晩春とはいえまだ肌寒さの残る夜、ロザリー・フォン・アーデンは絢爛たる宮廷の大広間に立っていた。漆黒の夜空を飾る星々も羨むほどに明るい燭台の光が、彼女の白銀のドレスをまばゆく照らしている。ドレスの袖口や裾には繊細な刺繍が施され、まるで月の光を纏ったかのような雰囲気を醸し出していた。長い金の髪はうなじのあたりで一つにまとめられ、その房を銀細工の簪が優雅に支えている。その姿は、公爵令嬢という地位が与えられた者としてはもちろんのこと、一人の女性としても完璧と言えるほどに洗練されていた。
けれど、ロザリーの双眸には微かな陰りがあった。光が当たれば当たるほど、奥底に落ちる影がはっきりと浮かび上がるかのようだった。そんなロザリーの表情の変化を敏感に捉えたのは、彼女の侍女であり幼少期からの側近でもあるリーゼル・ブラスである。ロザリーが心の奥を表に出すことはめったにない。それでもリーゼルには、わかるのだ。今宵の祝宴には、どこかただならぬ空気が漂っている。まるで、夜の闇が風に乗せて不穏な噂を囁いているようだった。
「ロザリー様、何かお気がかりでも……?」
リーゼルは周囲に聞こえないよう、小声でロザリーに囁く。彼女はすでにロザリーが普段とは違う胸のざわめきを感じていると悟っていた。ロザリーはほんの一瞬だけ視線を落とし、そしてすぐにいつもの端正な微笑みを浮かべる。
「……いいえ。大丈夫よ、リーゼル。ただ、少し胸騒ぎがするだけ。」
笑みこそ保っているが、その瞳はどこか冷静に周囲を見渡していた。この夜会は、本来なら王家とアーデン公爵家のさらなる結束を示すための華やかな場である。王太子エドワード・カミル・レグノードと、ロザリー・フォン・アーデンの婚約を公式にお披露目する場でもあるからだ。王国にとっても、両家にとっても重要な儀式。新しい時代の繁栄を担う二人の姿は、明日の新聞紙面を飾るだろうし、貴族や市民たちの大きな関心事になることは間違いない。
しかし、王太子であるエドワードはまだこの場に姿を見せていない。もちろん、王族ゆえの繁雑な用事があるのかもしれないし、わざと“遅れて現れる”ことで華やかさを演出する考えがあるのかもしれない。だがロザリーは、ただの遅刻ではないような、不思議な焦燥感を感じ取っていた。それも、長年の“勘”によって。
婚約者である自分を、王太子は決して待たせるような男ではない――そう信じていた。けれど、心のどこかがざわつくのを止められない。
広間には既に多くの貴族たちが集まっていた。華麗なドレスやタキシードに身を包んだ紳士淑女が、音楽に合わせて優雅に舞い、あるいは楽しげに会話を弾ませている。ロザリーも普段なら、社交界の花形として多くの人々に囲まれ、軽妙な受け答えをしていたはずだ。しかし今夜ばかりは、胸の奥にある違和感が大きすぎて、誰かと言葉を交わす気分になれなかった。
そんなロザリーの気持ちを察したのか、一人の貴族夫人が心配そうに歩み寄ってくる。メアリー・エルズウィック夫人だ。彼女はアーデン家と古くから親交のある伯爵家の出身で、ロザリーの母とも仲が良い。
「ロザリー様、大丈夫? 少しお顔の色が……」
「お気遣いありがとうございます、メアリー夫人。……少し夜風が強かったのでしょうか。体調を気遣ってくださり感謝します。」
そう言うと、ロザリーは軽やかに一礼する。彼女の微笑みはあくまで完璧な貴族令嬢のそれだったが、メアリー夫人はなおも心配そうだった。もしかすると、王太子の遅れと結びつけて考えているのかもしれない。ロザリーは自分の動揺を悟られぬよう、瞳を伏せてそっと息を整える。そして、微笑みの仮面をより固くするように心を決めた。
すると、広間の入り口が少しざわめくのがわかった。華麗な青と金の装い――それは王太子を象徴するカラーだ。人々の視線が一斉にそこへ集中する。やっとエドワードが到着したのだろう、とロザリーは思った。そして同時に胸のざわめきが、先ほどよりも強く大きくなるのを感じた。
――嫌な予感がする。
