朝の光は徐々に強まり、町筋の影がくっきりと伸びていた。
引っ越しの為、千夜の荷物を取りに行く道中、永倉は「姐さんの荷物って何があるんだ?」と軽口を飛ばし、藤堂は「山の様な衣装とかじゃない?」と笑う。原田は「重い物なら俺の担当だな」と腕まくり。
沖田は一歩後ろから歩きながら「誰が何を持たされるか、帰りが怖いな」と目を細めていた。
千夜は涼しい顔で歩いていたが、袖の奥には小さな緊張が潜んでいた。
花街の路地が近づくにつれ、往来の視線が増えていく。土方は自然と歩幅を合わせ、視線を遮るように千夜の前に出た。
格子戸が見えてくる。
朱色に塗られた格子の隙間から、薄暗い玄関土間と、奥へと伸びる畳廊下の影が覗いていた。
千夜は一呼吸置き、戸口に手をかける。
一年暮らした家の匂いが、ふっと鼻をくすぐった。
格子戸を開けると、甘くほのかな香がふわりと漂った。
土間は磨き上げられ、上がり框には白い花を挿した小瓶。奥には静かな畳の間が広がっている。
ここは千夜と梅の二人暮らしの家だった。
けれど、互いに顔を合わせる時間は少なく、最近は千夜が毎日ここに帰ることもなくなっていた。
荷物は思ったよりも少ない。
色鮮やかな帯や小袖、香道具、古い本——どれも気に入ったものばかりで、丁寧に手入れされ、長く使われている。
贅沢に物を揃えるのではなく、本当に選んだ物を大事に使う暮らしぶりが、そのまま部屋に現れていた。
几帳の向こうには梅の私物もきちんと残っているが、その多くは静かに佇むばかり。
清潔な空気の中に、生活の温もりはわずかに薄く、客人を迎えるために整えられた場所のようにも見えた。
皆、部屋を見回し、
「きれいにしてるな」「……誰もいないみたいだ」と小声を交わす。
千夜は黙って頷き、畳に膝をついて荷造りを始めた。
畳の上に風呂敷がいくつも広げられ、千夜が手際よく私物を包んでいく。
帯や小袖は色鮮やかだが数は多くない。
香道具も、漆の艶が美しい一揃いだけが丁寧に包まれていく。
見ればどれも上質で、長く使い込まれた落ち着きがあった。
「思ったより少ねぇな」永倉が帯を手渡しながら呟く。
「数じゃないの。気に入ったものを、大事に使ってるだけ」千夜は淡々と返す。
原田は隅の桐箱を持ち上げ、「軽いもんだ」と笑ったが、
中を覗いた藤堂が「……これ、全部医術書か? 異国の文字もあるぞ」と目を丸くする。
沖田は一冊をぱらりとめくり、銃の図面や火薬の配合表、刀の図面を見つけ、目だけで笑った。「へぇ。見た目によらず。ですね。」
永倉は眉を上げ、「女の荷物じゃねぇな」と半ば感心したように呟く。
藤堂は異国語の本を裏返しては表にし、「読めるのか、これ」と首を傾げる。
「まだ勉強中。」
沖田は本を静かに桐箱へ戻し、何事もなかったかのように蓋を閉じた。
永倉は「勉強中、ね……」と小さく繰り返し、口元に笑みを浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。
原田は「じゃあ、こいつは丁重に運ばねぇとな」と言って桐箱を抱え上げる。
その横で土方が黙って風呂敷の端を結び、立ち上がる。
千夜は一瞬だけその背中を見上げ、また手を止めずに荷をまとめていく。
畳の上には、彼女の過去と今が混じり合ったような包みが、次々と積まれていった。
畳の上の包みを見渡した千夜が、手を止めて幹部たちを見上げた。
「……荷物、持てそう?」
原田は桐箱を肩に担ぎ、「任せとけ、これくらい軽いもんだ」と笑う。
永倉は大きめの風呂敷を抱えて、「見た目より軽ぇな。姐さん、詰め方上手いな」と感心したように言う。
藤堂は「俺の分、もうちょっと重くしてもいいぜ? 鍛錬になるから」と茶化し、
沖田は口元だけで笑いながら、「僕の分は軽くお願いしますよ、姐さん」とひらりと手を振った。
千夜はふと手を止め、荷を積み終えた部屋をゆっくりと見渡した。一年のあいだ、梅と過ごし、笑い、時に泣いた座敷。
けれど最近は帰ることも少なく、静けさだけが残っていた。
畳に手をつき、深く一礼する。
「……お世話になりました」
その声は小さいが、確かな響きがあった。
永倉は腕を組んだまま、視線をわずかに逸らす。
原田は一瞬だけ真顔になり、「……行くか」と桐箱を担ぎ直す。
藤堂は笑いかけたが、言葉が出ず、唇を閉じた。
