山の裾野に、夜の帳が降り切る頃。
「た、大変だ!!!おーーーい!みーーーんな!!イヌガミが来たぞ!!」
甲高く、震えた声が谷間を走る。声の主は、ウジャ。夜風を切り裂くような叫びに、いくつかの戸がきしみ、怯えた顔がのぞく。
「食料無くて、山から降りて来てるだ!!!年寄りと子供は、家隠れろ!!!大人は、加勢してけれ!!!!」
息を切らし、目を見開いた少女――山に育ち、祖母の死とともに村の記憶から薄れかけた存在。ウジャの小さな背は、弓と鉈に引っ張られるように傾いていた。
だが村の空気は冷たい。
「………なんだぁ?……こげな夜中に…イヌガミ?そんななぁ、いねぇだろがよ…」
灯の洩れる縁側で、茶を啜る老人が鼻を鳴らす。
「だいたい、誰だぁ?気狂いしたよな、声ぇ出して叫んでんのはよぅ……」
別の声が返す。ゆっくりと湯呑を置く音と、ため息。まるで厄介な雨音を遠ざけるような調子で。
「あぁ…あれだぁ、アイ婆さまんとこのウジャとか言ってたかぁ…」
「……あの小汚ねぇのが……ナンでもイヌガミ?だと…」
かつて村の賢女と呼ばれたアイ婆の家。今では屋根の藁も朽ちて、そこに住む子どもは“野良”のような扱いを受けていた。
「まぁ、今年はよぉ……変なさ、天気が続いてよぅ、山の下でも不作続きだからよなぁ……」
呟く言葉に、どこか恐れの匂いが滲むが、誰もそれを口にしない。村には“黙っていれば平穏”という風習が、土に染みるように根付いていた。
「とりあえず、戸……しっかり閉めてさぁ、寝んべよぅ……」
重い木の戸がひとつ、またひとつ、音を立てて閉まる。
残されたウジャの足元には、冷たい夜露が降りていた。