その瞬間、ロザリーの視界に飛び込んできたのは、見慣れぬ女性の姿だった。王太子のそばで、彼の腕をしっかりと掴み、まるで恋人のように寄り添っている。一瞬、何かの見間違いかと疑ったほどだ。しかし、周囲の人々の表情やヒソヒソと交わされる声を聞けば、現実なのだということを突きつけられる。
「王太子殿下の腕にしがみついている、あれは誰……?」
「聞いたことがあるわ。平民出身だけれど、最近“聖女の力”が与えられたと噂の……」
「まさか、こんな場で……ロザリー様に対して失礼にもほどがあるわ。」
人々の囁きが薄く伝わってくる。ロザリーの周囲にいた貴族たちは一気に動揺し、視線をあちこちに飛ばし始める。いつもは社交的で、挨拶にも余念のないエドワードが、どういうつもりでこんな行動を取っているのか、誰にも理解できなかった。もちろん、ロザリー自身にもその意図はわからない。ただひとつ感じるのは、あまりにも露骨な“軽蔑”の空気だ。
そしてエドワードのそばにいるその女性――透き通るような茶色い髪を、ロングヘアのまま下ろしている。白いドレスに淡い花のコサージュをつけ、はにかむように微笑んでいる。顔立ちは確かに整っているが、貴族の娘たちに比べればドレスの質は劣るし、振る舞いもどこか素朴だ。だが、その女性の瞳には奇妙な輝きがあった。清廉と言えなくもないが、どこか底意地の悪そうな、それでいて“人を惹きつける”力のようなものを感じる。
「……セシリア・ブランシュと申します。ロザリー様、ご挨拶が遅れて申し訳ございません。」
女性がロザリーのほうに向き直り、深々と頭を下げた。ここで初めて、正式な名乗りがなされた。しかしロザリーは心中の混乱を隠しきれない。平民出身であるにもかかわらず、どうしてここまで堂々と“王太子の隣”を歩けるのだろう。しかも今夜はロザリーとエドワードの婚約を祝福するための宴だというのに。
その問いを代弁するように、隣にいたリーゼルが怒りに満ちた目を隠そうともせずに睨んでいる。が、侍女としての分をわきまえ、口を開くことはしない。
エドワードは、まるで誇らしげにセシリアの肩を抱き、周囲を見回していた。ロザリーが見る限り、その表情には一切の気遣いがない。むしろ、これ見よがしにロザリーの前まで歩を進めた。そして周りの貴族たちに聞こえるよう、はっきりとした声で告げる。
「皆に報告がある。僕は真実の愛を知ったのだ……。ロザリーとの婚約は、正式に解消するつもりだ。」
その瞬間、大広間全体が凍りついたかのように静まり返った。まるで時間が止まったかのように、誰もが言葉を失う。王太子とアーデン家の婚約は、すでに国家規模の慶事として広く知られていた。近く正式な挙式も行われ、王太子妃となるロザリーは国を支える存在として期待されている。にもかかわらず、本人の口から“解消”と発せられるなんて、信じられないという表情の貴族たちが多かった。
しかし、エドワードは怯むどころかさらに言葉を続ける。
「僕はずっと気づかなかった。ロザリーと過ごすうちに、自分はただ“義務”として彼女と一緒にいようとしていたに過ぎない。けれど、セシリアに出会ってしまった以上、僕はもう偽りを続けることはできないのだ……! 偽りの婚約を強要してしまって、ロザリーには悪いと思っている。だが、これ以上欺きたくないんだ!」
ロザリーは冷静な自分と、動揺している自分の2つの感情がせめぎ合うのを感じた。確かに、エドワードの言葉には一理あるのかもしれない。かつては“王家と公爵家の安泰”を最優先に考えた政略婚だったのは事実だ。それでも、ロザリーは自分なりにエドワードを支えようと努力してきた。王太子妃となるための勉学も、外交の手腕も、彼女は余すところなく身に着けていた。そこに“偽り”などないはずだった。
だが、エドワードが「愛を見つけた」というのであれば、当人の心を変えることは難しい。ロザリーは必死に胸を痛めながら、それでも貴族令嬢としての威厳を失わぬよう、息を整える。
――落ち着いて。ここで取り乱したら、アーデン家の名誉に傷がつく。こんな場でわたくしが涙を流したりすれば、それこそ貴族たちの好奇の的になるだけ。ましてや彼がこんなふうに女性を連れ込んでまで婚約解消を宣言した以上、今さら彼を責めたところでどうなるというの?
