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第26話

――夕刻、壬生屯所。

蕎麦屋から戻ったばかりの廊下には、まだ外気の冷えが入り込んでいた。


千夜が草履を脱ぎ、新たな自室へ足を踏み入れようとしたとき、背後から声が落ちてくる。


「疲れただろ?」


振り返ると、外套を脱ぎながら土方がこちらを見ていた。目は鋭いが、声音はやわらかい。


「……平気。

よっちゃん、大袈裟だよ。」


そう答えてみせた千夜の肩に、土方の手がそっと置かれる。そのまま座敷へと導かれ、畳に腰を下ろすと、背筋から力が抜けていった。


障子の外。

廊下の陰で、永倉が腕を組みながらぼそりと呟く。


「……やっぱ疲れてたんだな」


「顔色、蕎麦屋の帰りから薄かったですもん」

藤堂が低く返す。


原田は少し首を傾け、「まぁ、土方さんが気づいてんなら大丈夫だろ」と笑って肩をすくめた。障子越しに聞こえる土方の声は、やけに落ち着いていて、誰も茶々を入れる気にはならなかった。


障子が静かに閉じられると、座敷には土方と千夜だけが残った。

畳に身を預けた千夜は、まだ外套の温もりを残したまま、いつの間にか呼吸を深くしている。


その顔を覗き込み、土方は小さく鼻を鳴らした。


「……何が大袈裟だよ。馬鹿」


昼間、「平気」と笑って見せた彼女の言葉を思い返しながら、低く呟く。

指先で前髪をそっと払い、頬にかかった影を取り除くと、襦袢の襟が少し崩れているのに気づく。


土方は、音を立てぬように膝を寄せ、そっと襟元を整えた。

胸元に触れるか触れないかの距離で手を止め、乱れが直ったのを確かめると、掌を引く。

そして一拍置いて、眠る千夜の手を軽く包んだ。


その手は思ったよりも冷えていて、自然と握る力が強くなる。

数呼吸のあいだ、脈の穏やかな拍動を感じ取り、そっと指を離した。


立ち上がる前に、土方は外套を千夜の肩へ掛け直した。淡い香とともに、外から入り込む冷気を遮るように。その動きひとつに、千夜は夢の中で微かに息を緩めた。


――こうして同じ屋根の下で過ごせる。

朝も夜も、帰ればそこにいる。

その当たり前が、どれだけ手に入れがたいものか、痛いほど知っている。


指先に残る、冷たく小さな手の感触。

襦袢を整えたときに感じた体温。

そのすべてが、自分にとっては何よりの証だった。


「……もう、離す気はねぇからな」

声にならぬほど小さく唇が動く。


ふと、外套の温もりに包まれた千夜が、まぶたをうっすらと開いた。

まだ夢の中と現のあわいにいるような瞳が、すぐそばの土方を見つける。


「……よっちゃん……」


掠れた声とともに、わずかに口角が上がる。

それは意識しての笑みではない、安心から零れた自然な表情だった。


土方は短く鼻を鳴らし、「寝てろ」とだけ言って、外套の端をもう一度掛け直す。千夜は小さく頷くように目を閉じ、呼吸を整えて再び眠りへ落ちていった。


障子の向こうでは、永倉たちが互いに視線を交わし、何も言わずにその場を離れていく。

廊下に残ったのは、冬の夜気と、室内からこぼれる静かな安堵の気配だけだった。



――夜半。


耳の奥に、虫の音も雪解けの水音もない。

ただ、静まり返った空気と、時折どこかで床板が鳴る音だけが満ちていた。


千夜は、薄暗い天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。

目を覚ますと、そこは皆が用意してくれた新しい自室だった。

畳も、襖も、掛けられた布団の匂いも――悪くはない。

けれど、まだ体に馴染まない。


指先で布団の端をつまみ、何度か握っては離す。

耳を澄ますと、遠くで見回りの足音がかすかに響いた。

その音が途切れると、また一層の静けさが押し寄せる。


(……よっちゃん)


