙る。

原田が小さく「おぉ……」と漏らし、永倉が茶をすすって誤魔化す。

藤堂は盃を口に当てたまま、にやけそうになるのを必死でこらえていた。


千夜は、少しだけ俯いてから顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。


「でも私、君菊辞める気ないけど?」


広間の空気が一瞬止まる。

原田が盃を持ったまま固まり、永倉は思わず「は?」と漏らす。

藤堂は堪えていた笑みを、今度は別の意味で堪える羽目になった。


土方は眉一つ動かさず、淡々と返す。

「構わねぇ。……俺が側に置くって言ったのは、それ込みだ」


土方の低い声が、行燈の灯に揺れて落ちる。


原田は「はは……そりゃまた」と乾いた笑いを漏らし、永倉は茶碗を置きながら「土方さんらしいや」と肩をすくめた。

藤堂は盃を手に、にやにやが隠しきれない。

沖田は湯呑を口に運び、何も言わずに目だけを細める。


千夜はそんな彼らを見渡し、肩の力を抜くように息を吐いた。


(あったかいな。此処は。)


「じゃあ、これからもよろしくね」


広間にいた幹部たちが一斉にざわめいた。


「……お、おい、部屋の準備しなきゃじゃねぇか」

原田が立ち上がりかけ、藤堂も「布団は?襖は?」と妙に慌ただしい。

永倉まで「掃除もしねぇとだな」と腕まくりをし始める。


そんな様子を、千夜はきょとんと眺めてから、あっけらかんと言った。

「相部屋で構わないよ?」


「いやいや! 姫を相部屋なんて恐れ多いだろうが」

永倉が即座に制止し、原田も「誰が同じ部屋に寝られるか、緊張で死ぬわ」と苦笑する。


千夜はくすっと笑って首を傾げた。

「そう? 私は平気なのに」


「平気かどうかの問題じゃねぇ!」

永倉の声に、広間の笑いがどっと広がる。

行燈の明かりの中、稽古場の張り詰めた空気はすっかり溶け、柔らかな夜の団欒が戻っていた。


その賑わいをしばらく眺めていた千夜が、湯呑を置きながら口を開く。

「……明日にしたらどう? もう日も沈んだし」


原田が動きを止め、「あー……確かにな」と頭をかき、

藤堂は「夜に埃立てても怒られそうだしな」と苦笑する。

永倉も「じゃあ、明日一番でやるか」と腕まくりを下ろした。


「それまでに押入れの中、片付けとけよ」

「誰がやるんだよ!」

そんな軽口がまた飛び交い、笑い声が広間を満たしていった。


千夜はそのやり取りを聞きながら、ふっと口元を緩めた。


————翌朝


まだ薄明るい朝の光が障子越しに差し込み、畳の上に淡い影を描いていた。千夜は、土方の部屋の布団の中でゆっくりとまぶたを開ける。昨夜の行燈の温もりがまだ残るような、柔らかな空気だった。


隣には、まだ眠っている土方の寝息。

その規則正しい呼吸を聞きながら、ふと耳を澄ます。


——コト、コト。


隣の部屋から、小さな物音が聞こえてきた。

茶器を置くような音、戸棚を開け閉めする気配。それに混じって、くぐもった男たちの声がぼそぼそと交わされている。


(……朝から、何してるんだろ)

千夜はそっと身体を起こし、布団の端を手で押さえながら音の方へ耳を傾けた。障子の向こうで、誰かが「押入れはこっちだろ」と小声で言う。


思わず口元が緩む。

——どうやら、昨日の「部屋の準備騒動」が、まだ続いているらしい。


その時、横から土方の低い声がした。

「……まだ寝てろ。あいつら放っときゃいい」


千夜は振り返り、半分眠たげな土方の顔を見て、ふっと笑った。

「うん……」


そう答えると、そっと土方の胸元に身体を寄せ、腕を回す。土方は軽く眉を動かしたが、拒むことなく片腕で抱き寄せ、また目を閉じた。


外からは、まだ押し殺した声と物音が続いている。けれど布団の中は、それとは別の、静かで温かい時間が流れていた。千夜はその鼓動を子守唄のように感じながら、再びまぶたを閉じた。


——二度寝から覚めたころ、部屋はもう静かだった。


千夜は布団の中で小さく伸びをし、ぼんやりと天井を見上げる。

隣を見やると、土方の姿はもうなく、布団の温もりだけが残っていた。


(……寝過ぎたかも)

そう思いながら起き上がると、どこからか畳の新しい香りがふわりと漂ってきた。


襖を開けると、淡い光が差し込む廊下の向こうで、永倉と原田、藤堂が何やら話しながら部屋を離れるところだった。

その背後から漂ってくるのは、きれいに拭き上げられた畳の香りと、干した布団の柔らかな匂い。

「……みんな、これ……」

千夜が隣の部屋を覗き込むと、そこには整然と片付いた押入れ、ぴんと張られた新しい襖紙、窓際に干された座布団が整然と置かれていた。


藤堂がこちらを振り向き、にやりと笑う。

「姫さん、ようやくお目覚め?」

原田は「任務完了だ」と胸を張り、永倉は「寝起きの顔、誰かに見られなくてよかったな」と茶化す。


千夜は思わず口元をほころばせ、そして小さく頭を下げた。

「……ありがとう。嬉しくて……ちょっとだけ、泣きそう」


笑顔のまま少し潤んだ瞳に、三人は一瞬黙り込み、すぐに照れ隠しのように咳払いをした。

「泣かせるためにやったんじゃねぇぞ」原田が肩をすくめ、永倉は「でもまあ、そう言われりゃ悪くねぇな」とぼやき、藤堂は「次は花でも飾ってやろうか」と冗談を飛ばした。


廊下の奥からは、低い声がする。

「……気に入ったか?」

振り向けば、土方が腕を組んで立っていた。


千夜は少し笑ってうなずく。

「うん……すごく。あったかい」


その言葉に、土方の口元がわずかに緩む。

背後の幹部たちは、何食わぬ顔で視線を逸らし、

永倉が「じゃ、俺たちはこれで」と小声で切り出した。

原田と藤堂も、気を利かせて廊下の奥へと消えていく。


二人きりになった廊下で、土方は千夜の前まで歩み寄る。

「昨日のうちにやらせてよかったな。……でなきゃ、お前が部屋に来るの、先延ばしになってた」


「でも、まだ私の物は、島原の家だよ?」

「それも今日中に持ってこさせる」

土方の言葉は淡々としていたが、その声音には「ここがもうお前の場所だ」という確かな響きがあった。


千夜は少し首を傾げ、くすっと笑う。

「でも、一人部屋って……初めてかも」


その笑みの奥にうっすら涙の光が見えて、土方は眉をひそめる。

「そうかもな……。」

短くそう告げて、大きな手で千夜の髪をそっと撫でた。


千夜は目を細め、柔らかく笑う。

障子の向こうから、庭を掃く竹箒の音がさらさらと響いていた。

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