ロザリーの耳には、人々の動揺したざわめきがはっきりと聞こえていた。あまりにも急な“婚約破棄”の宣言に、女性たちは絶句し、男性たちは眉を顰めている。アーデン公爵家の令嬢をここまで侮辱するとは、王家としての面目も丸潰れだろう。いや、国そのものにも悪影響があるに違いない。
(でも……)
ロザリーはスッと背筋を伸ばす。澄んだ青い瞳をエドワードに向け、いつものように優雅な微笑みを浮かべた。その笑みは、周囲が思わず息を呑むほどに艶やかで、それでいてどこか冷たい。炎のような激情ではなく、凍りつく氷の刃を思わせる光を宿している。
「……わかりましたわ。エドワード殿下が本当にそれを望まれるなら、わたくしにはもう何も言うことはございません。」
どよめく声が広間を支配する中、ロザリーはゆっくりと言葉を続ける。
「それでは……この場で、わたくしとエドワード殿下との婚約は破棄ということでよろしいのですね?」
かすかな威圧感を伴いながら告げられたロザリーの言葉に、エドワードは一瞬動揺した。ロザリーが泣いてすがりつくか、激昂して剣幕を振るうとでも思っていたのだろう。しかし、そのどちらでもない。まるで穏やかな湖面のように一切の波風を立てず、それでもきっぱりと“確認”をする。その声には、高貴さと知性、そしてどこか冷徹な断絶が混ざり合っていた。
「……あ、ああ。そうだ。」
エドワードは言いよどみながらもうなずく。セシリアが彼の腕をさらに強く握り、うるんだ瞳でロザリーを見つめる。舞台の上で芝居をする役者さながらの仕草だ。
「ロザリー様、本当に……申し訳ございません。でも、愛は止められないのです。どうかお許しくださいまし……」
セシリアのその言葉は、芝居がかっているとも、心からの言葉とも取れる。しかしロザリーは冷静に判断する。少なくとも、この女性のために今まで築かれてきた婚約のすべてが踏みにじられるとは、信じたくない現実だった。しかし、それが“事実”となった今は、受け止めるしかない。
「許す、許さないの問題ではありませんわ。」
ロザリーは淡々と答える。もうここまできたら、悲嘆に暮れても何の得にもならない。自分のプライドを守るためにも、そしてアーデン公爵家の令嬢としての誇りを保つためにも、毅然とした態度を貫く必要がある。
「わたくしは、エドワード殿下が望まれるようにいたします。――その代わり、今後、アーデン家と王室の間にどのような影響が生じるかは、すべて殿下が責任をお取りになると、そう理解してよろしいですか?」
広間に再び緊張が走る。ロザリーが放ったその言葉は、決して一人の女性の感情論では終わらせないという、暗黙の警告にも聞こえた。王太子がアーデン家に対して“ただのわがまま”でこんな仕打ちをするなら、国としての安定が大きく揺らぐかもしれないのだ――と。
「責任など……そんな大げさな……!」
エドワードは一瞬、動揺の色を濃くする。しかしすぐに、セシリアが彼の背を撫で、落ち着かせるような仕草をする。それを見たロザリーは、胸の奥に熱い怒りと冷たい諦念がないまぜになった感情を感じた。けれども、彼女はそれを決して表には出さない。
「……とにかく、僕はもう決めたんだ。ロザリー、君とは婚約を解消する。これは王家の正式な意志だ。」
「そうですか。では、国王陛下のご裁可は、すでに下りているのですね?」