沖田は何も言わず、ただじっと千夜の横顔を見ていた。
土方は最後まで立ったまま、無言でその一礼を受け止めている。
千夜は立ち上がり、風呂敷を肩に掛けた。
「行きましょう」
短くそう言って、格子戸へ向かう。
土方が戸を開け、一行は花街の朝のざわめきの中へ歩き出した。
花街を抜け、大通りに出てしばらく歩いたころ。
朝の空気はすでに柔らかく、石畳には通りを渡る人々の影がちらほらと落ちていた。
千夜は肩の風呂敷を持ち直し、前を歩く幹部たちに声をかける。
「ねぇ、荷物置いて片付けたら……引っ越し蕎麦を食べに行こう」
振り返った永倉が「お、いいじゃねぇか」と笑い、藤堂は「もちろん姐さんの奢りだよな?」とすかさず茶化す。
千夜はにっこりと笑い、「もちろん。今日の働き分、みんなのご褒美」
原田は「じゃあ、重いもん運んだ俺は二杯だな」と肩の桐箱を軽く揺らし、沖田は口元だけで笑って「僕は天ぷら付きでお願いします」とひらりと言った。
その笑い声に、土方は何も言わず歩みを緩め、千夜が隣に並んでいく。
————壬生・屯所
幹部たちは荷をそれぞれの場所に置き、風呂敷をほどき始める。
「姐さん、これ押し入れに入れちまっていいか?」永倉が畳の上に置いた包みを指差す。
「うん、お願い。それは奥の段の左」千夜は迷いなく指示を飛ばす。
原田は桐箱をそっと棚に収め、「ほらな、無傷だろ」と胸を張る。
「ありがと。さすが、頼りになる」千夜が笑うと、原田は照れくさそうに鼻をこする。
藤堂は香道具を並べ、「この漆の艶、いいなぁ」と感心していると、沖田が「落とさないでくださいよ」とさらりと釘を刺した。
土方は自分の持ってきた包みを畳に置き、「終わったらすぐ出るぞ」と短く告げる。
片付けは驚くほど早く終わった。
千夜が最後に戸棚の引き戸を閉め、「よし、これで完了」と手を叩く。
「じゃ、行こうか。引っ越し蕎麦」
千夜が声を上げると、永倉が「おぉ!」と喜び、藤堂は「天ぷらは譲らねぇぞ」と笑う。
原田は「二杯な」と改めて主張し、沖田は「僕はそば湯も欲しいですね」とさらりと乗っかる。
土方は口元をわずかに緩め、「行くぞ」と一言。そうして一行は、昼前の陽射しの中、町の蕎麦屋へと歩き出した。
————蕎麦屋
昼近く、町筋の角にある蕎麦屋に入ると、出汁の香りと湯気が迎えてくれた。
磨かれた木の卓に腰を下ろすと、すぐに湯呑と温かな茶が配られる。
「天ぷらそば一つ!」藤堂が真っ先に声を上げ、永倉が「おい、姐さんの前に頼むなよ」と笑う。
「いいのよ、好きなもの頼んで」千夜は笑って手をひらひらと振る。
原田は「じゃあ、二杯な。俺は男前だから並でいい」と冗談を言えば、
沖田が「男前は関係ないでしょう」と茶をすすり、場を和ませる。
土方は注文を聞きながら、何も言わずに千夜の隣に座っていた。
ただ時折、茶を口にしながら横目で千夜の様子を見ている。
千夜は笑顔で会話に加わっていたが、胸の奥には小さな違和感があった。
——なんだか少し、熱い。
座敷の空気か、湯気のせいか、自分でもよく分からない。
けれど、そんなものは気のせいだと心の奥に押し込み、箸を手に取る。
やがて、湯気を立てた蕎麦が運ばれてくる。
「いただきます」と皆が声をそろえ、箸の音と笑い声が交錯する。
千夜も口に運び、その温かさに少しほっとする。
この席にいる全員の顔を見渡しながら、心の中でそっと呟いた。
——今日から、ここが私の居場所になる。
新しい生活の始まり。
その胸の奥に宿った温もりと、気付かぬほどのかすかな熱を抱えたまま、千夜は箸を進めた。
食事を終えて暖簾をくぐると、昼の光が少し眩しく感じられた。
通りには人通りが増え、商いの声や子どもたちの笑い声が混ざり合っている。
「いやぁ、旨かったな!」永倉が満足げに腹を叩く。
「姐さん、ごちそうさま」原田も笑い、肩の力が抜けたような表情を見せた。
「また奢ってくださいね」藤堂がちゃっかりと口にすれば、千夜は「ふふ、頑張ったらね」と返す。
沖田は千夜の隣を歩きながら、「蕎麦、全部食べきれましたね」と穏やかに言った。
「ええ、美味しかったから」千夜は微笑むが、ほんの少しだけ足取りがゆっくりになる。
土方はそれに気づき、ちらりと視線を送ったが、何も言わず歩調を合わせた。
日差しは柔らかく、街角には早咲きの花が色を添える。その道を、一行は屯所へとゆっくり戻っていった。