名前を呼びたくなるのを堪えて、枕に顔を沈める。

昼間、外套を掛け直してくれた温もりがまだ残っている気がして、胸の奥がじんわりと熱くなる。


けれど――やっぱり、この部屋の匂いはまだ“自分のもの”じゃない。その心細さが、目を閉じてもなかなか眠りを連れ戻してくれなかった。


――明け方。


薄明かりが障子越しに差し込み、室内に淡い白が広がっていく。

土方はいつものように浅い眠りからゆっくりと目を開けた。


……妙に、胸のあたりが温かい。

視線を落とすと、布団の端から黒髪がのぞいている。


千夜だった。

自分の布団に、いつの間にか潜り込んできている。

肩までしっかり布団に包まり、こちらに背を向けて小さく丸まっていた。


昨夜の様子を思い出し、土方は短く鼻を鳴らした。

「……ったく、慣れねぇ部屋だとこれか」


苦笑まじりに呟きながら、掛け布団を少し引き上げ、千夜の肩口にしっかり掛け直す。

その拍子に、彼女がふわりと身じろぎし、無意識のまま背中を寄せてきた。


外では、まだ屯所の朝は始まっていない。

静けさの中、土方はしばらくその温もりを受け入れ、もう一度目を閉じた。


外の空が白み始めたころ、千夜がもぞりと身じろぎした。

黒髪がわずかに揺れ、やがて布団の隙間から顔を覗かせる。


まだ半分夢の中のような目で土方を見上げ、

「……寒かったから」

と、小さく呟く。


土方は短く鼻を鳴らした。

「だったら呼べ。わざわざ忍び込む手間なんざいらねぇだろ」


千夜は布団の中で肩をすくめ、唇にわずかな笑みを浮かべる。

「呼ぶより……忍び込む方が得意」


その答えに、土方は呆れたように眉を寄せつつも、口の端がかすかに上がった。

「……あぁ、そうだな。そういう女だった」


千夜は何も言わず、再び背中を寄せて目を閉じる。土方はその温もりを受け止めながら、頭に手を置き、ゆっくりと髪を梳いた。


ふと、千夜が薄く目を開けた。

まだ眠りの余韻をまとったまま、そっと土方の手を探し、握り締める。


「……寒かったけど、もう平気」


小さな声に、土方は視線を落とす。

握られた手は細く冷えていたが、じきに掌の中で温もりを取り戻していく。


「だったら、もう少し寝てろ」


そう言った矢先、千夜がゆるりと顔を近づけた。寝ぼけたまま、ためらいもなく唇を寄せてくる。その温かさに、土方は瞬きをひとつだけし、受け止めた。


――離す気はねぇ。


声にはせず、胸の奥で静かに呟く。

唇が離れても、千夜の手はしっかりと彼の手を握ったままだった。

朝の白い光は、障子を透けて淡くにじみ、二人の影をひとつに溶かしていた。


やがて外では、廊下を行き交う足音や、桶の水を汲む音、湯気の立つ匂いとともに、幹部たちの生活音が少しずつ動き始める。日常が戻ってくる音の中、室内だけはまだ、静かな温もりに包まれていた。


――朝餉の席。

湯気の立つ膳の向こう、千夜はまだ夢と現の境を漂っているようだった。


箸をそっと持ち上げはするものの、唇にそっと添えたまま動かない。その長い睫毛がゆるやかに伏せられ、瞼が静かに降りていく。


幹部たちの視線が、自然とそこへ集まった。

原田は噴き出しそうになるのを堪え、永倉は小声で「寝るぞ、あれ」と囁く。

土方は片眉をわずかに上げただけで、何も言わず見ていたが――


「……千夜」

低く、けれど確かに耳に届く声。


「はいっ?」

思わず背筋を伸ばし、間の抜けた返事をしたその瞬間――

かちゃん、と乾いた音が膳に響き、箸が指先から滑り落ちた。


湯気の向こうで、永倉が肩を震わせ、藤堂は口を押えて笑いを堪えている。

平隊士たちまでも、手を止めたまま視線を逸らしきれず、ちらちらとこちらを盗み見ていた。


土方はそんな視線を一瞥だけで払い、膳越しに手を伸ばして千夜の耳の後ろにかかる髪をそっと払う。

その指先が耳朶にかすかに触れた瞬間、千夜の瞼がぱちりと開き、肩が小さく震えた。


「……食え」

短い一言に、千夜は頬を赤くしながら箸を持ち直す。


そのやり取りを見ていた沖田が、味噌汁をすすりながらぽつりと、

「……朝から甘いですね、土方さん」

と呟く。


一瞬、場が静まり、笑いを噛み殺す音が広がった。千夜は小さく眉を寄せ、土方の袖をそっと引くと、

「……ごめん」

と囁く。


その声音は、眠気の残る柔らかさに、ほんの少しの照れが混じっていた。

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