ロザリーは最後の確認をする。国王陛下がこれを認めていない限り、ただの王太子の独断でしかない。もし独断であれば、あとで国王や重臣たちから取り消される可能性もある。しかし、エドワードはロザリーの問いに、少したじろいだ様子を見せるものの、すぐに声を張り上げて宣言する。
「もちろんだ。父上には、もう相談済みだよ。」
「……承知いたしました。」
その答えを最後に、ロザリーは会釈をすると、踵を返した。広間にいる貴族たちの視線は痛いほどに背中に突き刺さったが、彼女は慣れた足取りでその場をあとにする。誰一人として、ロザリーを引き止めることはできなかった。むしろ、あまりの冷静さに声を掛ける隙がなかったのかもしれない。
リーゼルだけが、ロザリーのあとを追うように足早に退出していく。その背中からは、悔しさや怒りや悲しみといった感情が混ざり合った見えないオーラが、ほんの微量に漏れ出ていた。
大広間に残されたエドワードとセシリア、そして貴族たちは、その場に残るしかない。すでに祝宴という雰囲気は霧散し、ただ重苦しい空気が漂っていた。
ロザリーは一度も後ろを振り返らなかった。
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静寂の回廊で──沈黙の涙
宮廷を出た廊下をしばらく進んだ先、外へ繋がる裏口に通じる細い回廊に差し掛かったところで、ロザリーはふと足を止めた。華やかな舞踏会の音色が遠くに聞こえるだけで、人影はほとんどない。この場所はあまり人が通らない裏の通路だ。ここでようやく、ロザリーは瞼を伏せ、少しだけ息を震わせた。
「……ロザリー様……」
すぐ後ろに従っていたリーゼルが、申し訳なさそうに声をかける。どんな言葉をかければいいのか、リーゼル自身が一番わからない状態だった。ロザリーがどれほどの思いで、婚約者である王太子を支えてきたかを、彼女は痛いほどよく知っている。政治的に有能なロザリーは、ある意味“好きだから”“結婚したいから”というよりは、“国のため・家のため・そしてエドワードのため”に懸命に努力してきたのだ。そうするうちに、ロザリーの胸にも確かな愛情が芽生えたのではないかと、リーゼルは感じていた。
しかしその努力も、今宵の“あの場”であっけなく踏みにじられたのだ。
「……大丈夫よ、リーゼル。」
ロザリーはそう言いながら、静かに目を開く。長いまつ毛が、夜の薄明かりにほんのりと揺れる。涙は流していない。しかし、その瞳は確かな悲しみを宿していた。
「“あれ”がエドワード殿下の本心なのでしょう? だったら、仕方がないわ。」
「ですが……あんな形で、いきなり婚約破棄を……。しかも、あの女性を伴って……」
リーゼルは怒りを抑えきれない様子だ。貴族の令嬢であるロザリーを、あれほど無礼な形で侮辱するなど、本来ならあってはならない。ましてや相手は王太子という、国の象徴とも言うべき立場なのに。
「侮辱……そうね。でも、あれが彼の選んだ道なら仕方がないでしょう。わたくしは……いかなる理由があれ、無理矢理に婚約を続けることはできないもの。」
ロザリーは、ドレスの裾をほんのわずかに握りしめた。その手の震えを感じ取ったリーゼルは、言葉を失い、そっと視線を落とす。強くあろうとするロザリーを気遣いながらも、どうしても悔しさが込み上げてしまう。
(ロザリー様は本当に、いつだって優雅で、心優しくて……。どうして誰も、そんなロザリー様の苦しみに気づいてくれないの?)
そう思ったとき、回廊の奥から一人の男性が姿を現した。アーデン公爵家の執事、ニコラス・レインである。年配だが背筋はピンと伸び、ロザリーが幼い頃から家を支えてきた頼もしい存在だ。彼は眉間に深い皺を寄せ、やや急ぎ足でロザリーのほうへ近づいてくる。
「ロザリー様……今宵のことは、一体どういうことなのでしょうか? すでに公爵閣下にも連絡が入り、動揺されておりますぞ。」
ニコラスの言葉に、ロザリーはやや苦笑する。結局、こんな大事が起きれば、すぐに実家のアーデン公爵にも知れ渡るのは当然だ。ニコラスも、慌ただしく宮廷を捜し回ったに違いない。
「……ニコラス、申し訳ないわね。きっと父様も驚かれているでしょう。今のわたくしにも、何がどうなっているのか、全貌はつかみきれていないのだけれど……一つだけ確かなのは、“エドワード殿下との婚約は破棄になった”という事実よ。」
ニコラスは苦々しい表情でうつむく。しかし執事として落ち着きを保ち、すぐに言葉を発する。
「この件、公爵閣下に詳細を報告し、今後の対処を検討しなければなりませんな。……ロザリー様はどのようにお考えですか?」
「わたくしは、殿下が決めたことなら、それに従うだけです。ただ、“それなりの責任”を取っていただく必要はありますが。」
ロザリーの声は静かだが、その奥には強い意志が感じられた。王太子という立場だからと言って、アーデン家を侮って無傷でいられるほど、この国の貴族制度は甘くはない。公爵家は王家に次ぐほどの影響力を持つ大貴族だ。政治や外交、経済面で支えていたのは事実であり、それをロザリーひとりの我慢で終わらせるなど考えられない。そもそも、本人も簡単に泣き寝入りするつもりはないだろう。
「わかりました。では公爵閣下にお伝えします。……今夜は、もうお屋敷へお戻りになられますか? このまま宮廷に残っても、ロザリー様が辛い思いをするだけです。」
ニコラスの申し出に、ロザリーはうなずく。確かに、これ以上ここにいても何も得られない。むしろ、ヒソヒソと好奇の目で見られるだけだ。それならば早々に立ち去り、今後の方針を家族と相談したほうが得策だろう。彼女が一人で抱え込むには、あまりにも問題が大きい。
「ええ、そうしましょう。リーゼル、荷物をまとめてちょうだい。……このドレスは返却の必要があるから、後で宮廷仕立て室へ連絡をしておいて。」
そう、平静を装いつつ指示を与えるロザリー。リーゼルは胸の奥が痛んだが、それでも声を張り上げて答える。
「かしこまりました、ロザリー様。」
こうして、今宵の祝宴は最悪の形で幕を閉じ、ロザリーは婚約者であった王太子からの突然の破棄宣言を受けたまま、宮廷を後にすることになった。これが世の中で言う“婚約破棄”なのだと、ロザリーは自分の中で必死に理解しようとする。それでも、ふと膨れ上がりそうになる悲しみを押さえ込むために、歩を進めるたびに心を閉ざすようにしていた。
――泣くのは、まだ早い。すぐには泣かない。こんなところで取り乱しても何も変わらない。
歯を食いしばって、ロザリーは夜の宮廷を去る。明日、あるいは近いうちに、この破局の報せが国中に広まることだろう。そして王宮内や貴族社会では、様々な憶測が飛び交うに違いない。「アーデン家の令嬢が何か失態を犯したのでは?」「王太子が急に愛人を作った?」など、根拠のない噂や噂が、まるで毒の花のように咲き乱れるのが目に見えている。
ロザリーにとっては、まさしくこれからが本当の戦いの始まりだった。
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公爵邸での夜──父と娘の対面
アーデン公爵家の馬車が宮廷を出て公爵邸へ戻るまで、ロザリーはほとんど口を開かなかった。リーゼルもニコラスも、声をかけようか迷いながらも、彼女が話す気力を失っているのだろうと察して、静かに寄り添う。馬車の車輪が石畳を走る心地良いリズムさえ、今のロザリーにとっては無機質に思えた。
公爵邸の玄関に到着すると、そこにはアーデン公爵――ロザリーの父、ルパート・フォン・アーデンが待ち構えていた。年齢にして五十代半ばだが、その堂々たる風貌と鋭い眼光は、衰えを感じさせない。いつもは穏やかでユーモアに満ちた父だが、今は険しい表情を浮かべている。
「ロザリー……」
ひと目娘の姿を見たとき、ルパートはすぐにその様子がおかしいと悟ったのだろう。いつもなら堂々としている娘が、まるで羽根を失った天使のように疲れ切った表情をしている。その瞳には明らかな悲しみの色が滲んでいた。愛娘がこんなにも傷ついている姿を見て、ルパートの胸には怒りが沸き上がる。
「詳しい話はまだ聞いていないが……いきなり婚約破棄とは、一体どういうことだ。王太子殿下が、何を考えておられる……!」
声を荒げたわけではないが、その一言には大きな威圧感が込められている。平常時のルパートなら、もっと冷静かつ余裕をもって対応するはず。しかし今回は、娘のロザリーが踏みにじられた事実が、彼の理性を揺るがしていた。
ロザリーは父の前で深く頭を下げる。謝罪の意思というより、まずは報告の意味合いが強かった。
「父様、申し訳ありません。……実は今夜の宮廷で、王太子殿下が突然、“真実の愛を見つけた”と言って平民の女性を連れてきて、わたくしとの婚約を破棄すると一方的に宣言したのです。」
短い言葉にまとめられたその内容の衝撃は、ニコラスから聞いた仮情報よりもはるかに大きい。ルパートは歯ぎしりし、拳を強く握りしめる。
「なんという……! 平民の女性を連れ込んで、娘を差し置いて婚約を破棄するなど聞いたことがない。王家と公爵家の関係を何だと思っているのだ。……それで、国王陛下はどう動いておられるのか?」
「殿下は“国王陛下の承諾を得ている”と言っておられましたが、本当かどうかはまだわかりません。王宮内の権力争いや、殿下を利用しようとしている者が絡んでいるのかもしれませんし……。」
ロザリーは確信こそないものの、冷静に分析しようとしていた。一方で、ルパートは「なるほど」と低く唸る。宮廷には複雑な利権が絡んでいるのは事実だ。アーデン家と王太子を引き裂けば、得をする勢力がある可能性は否定できない。だが、ここまで露骨な形で動くとは、さすがに想定外だった。
「とにかく……今宵はもう遅い。ロザリー、まずは休みなさい。詳しいことは明日以降、改めて話し合おう。私も私で、王宮筋に当たって事実を確かめる。相応の対策を考えねばならん。」
「……ありがとうございます、父様。」
ロザリーは父に感謝し、邸内へと足を踏み入れる。家令や使用人たちも今の状況を察してか、声をかけることなくロザリーの通り道を開ける。いつもであれば、帰宅するときには「お疲れさまでした、ロザリー様」と明るく出迎えてくれるのに、今夜は皆、沈痛な面持ちで彼女を見守るだけだった。
自室に戻ったロザリーは、ドレスのまま寝台に腰を下ろす。そして、やっと静かな空間に身を置いたとき、初めてこみ上げる涙を感じた。
(なんで、こんなことに……)
誰にも見せず、こぼれた涙は二筋三筋と頬を伝う。リーゼルは入室しようか迷ったが、ノックをする前に思いとどまった。きっと、今はロザリー一人にしておいたほうがいい。その心の中には、何が起こったのか整理できないままの痛みがあるのだから。
ロザリーは枕元に置いてある小さな宝石箱に目をやった。そこにはかつてエドワードから贈られた小さなペンダントが収められている。恋愛感情というよりは、政治的な婚約者としての立場を明確にするための贈り物だった。しかし、あの頃のエドワードはまだ誠実だったし、ロザリーも彼を支えようと思っていた。いつかは偽りではない“愛”が芽生えると、そう信じていた部分もある。
(でも、それも終わり。全て……終わってしまった。)
決して深く愛し合っていたとは言い難い。しかし、少なくとも裏切られるほど“無下”にされるようなことはないと信じていた。だが現実は、セシリアという女性を連れてきて、心ない言葉で婚約破棄を告げる――この仕打ちこそが、今のエドワードの“答え”なのだ。
ロザリーは震える手で涙を拭う。瞳が涙で潤むたびに、これまでの努力の日々が脳裏に蘇ってくる。王太子妃として相応しい女性となるために、必死で勉強し、貴族社会の上流階級の習い事にも精を出してきた。政治、経済、語学、音楽、舞踊……ありとあらゆることに時間を費やし、“公爵令嬢に求められる完成度”を追い求めてきた。それが突如として無に帰したのだ。
だが、ロザリーはもう一度深呼吸をして立ち上がる。自分には、まだやらなければならないことがあるはずだ。“王太子殿下が婚約破棄を宣言した”という現実を前にして、これからの自分自身とアーデン家を守らなければならない。愛されなかった――それ自体は悲しいが、それよりもこの先“どう生きるか”のほうがはるかに重大だ。
「……まだ、終わりじゃないわ。」
自分にそう言い聞かせるように、ロザリーは声を出す。悲嘆に暮れてばかりでは、あの愚かな王太子と、その取り巻きになりつつあるセシリアをのさばらせるだけだ。アーデン家を侮辱した代償は高くつくことを、王太子や彼らの背後にいる人間たちに知らしめねばならない。
やがて、長い夜が明ける。ロザリーは涙の跡を拭い去り、鏡台に向かって髪を解きながら誓う。このまま黙って従う“捨てられた婚約者”になるつもりはない、と。
なぜなら彼女は、ロザリー・フォン・アーデン――公爵令嬢であり、誰にも屈しない誇り高き女性なのだから。
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夜明けの決意──もう悲しむ暇はない
翌朝、ロザリーはいつも通りの時間に起床した。普通なら泣き明かして寝付けないところだろうが、彼女は疲れと悲しみに沈みながらも、何とか眠りにつくことができた。目覚めるときには、昨夜の出来事がまるで悪夢のように思える。しかし、それは紛れもない現実なのだ。
支度を終えると、ロザリーはまず朝のうちに公爵である父との面談を希望した。父もすでに執務室で待っているという。使用人の案内で執務室に向かう途中、邸内の使用人たちは皆、ロザリーを心配そうに見つめた。だが、ロザリーはいつものように優雅な微笑を返して、まるで問題など存在しないかのような落ち着いた足取りで進んでいく。
執務室の扉を開けると、そこにはルパートとニコラスが待っていた。ルパートは昨日の夜からさほど眠っていないのか、目の下にうっすらと隈ができている。ニコラスも同様だ。しかし二人とも、娘や令嬢を前にして弱音は吐かない。ルパートはデスクに積まれた書類を一瞥し、少し苦々しい声で言った。
「……ロザリー、おはよう。早いな。」
「おはようございます、父様。……昨夜は、あれから何か情報が入りましたか?」
ロザリーが椅子に腰かけるのを待って、ルパートは書類に視線を落とす。そこには王宮の関係者から夜通し送られたという報告がまとめられているようだ。エドワードが本当に国王陛下の承諾を得ているのか、王宮内で今どういう動きがあるのか……アーデン公爵家なら、独自のパイプでそれなりの情報を集めることができる。
「確定ではないが、国王陛下が今回の件を全面的に認めている形跡はないようだ。むしろ、今回の騒動がどうして起きたのか困惑されている、と近衛騎士の一人から報告があった。たぶん、エドワード殿下が“父上から許しを得た”というのは、嘘か、自分の都合のいいように話を拡大したかのどちらかだろうな。」
「やはり……」
ロザリーはうなずき、あの晩のエドワードの様子を思い返す。自信満々に「父上から承諾を得た」と言ってはいたが、その場しのぎの台詞にしか見えなかった。あそこまで突然の形で婚約破棄を突きつけ、しかも平民の女性を伴ってくるなど、本気で国王が指示したのなら、もう少し円満に取り繕うやり方があるはずだ。
ルパートは書類から視線を外さず、低い声で続ける。
「問題は、セシリア・ブランシュという女性だ。王太子に気に入られているようだが、いったい何者なのか。『聖女』だと名乗っているらしいが、その素性がはっきりしない。聞くところによれば、平民出身でも育ちが悪いわけではなく、村や町の人々に“癒しの奇跡”を見せたとか……なんだか不可解な話だ。」
“聖女”――それはこの国でも稀代の存在とされ、神の加護を受けて奇跡を起こす力を持つとされる。だが、その“聖女”が本物であるかどうかは、王国の教会や聖職者たちが慎重に審議して証明するのが通例だ。にもかかわらず、なぜ平民の女性がいきなり“聖女”を名乗り、王太子の隣であれだけ堂々と振る舞っているのか――多くの謎がある。
「エドワード殿下は、おそらく彼女の言葉を盲信しているのでしょう。昨夜も“真実の愛に目覚めた”などと、まるで酔ったように口走っておられましたから。」
ロザリーが苦々しく口にすると、ルパートは深く息をつく。
「……愛だと? バカバカしい。“愛”を理由に公爵家の令嬢との婚約を破棄するなど、あまりにも軽率で子どもじみている。王太子ともあろうものが、私情に流されて国の安定を危うくするとは、言語道断だ。」
アーデン公爵家と王家の婚約は、国の政治的・経済的な結びつきを強固にするために結ばれた。少なくとも、ルパートは“形式だけ”と割り切りながらも、娘の幸せを守る一環として王太子との婚約を容認していた経緯がある。それをあろうことか、こんな醜い形で破棄されては、黙って受け入れるわけにはいかない。
「しかし……事実として、エドワード殿下は婚約破棄を宣言した。国王陛下がどう思われようと、殿下が次期国王になる可能性は高い。下手に反発すれば、後々アーデン家が冷遇される恐れもあるわ。」
ロザリーは慎重に言葉を選びつつ、父に意見を述べる。感情的には「ざまぁみろ」と言いたいところだが、現実問題として、王太子に盾突くのは容易ではない。公爵家には公爵家の利益があり、ロザリー本人にも今後の人生がある。激昂してすべてを捨てるというのは、あまりに無謀だ。
「だからこそ、私たちは冷静に動かねばならん。国のためにも、家のためにも、ロザリー、お前のためにもな。」
ルパートは机の上の地図や書類に視線を落とす。そこにはアーデン家が管理している領地の規模や、貴族院での影響力、さらに隣国との交易ルートなど、複雑な情報が整理されていた。アーデン家が王国経済の大きな部分を支えてきたのは事実だし、外交にも深く関わっている。そのアーデン家の令嬢を粗雑に扱うなら、エドワードは自分の首を絞めることになる。
「ニコラス、引き続き王宮の動向を探れ。セシリア・ブランシュとやらの正体も調べろ。どこかの貴族が裏で糸を引いているのかもしれないし、教会の関係者が絡んでいる可能性もある。何でもいいから情報を集めてくれ。」
「かしこまりました、公爵閣下。」
ニコラスは深々と頭を下げ、すぐに執務室を出ていく。残されたルパートとロザリーは、しばし沈黙を守った。父娘ともに、今回の事態の重大さを痛感しているからこそ、言葉を尽くせないのだ。
「ロザリー……お前はつらいだろうが、どうか心を強く持ってくれ。こんな形で婚約が破棄されたとあっては、世間の目は厳しいだろう。だが、お前にはアーデン家と私がついている。決して一人ではない。」
「……ありがとうございます、父様。」
ロザリーは少しだけ微笑み、父の言葉を胸に刻む。これからきっと、社交界や町の噂好きな人々が何を言い始めるかわからない。“ロザリーが何か後ろ暗いことをしたのでは?”“セシリアのほうが王太子には相応しい”“王太子がアーデン家を見限った”――そんな下衆な勘繰りが蔓延するだろう。しかし、今は耐えるときだ。
婚約破棄は確かに苦痛であり、ロザリー自身も大きな挫折を感じている。それでも、彼女の人生はまだ続く。むしろ、ここで諦めたら本当に負けになってしまう。誇り高きアーデン家の令嬢として、そして何よりロザリー・フォン・アーデンとして、ここからの逆転を目指すしかない。
――これからどうなるか、わからない。でも、私は私の道を切り拓いてみせる。
そんな決意を胸に、ロザリーは父の執務室をあとにした。まるで嵐の前の静けさのような、張り詰めた空気を感じながら……。
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